桧毬の考え方
朝日を浴びて、目を覚ました桧毬は、あくびよりも先に流れている涙を拭き取った。
「じい様……」
今日も夢の中で、一番の人が、ヒマリ時代の好物である芋蔓を手にして、ヒマリを呼んでいた。
「待ってて、じい様。もう少しで会えるのだ」
桧毬はベッドから降りた。真っ白いワンピースがひらりと揺れる。しわ一つないのは、特殊な体と同じ効果があるのだろう。
記憶を改ざんさせ、隣の娘になった桧毬が使う部屋には、ベッドやタンス。人間が使う家具一式が揃っていた。
もちろん、桧毬が闇の力を利用して買わせたわけではなく、本当の子供が使用していたのだろう。青や黒の配色が多い所から習字好きの老夫婦には息子がいるらしい。
帰ってくる様子はなく、桧毬の一人娘生活は平穏である。
「エギュラメ様は、手紙を届けたら、じい様の所に行けるようにしてくれると約束してくれたのだ」
桧毬は窓を開けて空を見上げる。雲一つない青空は、まるで見えない世界まで繋がっているように思えた。
「もう少しなのだ」
休みの日曜日。エギュラメからの連絡はなく。文也も修二も動く様子はない。
桧毬は軽々とベランダを飛び越えた。隣ではなく、庭に。
「もう、来ないと決めていたはずなのにな」
桧毬の足はマンションの前で止まった。桧毬はマンションを見ているが、心の目は二度と目にすることはない懐かしい家を見ていた。
「大好きなじい様がいて、ヒマリの小屋があって。たまに紙を手にした小童が来て。屋敷にはヒマリの全てがあった。
青い空に、涼しかったり冷たかったりした風が吹いて、暖かかったり、ギラギラした太陽があって。
じい様や息子の英治だけじゃなくて、ばあ様や豆腐屋のオヤジとか。皆、笑ったりしてて、それを見るのが楽しかったな。
人の姿になって、色々な物があるのを知った。たい焼きやクレープとか、電車とか。家の外には、ヒマリの知らない物がたくさん。
でも、その他の物なんて必要ない。ヒマリの小屋から見える物だけで十分なのだ」
風が桧毬のツインテールの黒髪を揺らしていった。
「桧毬は十分なのだ。じい様が言っていたクレープという物を食べて、あの時の小童たちが大きくなっていて。でも、中身は変わらなくて。
もう、ヒマリの全てだった場所が跡形もなく消えていて。もう、十分なのだ。
小童たち、文也は10年待たした返事を書けるようになって。修二は……相変わらず立ったけれども、大丈夫、だと思う。
その他に何も望むものなんてない。
だから、もう、十分なのだ」
それが元白ヤギ桧毬の考えだった。
桧毬は変わり果てた建物を見上げて、見納めることにした。
「桧毬は、じい様の所に帰るのだ」
背を向けて歩き出し、真っ直ぐ歩き出そうとした桧毬は、誰かに呼ばれ振り返ってしまった。




