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「私は、こういう者です」
そう言ってマルコは、少年に可愛らしい名刺を差し出した。社会人でない悠太は、どう受け取ればよいのかもあやふやなまま、それを両手の上に乗せてもらう。
長谷川円子。花柄の飾り枠に、江東から説明された通りの漢字が収まっている。
「これも何かの縁ですので、よろしくお願い致します」
マルコは両手をスカートの前で揃え、丁寧におじぎをする。
「よ、よろしくお願いします……」
悠太は頭を下げるのも忘れて、そう答えた。あまりにも平凡過ぎる出会い。下野、朽木、春園たちのときとは、大違いである。
とはいえ、その方がかえって好ましい。悠太はこの状況を、楽観的に見始めていた。そうでもしなければ、気が保たないと思ったのだ。自分が一番年下という現実も、少年に要らぬ気遣いを強いていた。
「長谷川さん……つかぬことを伺いますが……」
悠太のへりくだった言い回しに、長谷川は例の営業スマイルで答える。
「はい、何なりと」
「マリアさんを追いかけてたんじゃないんですか……?」
質問をぶつけられた長谷川は、簡単な商品説明のごとく、言葉を継いだ。
「階段のところで、見失ってしまいまして……仕方がないので、ここで江東さんをお待ちすることにしました」
そのとき、長谷川の顔色が変わった。笑顔が消え、どこか切羽詰まったような表情をしている。それが何に起因しているのかを、さすがの悠太も容易に察することができた。
「江東さん!」
長谷川の大声に、江東はびくりと肩をすくめた。
「は、はい……」
「契約書にサインをお願いします!」
長谷川は革製の鞄を乱暴に漁り、中から一通の書類を取り出した。
そしてそれを、江東の鼻先に突きつける。
「さあ、サインを……」
ずいっと顔を近付ける長谷川から逃げようと、江東は椅子のキャスターを回して、後ろに下がった。ところが、三十センチと進まぬうちに、背もたれがテーブルの端とぶつかる。
「サインは……しません」
信じられないといったオーバーリアクションで、長谷川は仰け反った。
「それは契約違反です!」
「違反も何も、まだ契約してないでしょうに」
ヒートアップし始めたふたりを、悠太が止めに掛かる。
「ちょ、ちょっと、ふたりとも落ち着いて……」
「子供は黙ってなさい!」
「……はい」
悠太は、しょんぼりと椅子の中に縮こまる。
ふたりは、すぐに交渉を再開した。
「商品は既に発注済です。キャンセルは認められません」
「それは、おたくとアメリカの会社との問題ですよね? うちは関係ありませんよ」
「いいえ。江東さんが必ず買うと仰ったので、事前に発注したまでです。ここでキャンセルなさるなら、損害賠償を請求させていただきます。訴訟ですよ、訴訟」
裁判沙汰はまずいと、江東は困ったように両手を上げた。時間を稼ぎ、何かよい反論はないものかと、思案しているようだ。そして、ある提案を持ち出す。
「分割払いは可能でしょうか?」
江東の質問に、長谷川は再び営業スマイルを取戻した。顔の筋肉が忙しい女だと呆れ返る悠太を尻目に、長谷川は商談を続ける。
「どのようなお支払いコースがよろしいでしょうか?」
笑顔の長谷川に、江東は右手で三という数字を示した。それを見た長谷川は、ますます顔を輝かせ、揉み手をしそうな勢いで、手帳を取り出す。
「三回払いですね……その場合は、分割払い利息が月々……」
違う違うと、江東は右手を振ってみせる。
「三年の三十六回払いでお願いします。もちろん利息はなし……で……」
江東の声は次第に細くなり、仕舞いには聞こえなくなった。原因は、目の前で鬼の形相を浮かべた長谷川である。
接客態度をかなぐり捨てた長谷川は、手帳をぱたんと閉じた。
「無利息三十六回払いなんて、認められるわけないでしょう!」
「そこを何とか……」
「絶対に認められません!」
懇願する江東を無視して、プイッとそっぽを向く長谷川。人間、あまり追いつめてはいけないのだが……そう考えた悠太の前で、案の定、江東の顔色が変わった。
腹をくくったようだ。少年は、さらなる修羅場を覚悟する。
「そうですか……でしたら、サインはできませんね」
強気になった江東に反比例して、長谷川が動揺し始める。
どう足掻いても、やはり買い手の方が強いのだ。悠太はそこに、社会の一端を垣間みたような気がした。
「そ、それは困ります!」
「払えないものは、払えないですからね。……ご了承ください」
「裁判所に訴えますよ!」
「構いません。出るところへ出て、決着をつけようじゃありませんか」
長谷川も反攻に出るかと思いきや、彼女はがくりと肩を落とし、そばにあった診察ベッドへとよろめいた。ポケットから器用にハンカチを取り出すと、それを目頭に当てて、しくしくと咽び始める。
