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婚約者が悪役で困ってます  作者: 散茶
エミーリアの日記
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エミーリアの日記16


己の口の悪さをこれほど呪った瞬間があっただろうか。

手を縛られ、猿ぐつわをかまされた私は、アデリナの手下になかば引きずられるように森の奥へと進んでいた。

どうにかして逃げられないだろうかと頭を巡らせるが良い策は思いつかず、ただただ口が悪い己を呪う気持ちしか湧いてこない。

いまさら冷静になって思うのだが、嘘でも黙っていると言って上手いこと逃げ出せばよかったのではないだろうか。なぜこうも思ったことがすぐ口から飛び出すのか。なぜ私はこれまでの失敗から学習しないのか。だって仕方ないじゃないか、コミュ障だもの。人間だものみたいに言うな。相田みつをに謝れ。

いや、そもそもアデリナの要求を呑んだところで、こうなる未来は回避できなかったかもしれない。

どのみちそんなことは、今考えるだけ無駄だ。

大事なのはどうやってこの局面を切り抜けるかである。

今頃、ルーカスは戻らない私を探していることだろう。

クレイグのことは心配ではあるが、奴は奴で上手く立ち回るはずだ。証拠はないが、そういう奴だという確信だけはある。

とにかくこのまま殺されるのだけはごめんだ。

というか私まで殺すとか、アデリナの奴、正気か?王妃にさえなれればなんとかなるとでも思っているのだろうか。

しかし私が居なくなったところで、レトガー家が仇を討ってくれるかと言うと微妙なラインだ。むしろ親戚同士の凄惨な事件を揉み消す方向に動きそうな気すらする。なにせ私は処分に困る厄介者だ。

だからといって、このまま闇に葬られるわけにはいかない。

むしろアデリナが私を殺そうとしたこと、それこそがケーキに毒を入れた証拠になるはずだ。

夜の森は湖から発生した霧がうっすらと立ち込め、視界は悪い。

不気味な闇の奥で、鳥が羽ばたく音だけが嫌に響く。

前方に急斜面が現れ、男たちはどちらへ迂回するかで少しだけ揉めた。

彼らの呼気は荒い。きっとこういうことに慣れていないのだ。

爪先が出っ張った木の根に引っかかって、私は大きく前につんのめった。

突然力が抜けて倒れ込みかけた私に、右側の腕を掴んでいた男が驚いて声をあげる。

「おい、しっかり歩け!」

腕の拘束がわずかに緩む。

私は膝から完全に力を抜き、頭のてっぺんから地面に倒れ、ぐるんっと勢いのままに転がった。

「うおっ!?」

まごうことなき前転である。

小学校の体育の授業がこんなところで活かされるとは、きっと教えてくれた先生は夢にも思っていなかっただろう。

自由の身になった私は、前転から崩れたよくわからない体勢でゴロゴロと急斜面へと転がり出た。

ドッと体が地面に叩きつけられて、視界がぐるぐると回る。

右も左も、上も下もわからなくなって、顔に飛び散る土に目を開けていられない。想像以上に斜面は長く急だったようで、私はどこまでも転がっていった。

途中何度か木にぶつかって、最後は平らな地面、崖の底へと叩きつけられた。

「んぐっ……!?」

は、吐きそう。

というか、吐く。

心臓が破れたんじゃないかってくらい痛い。

しかし幸いなことに転がっている最中いろんなものにぶつかったり引っかかったおかげで、猿ぐつわが首にずり落ちていた。

ペッペッと口内の土を吐き出しつつ、むちゃくちゃに地面を蹴って立ち上がった。

ああ、もう、スカートが邪魔すぎる!

「クソッ!どこに行きやがった!」

追手が斜面を滑り降りてくる音がする。

私は力いっぱい叫んだ。

「ルーカス!!」

どうしてそうしようと思ったのかはわからない。

わざわざ追手に自分の居場所を教えるなんて馬鹿な行為だとも思った。

けれど、ルーカスはきっと私を探している。

そしてきっとこの声に気づいてくれる。

だって彼は言ってくれたのだ。

何があっても私を守ると。

守り抜いて見せると。

「ルーカス!!」

体中の空気を吐きつくした肺がぺちゃんこになる。

心臓が痛くて今にも止まりそうだ。

喉から血の味がした。

泥の中で必死にあがくみたいに、全身を振り回して私は逃げた。

追手の気配がすぐそこまで来ている。


ルーカス。

私はここにいる。

お願い。

お願い!

