エミーリアの日記11
フリッツ殿下が会談に指定したのは、ボートハウスの地下の通路を進み、そこからもう一度一階に戻ることで始めて入ることのできる隠し部屋だった。
壁にはあまり見たことのない精緻な模様の青いタペストリーがかかっており、辺鄙な場所にある割には金がかかっているし、手入れも行き届いている。いかにもやんごとない身分の人間が、誰にも見られないように会うための部屋という感じだった。というか実際にそうだった。
そこまで私と一緒にいるところを見られたくないのだろうか。
それともちょうどいい部屋がここしかなかったのか。
少々開放的すぎる作りのボートハウスを思いながら、私は苦笑いをこぼす。
「随分と手の凝ったことを……」
思わずそう呟くと、耳ざとく聞き取った殿下は神経質そうに片眉を吊り上げた。
「気分を害したのなら謝る」
「まさか。秘密の部屋に招いていただいて、ワクワクしているくらいです」
「そうか」
彼は私が思ったよりも落ち着いていた。
今も私の隣でおとなしく座っているルーカスの存在に難色を示すものとばかり思っていたが、さも当たり前のような顔をしている。
何故だ。
少し、面白くない。が、顔に出さないようにしているだけかもしれないし、単純に興味がないという可能性もある。
「私も殿下とはお話したいと思っておりましたので。まさかこのような怪しげな部屋に招かれるとは思っていませんでしたが」
「ならば、手短にこちらの要件を済まそう。お互い夜会の準備をする時間を考えれば、そうゆっくりはできないからな」
お前と長々話す気はない、というのが本音なのではと喉まで出たが、黙っておいた。
喧嘩早いが、誰彼構わずというわけではない。それくらいの理性は持ち合わせている。
フリッツ殿下は両手の指先をふれ合わせながら、怪訝そうな表情を隠すことなく尋ねた。
「私から聞きたいことは一つだ。なぜ外に出た、エミーリア」
「どういう意味ですか?」
訳が分からず、自然と眉間にしわが寄る。
彼はとんとんとリズミカルに指先同士をふれ合わせ、決して目を合わせることなくこう言った。
「十年、君は表舞台に出てこなかった。それは自主的な理由だったと公爵から聞いている」
「ええ、そうです」
自主的に外へ出ることを拒む。それを人は引きこもりというし、実際私のあだ名は引きこもり姫である。
「私は君の決断に敬意すら持っていた。だからこそ、このボートハウスに君が現れたことが不思議でならない」
「私にもいろいろと事情があったのです」
「それは命よりも大事なのか?」
「では一生暗い部屋にでも引きこもって、そのまま死ねとでも?」
「そうだ。少なくともそうすれば長生きできる」
長生き?
己の生死という、見逃せない話題に自然と前のめりになる。
「まるで外に出れば死ぬとでも言うかのような口ぶりですね」
「まさか、なにも知らないのか?私はてっきり、知っているから外に出てこないのだろうとばかり……レトガー公爵め」
フリッツ殿下はさりげなく胃のあたりに軽く手を添え、どうして私がこんなことを説明しなきゃいけないんだとぼやいた。
殿下の口ぶりからするに、私は屋敷から出るべきではなかった。出た今となっては、命の保証がないということになる。
それは十中八九、私が第三王女だから、なのだろう。
それ以外に全く心当たりはないし、それさえなければ私は路傍の石も同然である。
そしてそのことを私がちゃんと自覚していない様子であるために、殿下は非常に胃を痛めていると。
この人、案外いい人なのではなかろうか。
私は少しだけ警戒を解いて、素直な態度をとることにした。
「私は自分の価値というものをよく知りません。第三王女だと知ったのもつい最近なのです。だいたい生まれが悪いという理由で臣籍降下された元王女に、何の価値があるのですか?」
殿下はため息をついて、神経質そうにずれてもいない眼鏡の位置を直す。
「私の妹は君以外に二人いるが、二人とも他国に嫁に行くことが決まっている。それは随分前から決まっていたことで、王家と縁続きになる方法は、娘を私の妻とする以外になく、実際ほとんどのものはそう思っている。だが耳聡い者は第三王女の存在を知っている。そういう連中が第三王女は国内の貴族とひそかに縁を繋ぐためにわざと臣籍降下させたのでは、などという愚にもつかない噂をささやく。そしてそれを真に受けた馬鹿が、第三王女という存在を王家との密約の証、秘宝のようなものだと勝手に勘違いし、手に入れようと画策した」
「した、ということは実際に起こったというわけですか」
「王も公爵もそんなつもりは毛頭ないから、もちろんすげなく断られたと聞く。だがそういう勝手な解釈を信じる輩は、さらに勝手な解釈をして暴走するんだ」
「自分ではなく他の貴族に与えるつもりに違いない、とか?」
「そんなところだ。それも自分のライバルにな。それくらいなら、第三王女を殺してしまった方がいいのではないか。手に入らないなら、なかったことにすればいい。幸い、ほとんどの人間は第三王女など知らないのだし、王家も騒ぎにはしづらいだろう……」
「そんな理由で私の命が狙われていると?冗談じゃない!」
思わず声を荒げた私に同情するように、殿下は眉をひそめてこう言った。
「そうだな。私も馬鹿馬鹿しいと思うよ。それもこれも君という結果を過ちだと切り捨てようとした私の父が悪い。君の怒りは正当だ」
思わず、えっという声が漏れた。
