幽霊マリカは薔薇を噛む
僕の住むN町には、十年前から十七歳の女の子の幽霊が、普通の人たちと同じ様に住んでいる。
彼女は町で行われる『いまわさん』という風習で幽霊になった女の子だ。
美少女だけど怠け者の性悪で、高校も留年十年目を迎えている。
僕は、そんなマリカが大嫌いで避け続けていた。町を出て行こうと思うほどに。
しかし、彼女と同じ歳になり、クラスメイトになった年、僕は彼女を学校へ登校させるよう、大好きな担任の先生から頼まれてしまった。
どう接すればいいか分からない僕と、どうしようもない幽霊マリカの攻防戦が始まる。
セーラー服のスカートを抓み、捲って中身を見せようとしてきた時から、僕はマリカが大嫌いだ。
まだ小学生だった僕に、あんなの見せるなんて立派な犯罪行為だ。
マリカが幽霊じゃなければ通報してやれたのに。
真昼の陽光が、真っ白な太股の隙間から光彩陸離に放たれていた。
目を丸くする僕に、マリカは凄まじく印象的に瞳を輝かせて、嗤った。すると、真珠の艶が一粒灯った唇の隙間から、薔薇色の花弁がはらりはらりと零れ落ちたんだ。
舌を噛んで落とした。
僕はそう思って驚愕し、悲鳴を上げて逃げ出した。
「ふへ、ふわわ、ゲホォ、ちょい、ちょっとまってよー!」
背後でマリカが唾を吐く音と、呼び止めようとする声が聞こえていたけれど、僕は振り向かなかった。
あの後、泣いて怯える僕に、誰かが笑って教えてくれたっけ。
「それは舌じゃないよ。マリカは、言ってはいけない事を言おうとすると、花弁を吐くんだ」
それを聞いて、余計に腹がたった。
言ってはいけない事?
どうせ僕を蔑もうとしたに決まってる。だから花弁なんか吐いたんだ。
僕は高校生になっても、あの衝撃から逃れられない。
そのせいで、女の子にときめく事が出来ない。テレビで見る可愛いアイドルや綺麗な女優にもだ。
誰もマリカみたいに笑えない。
あの瞳の輝き、あの唇の歪み……あの時の事を思い出すと居たたまれなくて、どうしようもなく穢れてしまった気がして、焼かれて灰になってしまいたくなる。天国へ行く前に穢れを焼く炎を、なんというのだっけ。
首を傾げる僕の脳裏で、マリカの太股を覆う微細な産毛が輝き、炎の様に揺らめきたつ。
――煉獄。罪を焼く煉獄の炎だ……。
あんなにも邪な所で揺らめき薫る炎から、答えを導き出して頬の内側を噛む。情けなくて、パチンと弾けて消えてしまいたい。
クソ、クソ、マリカなんか大嫌いだ。
◆ ◆ ◆
僕の暮らすN町には十年ほど前から、マリカという名の十七歳の幽霊がいる。
彼女は可憐な姿をしている。しかし、日本人離れした大きな瞳は本性を隠さず、苛烈な程の引力を持っている。軽やかな二本の足取りは、幽霊というよりかは妖精めいていて、ポニーテールを快活に揺らす様には陰気さが未仁もない。
そんな彼女を町の人々は誰一人、怖がりも嫌がりもしない。
何故かというと、その風貌もさることながら、N町には死んだ者を幽霊にする『いまわさん』という風習が昔からごく日常の中にあって、それは異常な事でも恐ろしい事でも無い、と、信じられてきたからだ。
『いまわさん』は、葬式中に準備さえ整っていれば、誰でも行える。
作法の詳細はひとまず置いておいて、かく言う僕も両親が揃って亡くなった時、『いまわさん』をした。中学に上がったばかりの頃だった。
その時僕は、線香の匂いがこもる和室で、茫然としていた。
両親を失った事が突然過ぎて、人形みたいになっていたんだ。
そんな僕に、町で一番年寄りの婆さんが寄り添い、小さな小石を手渡した。町の人達が唯一信仰を寄せている神社から、『いまわさん』用に貰える神聖な小石だ。
婆さんはしゃがれ声で囁いた。
「いいか、ミヤビ。『いまわさん』は、ほとんど成功しない」
僕は素直に頷いた。N町に幽霊はマリカしか存在しなかったし、身近で成功したという話を聞いた事がなかったからだ。
自分の祖父母も、川遊び中流されてしまったナッちゃんも、林業中に事故に遭った三つ隣の家のおじさんも、『いまわさん』で幽霊にならなかった。婆さんだって、孫を幽霊に出来なかった。
「わかってるよ」
そう短く答えて『いまわさん』をする為、両親の棺をそれぞれ覗き込む。
なんでわざわざガッカリする様な事をするのだろう。成功しなかったら、ただ悲しいだけじゃないか。
――ああ、それでも。
その時僕は、生き生きとした幽霊のマリカを思い浮かべていた。
一筋の光の様に。
――お願いします。叶わなくとも。
『いまわさん』用の小石を、両親の胸元にそっと置く。
――父さん、母さん、離れたくないよ。
『いまわさん』は、僕の思慕を死者へ、僕には現実を拒む心に、むき出しの哀悼の念を与えた。
きっと『いまわさん』は、死者を惜しむ儀式……いや、祈りなのだろうと、感じた。だから町のほとんどの人がやるのだろう、と。
結局、僕の両親は『いまわさん』で幽霊にならなかった。
