18
Y駅の二番ホームに降り立った悠太は、時計の針を確認した。十五時四十五分。たった数時間の流れが、一年にも十年にも感じられた。妙に気の抜けた彼は、歩道橋を渡り、無人改札口へと向かった。天井から垣間見える青空は、恐ろしいほど澄み切っていた。その深さに誘われて、悠太の思考は、今日の出来事を振り返り始めた。少年が我に返ったとき、一緒に降りた乗客は皆、いなくなっていた。
蝉の鳴き声がやかましい。喧噪の中で悠太は、道中に浮かんだ考えをまとめようと、苦心していた。一見取りとめのない推論の全てが、ふたつの根源的な問いへと帰着していた。
殺人か、病死か。どちらの仮説にも、十分な根拠があった。警察の発表によれば、結論は後者である。殺人を匂わせる報道はなかった。けれども、下野の心臓発作と朽木の熱中症が、使徒心得の違反に起因するものであるならば、事態は一変する。そもそも、十二人しかいないはずの使徒が、立て続けに病死するものだろうか。さらに、バルトロマイが脅迫されているという事実も、そこへ加わった。
誰かが使徒の情報を、一般人に漏らしているのではないか。それが少年の、身の毛もよだつ推測であった。
「でも……なんかおかしいんだよな……」
悠太は、独り言を呟いた。下野と朽木が接近して来たことを考えると、彼の情報もまた、どこかで漏洩しているはずであった。しかし、その自分が生きているという事実を考慮してみると、殺人の可能性は薄らいでしまう。
「それに、バルトロマイだって死んでは……」
そのとき、構内のトイレから、女の叫び声がした。ゴキブリでも出たのかと思い、スルーしかけたところへ、さらに別の声が混じった。ふたりの女が言い争っていることに、少年はようやく気が付いた。
喧嘩か。そう思った矢先、悠太は一方の声にハッとなった。聞き覚えがある。トイレに駆けつけるよりも早く、制服姿の少女が飛び出して来た。
「瑠香!」
名前を呼ばれた少女は、逃げ足を止めた。
「悠太!」
彼女が半泣き状態であることは、声音からすぐに分かった。
瑠香は幼馴染みの背中に隠れると、思いも寄らないことを口走った。
「先生が! 先生が!」
瑠香はひたすらに、同じ言葉を繰り返した。彼女がここまで取り乱しているのは、小学生の頃、アシダカグモを見たとき以来だった。
「瑠香、落ち着いて。どうしたの?」
困惑する悠太の視界に、女子トイレから、もうひとりの女が姿を現した。ゆっくりと歩を進める彼女の顔を、少年は一瞬、見分けることができなかった。
夜叉のようだ。悠太は、脳が認識した女の正体に、震え上がった。
「春園……先生……」
春園の視線が、少年を捉えた。今まで彼の存在に気付いていなかったような、そんな動作だった。
瑠香と揉み合ったのか、服の一部が乱れていた。彼女の顔は、入学式の日から一度も見たことのない、見知らぬ女のそれであった。
「あら……」
春園は、口元に笑みを浮かべた。コラージュを思わせる、奇妙な歪み方だった。
「仮屋くんもグルだったのね……」
「先生……?」
あっけに取られた悠太は、瑠香を庇いつつ、後ろに下がった。
トイレの中で何が起こったのか、少年には見当がつかなかった。
「仮屋悠太……悠太……」
少年の名前を連呼した春園は、何か合点がいったような顔をした。
「分かったわ……あなたはユ……」
「瑠香!」
悠太は、あらんかぎりの大声で、そう叫んだ。もしホームに人がいれば、すぐにでも飛んで来そうなほどの絶叫。幸か不幸か、この場にいるのは、彼ら三人だけであった。
自分の正体をばらされてはいけない。悠太は、瑠香を突き放した。
「瑠香! 逃げて!」
「ゆ、悠太……?」
「早く逃げて!」
悠太の気迫に押され、瑠香は改札口へと走り出した。春園が彼女を追わないように、悠太は両手を広げて、担任の前に立ちはだかった。
だがそれも、要らぬ演技であった。春園は身動きひとつせず、少年の前に佇んでいた。
「悠太くん……あなたも使徒だったのね……」
