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 暑い日が続いていた。気まぐれに吹く風が、汗に湿った平戸の頬を撫でた。まだ火曜日だと言うのに、彼は酷い疲れを感じていた。既に週末ではないか。カレンダーを確認してみたものの、日付は無情に、足踏みを繰り返していた。

 下野洋助の死は、発表からわずか数日で、注目を失い始めていた。ネットでは、彼の演説動画が、再生数を伸ばしていると言う。平戸には、どうでもよい噂であった。

「それにしても暑いな……」

 これで何度目だろうか。分かり切ったことを呟きながら、平戸はビニール袋に入った餡パンを齧り、それを冷たい缶コーヒーで胃袋に流し込んだ。彼は今、瀬戸内海を見下ろす市立病院の屋上で、束の間の昼食を楽しんでいた。三十過ぎの気ままなひとり暮らしに、平戸が唯一感謝する時間帯であった。

「フゥ……」

 平戸は、飲み干した空き缶を、自分が腰掛けているコンクリートの座椅子に置いた。そして、胸ポケットに手を伸ばした。

「院内は禁煙だぞ」

 摘みかけていた煙草の箱を離し、平戸は左手の方を見やった。いつ現れたとも知れぬ白衣を着た眼鏡の男が、じっと平戸を睨んでいた。江東だった。

 江東は、屋上の入口から、強い日射の中へと歩を進めた。吹きつけた風に、白衣の裾がひらひらとはためいた。

「江東、もう終わったのか?」

 腰を上げかけた平戸に、江東は自分から歩み寄った。仕事開けで疲れているのか、江東の頬は痩けていた。お互い大変な職業を選んだものだと呆れながら、平戸は友人に、隣の席を勧めた。江東は黙って腰を下ろし、白衣のポケットに手を突っ込んだまま、空を見上げた。

「いい天気だなあ……」

「仕事なんかする日じゃねえよ」

 平戸は、ズボンのポケットに指を突っ込み、黒い手帳を取り出した。言動の自己矛盾に苦笑しながら、平戸はページをめくった。

「死因は、心不全で間違いなかったんだな?」

「ああ、死亡時刻は、金曜の二十三時から土曜の一時にかけて」

 あまりにも簡潔な回答。平戸は不満気な眼差しを、友人に投げ掛けた。

「解剖はできないのか?」

 江東は空を見上げたまま、首を左右に振った。

「無理だね。変死体でもないのに、許可が下りるわけないだろ。これでも、ずいぶん詳しく調べたんだぞ?」

 江東は、口を噤んだ。この話題を早く打ち切りたいという、疲労感の滲み出た声だった。

「そうか……サンキュ……」

 平戸は、手帳に挟んであった鉛筆で額を掻き、ページをもう一枚めくった。何か納得のいかないような顔で、彼は鉛筆をくるくると回す。江東は天蓋から視線を下ろし、昔馴染みの横顔にそれを移した。

「いったいどうしたんだ? 警察は、何か見つけたのか?」

「湯のみから指紋が出たんだ……下野と、もうひとりの分がな……」

「湯のみ? どっちの?」

「流しに置いてあった方だ」

 江東は右目を細めて、友人の手帳を盗み見ようとした。

 だが、メモは速記めいた書き方をされていて、まるで読み取ることができなかった。

「そりゃ、指紋くらいは出るだろうよ。持たなきゃ飲めないんだからな」

「誰の指紋かが分からない……」

「おまえは、下野の交友関係を、全部知ってるのか?」

 平戸は、首を左右に振った。それみろと言った顔で、江東は左手をポケットから抜き、猫背気味に右手と組み合わせた。もう事件は解決しただろう。そう言いたげな顔で、江東は友人を見つめ続けた。

 江東の猜疑心を他所に、平戸は、ぼそぼそと先を続けた。

「湯のみは二組あった。ひとつは応接間のテーブルの上、もうひとつは流しだ。テーブルの上にあった湯のみからは、下野の指紋だけが検出された。つまり、下野は自分でお茶を入れて、それを客に出したが、客は一度も触れなかったことになる」

