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イスカリオテのぼくと、マグダラのわたし  作者: 稲葉孝太郎
第11章 アイドルの黄昏
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 八月六日。隣県で開催された平和式典の模様を、地元のテレビ局が中継していた。ひとりの女性職員が、その前をやや猫背気味に通り過ぎ、税務署の裏手へと回った。建物の外壁とコンクリートの垣根に挟まれた通路は、酷暑にもかかわらず、心地よく涼やかであった。

 女は躊躇いがちに、熱気の漂う大通りへと爪先を向けた。

「笠井朱美さん」

 笠井と呼ばれた女は、足を止め、後ろを振り向いた。壁沿いに並べられたガスボンベの隙間から、ひとりの少女が顔を覗かせている。子供のいたずらかと思いきや、笠井は、その少女が地元の高校生であることに気付いた。少女の着る制服の襟元に、見覚えがあったのだ。

 高校生らしからぬ振る舞いに、笠井の顔が曇る。

「ここは立ち入り禁止よ」

「知ってます」

 少女は悪びれた様子もなく、全身を笠井の前に晒す。モデルのように細い手足と、弓なりに揃えられた眉毛が特徴的な、ツインテールの可愛らしい娘だった。

 年下にからかわれた笠井は、目付きを鋭くして、少女を睨み返した。

「警備員を呼ぶわよ」

「それは止めた方がいいですよ」

 少女はそう言って、立ち去る気配を見せなかった。

「……本当に呼んで欲しいみたいね」

「私も大声で、あなたの名前を叫んじゃいますよ」

 笠井は目を細め、相手の言葉の意味を探った。頭がおかしいのではないだろうか。少女の小ぶりな顔立ちを見つめながら、笠井はそんなことを思う。

「……あなた、名前は?」

「入穂数江です。……テレビに出るときは、サクラって呼ばれてます」

「サクラ……?」

 笠井は足下に視線を落とし、その名前をもう一度呟いた。何も思い当たらず、肩をすくめてみせる。それを見た入穂は、機嫌を損ねたらしい。唇を尖らせ、笠井の眼鏡の奥を覗き込んできた。

「知らないんですか……ま、いいですけど……」

 演技なのか、それとも挑発しているのか、少女は踵で、地面の砂を蹴った。もうもうと舞い上がる鉱石の粒子が、垣根越しに射し込んだ陽の光に煌めいて見える。

「とにかく、ここは部外者以外、立ち入り禁止よ。出て行ってちょうだい」

 笠井は語気鋭く言い放ち、少女を追い出そうとした。

 ところが入穂は、不敵な笑みを浮かべ、そこから動こうとはしない。

「いいんですか? 名前を叫んじゃいますよ?」

「勝手に叫びなさい。私の名前は笠井朱美よ。だからどうしたって言うの?」

「そっちの名前じゃありません」

 笠井はハッとなる。辺りを見回し、誰もいないことを確認した。駐車場の方から聞こえてくるエンジン音だけが、この薄暗い空間を、一層侘し気なものにしていた。

 ホッと胸を撫で下ろしたのも束の間、笠井は慌てて、入穂に視線を戻した。

「あなた……いったい……」

 震える笠井の前で、ツインテールの少女は背筋を伸ばし、両手をお尻の位置で組むと、すぐに作り物と分かる笑顔を浮かべた。そして、わずかに前傾する。

「ご紹介が遅れました。私はフィリポ。マタイさん、あなたのお仲間です」

 

 ✞

 

「ごゆっくりどうぞ」

 メイド服を着た店員は頭を下げ、パタンと扉を閉めた。七色のランプに照らされながら、笠井は入穂の出方を窺う。飲み会にもほとんど顔を出さない笠井は、このような場所に慣れておらず、気分的に萎縮せざるをえなかった。

 先に口を開いたのも、フィリポである。

「何か歌いますか?」

 笠井は、大げさに首を振った。

「そうですか……」

 入穂は残念と言った表情を浮かべ、テーブルのジンジャエールに手を伸ばす。華奢な指とよく磨かれた爪が印象的なそれは、言いようのない劣等感を、笠井に抱かせた。子供の頃からそこそこの成績を取り、そこそこの大学を出て、I市税務署に配属された彼女とは別の、きらびやかな少女の生き方に、笠井は戸惑いすら覚えてしまう。

