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「もうここまで描いたの?」

 感心しきりな悠太の隣で、瑠香は、ちらりと視線を上げた。

 苺ミルクのカフェオレから唇を離し、呆れたように肩をすくめてみせた。

「まだデッサンの途中なんだけど?」

「でも二日目にしては……」

 悠太は、キャンバスの黒い線と、その前に座る少女とを念入りに見比べた。それは、モデルからデッサンを見分けることも、デッサンからモデルを見分けることもできる、墨色の鏡像のようであった。

 賛辞を受けたにもかかわらず、瑠香は、つまらなさそうに言葉を継いだ。

「美大生なら、もっと速く描くわよ」

 幼馴染みの卑下に、悠太は、かつて彼女と交わした会話を思い出した。瑠香は美術部に所属し、全国規模の大会で若い名声を博しているにもかかわらず、美大志望ではない。その理由を問えば、美術業界における収入の不安定さがイヤなのだという。半分お世辞、半分本気と言った感じで、瑠香なら絵で食べていけると述べた悠太に、彼女はこう答えた。そういう生活のことが気になる時点で、自分は画家に向いていないのだ、と。

「何かご不満?」

 ふいに、瑠香が言葉を発した。空になった紙パックとストローを分離し、それぞれ燃えるゴミ、燃えないゴミへと投げ捨てた。

 几帳面な彼女を眼差しながら、悠太は、質問の意味を理解しかねていた。

「不満? 別に不満なんかないけど?」

「顔に出てるわよ」

 あいにく、手鏡を持ち合わせていなかった。窓ガラスへ出向く必要もあるまい。そう考えた悠太は、適当に答えを返した。

「昨日、なかなか眠れなくてね。顔色が悪いんだろ」

「それは気付いてたわよ。目の下に隈ができてるもの」

 悠太は慌てて、自分の目元に触れた。

 マリアの視線を感じる。少年は隈を隠すように、そっと首の向きを変えた。

「まあ、いいわ」

 瑠香は会話を打ち切ると、デッサンを再開するため、キャンバスに向かった。

 その横で悠太は、もう一度マリアの素描に目を走らせた。不満。瑠香の指摘に暗示をかけられてしまったのか、絵の中の少女に、何か言いようのない違和感を覚え始めた。

「それじゃ、出てって」

 幼馴染みならではの、そっけない言い方。悠太は侮辱されたとも思わず、美術室を出ようと、キャンバスを離れた。

 とはいえ、少年に行くあてはなかった。夏休み初日を、意味もなく登校に費やしてしまっていた。そのことに対して、悠太は無性に腹が立ってきた。美術室でふたりに出会えたことが、唯一の僥倖だったのかもしれない。

 一旦うちへ帰ろうかと、悠太が入口を出たとき、背後から声が掛かった。

「ユウタ」

 マリアの声。悠太は上半身を屈め、頭を美術室へと押し込んだ。

「何?」

「ルカさん、今日は何時までですか?」

 会話の主体が突然切り替わり、瑠香は反応が遅れた。

「……あと一時間くらい、お願いできるかしら?」

 その答えに満足したのか、マリアは再び、言葉の宛先を戻した。

「ユウタ、一時間したら……いえ、九十分したら、商店街の本屋で会いましょう」

「本屋? ……何か探してるの?」

「日本語の教科書が欲しいです」

 悠太は、眉をひそめた。瑠香も同じ反応を示したことが、何となく伝わってきた。

「君の日本語は完璧だよ。今さら教科書なんて……」

「必要なのです。ですから、付き合ってください」

 付き合ってくださいという言い回しに、悠太は軽い感情の起伏を覚えた。気恥ずかしさに戸惑いつつも、首を縦に振った。

「いいよ、それじゃあ……」

 悠太は、腕時計に目をやった。針は、十時五分を指していた。

「十一時半に商店街の本屋だね。場所は大丈夫?」

 二の轍を踏まないように、悠太は店の位置を確認した。

「カラオケとケーキに挟まれた店です」

「オッケー、じゃ、また後で」

 悠太は、打ち合わせもそこそこに、扉を閉めた。キャンバスの向こう側に座っている瑠香から、妙なオーラを感じたのだ。デッサンの邪魔をしたせいかなと、そんな解釈に耽りながら、廊下の奥へと視線を伸ばした。

