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イスカリオテのぼくと、マグダラのわたし  作者: 稲葉孝太郎
第12章 見よ、この人こそ
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 闇が、グラウンドを包んでいた。その闇に抗っているのは、様々な遊具のそばに立つ、琥珀色の街灯、ただひとつであった。その光と闇のせめぎ合いの中で、ふたつの人影が、まるで地から這い出てきたように覚束なく、並んでブランコに座っていた。

 ひとりは少年、ひとりは少女。錆び付いた金具の軋む音が聞こえてくる。ちらちらと輝く星たちの下で、ふたりは押し黙ったまま、グラウンドの暑気を払う夜風に身を委ねていた。

 永遠に続くかと思われた沈黙を破り、少年が唇を動かす。

「瑠香?」

 名前を呼ばれた少女は、真っ直ぐと前を見つめながら、静かに言葉を返す。

「なに、悠太?」

 人ごとじみた瑠香の返答に、悠太は気まずそうな顔を浮かべる。彼は少女の視線を追うように、小学校の校舎を見やった。明々と照らされた校舎の時計は、既に九時三十分を過ぎている。ここへ自分を呼んだのは、瑠香のはずだ。少年はそんなことを思いながら、そっと幼馴染みを盗み見た。

 瑠香は、何か思い詰めたような顔で、いつまでもブランコを漕いでいた。右手の動きを封じるギブスが、闇の中で白々しく輝いている。不規則なリズムを奏でていた遊具は、次第にその揺れを鎮め、ついにその永久運動を終えた。

 九時三十三分。悠太は、何かが起こりつつあることを予感する。

「……」

 少年の予想を裏切り、瑠香は言葉ではなく、身振りでこの均衡を破り始めた。彼女は、ブランコのそばに置いてあった鞄を弄り、何か鈍く光るものを取り出すと、それを悠太の方へと向けてくる。悠太は、自分の思考が闇と同化するのを感じた。

 少女が手にしたそれは、砂塵を伴う乾いた音を立てて、ふたりが形作る僅か三十センチの隙間へと突き立てられた。銀色の刃が美しい、新品のセラミック包丁だった。

 呆然とする悠太を前に、瑠香は吐息まじりで言葉を継ぐ。

「それをどちらが使うか、今から決めることにしましょう」

 何もかもが非現実的な目の前の光景に酔い痴れ、悠太は考えることを止めた。

 向かいの道で長距離トラックのタイヤが震え、一時の幕間を作り出す。

「……」

「……」

 場は、再び静寂に包まれた。背後の土手から、虫の音だけが聞こえてくる。なぜこの危機的状況を想定していなかったのか、少年は疑問に思う。

 ……いや、薄々勘付いてはいたのだ。ただ、認めたくなかっただけなのだと、悠太は諦めにも似た境地で、これまでの出来事を振り返った。下野との出会い、朽木との会話、只居の韜晦、春園との論争、江東と長谷川への反抗……そして、八向の最期の言葉が脳裏を掠めたところで、ふと世界が動き始める。

「悠太、これから私が質問することに、正直に答えてちょうだい」

「……」

「答えてちょうだい」

「……いいよ」

 少年は、穏やかにそう答えた。逃げ出そうと思えば、今からでも遅くはない。しかし悠太は、己の身の安全よりも、真実を知ることに全てを賭けたくなった。それが、裏切り者の存在にいち早く気付きながら、何もすることができなかった自分にできるせめてもの償いであると、少年は思っている。

