幕間あるいは小休憩
「疲れた」
僕は劣化して黄色くなった紙面から顔を上げた。
インクで書かれた文字の残像が雪のように儚く溶けて消える。
「疲れたねぇ」
両手で頬杖をついたリジィはなぜかニコニコ笑っている。
「何かいいことでもあった?」
「ベルンが真剣にお母さんのことを知ろうとしているから、ちょっと嬉しくなっちゃった」
なぜそれでリジィが嬉しくなるのだろう。わからない。
首をかしげる僕に、彼女はふふふと笑みを深めた。
ますますわからなくなるのだが、可愛いのでまぁいいかという気持ちになる。彼女が嬉しそうに笑っているなら、僕の世界はいつだって万事問題なしなのだ。
それから僕らは、僕の休憩がてら日記の内容について語り合った。
フリッツ殿下とルーシェを近づけることに成功したエミーリアは、ルーカスとともにより二人を近づけるために様々な企てを実行に移していった。
殿下に執心しているテアやアデリナたちの目から上手いこと二人を隠しているので、無粋な横やりも入ることなく、二人は急速に惹かれ合い、恋人同士になるのも時間の問題だと思われた。
けれど二人の仲を取り持とうとエミーリアたちが画策していることに、唯一気が付いた人物がいた。
クレイグ・ブルンスマイヤー。
僕の父だ。
殿下とルーシェの関係、エミーリアの目的を知った彼は、意外なことに協力を申し出た。
理由は面白そうだからという、なんとも信用ならないものだったが、彼はいたって真面目に手伝いをしたという。
ちなみにクレイグがプレイボーイで、エミーリアにちょっかいをかけていたと知った時は、少々複雑な気持ちになったと言わざるを得ない。
若い頃は少々女遊びが激しかったとは噂に聞いたことはあったが、まさかここまで軽薄な男だったとは。
もともと特別に尊敬していたわけでもないのだが、それでも案外ショックを受けたりもする。
ただ、エミーリアが記した若い父の姿は、僕の知る父よりもずっと楽しそうだなとは思った。
「とりあえず三日目から五日目までは、クレイグも巻き込んで創意工夫してフリッツ殿下とルーシェを恋仲にすることに成功した、と」
「ボートのくだりとか私爆笑しちゃったよ!」
ページを行きつ戻りつしながら、リジィはほらここと指差す。
流し読みしていたので、改めて目を通すと以下のようなことが書いてあった。
湖があって、良い感じの男女がいて、どうしてボートに乗らないだろうか?いや乗る。どこかの著名な池では、ボートに一緒に乗った男女は別れるという有名な話があるが、湖だしたぶん大丈夫だろう。
とはいえ、こっそりボートに乗せるというのは難しい。
人目はどうしてもあるし。
なので殿下にはクレイグの服を、ルーシェには私の服を着せて、顔を隠してボートに乗ってもらうことにした。これでボートに乗っているのは、私とクレイグということになるだろう。
ルーカスは「僕よりも先に、クレイグがエミーリアとボートに乗ったことになっちゃうじゃないか!乗ってないけど!乗ってないけどさ!」と悔しくて泣いていた。クレイグは最近ルーカスをいじめる楽しみを覚えたようで、私そっちのけで二人は喧嘩をしていた。馬鹿な奴らだ。
「悔しがって地団駄を踏むルーカスの姿がありありと浮かばない?」
くくくと堪えきれずに笑うリジィにつられて、僕もなんだかおかしくなってきてしまう。
確かに悔しがる叔父上の姿を想像するのはあまりに容易だ。
「クリケットの大会を開いたり、真夜中に二人のためだけのダンスホールを用意したり、三人とも楽しそう。意外だなぁ、ベルンのお父さんって若いころから怖い人なんだと思ってた」
「うん、僕もそう思ってた」
父の青い冷たい瞳は、どんなふうにエミーリアを見つめていたのだろう。
ずっと父は母を嫌っていたのだとばかり思っていたが、案外そんなこともなかったということなのだろうか。
ただ僕などが理解できるほど簡単な関係ではなかったということだけはわかる。
「そういえば、ちょっと気になる所があったんだけど」
リジィはどこだったっけと呟きながら、指で文字をなぞった。
