19
春園の死から七日間、想像を絶する苦悩が、少年を苛んでいた。食事もろくに取らず、自室に篭りきりの毎日。息子を心配した母親が、とうとう病院に連れて行くと言い出したところで、悠太はようやく、現実との折り合いをつけた。体裁を取り繕うため、意味もなく学校へと向かったのである。
校内を彷徨った挙げ句、少年は自分でも気付かないまま、美術室へ足を運んでいた。朦朧とした彼の意識に、油絵の香りが染み込んだ。
「悠太、顔色が良くないわよ? 具合でも悪いんじゃない?」
苺ミルクのカフェオレを飲みながら、瑠香が心配そうに尋ねた。椅子に座り、両腕をだらりと垂らしていた悠太は、ゆっくりと顔を上げた。
「なんでもないよ……」
「なんでもないってことはないでしょ。嘘吐かないで」
「本当になんでもないんだ……」
瑠香はテーブルの上に紙パックを置くと、躊躇いがちに唇を動かした。
「もしかして、春園先生のこと?」
春園舞……バルトロマイ……ふたつの名前を打ち消すように、悠太は目を瞑った。夢の中にまで響き渡る彼女の断末魔が、今もなお、彼の心を蝕んでいた。
「あれは事故なのよ……あなたの責任じゃないわ……」
事故。警察も教育関係者も、その一言で、全てを片付けていた。もちろんその断定には、裏があった。事故死という表現に隠された事情を、生徒たちは噂し合っていた。
「私は自殺だと聞きました」
モデルの少女が、透き通るような声を発した。
瑠香は、鋭い眼差しを返した。
「マリアさん、そういうデマは信じちゃだめよ」
「ではなぜ、人が線路に落ちるのですか?」
苦虫を噛み潰したような顔で、瑠香はマリアの反論を聞き流した。彼女自身、自分の言葉を偽っているように見受けられた。
ふたりのやり取りを他所に、悠太はぼんやりと、床の木目を見つめていた。自然の無軌道な文様が、少年を推理の世界へと誘った。
自殺。生徒だけではない。教員と保護者もまた、そう信じていた。Y駅のようなローカル線で、列車の到着に合わせて人が落ちるなど、あまり納得のいく現象ではない。それゆえ誰もが、春園は自分から線路に飛び込んだのだと、そう結論付けていた。さらにここ数日、気落ちした彼女の姿を、何十人という人間が目撃していたこともあった。失恋か、病気か、生活苦か……彼女が自殺したという噂は、ほとんど真実のような扱いを受けていた。
けれどもそれは、間違いなのだ。少なくとも悠太は、別の可能性を模索していた。あのときの春園の態度は、死を選ぶ人間に、およそ相応しからぬものであった。自殺を仄めかしたような発言も、少年の記憶にない。
……真実はどこにあるのか。悠太はそこで、袋小路に迷い込んでしまう。他殺だろうか。しかし、春園が突き落とされたという証拠もなかった。列車の運転手すら、彼女がよろめいて線路に落ちたと証言しているのだ。その情報は、鉄道関係者を親類に持つ生徒の口から、あっという間に広がっていた。そのおかげか、唯一ホームにいた悠太も、簡単な事情聴取で事なきを得た。
唯一。その限定詞に、少年は疑念を抱いた。
「ねえ、瑠香」
名前を呼ばれた瑠香は、マリアとの睨み合いを中断した。
「何?」
「君はトイレで、春園先生に何か言われたの?」
瑠香はサッと目を逸らし、視線を宙に彷徨わせた。マリアは、ふたりの会話に興味がないのか、じっと窓を眺めていた。
休憩中にもかかわらず、ポーズを崩さないマリア。これはもはや、静物画ではないか。似合いもせぬ問いを、悠太は心の中で呟いた。
「何も言われなかったわ……」
瑠香の声は、掠れていた。明らかに動揺している。それは鈍感な悠太にも、手に取るように分かった。しかしその動揺が、春園の錯乱した姿に起因しているのか、それとも、トイレで交わされた密談に由来しているのかまでは、把握することができなかった。