 覚悟を決めた悠太の横で、瑠香が最初の問いを放つ。

「悠太、あなたは下野洋助さんと会ったわね?」

「……」

「会ったわね?」

 悠太は、意味のなさぬ声をひとつふたつ発し、それから首を縦に振った。

 横目で少年の動きを追っていたのか、瑠香は先を続ける。

「朽木アカネさんとは?」

「……会ったよ」

「病院の江東先生と、それからその取引先の長谷川さんとも?」

「……ああ、ふたりとも会ったさ」

 瑠香は、質問を止めた。彼女の意図を、悠太は読めないでいる。ただ、瑠香が使徒たちの存在に気付いていること、それだけは、少年にも察しがついていた。

 瑠香は使徒なのだろうか。それとも、使徒を装った裏切り者なのだろうか。未だに決着がつかぬ論争に、悠太は苦笑しかけた。

 瑠香はそこへ、さらなる問いを投げ掛けてくる。

「悠太、あなたは人を殺したいと思ったことがある?」

 抽象的な物言いに、悠太は否定も肯定もしない。静かに顔を上げ、少女の横顔を見る。瑠香は、依然として校舎の方を眺めていた。まるで、あの頃を懐かしむように。

「……私はあるわ」

 少女は、自分で自分の問いに答えた。

 悠太は、そっと目を閉じる。

「……僕をかい?」

「マリアさんよ」

 瑠香の返答に、少年は言い知れぬ不安を感じた。マリアに恋のメールを送って以来、彼女とは出会っていない。

 悠太の背中を、冷たい汗が伝った。まさか、ここでマリアの死を高らかに宣言するつもりなのだろうか。怯える少年に、瑠香は奇妙なことを囁き始める。

「でも、私は彼女を殺さなかった。私は殺さなかったのよ。なのに……どうして……」

 少女の声が震える。自分を責めているのだろうか。一度思いとどまりながら、五人もの人間を殺害してしまったことを、後悔しているのだろうか。悠太は、マリアが生きているかもしれない喜びと、幼馴染みの罪に対する悲しみとの間で、苦悩し続けた。

「悠太、あなたは……あなたはどうして、人を殺してしまったの……?」

 奇妙な一言。全ての手掛かりにそぐわぬ言葉が、悠太の思考を遮る。少年は視線を戻し、少女の顔を見つめた。

 ……瑠香は泣いていた。涙が飴色に光り、ほろほろと頬を伝っては流れ落ちて行く。

「どうして……どうして……」

 同じ言葉を繰り返す少女。ふと少年は、この場を支配する微妙なズレに気が付いた。自分が瑠香を追いつめているのではない、瑠香が自分を追いつめているのだ。探偵と犯人は立場を入れ替え、悠太の側に有罪判決が下ろうとしていた。

 何かがおかしい。その疑惑を、次の言葉が決定的なものにする。

「悠太……あなたの幼馴染みとして……いえ、あなたを愛していた女として、最後の選択肢をあげるわ……私をここで殺すか……それとも自ら命を断つか……あなたは、日本の法律では罰することができない。でも、あなたの罪は、赦されることじゃないのよ……」

「違う……」

 悠太の力なき反論に、瑠香は振り向いた。涙に濡れたその瞳は、罪を認めない少年を哀れむかのように、まっすぐと彼の心を眼差してくる。

「悠太……証拠は全て挙がってるのよ……あなたは、被害者たちが死んだ日に、彼らと出会っていた……朽木アカネさんとあなたがカラオケボックスから出てくるところを、私はこの目で見てるの……」

「……君は、マリアさんの後をつけたのかい?」

 少年の問いに、瑠香は臆面もなく頷き返す。そして、糾弾を続けた。

「あなたは、春園先生が電車に飛び込んだときも、あのホームにいた……江東先生と長谷川さんにも、あの日病院で会ったわね……どうしたの……? まだシラを切る気……?」

 シラを切る。少年は、その言葉に首を傾げた。自分は無実だ。これは冤罪なのだ。

 それと同時に、悠太は自分の不利な立場を、だんだんと理解し始めていた。最も被害者と近しかったのは、誰だろうか。それは自分である。瑠香でもマリアでもない。状況証拠は、完璧なように思われた。

 何か言わなければ。少年は、もつれる舌で言葉を返す。

「瑠香は……どうして僕が、下野洋助と会ったことを知ってるの……?」

 最初に瑠香が質問を放ったときから、悠太は疑問に思っていた。シモンとの会談は、秘密裏に行われたはずだ。

 悠太は、少女の瞳を見つめ返す。薄い肩越しに見える夜景が、異様なほど奇麗だった。

「……」

「どうしてだい?」

「……下野さんから聞いたのよ」

 悠太の予想通りだった。立場が二転三転する。

 今度は、こちらが尋問する番だ。少年は俄に姿勢を正し、先を続けた。

「いつのこと?」

「七月……十九日の夜よ……」

 少年は、脳内でカレンダーをめくる。それは、彼がシモンに声を掛けられた日の日付と、一致していた。

「何時だったか覚えてる?」

「深夜よ……」

「何時だい?」

 ふたりは、お互いを見つめ合ったまま、言葉の闘剣を繰り広げる。

「……十一時半くらい。いきなり携帯に電話がかかってきて……友達から私のことを紹介されたって言ってたわ……気味が悪いからすぐに切ったけど、後で気付いたのよ……下野さんに会った友達って、悠太、あなたのことじゃないかって……それから私は、あなたのことを色々探り始めたのよ……」

