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猛暑。まだ午前中だと言うのに、税務署前のアスファルトは、逃げ水に覆われていた。ハンカチでしきりに汗を拭くサラリーマンの群れが、陽炎の奥にぼやけて見える。
それでも大人たちは、仕事を放棄することができない。脱出口は、はなから用意されていないのだ。江東も、そのひとりであった。
もっとも、今日の江東の仕事は、外来患者の診察でもなければ、院内業務でもなく、寄付金の税務処理について、役所に書類の確認を願い出ることだった。楽な作業かと思いきや、カルテを書くよりも面倒であることに気付いたのは、日付が切り替わった時刻。使徒会議を終え、寝る前に済ませようと机に向かったところ、夜中の三時まで時間をくってしまったのである。
深夜勤に慣れっことは言え、専門外の書類作りは、江東の頭を酷く疲弊させた。税務署の待合室にいる間も、江東は、うとうとしかけていた。
「江東さん、四番窓口へどうぞ」
名前を呼ばれ、江東はハッとなった。涎が垂れていないかを確認し、四の数字が書かれた最奥の窓口へと向かう。辛気くさそうな眼鏡の女性が、先ほど提出されたばかりの書類に、目を通していた。
江東が席についても、女はしばらくの間、書類から目を離さなかった。待つより他にないので、女の名札を盗み見る。笠井。担当者の名前くらい覚えておく方がいいだろうと、江東はそれを記憶の箱に収めた。
「江東潤様ですね?」
つい十分ほど前に告げた情報を、女は繰り返し尋ねてきた。マニュアル仕事にもほどがあるだろうと思いつつ、江東は落ち着き払って返事をする。
「はい、今日は市立病院の代理で来ました」
「顧問税理士の方ですか?」
「いえ、勤務医です」
江東の訂正に、笠井は右の眉毛をぴくりと上げた。その動作が意味するところを、江東は知らない。
笠井は表情を戻すと、本題に入った。
「寄付金の件ですが……」
調子を落とした声が、江東に不穏な空気を感じさせる。やはり眠気と闘いながら書いたのはまずかったかと、江東は身を乗り出した。
「書類に不備がありましたか?」
「いえ、それ以前の問題と致しまして……江東様のご説明によれば、寄付された金銭は全て特定の目的に使用するものと、そのように理解してよろしいのでしょうか?」
女の回りくどい言い方にもめげず、江東は言葉を返す。
「はい、医療器具の購入です」
「人工呼吸器ですね?」
「はい」
「その人工呼吸器は、任意の患者さんが使われるのですか?」
江東は、はたと口を噤んだ。
税務に詳しくない彼でも、何が問題なのか、薄々察しがつき始める。
「いえ……特定の患者です……」
「この書類を見ます限り、患者は寄付者のご子息のようですが……」
そう言って笠井は、右手で眼鏡を直した。
言いたいことがあるならはっきり言ってくれと思いつつ、江東は質問を投げ掛ける。
「どこに問題があるのか、説明していただけませんか?」
「確定的なことは申しかねますが……今回のケースは、純粋な寄付に該当しない可能性がございます。また、これだけ高額の機材ですと、医療用機器等の特別償却など、別途課税額を低くする方法も考えられますので、一度税理士の方にご相談いただけませんでしょうか?」
江東は、自分が医師であると告げたときの、笠井の反応を思い出す。どうやら彼女は、これが専門外の人間には処理できない難件であると、勘付いていたらしい。貧乏性で税理士への仲介を拒んだ院長を恨みつつ、江東は最善を尽くすよう心がける。
「税理士ですか? まあ、うちの病院にも当然顧問はいますが……ここで少し計算していただけないでしょうか? おおよその目安をつけたいので……」
「申し訳ございませんが、税務署の方で課税額を提示することはできません。手元の情報では正確な金額が出せず、かえってご迷惑になります」
笠井は顔色ひとつ変えず、そう答えた。
「そちらは税の専門家でしょう? 目安くらいは……」
そこまで言って、江東は口を噤んだ。自分のしていることが、初診でしつこく病名を尋ねる患者と同じだと気付いたからだ。
因果な商売だ。嘆息を漏らしながら、江東は席を立った。
「分かりました。税理士と相談してから来ます」
「申し訳ございません」
女は事務的な謝罪を述べ、書類をクリップで留めると、すぐに次の待ち合い人を呼んだ。
江東は冷房の効いた建物を後にし、高湿度の外界へと身を投げ出す。相談料をケチった勤務先に、江東は憮然となった。
だが、過ぎてしまったことは仕方がない。問題があるとすれば、このあとメーカーの長谷川が、契約書を携えて、病院を訪れるということだった。アポイントメントは、既に与えてしまっている。
長谷川の嬉しそうな顔が、江東の脳裏にちらついた。