しかし、僕にもたらされたのは落胆ではなかった。僕は、ようやく本当の諦めがついて、ワンワン声を上げて泣いたのだった。
今も誰かの葬式で『いまわさん』は行われている。
彼らもマリカの事を、ふ、と思い浮かべたりするのだろうか。
そして二度死に殴られて、現実に引き戻された時。
たどり着けない場所を見る様な、そんな憧憬の眼差しでマリカを見る事になるのだろう。
さて、こんな話をすると、ネット怪談に出て来そうな、変わった風習のある僻地の村や集落を思い浮かべられそうで不本意なんだけど……そのまま過ぎて否定出来ない。最近まではN村だったし。
でも、ガチガチのガチもんであるこの町は、不思議と公になった事がない。
町は平和でほのぼのしているし、幽霊のマリカは町の人以外に見えないからだ。
見えたとしたって、その辺の野原や土手で酒飲んで枝豆食べたり、ヘソ出して昼寝しているだけだし。
悪さもしない。「アイスキャンディをベロベロ舐めるところ見せてやるから、奢ってくれ」と中学生相手に下らない誘惑兼恐喝をしたり、他人の畑の果実を勝手に齧ってしまうくらいはするけど。
それに、誰も真実には興味なんてないのだと思う。
そういう訳で、N町は好奇心の的にならない。そして町の誰もが、しょうがない不良娘だと言う風に、マリカを見守っているのだった。
けれど、僕はあれ以来マリカとの接触を極力避けている。
あんな自堕落で破廉恥な幽霊に、健全な男子高校生が自ら関わりに行くなど、あってはならない。
そんな高潔な僕が、狭い田舎でマリカを避けるのは、大変な事だった。
特に、最近町に一軒だけ出来たコンビニでの遭遇率が高くて、僕を死ぬほど悩ませていた。
マリカは大抵立ち読みをしているから、外からマリカの姿がないのを確認して店に入る。すると、栄養ドリンクの棚の向こうからポニーテールを揺らし、ヒョイと現れたりするので心臓に悪い。
「お、ミヤビじゃん。来年から私と同じ三年生でちゅね。大きくなりまちたねぇ。結婚ちてあげまちょうか?」
田舎は個人情報が筒抜けだ。だからこそ、マリカは僕の名前を憶えているのだろうけれど。
「……うるさい、万年留年幽霊。いつまで女子高生してるんだよ」
「まだ十年目よぉ。学校なんかクソだもん、行かねー。それよりミヤビたん、大きくなって下の毛は生えまちたか?」
オッサンみたいな汚い絡み方をしてくる。この美少女の唇から「下の毛」とか発せられるなんて、悪夢だ。
「な、なに言ってんだ、あっちいけ」
「アラアラ、その反応じゃまだ産毛かしら?」
「だま……黙れ!!」
「図星ー?」
マリカがゲラゲラ笑って、僕の頬を摘まんだ。
彼女の大きな瞳に、慌てふためく僕の間抜けな顏が映っている。
マリカは僕を、その辺のバッタか何かと同じに思っているに違いない。
僕はオモチャじゃない。悔しくて情けなくて、逃げたい。
――高校卒業を機に、絶対この町を出るんだ。マリカのいない都会へ。
町の外には、僕の胸を健全にときめかせてくれる素敵な女性がいるに違いない。
マリカなんぞに翻弄され、蠱惑的な夢を見て絶望するのは、それまでの我慢だ。
◆
一クラスしかない三年生の担任は、鮎川希美先生に決まった。
鮎川先生は三十代後半の、僕の大好きな先生だ。
僕は頬を上気させて喜んだ。
先生は、家が近い事もあって僕が小さい頃から可愛がってくれたし、両親を亡くしてからは、何かと気に掛け、世話をしてくた本当に優しい人だ。
心ない生徒からは「お化け」とあだ名を付けられる様な容姿だけれど、僕は鮎川先生を見ていると母親のぬくもりを思い出すし、「人は見た目じゃない」と思える。
そしてそう思う度、「見た目が良くても中身が駄目なら駄目なんだぞ」と、復讐のようにマリカを思い浮かべていた。
僕は大好きな先生の為に、うんと良い生徒になろうと思った。
だから、校庭に咲き乱れる桜よりも意気揚々とした気分で、先生に宣言したんだ。
「一年間お世話になります。先生の頼みなら、力仕事でもなんでもやりますので任せてくださいね!」
先生は長く油っぽい前髪の向こうで、細い目を更に細めた。
「まぁ。ミヤビ君、ありがとう。本当に?」
「もちろんです。先生にはたくさんお世話になっているので」
僕は胸を張った。先生に恩返しをするつもりだった。そして、僕が町を出た後も、僕の事を覚えていて欲しかった。
「じゃあ……マリカさんが十年間、出席日数が足らずに留年をしているから、学校に誘ってあげて?」
「え」
「先生、元々余所から来たから、マリカさんの姿が見えないの」
「えぇ」
「先生ね……マリカさんの担任だったから、ずっと気にしているの。転勤しないように粘って……でももう、来年で転勤になるのよ……」
そんな寂しい事を言われたら、引き受けるしかない。
下校チャイムが、試合開始とでも言うように鳴り始めた。
脳裏で、マリカが薔薇色の舌を「べぇ」と出す。
……あんな悪霊、どうやって学校へ連れてこればいいんだ?