 平戸は、そこで一旦言葉を切った。突っ込みが入ると思ったのである。出されたお茶を飲まなければならないという法律など、存在しない。

 けれども江東は黙って、平戸の状況説明に耳を傾けていた。

「流しにあった湯のみからも、下野の指紋が出た。だけどもうひとつ、得体の知れない指紋が見つかったんだ。そいつは……湯のみの片方にだけ残されていた」

「ちょっと待ってくれ」

 江東が、うんざりしたような声を上げた。彼はフレームの位置を調整しながら、平戸の話に註釈を入れた。

「要するに、今までの話をまとめると、土曜日の下野には、客がふたりいた。どちらにもお茶が出され、先に来た客はそれを飲んだが、後から来た客は飲まなかった。それだけの話だろ? どこに事件の匂いがするって言うんだ?」

 平戸は、手帳のあいだに挟まっていた紙切れを取り出し、それを友人に差し出した。江東は眼鏡をくいっと押し上げ、それに目を通した。その瞬間、金属とコンクリートのぶつかる乾いた音が、屋上に響き渡った。江東の右手が、コーヒーの空き缶を跳ね飛ばしたのだ。

「どうした?」

「い、いや、何でもない……」

 江東は視線を逸らし、空き缶を拾いに腰を上げた。

 その後ろ姿を見て、平戸は心配そうに声をかけた。

「おまえ、疲れてるんじゃないか?」

「ああ……最近忙しくてな……」

 背を向けたまま、江東はそう答えた。空き缶を拾い上げ、白衣のポケットにそのまま押し込んだ。申し訳ない気分になった平戸を無視して、江東は再び座り直した。彼の目は、遠くの入道雲を見つめていた。

 昼休みに押しかけたのは悪かったかと、平戸は先ほどのメモを引っ込めた。

 

  カミサマ倶楽部 目指せ七人 ×カリヤユウタ

 

 何度読んでも分からないそのメモを、平戸は手帳に仕舞い込んだ。

 その横で、江東はふいに口を開いた。

「それが不審な点なのか?」

 関心を示した江東に、平戸は何とも言えぬ表情で頷き返した。

「下野の事務所で見つけたんだ」

「下野の事務所で……」

 江東はふらふらと立ち上がり、屋上の入口へと向かった。あっけにとられた平戸は、手帳をポケットに戻そうと悪戦苦闘しながら、友人の背中に声を掛けた。

「マジで悪かったな。体に気をつけろよ」

「袖夫もな」

 江東は背中越しにそう答え、薄暗い院内へと姿を消して行った。

 無限に広がる大空の下に、平戸だけが残された。平戸は、額の汗を拭った。

「医者も大変だな……」

 そう呟いた平戸は、ぼんやりと空を見上げた。一羽の鳶が、空高く舞っていた。あんな風に暮らしてみたいもんだと思った矢先、平戸のポケットが揺れた。

 電話だ。平戸は携帯を取り出し、通話ボタンを押した。

「もしもし? 平戸だ」

 平戸は名前を告げた。すると相手も、同じように名乗り返してきた。

 後輩の刑事だった。何か分かったのかと、平戸の緊張が高まった。

「どうした?」

《例の名前の件なんですけど》

 男の間延びした声に、平戸は息を呑んだ。

「ちょっと待て」

 平戸は、慌ててポケットをまさぐった。仕舞ったばかりの手帳を引き抜き、頬と肩で携帯を支えながら、鉛筆を構えた。

「いいぞ」

《カリヤユウタって人、偽名でも何でもなく、普通に見つかりましたよ》

「やっぱり前科持ちか?」

《違いますね》

 電話の相手は、平戸の考えを即座に否定した。自分の推理が外れ、刑事は肩を落とした。その拍子に滑りかけた携帯を、ギリギリのところで受け止めて、平戸は後輩に先を促した。