あなたも……。認めたくなかった事実が、担任の口から発せられた。
悠太は唇を噛み締めたあと、おもむろにそれを解き放った。
「先生が、バルトロマイだったんですね……?」
「そうよ……いつ気付いたの?」
「……今日の午前中に」
春園は顎を上げた。嘲るような眼差しが、少年に向けられた。
「加奈が言ってた少年って、悠太くんだったのね……残念だわ。生徒がストーカーになるような教育をした覚えはないんだけど……」
「先生、お願いです……正気に戻ってください……」
春園は笑うのを止めた。影の差した顔で、少年を睨み返してきた。
「私は正気よ」
「嘘だ……あなたはおかしくなってる……」
「人を脅迫するような子に言われたくないわ」
脅迫。悠太はその一言で、春園の誤解を察した。
どう説得すればよいのかも分からぬまま、悠太は声帯を震わせた。
「先生を脅迫したのは、僕じゃありません」
「……嘘吐くと、先生怒るわよ」
「嘘じゃない! 信じてください!」
説得不能なことを薄々感じながら、悠太は再び大声を出した。
春園は、少年の頑迷さに苛立ち始めたのか、左目を細めた。
「なら、どうして私がバルトロマイだと勘付いたの?」
悠太は、答えに窮した。Flyで真飛と話し合ったところから、全てを打ち明けるべきだろうか。
けれどもそれでは、真飛が疑われてしまう。友人として、できない相談だった。
「それは……名前が似てたから……」
「そんな回答は認めません……零点よ……」
春園は、間合いを詰めて来た。このまま襲い掛かる気だろうか。いくら彼女が年上とは言え、身長は悠太の方が高く、性差もあった。
ただそれを考慮しても、悠太は足の震えを抑えることができなかった。普段、人間の筋力にはリミッターが掛けられており、ほんの一部しか発揮されないのだと言う。もし春園が本当におかしくなっているとしたら、悠太に勝ち目はなかった。
あるいは自分もまた、火事場の馬鹿力とやらで、対抗できるのだろうか。しかし、春園との取っ組み合いを第三者に目撃されてしまえば、終わりである。教師と生徒、女と男の諍いでは、悠太が罪を負うことになるだろう。
少年は時間を稼ぐため、むりやり言葉を継いだ。
「なぜあんなキセキを起こしたんですか?」
「キセキ……? ああ、花のこと……」
悠太の期待通り、春園の足が止まった。
くだらない質問をされた教師のように、うんざりとした表情で答えを返した。
「お金のために決まってるでしょう」
聞きたくなかった答え。悠太は、哀し気に俯いた。
「伊藤加奈さんの結婚資金ですね……?」
「ふうん、やっぱり隠れてたんだ……覗きの趣味もあるのね……」
心の底から軽蔑したように、春園は少年を罵った。
「なぜカミサマの信頼を裏切ったんです? たかが四十万円ですよ?」
「たかが四十万……?」
春園は顔をしかめた。どこに失言があったのか、少年には分からなかった。
「あなた、薄給の教師が四十万溜めるのに、何ヶ月働かなきゃいけないと思ってるの?」
「そ、それは……」
バイトすらしたことのない悠太には、計算外の問いだった。けれども悠太には、間違ったことを言っていないという確信があった。金額の問題ではないのだ。
「僕らは、この町を善くするために選ばれたはずです。自分の問題を解決するためじゃないでしょう。違いますか?」
悠太は、使徒心得の第一条を、そのように解釈していた。
春園は鼻でせせら笑い、つらつらと言葉を並べ立てた。
「そうね……勝手に呼び出されて……ふざけてるわ。なぜ望みもしないボランティア活動なんかしなきゃいけないの? 仮屋くんは、ボランティアの語源を知ってるかしら? ラテン語でね、自発的な人という意味なのよ……私たちは使徒になることを欲したのかしら? 違うわよねぇ……」
春園は乾いた笑いを放ち、首を四十五度傾けた。彼女の目は、もはや理性の光を宿していなかった。なぜ流暢に会話ができるのか、それすらも不思議なほどだった。
