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イスカリオテのぼくと、マグダラのわたし  作者: 稲葉孝太郎
第10章 アンチ・カミサマ
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「ずいぶんと物騒な学校だな……夏休みだと言うのに……」

 平戸はベンチに腰を下ろし、満身創痍の高校生にそう声を掛けた。気遣ったつもりが、少年は皮肉と受け取ったらしい。わずかに苦笑して、首を左右に振った。

「変なところ見られちゃいましたね……」

 悠太は前屈みになり、自分を慰めるようにそう呟いた。

 今度は平戸が苦笑する番だった。頭を掻きつつ、伸びやかに答える。

「なあに、昔はもっとメチャクチャだったさ。まあ、番長とかスケ番なんて古い時代じゃないがね……それでも校内暴力はあったし……最近の学生は、ずっと大人しいよ」

「今回の件、誰にも話さないでもらえますか?」

 悠太の口止めに、平戸は不可解な眼差しを向ける。

「なぜだい?」

「学校の評判が悪くなるといけないので……」

「……彼女の評判、じゃないのかい?」

 少年は顔を赤らめて、平戸の盗み聞きを詰った。

「どこから聞いてたんですか?」

「春園舞の死がどうこうのあたりからだよ……」

 そこで少年は、気まずそうな顔をした。教員の人身事故を忘れることができないのだろうと、平戸は勝手に解釈する。

「平戸さんは、春園先生についても、何か調べてるんですか?」

「あれは事故死だよ……運転手もそう言ってる。それとも、君は何か見たのかい?」

「いえ……何も……事情聴取のときにお話しした通りです……」

「そうか……それならいい……」

 平戸はポケットから煙草の箱を取り出すと、一本摘み出す。

 おもむろに、ライターを捜し始めた。

「校内は禁煙ですよ」

 煙草のフィルターをくわえかけた平戸は、その手を止める。

「……ここは屋外だろ?」

「吸っていいのは、職員専用の喫煙室だけです……小さな空き教室ですけどね……」

 窮屈な世の中だと溜め息を吐き、平戸は煙草をポケットに戻した。名残惜しそうに指先で箱を弾く刑事に、少年は質問をぶつけてくる。

「平戸さんは、僕に用事があるんじゃないですか?」

「ん? ……どうしてそう思う?」

「まさか刑事さんが、昼間から用もなく校庭をぶらついているとは思えませんからね。それに、あの物置には滅多に人が来ないんです。……僕を見かけて、後をついてきたんじゃないですか?」

 平戸は、ハハッと気前よく笑った。そして、少年の肩をポンと叩く。

「君はいい勘してるな。警察官になるといい」

「警官にはなりません」

 少年の断固とした口調に、平戸はおどけた表情を止めた。

 自分の職業を否定されたのだ。平戸は、興味をそそられる。

「警察官は嫌かい? ……さては、身内に同業者がいて、そいつから何か吹き込まれたのかな?」

「……父が警察官でした」

 父親の苦労を見て嫌気がさしたのかと、平戸は納得しかけた。

 それからはたと、時制の微妙なニュアンスに気が付く。

「警官……だった?」

 少年はしばらく口を噤んだ後、気の進まぬ顔で先を続けた。

「父は……僕が小学生のときに殉職したんです……」

 平戸は視線を逸らし、足下の木漏れ日へと、それを落とした。蟻たちが整然と、長い列を作っている。まるで自分たちのようだと思いながら、平戸は言葉を返す。

「そうか……それならむしろ……誇っていいんじゃないかな……?」

「別に父が嫌いなわけじゃありません……ただ……ただ、死んだ理由が、夜中にひったくりを追いかけて、揉み合ってる最中に刺し殺されたという……そのことがどうしても、自分の中で整理がつかないんです……灰を瀬戸内海に撒いているとき、父の友人が言ってました……自分なら追いかけずに、応援を呼んだ、と……本当に、ただそれだけです……」

 少年は独白を終え、グラウンドの彼方を遠望していた。涙を見せてはいない。十年近い歳月が、父親の思い出を純化したのだろうと、平戸はそう思った。

 普通ならば同情しかねない局面にもかかわらず、平戸は冷静だった。空き巣、詐欺、路上での暴力。隣町のバラバラ殺人を担当したことさえあった。被害者と遺族たちは皆、悲痛に自分たちの境遇を訴えてくる。その度に同情していては、身がもたないのだ。

 ひとつだけ気に掛かることと言えば、少年が父親の仕事を毛嫌いしていながら、その性格を丸々受け継いでしまっていることだった。平戸はフッと息を吐き、深緑の隙き間から空を見上げた。