「でも、あのとき君は、先生と……」
「その話はもうしないで!」
瑠香は一方的に、会話を打ち切った。自分自身に言い聞かせるよう、こう呟く。
「先生は、頭がおかしくなってたのよ……」
「……」
それ以上の追及を、悠太は控えた。けれども幼馴染みの反応は、彼が思い描く推理の青写真を、密かに裏付けていた。
春園は、自分が使徒であることを、瑠香に話してしまったのではないだろうか。それが、少年の仮説だった。春園は言葉遊びで、悠太を使徒と決めつけてきた。ウとアの母音を持つ人間など、I市にはいくらでもいる。ユウタだけでも、数十人は見つかるだろう。悠太がユダだったのは、偶然に過ぎない。春園が同じ手法を、瑠香にも用いたとすれば、それは彼女の寿命を、極限まで圧縮してしまった可能性がある。
しかし、仮に彼女が間違っていなかったとすれば……悠太は、瑠香の顔を見つめる。
「……どうしたの? じろじろ見ないでよ」
「ごめん……」
悠太は視線を逸らし、再び思考の海に沈む。
瑠香。単なる偶然だと思っていた。宝くじに当たった人間は、隣の家にも当選者がいるとは考えない。同じ理屈を、悠太は自分に当て嵌めていた。使徒のすぐそばに、もうひとりの使徒が居はしないだろう、と。
瑠香とルカ。大人は、「1+1=?」と訊かれたとき、妙な警戒心を抱いてしまう。あまりの単純明快さに、悠太もまた、2と答えることを躊躇っていた。
「ユウタ」
マリアの声に、少年は現実へと引き戻された。立ち返りたくないこの世界も、マリアのためになら、見つめることができる。只居に打ち明けたのが切っ掛けになったのか、彼女の存在意義は、悠太の中で、それほどまでに大きく成長していた。
そのマリアが、彼に話し掛けてくる。
「ユウタは、私の絵をどう思う?」
「……」
悠太は黙って腰を上げ、キャンバスを覗き込む。瑠香も感想が気になるのか、手に取ったカフェオレを握り締め、幼馴染みの言葉を待っていた。
画布に描かれた少女。真夏の光に閉じ込められた姫君。美しい、マリアの似姿だった。悠太は瑠香の技量に、あらためて賞賛を漏らす。
「完璧だよ……」
非の打ち所がない、褒め言葉のつもりだった。
それにもかかわらず、ふたりの少女は、お互いに顔を曇らせた。
「完璧な絵なんて存在しないわ。ましてや、高校生の描いたものにはね……」
「僕には、完璧に見えるよ」
褒め殺しになりかねない状況だが、瑠香は口元を綻ばせた。
そこへマリアが、椅子に座ったまま口を挟む。
「私は変だと思う」
あまりにもストレートな感想に、瑠香の表情が強ばる。謙遜で自己を卑下するのは心地よいものだが、それを他人から指摘されると、少々頭にくる。ありきたりなジレンマが、瑠香の中でせめぎあっているように見えた。
「どうして? 上手くできてると思うけど?」
悠太は、慌ててフォローを入れた。
モデル席のマリアは、絵が見えない位置にもかかわらず、批評を続けた。
「本当にそうですか?」
何が言いたいのだろう。悠太は絵の中に、欠陥を見つけようと努力する。鑑賞者の態度としては間違っていたが、彼はモデルの批判を、できるだけ尊重したかった。
何度見ても、絵の中の少女は、美しく少年を見つめ返してくる。まさか、現実の自分の方が美しいと言って欲しいのだろうか。いや、マリアは自惚れ屋ではない。悠太は、心の中で首を振る。
悠太は、自分たちが瑠香の創作活動を邪魔していることも忘れて、数分ほどキャンバスを凝視した。すると、以前感じたことのある、奇妙な不満を覚え始めた。
「そうか……この絵……」
「な、何か変?」