「……延期してもらうしかないな」
江東は、駐車場へと向かう。どう言い繕ったものかと思案しながら、江東はポケットから車のキーを取り出し、指先でくるくると回した。
真っ赤なBMWの手前で、ふと人影が飛び出して来た。広島東洋カープの野球帽を被った中学生くらいの少年が、江東と車との間に、サッと立ちはだかる。
迷子だろうか。江東は燻る不機嫌さを押し隠し、大人の態度で少年に声を掛けた。
「どうしたんだい? 迷子かな?」
「江東潤さん?」
名前を呼ばれた江東は、退院者の顔写真を、頭の中で並べていく。自分が面倒を見た患者のひとりだろうか。記憶のアルバムをめくる江東に、少年は一枚の紙切れを差し出す。
「これは何だい?」
「手紙」
少年は、それ以上説明を加えない。
痺れを切らしかけた江東だが、ぐっと我慢して、さらに言葉を継いだ。
「君から? それとも君のパパママから?」
どちらの質問にも、相手は首を左右に振った。
いたずらだろうか。罰ゲームで、おかしなことをさせられているのかもしれない。江東は駐車場を見回してみたが、仲間らしき子供の姿は見当たらなかった。
江東は少年に向き直ると、なるべく傷付けないように、穏やかな口調で言葉を返す。
「悪いけど、知らない人からの手紙は受け取れないんだ。だから……」
「いつも司会お疲れさまって」
「え?」
江東は、日射病を懸念した。少年の、ではない。自分の日射病である。
幻聴だろうか。その不安を拭うように、少年は同じ台詞を繰り返す。
「いつも司会お疲れさまって」
ふたりの視線が交差する。思春期特有の、期待と不安に満ちた、自我の不安定さを垣間見せる眼差し。八月の太陽も忘れ、江東は少年の瞳に、真実を求めようとした。
しかし、全ては徒労に終わる。何も見えてこない。
……この少年が使徒なのだろうか。江東は、普段の知的な顔立ちを崩し、だらしなく口を開けて、紙切れを受け取った。彼が手紙を掴んだ瞬間、少年は背を向けて、その場から駆け去った。
「ちょ、ちょっと君⁉」
江東の制止にもかかわらず、少年は国道沿いの人混みに消えて行った。
通行人の中には、江東の方を盗み見て、ひそひそと話をする者もある。江東は、野次馬の好奇心になど目もくれず、折り畳まれた紙切れを開いた。機械で印字された文字列に目を通す江東の指が、紙片の端で震え始める。
こんにちは、ペトロさん。ヤコブAです。今日は突然お手紙を差し上げてすみません。ぜひお話ししたいことがあるので、下記の住所へいらしていただけませんでしょうか。空き家に見えるかもしれませんが、そのまま入っていただいて結構です。お迎えはいたしません。
では、お会いできるのを楽しみにしています。
その文章の下には、マップ検索の画像を貼付けたのであろう、地図が添えてあった。その中央部に、筆圧の強い鉛筆で×印が付されている。それは、ここから車で三十分ほどの、蓮畑を示していた。
裏切り者の罠。それが、江東の第一感であった。行方不明になったシモンたちは生きている。そのような戯れ言を、江東自身、信じてはいなかった。死んだに決まっている。それ以外、多数決の原理を変動させる要因が見当たらないからだ。使徒という特権的な地位を自ら捨てる者など、いるはずがない。最初から欠席しているタダイは謎だが、それも何かしらの理由があるのだろう。
そう考えているにもかかわらず、江東が使徒会議で死亡説に与しないのは、使徒間の信頼関係を維持するためと、もうひとつ、親友の平戸がこの件にしつこく首を突っ込んでいるからであった。使徒は平静でなければならない。さもなければ、どこから平戸が事件の臭いを嗅ぎ付けてくるか分からないのだ。彼の本能的な勘の鋭さを、江東は高く評価していた。
そのとき、江東のそばを、一組の男女が通り過ぎた。税務署から出て来たらしく、家の立替えがどうのこうのと言いながら、駐車場を横切って行く。
ふたりの姿が見えなくなったところで、ようやく江東は、自分が招待状を握りつぶしていることに気が付いた。皺だらけになったそれをもう一度開き、文面を熟読する。
「……ヤコブAか」
使徒たちの中で、最も合理的思考に近い男。それが、ヤコブAに対する彼の評価だった。江東は、この誘いに乗ろうと決心する。信頼したからではない。逃げ道がないと判断したのだ。自分がペトロであることを、相手は知っている。それならば、いつでも自分を殺すことができるわけだ。生きるにせよ死ぬにせよ、この手紙の主に会ってみよう。それが、江東の考えだった。
江東はBMWの扉を開き、運転席に乗り込む。日に灼けたドアノブが、フライパンのように熱かった。急いでエンジンキーを入れ、クーラーを動かす。地図は既に把握した。後は、そこへ向かうだけだ。
今日も暑くなりそうだ。江東は心の中でそう呟くと、ハンドルを回し始めた。