「これじゃあ、強制労働だわ……少しくらいおこぼれに預かったって、いいでしょう?」
「……」
春園の理屈に、悠太は反論することができなかった。なぜ自分がカミサマの命令に従っているのか、その根拠がぐらつき始めていた。町の未来を決めているという、優越感だろうか。それとも、人間の中に生来備わっているかもしれない、善意だろうか。悠太には、そのどちらでもないように思われた。
「それでも……それでも、あのキセキは、間違いだったと思います……」
聞き分けの悪い教え子を前に、春園は溜め息を吐いた。
「まあいいわ……それより悠太くん、私と手を組みましょう」
唐突な提案に、悠太は眉をひそめた。
「手を組む……?」
「そうよ。多数決はね、組織票が多ければ多いほど強いのよ。お互いにこっそり願いを叶え合いましょう。普段から冷静なユダくんと、おとぼけさんを演じるバルトロマイ。いいコンビだと思わない?」
演じているという言い回しに、悠太はハッとなった。そして、全てを悟った。春園は、狂気で性格が一変してしまったのではない。ただ、演じることを止めただけなのだ。のほほんと愛嬌を振りまく、生徒たちと仲のよい英語教師という役割を。
計算高い春園の本性に失望しながら、悠太はひとつの疑問をぶつけた。
「じゃあ、なぜ伊藤さんに寄付なんかしたんですか? 彼女は他人でしょう? 先生は、伊藤さんが可哀想だから、資金を用立ててあげたんじゃないんですか?」
「他人?」
春園は、悠太の誤答に首を捻った。
「加奈は私の妹よ」
「妹……?」
名字が違うではないか。春園が既婚者だと言う話は、聞いていない。
訝る少年に、春園は真相を告げた。
「私たちはね、両親が離婚して、別々に引き取られたの。私は父に……妹は母に……父はアル中のくそったれだったわ。高校のとき、耐えかねて家出して、しばらくは海兵隊のバーで働いてたの。もちろん、年齢を偽ってね……そこでお金を貯めて、大検を受けてから教員資格を取り、この高校に赴任したのよ……帰ってみたら、父はとっくに死んでたわ……母もね……」
春園は笑い始めた。父親が死んだことを愉快に思ったのか、それとも自分たち姉妹の境遇に苦笑しているのか、悠太には、その両方であるように思われた。
目尻にうっすらと浮かんだ涙を拭い、春園は再び前に出た。
もはや悠太の体からは、後退する気力も失せていた。
「ほら、目の前にこんな可哀想な女がいるのよ? 助けてくれないの? 遠慮なんかしなくていいわ……それに、協力してくれたら、大学の推薦なんかも手配してあげる。今から遊び放題よ。それとも、お年頃の仮屋くんは、もっと違うことをしたいのかな?」
「先生……あなたは……」
目頭が熱くなるのを、悠太はこらえられなかった。
声が震え、舌が麻痺したように動かない。
「違う……僕は……僕は……」
一筋の涙が、少年の頬を伝った。
「僕は、先生を尊敬していた……」
真夏の静寂。
悠太は、春園の顔を見ることができなかった。コンクリートの地面に顔を落とし、ポトポトと小さな水溜まりができるのを、黙って眺めていた。
「尊敬なんて要らないわ……私が欲しいのは……」
そのときふいに、軽快な音楽が鳴った。上り列車の到着を告げるベル。悠太が線路沿いに視線を走らせると、炎天下に煌めく黄色い車体が、カーブのそばに見えた。
人が来る。春園との対話は終わった。
少年は踵を返し、改札口へと駆け出した。
「待ちなさい!」
悠太は、がむしゃらに走った。改札まで数メートル。そこで、春園の悲鳴が聞こえた。
罠だ。振り返るな。そう思った悠太の横で、耳をつんざくような警笛が鳴った。線路の軋む音と、奇妙な破裂音。生涯忘れることのできない急ブレーキが、改札の前で立ち止まった悠太の背中に、いつまでも轟いていた。
……少年の一日は、こうして幕を閉じた。担任の死を告げる回覧メールが届いたのは、静かな風の吹き始める、夕暮れ時のことであった。