瑠香が、不安そうに尋ねた。
自分の曖昧な感覚を言葉にしようと、悠太は苦心する。
「なんて言うのかな……これは、マリアさんじゃないんだよ……」
「マリアさんじゃ……ない……?」
瑠香は、己の作品と向かい合う。わけが分からないと言った様子で、彼女は油絵のマリアを睨みつけた。
「……何が言いたいの?」
「……外見はマリアさんだけど……何か殺気のようなものを感じるね」
自分でもよく分からない説明を終えて、悠太は恐る恐る、瑠香の顔を盗み見た。怒っているかと思いきや、彼女はどこか、唖然としたような表情を浮かべている。懸念事項を他人に見破られたような、そんな雰囲気だ。
そこへ、マリアが追い打ちをかける。
「私もそう思う。その絵の女の子は、すごく怖い」
怖い。その言葉がぴったりなほど、瑠香の顔はひきつっていた。
悠太は、自分の軽率な批評にうろたえる。
「あ、あのさ、僕みたいな素人の……」
「もしこの絵の少女が怖く見えるなら……」
悠太の弁解を遮るように、瑠香が言葉を継いだ。
もはや割り込む余地はない。悠太は、傍観者の立場へ押しやられる。
「それは、私がマリアさんの内面を描いているからよ」
少年は一瞬、幼馴染みの台詞を理解できなかった。しばらくして、それが重大な侮辱であることに気が付く。彼は、顔面蒼白に陥った。
「ちょ、ちょっと瑠香……」
「ルカさん、それは違います」
いつものですます調に戻ったマリア。彼女は、悠太以外の生徒と、タメ口を利かない。
それがかえって癇に障ったのか、瑠香はふらりと席を立った。
「何が違うの?」
瑠香は、声を落とした。静かな怒りの炎が揺らめいていることを、少年は肌で感じ取る。
止める術がない。
「ルカさんは私の中に、自分自身を見ているのです」
「自分を……?」
瑠香は、マリアの解説を鼻で笑い飛ばす。
それに釣られて笑うほど、少年も愚かではなかった。
「要するに、私が怖い女だと言いたいわけ?」
「そうは言っていません」
「だってそういう意味でしょう⁉」
瑠香の大声に、悠太は心臓が止まりかけた。
彼女は唇を震わせ、マリアに挑みかかる。
「あのね、私はあなたを描いてるんであって、自画像を描いてるんじゃないのよ。どうして絵の中に、私の内面が現れなきゃいけないわけ? 言いがかりは止してちょうだい」
「ルカさん」
唐突に名前を呼ばれ、瑠香は口を噤んだ。
落ち着き払ったマリアの視線が、瑠香の瞳を捉え返す。
「画家がモデルを見るとき、モデルもまた画家を見ているのですよ」
それを最後に、美術室は静まり返った。悠太は、マリアの言葉を反芻しながら、そこに秘められた意味を探ろうとする。
「……出てってちょうだい」
「え?」
「ふたりとも出てってちょうだい!」
声を張り上げる瑠香。一方、マリアは、諭すように言葉を返す。
「モデルがいないと描けませんよ」
「見なくても描けるわよ! 早く出てって!」
マリアは腰を上げ、そばに置いてあった鞄を手に取ると、黙って美術室を後にした。その背中を呆然と見送った後、悠太は瑠香に向き直る。
「ちょ、ちょっと落ちつ……」
「悠太! あんたもよ!」
「……はい」
悠太は慌てて廊下に出ると、マリアの姿を求め、左右を見回した。
どこにも見当たらない。既に一階へ降りたのだろうか。少年は深く考えず、マリアの後を追うことに決めた。いくら惚れた相手とは言え、さきほどのやり取りは目に余る。悠太は、ふたりの和解案に思いを馳せつつ、階段を駆け下りた。
途中でマリアに追いつくこともなく、一階へと降り立った悠太は、玄関へ続く廊下の角を曲がった。
「うわッ⁉」
その瞬間、悠太は誰かとぶつかり、視界を暗転させた。