お願い……!


「この……!」

髪の毛を後ろから掴まれ、首がグンッと折れ曲がった。

「……カッ……!」

ルーカスと叫びたいのに、もう声が出ない。

それでも私は諦めていなかった。

振り向きざまに肘でぶん殴ってやると燃えたぎる闘志に歯を食いしばった時だった。

「エミーリア!」

追手のわき腹へ黒い影が飛び込み、その体を吹き飛ばした。

「よくもこの人に触れたな!」

空気がビリビリと震えそうな怒鳴り声は、間違えようもない。

ルーカスだ。

「ルーカス……!」

私はもうほとんど囁き声みたいなカスカスの声で彼の名を呼んだけれど、もみ合っている彼らには聞こえていなかった。

小柄な影が、倒れ込んだ追手の背へ素早く回る。

その手が信じられない早業で追手の顎を掴む。

まさか……!

「駄目!やめて……!」

そう私が叫ぶのと、暗闇にゴキンと骨の砕ける音が響いたのは同時だった。





「とにかく無理をなさらないことが一番です。……療養をなさるなら、よい場所を紹介しましょう」

擦り傷と打ち身だらけの私に、医者が静かにそう告げた。

命からがら助かったというのに、これじゃあまるでお葬式だ。

「……はい。ありがとうございます」

天井を見上げたまま力なく答える私に、医者は静かに頭を下げて部屋を出ていった。

入れ違いに入ってきたルーカスが、ベッド脇の椅子に腰かける。

私を見つめる彼は、笑ってしまうくらいに酷い顔をしていた。

「どうしてこんな無茶をしたんだ」

普段からは想像もできないほど冷たい怒りを孕んだ声だった。

「ごめんなさい」

「謝ったって許さない。クレイグが君が攫われたって教えてくれなかったら、どうなっていたことか」

「クレイグが?」

てっきりクレイグも捕まったものと思っていたが。

ルーカスはこみ上げる怒りを必死に抑えて、淡々と言葉を重ねた。

「どうして僕じゃなくて、あんな役立たずを連れて行ったんだ。あなたは強いつもりでいるかもしれないし、僕はそんなあなたが好きだけど、命知らずにもほどがある」

「ごめん」

「そうやって謝れば僕がなんでも許すと思っているんだ」

「……うん。ごめん」

はぁああと深いため息とともに項垂れ、ルーカスは私の手を握りしめた。そして祈りをささげるみたいに額をつけて、深呼吸を繰り返す。

私の手を握りしめる彼の両手を見つめ、私は口の中に苦いものが広がっていくのを感じた。


暗い森にいまだ転がる二つの死体のことを考える。

私は私のために、彼に人殺しをさせてしまった。

絵を描くための彼の手を、人殺しに使わせてしまった。


「全部私のせいね」

ぽつりと呟くと、重たい前髪の隙間からルーカスの黒い瞳がこちらを見る。

酷い顔色も相まって、まるで死人に見つめられているみたいだ。

「ルーシェのことも、あなたにあんなことをさせたことも」

「……そうかもしれないね。でも、きっかけはエミーリアだったとしても、恋に落ちたのはルーシェの意思だよ。僕があいつらを殺したのも、僕の意思だ」

「でもそれは本来のすがたじゃない」

私が干渉しなければルーシェはフリッツ殿下と恋に落ちず、毒で倒れることもなかったのに。

ルーカスはレトガー家から逃れて、絵の道へと進んでいた。そして初恋の人と出会って、別れて、それでも絵を描き続けて、いつか本当に彼を癒してくれる人と出会えたかもしれないのに。

「ごめんね」

自然と涙があふれた。

熱い涙が次から次へと目尻からこぼれて、喉が震える。

「……ごめんね、ルーカス」

ぎょっとルーカスが目を剥く。

彼は私の涙を優しく拭い、口元だけで不器用に笑ってみせた。

私には笑いかけてもらえる資格なんてないのに。

だって私はこれからもっと彼を傷つけることになるのだから。



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