 米軍のジェットが一機、爆音とともに通り過ぎて行く。

「血は争えないってことか……」

 轟音に掻き消された平戸の台詞に、悠太は耳をそばだてる。

「何か言いましたか?」

「……いや、何でもない」

 戦闘機は校舎の向こう側に消え、音も次第に遠ざかっていく。再び蝉の声が勢いを増す中で、平戸は話を続けた。

「お母さんは、苦労してるのかい?」

 家庭の事情を窺い始めた平戸に、悠太はあまりよい顔をしなかった。

 しかし、これは仕事なのだ。平戸は、相手の返事を待つ。

「まあ……多少は……」

「君は、アルバイトとかしてる?」

 悠太は、あからさまに顔を曇らせる。

「いえ……この学校はバイト禁止なんです……昔は違ったらしいですけど……」

 平戸は、自分の学生時代を振り返る。確かに、バイトが禁止されていた記憶はない。自分が色々と変わった商売に手を出していたのだから、間違いないだろうと、規律の緩かった母校を懐かしく思った。

「こっそりやればいいじゃないか」

「……母が反対なんです。別に生活には困ってないからって……実際、これまで学費のことなんかで不自由したことはありません……でも……」

 悠太は、そこで言葉を切った。

 高校生とは言え、家計の裏を察しているのだろう。平戸は、そう推測する。

「仮屋くん、本当にアルバイトはしてないんだね?」

 念を押す平戸に、少年は黙って頷き返した。校則のチェックが刑事の仕事ではないだろうと、そう言いたげな眼差しだ。

 平戸は、本業に取りかかる。

「君は、下野洋助に会ったことがあるね?」

 突然のギヤの切り替えに、少年はついて来れなかったようだ。サッと視線を逸らし、腰の位置を不自然に変えた。

「……いえ、ありません」

「嘘は良くないよ」

「嘘なんかじゃ……」

「下野の家からね、君の指紋が出てるんだよ」

 少年の顔が青ざめた。やはり気付いていなかったかと、平戸は写真の件を思い出す。なるほど、警察官には向いていないかもしれない。柄でもない適正診断を下しつつ、平戸は捜査の手を、少年の首へとかけていく。

「もう一度だけ訊くよ……下野洋助に会ったことがあるね?」

 悠太は、曖昧に首肯した。平戸は、尋問を開始する。

「いつ会ったんだい?」

「夏休みに入る前の……最後の金曜だったと思います……」

「七月十九日だね?」

 悠太はその数字に、言葉を濁した。頭の中でカレンダーをめくっているのだろう。

 平戸は相手の返事を待たず、次の質問へと歩を進める。

「なぜ下野の選挙事務所へ行ったんだい? 自分から? それとも声を掛けられて?」

「下野さんの方から……ちょっと話があると……」

「それ以前に会ったことは?」

 悠太は、首を左右に振った。取ってつけたようなわざとらしさは、見られなかった。

「下野に声を掛けられた場所は?」

「え、駅前です……」

「Y駅? それとも……」

「I市の中央駅です……ちょうど駐車場の前で……いきなり……」

「何時くらいか覚えてる?」

 少年は目を閉じ、眉間に皺を寄せた。

 平戸は悠太に、考慮時間を与える。

「……五時半だったと思います」

「そこまで正確に覚えてるのかい?」

「クラスメイトと待ち合わせしてて……結局、彼女は来なかったんですけど……」

 彼女という言葉と、やや気恥ずかしそうにする少年の態度から、平戸はそれがデートの待ち合わせではないかと推察した。しかも、片想いのパターンである。

 けれども、重要なのはそこではない。

「それからすぐに、下野の事務所へ行ったんだね?」

「はい……下野さんの車で……」

「到着したのは何時くらい?」

「そ、それは覚えてません……六時くらいだったかも……」

 平戸はようやく、追及の手を緩めた。少年の話に、矛盾はない。下野の推定死亡時刻は、金曜日の深夜十一時から、土曜日の午前一時にかけて。五時半に駅前を出て事務所へ辿り着くには、渋滞を考慮に入れても、三、四十分あれば足りる。洗われていない湯のみ、もうひとりの謎めいた訪問者を加算すれば、全ては辻褄が合うように思われた。

 下野の死を看取ったのは、やはり二番目の客だったのだろうか……そこまで推理を進めた平戸は、核心部分へと踏み込むことに決めた。いつものおどけた調子を削ぎ落とし、自分が抱いていた直感を口にする。

「仮屋くん……君は下野から、頼み事をされなかったかい?」

 顔を正面のグラウンドに向けた平戸は、目の端だけで少年の動きを捕捉していた。いわゆる周辺視野の応用だ。高校時代の柔道で鍛えられたこの能力は、平戸にとって、驚くほど益のあるものだった。