「うう……これが会社に知れたら、首になってしまいます……不景気ですし、もうこの病院で首を吊るしか……うう……」
今度は泣き落としか。年端のいかぬ少年にもバレる演技で、長谷川は嗚咽を上げ続けた。慰めようにも、本人が悲しんでいないのだから、悠太にはどうしようもない。
江東もほとほと困り果てたようで、テーブルの上でペン回しに興じている。これでは、使徒として顔を合わせている意味がない。悠太が退席を願い出ようとした矢先、ふと長谷川が顔を上げた。涙を流した痕跡もなく、彼女はぼんやりと宙を見つめている。
やっぱり嘘泣きじゃないか。そう叫びかけた少年に、長谷川は意味深な眼差しを送ってきた。味方に巻き込むつもりか。ごめん蒙る。悠太が逃げ場を求めたところで、長谷川は意外なことを口走り始めた。
「そうです、誰かに寄付してもらえばいいんですよ」
当たり前過ぎる解決策。それができれば誰も苦労はしないと、江東と悠太は、お互いに呆れ顔で視線を交わした。
その動作が契機になったのか、ふたりは即座に、長谷川の真意を察する。
「ま、まさか……」
江東は身を乗り出し、呼吸に喘いだ。
そこへ、したり顔の長谷川が言葉を返す。
「そのまさかですよ……カミサマに寄付金を募ってもらえばいいんです」
ぽかんと口を開ける悠太。この女、契約に失敗して、頭がおかしくなってしまったのではないだろうか。ここは医者の出番だ。悠太は、江東に期待の眼差しを向ける。その瞬間、彼は自分の眼を疑った。
江東は、長谷川のアイデアに、ふんふんと頷いているのだ。
「それは……いい考えかもしれない……」
「ですよねえ」
意気投合し始めたふたりに、悠太は血の気が引くのを感じた。
これは一大事だと、勇気を出して口を挟む。
「そ、そんなことしちゃダメですよ!」
悠太は、自分の声のボリュームに驚いた。目の前の大人たちも、びっくりしたように少年の方を振り返る。但しそれは、声の大きさにではなく、忠告に向けられているようだった。
自分は何もおかしなことなど言っていない。そう確信した悠太は、ふたりを睨み返す。
場は、使徒会議の様相を呈し始めていた。
「仮屋くんは、どうして長谷川さんのアイデアに反対なんだい?」
「どうしてって……カミサマの力を、自分たちの問題解決に使ったらダメですよ」
「いや、これは、私利私欲のためではないんだ」
江東の反論に、悠太は目を白黒させた。寄付金が取消されたから、カミサマに穴埋めしてもらう。これのどこが私利私欲でないのか、少年には見当がつかない。
「いいかい、寄付というのは、寄付者がいて、受益者がいるわけだろう。私たちのケースだと、寄付者はマリアちゃんのお父さんだった。でも、それは撤回されてしまった。子供の医療器具を買うためにお金を出すのは、確かに純粋な寄付とは言えないからね。まあ、それはいいとして……問題は、誰が寄付するかじゃないんだ。誰がそれを受け取るかなんだよ」
「誰が受け取るって……江東さんでしょう?」
それは違うと、江東は首を左右に振った。
「お金の流れを追ってみよう。寄付金は一旦、病院の口座に入る。でもね、病院はそれを、人工呼吸器の購入以外には使えないんだ。つまり、自由な財産ではないんだよ。うちは、面倒な購入手続を仲介しているだけだ。長谷川さんの会社だって、そうだろう?」
江東はそこで、長谷川の顔を盗み見た。長谷川は一瞬きょとんとした後、うんうんと大げさに頷いてみせる。話の流れを本当に追えているのか、甚だ疑わしい。けれども悠太は、江東との舌戦に集中する。
「それは、体裁を取り繕ってるだけですよ。間接的にせよ、あなたや長谷川さんが得していることに、変わりはないんですから」
「これは、人命に関わることでもあるんだ」
人命という、ほとんど切り札のようなカードを提示され、悠太はたじろいだ。
「人命……? 誰の命が懸かってるんですか?」
狂言自殺を仄めかしている長谷川ではあるまい。悠太は、他の可能性を探った。
けれども、うまい解答が出てこない。
「マリアさんの弟の命だよ」
「……クリスくんの?」
「君も見た通り、クリスくんはいわゆる植物状態というやつでね、回復の見込みは、ほぼないと言っていい……しかも、先月半ばから、脳幹の機能が低下してきている……」
悠太は、江東の医学的説明に首を傾げた。率直に、理解できなかったのである。
「脳死に向かっているんだよ……だから、生命維持装置が必要なんだ……完全な脳死状態になれば、内蔵の機能も失われ、最後は心停止に至る。早ければ、年内にもそうなってしまうかもしれない……」
悠太は、マリアの横顔と、クリスのそれとを重ね合わせ、しばらく虚空を見つめた。クリスが死ぬとき、マリアはどんな顔をするのだろうか。悲しむのだろうか、それとも、ついにその日が来たと、あの水晶のような瞳で、そっと思い出に仕舞い込むのだろうか。