 入穂は、浅黄色の液体をストローで一口啜った後、ゆっくり唇を離した。見れば、緋色の口紅を塗っているようだ。おませな子だと呆れる笠井の前で、少女はその唇を動かす。

「笠井さんは、まだ使徒会議に参加してるんですか?」

 唐突な質問。笠井は居住まいを正し、なるべく弱気を見せないように努める。

「先週の土曜までは……ね……」

「そこで飽きちゃったんですか?」

 入穂は、自分が先に来なくなったことを、棚に上げた。

 笠井は罵りたくなる衝動を抑え、先を続ける。

「飽きたんじゃないわ。……参加者が少な過ぎて、会議が成立しないのよ」

「何人です?」

 笠井は指を立て、三という数字を作って見せる。

 それを見た入穂は、無表情にストローをくわえ直した。

「三人ですか……ひとり足りませんね」

 その一言に、笠井は首を捻った。この女は算数もできないのかと、笠井は思わず顔に出してしまう。

 相手の侮蔑に気付いたのか、入穂は不機嫌そうに、ズズッとジンジャエールを啜った。それから、台本を読むような調子で、口を挟む。

「私は高校生ですよ。……割り算くらいできます」

「じゃあ、なぜひとり足りないなんて言ったの? ふたりでしょ?」

「それはですね、マタイさん……」

「その名前は止してちょうだい」

 入穂は、不自然にきょとんとした後、面倒くさそうに名前を言い直す。

「笠井さん、使徒は今、何人いると思いますか?」

 使徒の数。引っかけ問題でない限り、ただの引き算である。

 笠井は念のため、幅を取った答えを返す。

「正確には分からないけど……八人か九人じゃない?」

「ブー、外れです」

 クイズ番組における司会のような演技に、笠井は腹が立ち始めた。

 彼女の怒りを察したらしく、入穂はすぐに言葉を継ぐ。

「正解は、六人です」

「六……?」

 笠井は、動揺を隠せなかった。頭の中で使徒名簿をめくり、口を噤んでしまう。誰の名前を消せばいいのか、それが分からない。

 フィリポはジュースを飲み干し、順番に使徒たちの名前を挙げ始める。

「ユダ、ルカ、ヤコブB、タダイ、マタイ、フィリポ……これが生存者リストです」

「嘘よ……どこからそんな……」

「タダイさんからです」

 タダイ。その名前を、笠井は半ば忘れかけていた。一度もログインしたことのない、謎の人物である。オンラインでの面識がないことに気付いた笠井は、ハッと入穂を見やる。

「あなた……タダイにどこかで会ったの?」

 入穂は、こくりと頷き返す。

「どこで?」

「それは、後で教えます」

 回答を拒絶され、笠井は苛立った。

 けれども彼女の中では、また別の疑問が、頭をもたげ始めていた。

「じゃ、じゃあ、タダイは、どこからその情報を得たの?」

 情報源の連鎖。タダイが本当にフィリポのアドバイザーだとしても、それは問題の解決になっていない。タダイの全知がどこから来るのか、それを突き止めなければならないのだ。

