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イスカリオテのぼくと、マグダラのわたし  作者: 稲葉孝太郎
第9章 営業マンの場合
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27

 床の黄色いテープをなぞり、悠太は受付のフロアへと辿り着いた。待合所のソファでは、大勢の高齢者たちが、途方もない順番待ちをしている。

 悠太はその中にふと、悪友の姿を見出した。

「真飛、こんなところで何してるの?」

 声掛けの直前、真飛の表情は、どこかしら憂いを含んでいるように思われた。果たして、気のせいだったのだろうか。顔を上げたときには、その気配も消え去っていた。若干驚きの交じった仕草で、真飛は悠太の方を振り向いた。

「おまえ、何でここにいるんだ?」

 質問を質問で返された悠太は、もはや諦めに似た調子で返事をする。

「マリアさんの弟を見舞いに」

「須賀の弟……? あいつ、弟がいるのか?」

 悠太は、自分の軽率さを呪った。

 しかし、喋ってしまったものは仕方がない。悠太は真飛の隣に座り、話題を転じる。

「僕も今日、初めて知ったんだけど……まあ、それはいいとして、真飛は何してるの?」

「瑠香の付き添いだよ」

「付き添い……?」

 悠太は、あの看護士の台詞を思い出した。

「骨折したのって瑠香⁉」

 悠太の大声に、老人たちの衆目が集まる。彼らは孫を見るような目付きで、ふたりの男子高校生を眺めた後、再び井戸端会議に華を咲かせた。

 悠太はボリュームを落とし、真飛に囁きかける。

「瑠香が骨折したの?」

「何で知ってるんだ?」

 悠太は、ミスの連発に舌打ちし、適当な言い訳を考える。

「さっき、廊下で耳にしたんだよ。女の子が骨折したって……」

 嘘ではない。悠太が自分の言い繕いに満足していると、真飛は渋い表情を浮かべた。こういう真剣な真飛を見ることができるのも、話の中心に瑠香がいるからだろう。案の定、真飛は心ここにあらずと言った風情で、これまでの出来事を回想し始めた。

「瑠香と須賀が喧嘩したって聞いてな……美術室へ様子を見に行ったんだ……」

 悠太は、美術室での一件を思い出す。だがあのとき、証人は自分しかいなかったはずだ。不審に思った悠太は、すぐに口を挟んだ。

「誰が言ってたの?」

「野球部の奴だよ……林にボールが飛び込んだんで捜してたら、たまたまふたりが言い合ってるところに出くわしたらしい……」

 林。ボール。野球部員。話の辻褄が合わない。悠太の見たものが白昼夢でない限り、瑠香とマリアの間でいざこざがあったのは、美術室のはずである。それとも、自分が知らないところで、さらに一悶着あったのだろうか。悠太は、気が気でなくなる。

「それ、昨日のこと?」

「いや……今週の火曜らしい……」

 自分が家に閉じこもっていたときだ。悠太は、あの諍いが第一ラウンドではなかったことに、軽いショックを受けた。

 無論、悠太が居合わせたときも、一方的に瑠香が怒鳴っただけで、喧嘩でないと言えば、それまでの話である。しかし、人間関係がぎくしゃくしていることに、変わりはなかった。

 そのことに気を取られかけた悠太は、ハッと瑠香の怪我を思い出す。

「で、瑠香は大丈夫なの?」

 漠然とした問いを前にして、真飛は答え難そうに唇を動かす。

「大丈夫ってわけじゃないが……保健の先生の話では、手首を骨折してる可能性があるらしい……酷く痛がってたから、多分そうなんだろう……」

 手首の骨折と聞き、悠太は不謹慎にもホッとしてしまう。怪我には変わりないが、不幸中の幸いとも言えた。

 ところが真飛は、遥かに深刻な顔をしている。他に何かあったのだろうか。悠太がそれを尋ねる前に、真飛は口を開いた。

「最悪なのは、それが利き腕ってことなんだ……」

「利き腕? ってことは……」

「ああ……しばらくは絵が描けないらしい……」

 悠太は、呆然と受付の奥を見やった。ひっきりなしに訪れる患者の対応に追われ、職員たちがせわしなく立ち回っている。それにもかかわらず、自分の中で緩やかに時間が流れるのを感じながら、悠太は視線を戻した。

「じゃあ……夏休み明けのコンクールは……」

「いつ治るのか知らねえけど……多分、ダメだろうな……」

「そんな……」

 美大には行かないと決めている瑠香。大学で美術部に所属しない限り、これが最後の公募となるだろう。その悲痛な可能性に、悠太は心が揺さぶられるのを感じた。

「……」

 周囲の歓談を他所に、ふたりは押し黙っていた。悠太と真飛、どちらか一方の心の傷ならば、馬鹿話を通じて癒すこともできるだろう。だが、瑠香の怪我を治すことはできない。彼女の心の傷もまた、癒せそうにはなかった。