 そこで、少女は言葉を切った。一言一言を、瑠香は自信に満ちた口調で述べている。そんな幼馴染みを尻目に、悠太は終業式の日の会話を、ぼんやりと思い出していた。

 けれども彼にとって、全ては茶番のように思われた。何ひとつ合点がいかない。動じる様子のない悠太を前にして、少女はついに視線を逸らした。

 悠太は、さらに幼馴染みを追い詰めていく。

「僕が下野さんに会ったのは、同じ日の夕方だよ……おかしくないかい?」

「……何がおかしいの?」

「僕が家に帰ったとき、下野さんはまだ生きてたんだよ……最後に彼の声を聞いたのは、瑠香、君なんじゃないかな……? 君は本当に、その電話を切ったの……? 実はこっそり家を抜け出して、彼の選挙事務所へ行ったんじゃないかい……?」

 瑠香の顔が青ざめた。涙は、既に止んでいる。

 うっすらと血走った瞳で、瑠香は首を左右に大きく振った。

「私は……私は殺してない……」

「ねえ瑠香……下野さんだけじゃないんだ……朽木さんに、江東さん、長谷川さんだってそうなんだよ……君は言ったよね。僕と朽木さんが、カラオケボックスから出てくるところを見たって……僕はその後、すぐに本屋へ寄ったんだ。だから、朽木さんと最後に会ったのは、僕じゃないんだよ……江東さんに最後に会ったのも、僕じゃない……そのギブスを嵌めてもらった君だろう……瑠香……」

 少女は、わなわなと唇を震わせた。動揺しているのだろうか。そうかもしれない。しかし少年は、その少女の震えの中に、何か怒りに近いものを感じ取っていた。犯行がバレたことに対する憤りだろうか。そうかもしれない。けれども、その怒りはなぜか、少年に向けられているような気がする。

 悠太は、少し間合いを取りながら、先を続けた。

「瑠香……僕はこう思うんだ……君は、使徒じゃない。ただ、カミサマと使徒たちの存在だけを知っている、一般人なんじゃないかって……しかも、使徒たちの個別の名前は知らないんだ……その証拠に、君は僕の名前を一度も口にしていないよね? 君自身、名乗ろうともしない……」

 瑠香の震えが大きくなる。終わりは近い。少年は、自分と瑠香との間にある凶器へと視線を走らせた。もしかすると、その終わりは自分の死を意味するのかもしれない。その可能性は、十分にあった。

 それにもかかわらず、悠太は己の推理を展開していく。

「真飛から聞いたんだよ……君は、美術室で揉める前も、マリアさんと口論したことがあるらしいね……これは僕の推測なんだけど……あのときマリアさんは、うっかり口を滑らせて使徒の存在を……」

「違う!」

 瑠香の大声に不意打ちを喰らった悠太は、一瞬動作が遅れた。慌てて右手を包丁の柄に伸ばしたが、それはあと数センチのところで瑠香の手中に収まり、地面から引き抜かれる。少年は咄嗟の判断で、ブランコから飛び退いた。瑠香もそれに合わせて飛び退く。

 辺りは、修羅場の様相を呈し始めていた。

「悠太……どうして……どうして自分の罪を認めないの……? なぜ私になすり付けようとするの……?」

 少女は、左手で凶器を握り締め、右手のギブスでバランスを取ろうとしていた。カタカタという摩擦音が、少年の聴覚を脅かす。

「それはこっちの台詞だよ……瑠香、君が犯人なんだろう……?」

「とぼけないで!」

 瑠香は刃物を突き出し、大声で威嚇した。これが都会の小学校ならば、すぐにでも近所の人に通報されていただろう。しかし、田舎では事情が異なる。一番近い民家まで、百メートル以上距離があった。もはや、自分で自分の身を守るしかない。

 逃亡の算段を行う少年の前で、瑠香は思い詰めたように声を震わせる。

「もっと……もっと早くあなたを止めなきゃいけなかったのよ……でも、私にはできなかった……私はあなたのことが好きだったから……これは私の罪よ……犯人を庇ってしまった私の……だから……だからここであなたを殺して、私も死ぬわ……」

 その瞬間、悠太は全てを悟った。すれ違いを続けた少年と少女は、お互いに探偵役を引き受け、お互いを犯人だと誤解してしまったのだ。

 瑠香は犯人ではない。だが、自分もまた犯人ではない。少年が説得を試みる前に、瑠香がその足首を動かした。悠太は、反射的に身を翻す。

「悠太!」

 瑠香の叫び声を無視して、悠太は駆け出した。

 幼馴染みが運動部でないことに深く感謝しながら、少年は全力疾走した。

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