「じゃあ誰だ? ブラック企業の社長か? それとも構成員?」

 当てずっぽうにまくし立てたところへ、意外な答えが返ってきた。

《地元の高校生ですよ》

「高校生……?」

 平戸は手帳を握り締め、眼球をぎょろりと回した。

 馬鹿な。それは俺が追っている相手じゃない。平戸は心の中で、そう叫んだ。

 けれどもすぐさま、別の可能性に思い当たった。

「そいつ、クスリの前科があるんじゃないのか?」

《さっき言ったじゃないですか。前科なし。補導歴もなし。極普通の高校生みたいですね》

「いや、クスリってのは、そういう真面目っぽい奴の方が……」

 その瞬間、電波の向こうから、深い溜め息が聞こえた。

 平戸も、舌の動きを止めた。

《先輩、そんなに気になるんなら、自分で調べてくださいよ。こっちは署の記録を照合するだけで手一杯なんですから。病死で片付けられた事件をほじくり返すなんて、あとで上から何言われても知りませんよ。少しは俺の身にもなってください》

「そ、そうだな……」

 愚痴とも忠告ともつかぬ後輩の言葉に、平戸は声を落とした。確かに、深入りする理由はないのだ。マスコミも病死と発表し、その報道は、医学的根拠にもとづいていた。

 けれども平戸は、下野の死の裏に、何かを嗅ぎ付けていた。そしてそれは、尋常な舞台裏でないはずだと、長年培ってきた勘が囁いていた。

 とはいえ、後輩をこれ以上こき使うわけにもいかない。平戸は、携帯を顎で支え直した。

「分かった、サンキュ。あとは俺がやる」

《気をつけてくださいよ。うちだって、暇じゃないんですから》

 分かった分かったと、見えもしないのに頷き返し、平戸は電話を切った。右手に携帯を、左手に手帳を握り締め、平戸は屋上から遠景を望んだ。蝉の声が聞こえる中、平戸は、自分がかつて通っていた高校を思い出していた。町はすっかり様変わりしたというのに、校舎も旧友も恩師も、全てがあのときのまま、平戸の記憶の中でセピア色に息づいていた。

 毒喰わば皿までだ。そう考えながら、平戸は屋上をあとにした。

 

 ✞

 

「江東先生、こんにちは」

 廊下ですれ違った老婆が、かしいだ腰を折り曲げて、白衣の男に頭を下げた。

 江東は、にこやかな笑顔を見せて、挨拶を返した。

「こんにちは」

 頭を垂れ続ける老婆の横を、江東は颯爽と通り過ぎた。炎天下の屋上を去った彼は、院内の快適な空気に身を委ねていた。辺りに漂う薬品の匂いも、今や生活臭の一部であった。

 リノリウム貼りの廊下を進むと、さらに数人の患者たちとすれ違った。江東に挨拶する者、無視して通り過ぎる者、体調が悪そうに顔をしかめている者など、彼らの態度は千差万別であった。

 入患のフロアを通り抜けて、診察室へ差し掛かると、人気も少なくなり、ついには江東ひとりになった。彼は速度を落とし、やや青ざめた顔で、唇を動かした。

「カリヤユウタ……ユウタ……」

 そして、歩を止めた。

「……ユダ」

 江東は、首を左右に振った。

「偶然だろ」

 カリヤユウタなる人物を忘れ去るため、江東は診察室に戻った。シフトは入っていないものの、やり残した仕事があった。江東は机に向かい、右端に積まれたカルテを開くと、万年筆で空欄を埋める作業に取りかかった。

 自分にしか読めない筆記体で、さらさらとドイツ語を書き込んでいく江東。そこへ、ノックの音が聞こえた。江東はカルテから顔を上げ、入口を振り返った。カレンダーに目をやり、アッと頭に手を当てた。約束があったのだ。

 江東は腰を上げ、急いでドアノブを回した。艶やかな黒のロングヘアーに、清潔なシャツと灰色のスカートを纏った若い女性が、扉の向こう側に現れた。女は、茶色い革鞄を腰の前に添え、ぺこりと頭を下げた。

「江東先生、お世話になっております。昨日お電話を差し上げた、長谷川と申します」

「お待ちしてました、どうぞ」

 江東は、長谷川と名乗った女に席を勧め、自分も机についた。本来ならば患者の座る椅子なのだが、長谷川は全く気にしていないようであった。

 江東はカルテを閉じ、長谷川に向き直ると、早速本題に入った。

「先日ご相談した件ですが、入手できそうですか?」

「はい、その件ですが……」

 長谷川は、持っていた鞄から、分厚いカタログを取り出すと、付箋の貼ってあるページを開き、それを江東の方へ差し出した。江東は椅子のキャスターを回し、そのページを覗き込んだ。医療器具を写し出す様々な写真のひとつに、江東の希望するものはあった。