 平戸の予想通り、見られていないと誤解した少年は、酷く狼狽していた。それとも、これが彼の素なのだろうか。平戸は、ひたすらに相手の出方を窺う。

 悠太は一分ほど沈黙した後、全てを諦めたのか、ただ一言を口にする。

「はい……」

「……その中身を教えてもらえるかな?」

 麻薬の密売か。それとも売春の斡旋か。平戸は、そのふたつに可能性を絞っていた。

 ところが、観念したはずの少年は、最後の最後で抵抗を示す。

「それは……言えません……」

「言えない? なぜ?」

「かなり……プライベートな話なんです……」

「プライベート? ……犯罪の間違いじゃないかい?」

 図星だろうと意気込んだ平戸は、その期待を大いに裏切られた。少年の顔は、寸でのところで起訴をすり抜けたときの、容疑者のホッとした表情に似ている。

 勘が狂ったのだろうか。自信を喪失した平戸は声を落とし、確認を促す。

「違うのかい?」

「はい、違います。もっと……ずっとプライベートなことです」

「……そうか」

 木陰の中で、いつの間にか立場が逆転していた。尋問する者と、される者。今や、平戸が白状する番になっている。刑事は覚悟を決め、ゆっくりと口を開いた。

「ちょっとした冗談なんだが……落選確実の市議会議員候補が、選挙資金を稼ぐため、この町で麻薬の密売か売春の斡旋をしていた……販売ルートを若者にも広めようと思い、人の良さそうな高校生に声を掛けた……という小説を書いたら、売れると思うかい?」

「……それは、ノンフィクションってことですか?」

 皮肉ってきた少年の瞳を、平戸はじっと捉え返す。瑞々しい虹彩からは、一切の不安が消え去り、怖いもの知らずの意志だけが、はっきりと残っている。校舎裏で出会った正義感の強い若者の輝きを、平戸は間近に見ていた。

「いや……登場人物は全て、架空のものだよ……」

「それなら……作者の腕前次第なんじゃないでしょうか」

 そこで、会話は途切れた。

 平戸は溜め息を吐き、空を振り仰ぐ。

 樹冠の切れ目から、青い斑模様が垣間見えた。

「……俺も歳を取ったな」

「まだ若いじゃないですか」

「立派なおっさんだよ……こうも勘が狂うようになっちゃな……」

 その一言に少年は、全てを見抜いたような視線を投げ掛けてくる。

「さっきの小説、やっぱり平戸さんの推理だったんですね?」

「ああ……だが、間違っていた……」

 平戸は自分に言い聞かせながら、そう呟いた。

 意気消沈する平戸の気分が伝染したのか、少年も寂し気に顔を落とす。

「信用してもらえて嬉しいんですが……意外とあっさり引き下がるんですね……」

 悠太の指摘に、平戸はくすりと笑う。自嘲気味な笑いだった。

「実を言うと、上から注意されてね……病死した人間の裏を、証拠もないのに追うなと言われたんだ……だから、今日が最後ってわけさ……それに……」

 平戸は、ひと呼吸置いた。口元が寂しい。些細な不満が、彼をやたらと感傷的にさせる。

「昨日、友人の不幸があってね……夕方過ぎ、過労で倒れたらしい……俺も気をつけなくちゃな……ほんとに長い付き合いだったんだが……」

 最後の一節を、平戸は喉の奥から絞り出した。過労の一端を担ってしまったことに、平戸は言いようのない後悔を感じているのだ。

 自分がこの件に鼻を突っ込まなければ……何もかも、後の祭りであった。

「そうですか……死体の処分は今夜?」

「さあな……捨てる場所が見つかるのか、それが問題だ」

 平戸は、自分を励ますように、ズボンの裾をはたいた。

「三十年も生きてりゃ、友人の何人かはいなくなるさ……別に初めてってわけじゃないんだよ……自殺した奴もいる……っと、君には関係のない話だったな」

 平戸は少年の肩を叩き、腰を上げた。

「勘で捜査を始めたんだ。勘で終わらせることにするよ」

「……そうしてもらえると助かります」

 平戸は、無造作に投げてあったスーツを拾い上げ、左肩に掛けた。

「さっきの連中がまた来たら、俺の名前を出すといい。ビビって寄りつかなくなる」

「……ありがとうございます」

 悠太も腰を上げた。

 ふたりの男は、どこか吹っ切れたように、お互いの顔を見合う。

「こちらこそ、ご協力に感謝する」

 そう言って平戸は、右手を差し出す。一瞬躊躇った後、少年はそれを握り返した。

 華奢な指だ。警官には向いていない。そう思いながら、平戸は握手を解いた。

「それじゃ、また」

 平戸は身を翻し、眩い日差しの中へと歩み出た。

 背中越しに、少年の声が聞こえる。

「またいらっしゃるつもりですか?」

 平戸は振り向きもせず、空いた右手をひらひらと、肩越しに振ってみせた。

「日本語の綾だよ。英語でも、see you againとか言うだろ。ま、君が普通に生きてりゃ、二度と会うこともないか……さようなら、仮屋悠太くん」

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