 生徒会室の灯りは、消えたままだ。グラウンドから聞こえる運動部の喚声が、蝉の鳴き声と相俟って、校舎の静けさに拍車をかけていた。

「先に行って、立ち読みでもするか……」

 そう呟き、悠太は階段を下りて行った。

 

 ✞

 

「いらっしゃいませ」

 入店の挨拶と、それに続く静寂。本屋特有に匂いが、悠太の鼻孔をくすぐった。

 地下一階、地上二階の比較的大きな書店だが、平日の昼間から本を物色する人間は少ないようだ。賑わっているのは、雑誌コーナーくらいのものである。

 悠太はとりあえず、店内をぶらつくことに決めた。スポーツ、園芸、歴史、情報処理、化学……テーマが堅くなってきたところで、少年は一枚のプレートに目を留めた。【外国語】と書かれたそれは、少年の網膜に、マリアの姿を投じた。

「……この店、日本語の教科書なんてあるのかな?」

 不安になった悠太は、目の前の棚を見上げた。すると驚いたことに、下三段を占める英語のテキストに続いて、日本語の教科書が丸々一段を占めていた。

 品揃えの豊富さに驚いた悠太だが、すぐさまその答えに思い当たった。この町には米軍基地があり、日本語学習の需要は、他都市と比べて大きいのだ。悠太の母親も、事務職の傍らで、日本語通訳を営んでいた。まさに、灯台下暗しであった。

 悠太は好奇心に駆られ、棚から適当に一冊取り出すと、ページをめくった。何の気なしに目を通す彼の顔が、曇り空に変わった。

「……ちょっと簡単過ぎるね」

 日本語の発音法、挨拶、ひらがなの書き方……マリアにとっては、必要のないレッスンであった。悠太は本を棚に戻し、次々と別の参考書を手に取った。

 そして、その全てに落胆した。

「ううん……」

 最後の一冊を閉じ、元の隙間に戻した。結局、マリアの語学力に適った本は、ひとつも見当たらなかった。

 店を間違えたのではないかと、悠太は軽い失望感に襲われた。もっとも、この本屋を指定したのはマリアなのだから、少年に過失はなかった。あとで店を変えようと心に決め、悠太は語学の棚を離れた。

 小説のコーナーを彷徨った挙げ句、たまには変わったものでも見てみようと思い、二階へ続く階段を上って行った。雑誌や小説、実用書が並べられている一階部分に対して、二階には、一般人がおいそれとは近付かない専門書が陳列されていた。

「ふぅ……」

 悠太が最後の一段を上り切ると、人のいない本だけの世界が、その全貌を露にした。自分が何をしに来たのかも分からぬまま、悠太は棚と棚の間を巡回し始めた。

 部屋の反対側に来たところで、階段を上がって来る足音が聞こえた。マリアだろうか。悠太は、腕時計を見た。十時四十五分。約束の時間ではなかった。

 勉強熱心な大学生だろうと、悠太は、見えない人影から意識を離脱させた。その拍子に彼は、目の前にある文学の棚の存在に気が付いた。研究書や詩集が並ぶ、特異な一角だ。

 そのまま通り過ぎようとしたところ、ふと一冊の本が、少年の目に留まった。

 黙示録。背表紙の文字に、悠太は襟元を引かれた。

「もく……じろく?」

 聞いたことのない単語だ。大方作者の造語だろうと、そんなことを考えながら、悠太は本を引っ張り出した。

 朽木アカネ。それが、作者の名前だった。

 悠太は無意識のうちに、適当なページを開いた。すると、軒下のつららを思わせる不揃いな文字列が、彼の目に飛び込んできた。

 

 脳のない子供たちが やわらかな手足をひろげ

 ホルマリンの海を 泳いでいる

 母の叫びを 子守唄に

 はじまりもしない時の流れを いつまでも いつまでも

 いつかあなたは気づくだろう

 彼らはひそかに 喜んでいるのだと

 ガラス越しに歪む このおぞましい生き物に

 自分たちが生まれなかったことを

 