 ……どれほどの時を、沈黙が覆ったのか。ふと、真飛が唇を動かす。

「なあ、悠太……ひとつ訊いていいか……?」

 なぜ質問に許可がいるのだろう。また自分と瑠香の関係を探りにきたのかと、悠太は心の準備をした。今度こそ、はっきり否定しよう。そう決意して、彼は膝の上で拳を握った。

 ところがふたりの会話は、全く別の質問から始まった。

「おまえ、須賀のことが好きか?」

 不意打ち。そう表現するしかないような問いだった。

 悠太は、悲鳴を上げそうになる。

「えっと……な、何の話かな……僕は……」

「ほんと昔から顔に出るな……丸分かりだぞ……」

「……」

 自分の顔なので確認しようもないが、おそらく真っ赤になっているのだろう。身中から沸き起こる熱を感じながら、悠太は黙って頬を掻いた。

 真飛は肩を落とし、軽く溜め息を吐いた。それから急に、ニヤリと笑ってみせる。

「で、どこまでいったんだ?」

「どこまでって……始まってもいないよ……」

「……俺にまで嘘吐くことないだろ?」

「嘘じゃないよ。本当に一歩も進んでないんだ。ただの友だち扱いされてるし……」

 真飛は呆れ果てたように、目を見開いた。進展していない恋を楽観視されることほど、心に痛みを感じるものはない。悠太はムッとなって、友人を睨み返す。

 真飛は気後れもせず、二度目の深い溜め息を吐いた。

「知らぬは本人ばかりなり……か……」

「……どういうこと?」

 悠太の質問を無視して、真飛は独り言を続ける。

「俺も、おまえみたいな実り多き恋をしてみたいもんだね」

「……あのさ、瑠香のせいか何か知らないけど、最近、嫌みっぽくない?」

「嫌みじゃねえよ、正直な感想」

 そう言って前髪を掻きあげた真飛に、悠太は怒りの眼差しを向けた。それにしても、相変わらずサマになっている男だ。悠太も、そう認めざるをえない。この半分くらい、自分にもモテる要素があればいいのだが……などと、あらぬ考えを抱いた少年は、恥を忍んで、アドバイスを求めることにした。

「ねえ、真飛、ひとつ相談があるんだけど……」

「……何だ?」

「君は女子にモテるだろ……でさ、そのコツをちょっとばかり……」

 ごにょごにょと言葉を濁す悠太の横で、真飛は整った髪をくしゃくしゃに崩した。

「……あったまきた」

 そう呟くや否や、真飛は席を立ち、いきなりその場を離れ始めた。どこに仲違いする契機があったのかも分からぬまま、悠太は慌てて追いすがろうとする。

 すると真飛は、背中越しに手を振って、友人を制した。

「ちょいと、そこらへん歩いてくる。瑠香が戻って来るまで、そこで待っててくれ」

 真飛はそう言い残して、玄関の向こうに輝く、真夏の世界へと姿を消した。おちょくられただけかと思った悠太は、両腕を組んで頬を膨らませる。

 とはいえ、ひとりきりになってしまったのは事実である。病院の待合室ほど、暇を持て余す場所は他にない。悠太は辺りをきょろきょろと見回し、雑誌コーナーすらないことを確認すると、昼寝のために目を閉じた。

 視界が闇に覆われた瞬間、うら若き乙女の声が聞こえる。

「悠太!」

 少年はパッと瞼を上げ、目の前に佇む少女の顔を見た。

「瑠香!」

 立ち上がろうとする悠太を制し、瑠香の方からソファに腰を下ろしてくる。瑠香は片手でスカートの裾を揃えると、少々咎めるような目付きで、少年へと首を曲げた。

「あなた、ここで何やってるの?」

「ぐ、偶然、真飛と会ってね……それで……」

 偶然とは一体何なのか。言葉を濁す幼馴染みに、瑠香は冷たい視線を寄越す。

「……真飛は?」

 悠太は、真飛が散歩へ出掛けたことを説明し、代わりに謝る羽目になってしまった。タイミングの悪い奴だと苦笑しつつ、瑠香の右手首に嵌められたギプスを盗み見る。不自然な形で固定された指が、包帯の隙間から覗いていた。

「大丈夫? 痛くない?」

 瑠香は一瞬、それが自分の怪我に対する心配だと、理解できなかったようだ。まるで他人事のように腕を上げ、あっけらかんと返事をする。

「鎮痛剤を打ってもらったの。看護士さんには悪いけど、下手な注射の方が痛かったわ」

 機転を利かせているのか、それとも本気で注射が痛かったのか、悠太は判断しかねた。とりあえず、コンクールの話題にだけは触れまいと心に決め、会話の糸口を模索する。

 ところが、先に話を動かしたのは、瑠香だった。

「誰も聞いてないだろうから言うけど……悠太って、マリアさんのこと好きなの?」

 一回転ループを決めた恋愛話に、顎を落とす悠太。

 幼馴染みの動揺を無視して、瑠香はもう一度同じことを尋ね返す。

「好きなの?」

「……」

「好きなのね……正直で結構……」

「あのさ、瑠香……他人の……」

 瑠香は、ギプスで固められた右腕を使い、悠太の口を塞いだ。湿布の香りが、少年の鼻孔に漂う。

 悠太が抵抗しないのを確認してから、瑠香は先を続けた。

「余計なお節介かもしれないけど……あなたたちって、地球の上で背中合わせなのに、お互いが四万キロ離れてると勘違いしちゃうようなコンビだから……これも人助けよね……」