「ねえ、訊いてる?」

 笠井の催促に対して、フィリポは、もったいぶった答えを返す。

「それについては笠井さんも、分かってるんじゃないですか?」

 分かるものか。そう言いたくなるのを我慢して、笠井は下手に出る。

「……教えてちょうだい」

「カミサマですよ」

 沈黙。壁から漏れる歌声に、笠井はなぜか異国の情緒を感じた。

 少女の目を見つめ、さらに踏み込んだ質問をぶつける。

「あなた……カミサマが誰か知ってるの……?」

 入穂は、その問いを予期していなかったらしい。丁寧にメイキングした目元をぱちくりとさせ、首を大きく左右に振ってみせた。

「本当に?」

「タダイさんが、そう言ってたんですよ。あの人、カミサマと面識があるとか」

 ソースがあやふやになってしまったことに、笠井は憤りを禁じ得ない。これでは都市伝説と変わらないではないか。そう思ったのだ。

「そのタダイって人は、信用できるの? 嘘を吐いてるんじゃない?」

「さあ……そうかもしれませんね……」

 少女の危機管理能力のなさに、笠井は驚愕する。

「さあって……私たちの命が懸かってるのよ?」

「リスクは、どこかで取らないとダメじゃないですか。アイドルだってそうですよ。ネットでHなコラを作られるとか、そんなこと気にしてたらやってけませんし」

 ジェネレーションギャップ。笠井の頭を、長々しい横文字が掠めた。

 一方、入穂は、あっけらかんと言葉を紡いでいく。

「それでですね、今日、笠井さんと相談したいのは……」

 入穂は、ジンジャエールの最後の一滴を啜り、グラスを膝の上に置いた。

 身構える笠井に向かって、少女はフレンドリーな笑みを浮かべる。

「カミサマ倶楽部に入って欲しいんですよ、笠井さんに」

「カミサマ……倶楽部……?」

 聞き覚えのない言葉に、笠井は眉をひそめる。

「それって……使徒会議のこと?」

「違いますよ。使徒会議は、とっくに入会済じゃないですか。……タダイさんの提案で、何人かの使徒が、小さなサークルを作ることにしたんです」

 入穂の要領を得ない説明に、笠井は目を細めた。

「サークル? そんなもの作って、どうするの?」

 親睦を深めるわけでもあるまいと、笠井は入穂の瞳を見つめ返す。

 融通の利かない年上の思考に呆れたのか、入穂はくすりと口元に微笑を漏らした。

「相互扶助って言うんでしょうか……この場合……」

「相互……扶助……?」

「ええ、使徒たちが、お互いに助け合うってことです」

「助け合うって……どうやって……?」

 その質問の愚かさを、笠井自身も十分に承知していた。しかし、分かり切っている前提にほど、落とし穴があるものだ。笠井は敢えて、確認を取ったのである。

 入穂は大人びた表情を浮かべ、素直に答えを返す。

「もちろん、投票によって、ですよ」

 笠井は入穂の顔を、もう一度よく観察した。税務署の裏口で出会ったとき、笠井は少女の正気を疑った。そのときの直感は、やはり正しかったのかもしれない。疑惑のタネを植え付けられた笠井は、言葉なく少女を凝視する。

「どうしました? 入会しないんですか?」

 少女の問い掛けに、笠井は現実へと引き戻される。

「……しないわ」

「……拒否ですか? 理由は?」

「だって……ルール違反だし……」

 少女は大げさに仰け反り、笠井の口を封じた後、おもむろに唇を動かした。

「笠井さん、あなたがルール違反を心配するなんて、おかしいじゃないですか?」

 意味深な言い回し。笠井は、少女の愛らし気な声に、脅迫の音色を感じ取っていた。視線を逸らして、ビジー状態のスクリーンに、それを泳がせる。

「……何を言ってるの?」

「私の口から言った方がいいんですか?」

「だって意味が……」

 そこで笠井は、はたと動きを止めた。

 タダイ……只居。カタカナから漢字への変換が、彼女の記憶を鮮明にしていく。

「そんな……あれは……」

「思い出しましたか?」

 少女はゆっくりと、笠井に上半身を近付けてくる。逃れるように腰を引く笠井だったが、やがてソファの端へと追いつめられてしまった。

 黙秘権を行使する笠井に、入穂が最後の一撃を加える。

「笠井さん、あなた、只居武文さんの脱税を手伝いましたよね? 三年前に」

 全身がおこりにかかったように震える笠井。それを満足げに眺める入穂。

 この恐ろしい茶番を観る者は、他に誰もいない。

「あれは……あれは違うのよ……」

「何が違うんですか? 報酬として、結構なお金をもらったと聞きましたよ?」

「だって……ち、父が入院してて……その費用が……」

「それは言い訳になりませんね」

 そう言って入穂は、怯える税務署員を解放し、もとの位置に座り直した。当の笠井は、ソファの端に留まり、細かく震えていた。

 入穂は女優のようにサッと表情を変え、キャンペーンガールの笑顔を作った。

「では、ご入会いただけますね? マタイさん?」

 少女の問い掛けに、笠井は小さく頷いた。入穂も満足げに頷き返すと、ポケットからスマホを取り出し、器用に液晶を弄り始めた。

「……何してるの?」

「あら、分かりませんか? ……算数ですよ?」

 少女の嫌みに、笠井はうまく返すことができなかった。ただ呆然と、少女の芝居じみた振る舞いを眺めていた。

 操作を終えた入穂は、端末を耳に押し当て、ニヤリと笑う。

「過半数まであとひとり……まずは、この人から誘いましょう」

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