「詩集か……ちょっと気持ち悪いな……」

「お褒めにあずかり光栄ね」

 悠太は悲鳴をこらえて、詩集を閉じた。振り向くと、そこには三十前後の女が、深紅の唇をにこやかに歪め、彼の顔をまじまじと覗き込んでいた。女性にしては背が高く、百七十二センチある悠太と同じか、それよりも少し高いくらいだった。切れ長の目に宿る光は、彼女の笑顔が作り物であることを、少年に教えてくれた。

「感想は?」

 女が放った質問を通じて、悠太は彼女の正体を悟った。

「朽木……アカネさん?」

 女はうっすらと笑い、肯定も否定もしなかった。

 しかし、このシチェーションでは疑いようもなかった。気持ち悪いと呟いてしまった手前、どう言い繕ったものかと、悠太は脳細胞を活性化させた。

 ニューロンの発火が完了する前に、朽木は唇を動かした。

「まあ、そんなことはどうでもいいわね、ユダくん」

 悠太の手から、詩集が滑り落ちた。本の角が床の上で、コンと軽い音を立てた。

 悠太は朽木を凝視したまま、一歩うしろに下がった。踵が在庫入れの引出しにぶつかり、逃げ場のないことを少年に伝えた。

「……ヨハネさん?」

 その一言に、女は仰々しく驚いてみせた。

「あら、ご明察」

「どうして僕のことを?」

「あなたは、どうして私がヨハネだって分かったの?」

 質問を質問で返すヨハネ。少年は先に、そちらの蹴りをつけようと思った。

「名前が似てるから……です」

「なるほどねえ……」

 ヨハネは体を引き、少年を重圧から解放した。

「それは偶然よ」

「偶然? どういう意味です?」

 ヨハネは、笑って答えない。下野と違い、現実と仮想空間との間で、二重人格を演じていないようだ。そう考えた悠太は、ヨハネのはぐらかすような振る舞いにも、自然と腹が立たなかった。それについては、使徒会議で慣れっこである。

「昨日は眠れなかったのかしら? 目が血走ってるわよ?」

 瑠香と同じことを指摘され、悠太は目元に触れた。同時に、自分が先ほどしでかした失態に気付き、青ざめた。急いで本を拾い上げ、袖口で砂埃を払った。

「す、すみません……」

「破れちゃったものは、仕方ないわ」

「え?」

 悠太は、本の端を注視した。紙の一部が、不格好に数ミリほど飛び出していた。どうやら閉じた拍子に、ページが破れてしまったらしい。

「か、買って弁償しますから……」

「いいのよ、本棚に戻しちゃいなさい」

 そう言って朽木は、少年から詩集を取り上げると、自分で棚に戻した。

「本にとって大事なのは、文字よ。買いたい人は、ページが破れてても買うわ」

 果たしてそうだろうか。平積みされた一番上の本はどれも、見本のような扱いを受けている。悠太は内心、朽木の理由付けに首を捻った。

 とはいえ、これで赦してくれるというのだから、逆らう理由などなかった。それよりも、もっと大事なことがあるのだ。

「ヨハネさんは、どうやって僕のことを?」

「それはヒ・ミ・ツ」

 下野と同じ台詞を聞かされ、少年は眉間に皺を寄せた。

 もう一度食って掛かろうとしたとき、誰かが二階に上がってきた。さすがの朽木も機敏に反応し、人差し指を唇を当ててウインクした。

「ちょっと場所を変えましょう」

「場所を変える? どこにですか?」

「もっと安全に話せるところよ」

 即諾しかけた悠太だが、マリアとの約束を思い出し、腕時計に目をやった。時刻は、十一時を回ったところだ。まだ余裕があった。

「三十分だけなら」

「あら、それだけ? せっかく会えたのに?」

「それ以上は時間が取れません」

 妥協を感じさせない強い語気で、少年はそう言い放った。

 朽木は肩をすくめ、やれやれと目線を上げた。

「分かったわ。それなら、隣のカラオケボックスにしましょう」

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