「ここ。ルーシェが捨てられた恋文を拾ったところ」
朝、ルーシェが殿下とこっそり森へ散歩に出かけようとしたら、手紙を拾ったという。拾ったというか、破かれた手紙が頭上からヒラヒラと舞い落ちてきたらしい。
見上げると窓が開いていて、泣きはらした顔の女の子が下も見ずに窓を閉めるのが見えたとも。
悪いとは思いつつ拾い集めてみると、恋文らしいこと、女の子自身が書いたものであるらしいことが分かった。
どうやらその恋文の相手は彼女よりも年下で、しかもずっと身分が高い男で、自分などが想いを伝えるのはおこがましいし、許されないと思うが、それでもお慕いしていますというような内容だった。
夜中に思いが募って書いたものの、朝方になって正気に戻り、破り捨ててしまったのだろうというのがルーシェとエミーリアの見解だった。
この恋文をどうするか悩んだ二人だったが、ルーシェとルーカスが悲しそうに恋文を撫でているのを見ていられなくなって、エミーリアは恋文を破れた状態のまま封筒につっこみ、本来届くはずの相手へ出した。
「身分違いの恋だとか、かなわない恋だとか、そんなの知ったこっちゃないわよ。誰を好きになろうと、私たちの勝手じゃない!」
殿下との身分の差を気にするルーシェと、戸籍上は姉弟であることを気にするルーカスを励ましたくなって、ガラでもないことをしてしまった。と締めくくってある。
「この恋文がどうかしたの?」
「実は、私のお母様とお父様って学園で出会ったんだけど、お母様がけっこう身分が低いうえに、年上だったから、お互いなかなか好意を伝えられなかったんだって。だけど捨てたはずの恋文がなぜかお父様に届いて、それでお互い素直になって結婚まで行ったって聞いたことがあるの」
「つまりエミーリアが気まぐれに届けた恋文のおかげで、リジィのご両親が結婚できたってこと?」
「かもしれない」
思いもよらなかった巡り合わせに言葉が出なくて、僕らは二人して日記を見つめた。
まるでそこにエミーリアがいて、二人でどうなのかと尋ねるように。
「恋文の宛名とか確実な証拠はないけど、こんな話そうどこにでもあるものじゃないよね!」
興奮しているのか、こちらを見るリジィの顔は少し赤い。
「もしエミーリアさんが恋文を捨ててたら、私はここにいなかったのかも」
破り捨てられた恋文が誰の手にも届けられなかったら?
たったそれだけのことで、目の前にいる大切な存在がいなかったかもしれない。
そう思うと、リジィは凄い凄いとはしゃいでいるが、僕は瞬きをしたら彼女が消えてしまうんじゃないかと急に怖くなってしまった。
「それは困る」
僕があまりにも真剣な調子で言ったためか、リジィは少しだけきょとんとした。
だってリジィがいない人生なんて、そんなものに一体どんな意味があるというのだろう。
リジィは時々する大人びた顔になって、座ったまま椅子を引きずって僕のすぐ隣へやってきた。
そして肩にこてんと頭をのせる。
「私がいなかったら寂しい?」
「寂しいどころじゃない。生きてる意味がない。僕は君が好きだからやっと人間になれたんだ」
「そうかなぁ?……うん、でも私もベルンに会えなかったら困る。凄く、困るよ」
自然と手を繋いで、僕らは早朝に窓から破り捨てられ、もしかしたらそのまま忘れ去られていたかもしれない恋文に思いをはせた。
どのくらいそうしていたのだろう。
すっかり自分の体温とリジィの体温の区別がつかなくなったころだった。
「ねぇベルン。この後、エミーリアさんはとても大きな間違いを犯してしまうの」
きゅっと僕の手を握って、彼女はさっきまでの興奮した様子とは打って変わって静かにそう言った。
「でもどうかエミーリアさんを責めないであげて。彼女のしたことがたとえどんなに致命的な間違いで、結果的にいろんな人が傷ついたとしても、彼女と繋がっている今の私たちはきっと間違いなんかじゃないから」
「……わかった」
力強く握り返すと、リジィは甘えるようにぐりぐりと頭を肩に押し付けてくる。
髪の毛が首筋を掠めてくすぐったかったからか、古びたページを引っかけた指先が少しだけ震えた。