 壮大な喩え話を持ち出され、悠太は激しく混乱した。

 少年を放置して、瑠香は淡々と話を進めていく。

「単刀直入に言うわ……あなたたちは、相思相愛よ」

 時の静止。周囲のざわめきが、少年の耳に届かなくなる。

「……誰と誰が?」

「現国のテスト、零点なんじゃない?」

 そんなわけないだろうと、悠太はどうでもよい憤りに駆られた。

 だが、少年がそれを表に出す前に、瑠香は初歩的な解説を入れる。

「悠太とマリアさんがよ」

「……はあ?」

「何よ、その態度は? 嬉しくないの?」

 嬉しいというよりも、意味が分からなかった。映画研究会恒例のドッキリではないかと、悠太は物陰を確認する。カメラもパネルもない。

 真飛のいなくなるタイミングが狙い過ぎていたとはいえ、さすがに杞憂だったようだ。そう考えた悠太は、瑠香に向き直る。

「そんなデマ、どこで聞いたんだい?」

「デマって……本人が言ってたから間違いないわ」

「あ、そう……ええ⁉」

 悠太の喫驚が、老人たちの注目を集める。若者の痴話喧嘩だろうと、彼らは微笑むばかりだった。

 悠太は、瑠香に詰め寄る。

「本人って、マリアさん?」

「何で主語を一々説明しなきゃいけないわけ?」

 恋の保証書を差し出され、少年は言いようのない浮遊感を覚えた。

 背中に熱いものが走る。ところが瑠香は、それに冷や水を浴びせかける。

「まあ、明確に好きだとは言ってないけど……そうとしか思えないわ」

 持ち上げて落とす作戦に慣れていなかった少年は、その落差に唖然とする。

 肩を落とし、燃え尽きたボクサーのように、ぐったりと前屈みになる悠太。瑠香は、焦り気味に言葉を継いだ。

「本当よ。話の内容は教えられないけど……私を信じなさいってば」

「そう言われてもね……もし君の誤解だったら……」

「おい!」

 真飛の声。いつの間にか戻って来た彼は、玄関近くの売店で手を振っていた。

 ふたりとも、ソファから腰を上げる。

「早かったな、家まで送ってやるよ」

 真飛の申し出に、瑠香は素直に頷いた。悠太は、わざとらしく用事を思い出す。

「僕はまだ、寄って行くところがあるから」

 そう言って悠太は、ふたりに別れを告げ、玄関へと向かった。自働ドアをくぐり、炎天下の空に身を投げ出した少年の足は、先ほどの口実も忘れて、最寄り駅への道を、ただひたすらに目指していた。

 

 ✞

 

 その夜、悠太は勉強机に向かい、ノートに鉛筆の芯を走らせていた。夏休みの宿題に取り組んでいるわけではない。それは生まれて初めての試み……ラブレターの下書きである。より正確に言えば、メールの下書き。マリアとの連絡方法が携帯しかない以上、仕方のないことであった。

 電話で告白するという選択肢は、最初から除外されている。ゴミ箱に詰め込まれた没案の山を尻目に、少年は指を動かし続けた。文章のリズムを確認するため、恥ずかしながらも小声でそれを読み上げていく。

「初めて会ったときから……あなたのことが好きでした……」

 ……これは嘘だ。一目惚れはしていない。作り話はさすがにまずいと思ったのか、悠太は文字列をぐちゃぐちゃに消し、次の行に鉛筆を添えた。

 やはり、惚れた点を書かなければ。悠太は、芯を滑らせる。

「何を考えているのか分からない、そんなあなたが素敵です……」

 ……下手過ぎる。少年は鉛筆を投げ出し、椅子にもたれ掛かる。自分のセンスのなさに落胆しながら、悠太はパソコンの画面に目をやった。「ラブレター」「書き方」で検索してみたところ、結構な数のサイトがヒットした。どれも抽象的な説明か、あるいは個別事例の解説かのいずれかであり、マリアへの想いをうまくはめ込むことができない。

 やはり自分で書くしかないと思い立ってから、既に二時間以上が経過していた。時計の針は、九時四十五分に差し掛かっている。

「もうすぐ十時か……」

 使徒会議が始まる前には終わらせようと、あれこれ思い悩んだ挙げ句、少年は極めて簡潔なメールを送ることに決めた。瑠香の発言を信頼するならば、内容にこだわる必要はない。悠太は、その推測に賭けることにした。

 僕は君を愛している。その九文字に願いを託し、悠太は震える指で送信ボタンを押す。悩み過ぎておかしな結論に至ってしまったような気もするが、無心を装い、使徒会議のチャットルームへと移動した。

 もうメールのことは忘れよう。そう思いながら、悠太は携帯の振動音を待ち続けた。

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