「このタイプでよろしいでしょうか?」

 長谷川は、商品欄に書かれている型番を読み上げた。

 江東は抜群の記憶力で、その番号を同定した。

「そうですね」

「分かりました。ご確認、ありがとうございます」

 長谷川はカタログを閉じ、それを膝の上に置いた。彼女は、営業スマイルと戸惑いの入り交じった顔で、江東を見つめ返してきた。買い手がそれでよいと言っているのに、なぜ売り手が困るのだろうか。江東は、彼女の唇が動くのを待った。

「……大変申し上げにくいのですが、この生命維持装置は最新のものでして、アメリカから直輸入になるかと存じます。日本でも、まだほとんど普及しておりません……」

 そこで、長谷川は言葉を濁した。彼女が何を言わんとしているのか、江東にははっきりと分かった。金があるかどうか。それを訊いているのだ。

 実際この病院は、決して裕福ではない。施設のあちこちが傷んでおり、区域によっては、工事現場と見紛うような剥き出しの配管が、ごろごろしているのだ。医療器具メーカーに勤めている長谷川が、資金の出所を訝しがるのも、無理はなかった。

 彼女の疑心を読み取った江東は、穏やかに答えを返した。

「代金の件でしたら、ご安心ください。一括でお支払い致します」

 江東の返事に、長谷川は目を見張った。接客中に心情が出てしまうあたり、まだまだ新米だなと思いつつ、江東は先を続けた。

「そもそもこれは、病院の経費で購入するものではないのです。ある患者のご両親から寄付がありまして、ぜひこの機材を使って欲しいとの要望がありました。その寄付金につきましては、税務処理も含めて、手続を始めています。ですから、安心して納品してください」

 長谷川の顔が、パッと明るくなった。無理もない。若い彼女にとって、これは相当な大口契約になるはずだ。江東は彼女の中に、自分がこの病院に配属されたときの、瑞々しい喜びを垣間みたような気がした。

 長谷川は何度も頭を下げ、それから席を立った。江東も、それに合わせた。

「では、そのように上司に報告致します。正式な契約書を用意致しますので、その雛形をPDFで送らせていただき、その後にサインを頂戴することになるかと」

「分かりました。お待ちしてます」

 そこまで言って、江東はあることに気付いた。

 長谷川と対面で会うのはこれが初めてであり、名刺を交換した記憶がない。江東は、机の片隅に置いてある名刺入れを探し出し、中から一枚取り出した。その動作を見た長谷川も、慌てて鞄から自分の名刺を引っ張り出した。

「契約書のサンプルは、こちらへお送りください」

 江東が先に、名刺を手渡した。英字で書かれたシンプルなデザイン。

 長谷川は恭しくそれを受け取ったあと、今度は自分の名刺を差し出した。

「これからも、よろしくお願い致します」

 江東は両手で丁寧に名刺を受け取り、可愛らしい花柄の枠に囲まれた名前を読み上げた。

「長谷川……円子……」

 江東は、さん付けも忘れて、長谷川の名前を音読した。沈黙。ハッと我に返って顔を上げると、長谷川が驚いたような顔で、彼を見つめていた。

 江東はその表情に、呼び捨てにされた戸惑い以外の何かを感じ取った気がした。

「あ、すみません……知り合いの名前に似ていたもので……」

 江東は名刺を持ったまま、自分でもよく分からない言い訳を口にした。

 その場を取り繕うと思ったのか、長谷川も江東の名前を読み上げた。

「江東潤さんですが……カッコいい名前ですね」

 意味の分からない会話に陥り、江東は諦めたように合いの手を入れた。

「名前にカッコいいも何もありませんよ……」

 ふたりの目が合った。突然、長谷川が笑い始めた。

「ウフフ……」

 何がおかしいのだろうか。

 だが、江東の口元もまた、長谷川の乾いた笑いに釣られて、引きつっていった。

「ハハ……ハハハッ」

 口元に手を当てて笑う長谷川と、名刺を持ったまま猫背気味に笑う江東。

 不気味な哄笑が、窓から差し込む真夏の日差しに溶けては、消えていった。

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