沈殿する少年の意識に、江東が小石を投げる。
「恥を承知で言えばね、クリスくんは、うちのような病院にいちゃいけないんだよ……設備が悪過ぎる……もちろん、この地域では一番の病院さ。それでも、彼に十分な治療をしてあげることはできない。だから……」
「だからカミサマに寄付してもらう……ですか?」
江東は、患者に余命を告げるときのような眼差しで、頷き返した。
「そうだよ。……それに、高価な医療器具があれば、クリスくんが亡くなった後も、他の患者のために使うことができるだろう。これは、今回の件に限ったことじゃないんだ」
江東は、説明を終えた。
悠太は瞼を閉じ、闇の中で意見をまとめる。そして、おもむろに腰を上げた。
「ど、どこへ行くんですか?」
挙動不審に陥った長谷川の前で、悠太は歩を止めた。
しばらく口を噤んだ後、江東を振り返る。
「お断りします」
江東は椅子を回し、少年に体を向ける。
「どうしてだい?」
「たとえクリスくんの命が懸かっているとしても、寄付はあなた方の利益のためにやっているとしか思えません。それに……」
少年は一瞬、唇の動きを止め、それから躊躇いがちに呟く。
「クリスくんを無理矢理生かすことが、彼にとって幸せなんでしょうか?」
もう少し、他の言い方があったかもしれない。稚拙な問いかもしれないが、悠太は自分の疑問を、素直にぶつけてみた。
江東は、静かに答えを返す。
「人間の尊厳を持ち出して患者を死なせるのは、医者の仕事じゃないよ……」
少年と医師の目が交差する。
「……僕は、江東さんの仕事に口出しするつもりはありません。ただ、使徒として、今回の提案には反対させてもらいます」
対峙するふたりの間で、長谷川は右往左往していた。アイデアが蹴られてしまったことに戸惑っているのか、それとも純粋に、場の雰囲気を和ませようとしているのか……。
どちらでも、同じことだ。そう感じた悠太は、出口へと歩を進める。
「仮屋くん」
あと数歩というところで、江東の声が少年を足止めした。
「仮屋くん、君は使徒として反対すると言ったけど、本当は個人的な理由なんじゃないかな?」
「……どういう意味です?」
「カミサマに制裁されるのが恐いんだろう?」
江東の指摘に、悠太は呼吸を奪われた。心の中を覗き込まれたような感覚に、少年は軽く身震いする。シモンの死が叫ばれて以来、キセキの内容は萎縮の一途を辿っていた。それが恐怖心に由来するものではないと、果たして言えるのだろうか。悠太は、自分を正当化する言い訳を探しながら、診察室の壁の染みを見つめ続けた。
そこへ、江東が追い打ちをかける。
「でなきゃ、恋人の弟を見捨てないだろうからね」
「恋人……?」
悠太は、その指示対象を悟り、頬を赤らめる。
「マリアさんは、ただのクラスメイトです……変なこと言わないでください……」
「そうか……失礼した……でも、彼女が友人を連れてきたのは、今日が初めてだよ」
微妙なニュアンスの応酬を破って、ドアがノックされた。
使徒たちは皆、一般人の役割を演じ始める。
「どうぞ」
江東のやや大げさな声に、扉が開く。隙間から、女性の看護士が顔を覗かせた。取り込み中だとは思わなかったのか、女は悠太と長谷川を交互に見比べ、江東の様子を窺う。
「別にいいよ。この人たちは、もう帰るから」
長谷川が異議を唱える前に、看護士は唇を動かす。
「骨折した女の子をひとり、診ていただけませんでしょうか?」
「骨折……? シフトの連中はどうしたんだい?」
「それが、他にも急患が来まして、手の空いてらっしゃる方が……」
江東は、医者らしい顔付きに戻ると、机の上を整理し始めた。
「じゃ、ここに呼んで」
「はい」
看護士は、扉の向こう側へと消えた。
小走りな足音をBGMにして、江東はふたりに指示を出す。
「というわけなんで、ちょっと失礼するよ。……長谷川さん、契約の件については、院長と相談するので、今日はとりあえず、ここまでにしていただけませんかね?」
サインを留保された長谷川は、まだ何か言いた気だった。けれども、江東の期待をもたせる言い回しにやられたのか、黙って腰を上げた。
「では、また今晩」
江東は机に向かったまま、ふたりに別れを告げた。廊下に出た悠太は、化学薬品の鋭い香りと、長谷川から漂ってくるコロンの甘い匂いに、頭がくらくらとしてくる。
ここにいては、また説得されかねない。そう考えた悠太は、長谷川にさよならをぶつけ、彼女が返事をする前に、その場から走り去った。
でも、彼女が友人を連れてきたのは、今日が初めてだよ
マリアの顔が浮かぶ。それは形を変え、水面に広がる波紋のように揺れながら、クリスのそれへと移ろいだ。その穏やかな少年の顔が何を望んでいるのか、悠太はそれについて、考えることを放棄した。