フリッツ殿下がそんなふうに考えていたということが衝撃的すぎて、私は口を半開きにしたまま何度も瞬きを繰り返してしまう。
そうか。
確かにそうだ。
エミーリアたる私は、自分を切り捨てた父を憎んでしかるべきなのだ。
けれど長い間、私は自分がエミーリアであるという自覚に薄かったので、エミーリアという人間の境遇について怒ったり悲しんだりすることはあまりなかった。
代わりに半分だけ血の繋がった、初めて話す兄が、エミーリアのために怒ってくれている。
何故だかよくわからないが、とても感動している自分がいた。
私自身すらも顧みることのなかったエミーリアのことを考えてくれている人がいたのだと。
「……ありがとうございます」
「私は感謝されるような男ではない。私自身もこの間まで、君が一生屋敷に引きこもってくれればいいと願っていた。そうすれば不埒な輩も手を出せず、そのうち諦めるだろうと。公爵の手元なら、安全に違いないからな」
私はあの小さな別宅を思い出していた。
あの狭い閉じた世界は、知らず知らずのうちに私を守ってくれていたのか。
……いや、待てよ。
だいたいそういう背景があったのなら、なぜレトガー公爵は私が外にでることをあんなにあっさり許したのだろう。
引きこもりを許容していたのは、単にその方が都合がよかったからだと今ならわかるが、そうなるとこの状況は少し変だ。予防できる火事を見過ごしているようなものではないか。
そこまで考えが至って、私ははたと隣に腰かけていたルーカスを見た。
「まさか」
私が自分自身がエミーリアであることに気が付き外のことを勉強しだしてから、ルーカスもまた修行を再開していた。
彼は見た目通りの非力な子供ではなく、しかも公爵が特別に目をかけている存在でもあった。
私の視線を辿って、ルーカスを見た殿下はああと呟く。
「確か彼は君の護衛だったな。とてもそういうふうには見えないが、公爵は自分の跡継ぎだと。まったく恐ろしい話だ」
そんなこと一言も聞いていない。
ぎろりと睨みつけると、ルーカスは明後日の方向を向いて、口笛を吹くような仕草をした。そんな古典的なごまかしが通用するとでも本気で思っているなら、バックブリーカーをしたとしても許せない。ちなみにバックブリーカーとは背骨おりともいうプロレス技であり、もちろん私ができるような技でもない。
まぁお仕置きに関しては後でいい。
「ですが殿下、何も私が狙われるというのは確証がある話ではないのでしょう?」
でなければルーカスを護衛につけるくらいで公爵が許すとは考えにくい。
彼が私の心配をしてくれているということは万に一つもないだろうが、第三王女の心配ならしているだろう。
「百でもなければ、零でもない」
楽観的な態度の私に対して、殿下は渋い表情を崩さない。
そんな顔までして、わざわざ忠告のために時間を作るのだから、案外ではなくおそらくこの人はいい人なのだ。
急に緊張が解けて、笑いがこぼれた。
一人クスクス笑い始めた私を殿下は胡乱気な顔で見てくる。
殿下は知らないだろうが、命を狙われようがまいが何もしなければ私は数年以内には確実に死ぬのだ。
全く恐ろしくないわけではない。
だがもし、この世界に強制力みたいなものがあるとすれば、私がベルンハルトを産む可能性があるうちはそれ以外の理由では死なないと考えることもできるのではないだろうか。
推測に過ぎないから、そうでない可能性も十分にある。
ただ私が生き残る未来はそう多くない、ということが再確認できただけだ。
いまさら怯えて震えるほど、かわいらしい性格はしていない。
笑いを飲み込み、私は真正面から殿下を見つめた。
色の白い細面は、私の顔と少し似ているような気もする。
「では殿下、早く婚約者を決めてください」
「なぜそうなる……」
「殿下がさっさと未来の王妃様をお決めになって、強権をふるってくだされば皆私のことなど忘れるでしょうよ」
「私にそれだけの力があるように見えるか?」
「いいえ。でもあなたはいい人だわ」
彼は目をまんまるにして、面食らったように体を引いた。そして苦々しい顔で私は良い人間ではないと返した。
そうそう、そういうところがいい人なのだ。王子として良い素質かどうかは別として。
「誰か気になる子はいましたか?」
「なぜ答えなければならない」
「これを機にお兄様とは親交を深めたいなと」
「絶対に外では兄などと呼ぶなよ!死にたいのか!?」
「いいではないですか。ほら、ルーカスにここにいる令嬢たちの似顔絵を描かせました。気になる子がいたら、私たちがお手伝いしますからね」
「い、いらん。ちょっと待ってくれ、こっちに寄らないでくれないか?」
ルーカスのスケッチを開いた状態で私は殿下にじりじりと近寄っていった。
ルーカスに目配せして反対側に回り込ませ、タイミングを合わせて殿下を挟み込むように無理やり座る。ちなみに殿下はちょっと暴れた。
無視してスケッチをペラペラとめくっていく。
一枚おきにいろんな角度から見たルーシェの顔が現れる。可憐な横顔などは、複数あるスケッチの中でも目を引くものだった。
殿下は呆れかえったようにため息をつきながらも、あまり邪険にしてもよくないと思ったのか横目で私がめくるスケッチをぼんやりと見ている。よしよし。
胃のあたりを軽くさすりながら、殿下はずれてもいない眼鏡を直してため息をつく。
「本当にくれぐれも人の前では兄などと呼ばないでくれよ」
「そんなヘマしません。お兄様」
わざと兄と呼べば、彼の頬は面白いくらいに引きつった。
そしてボートハウスで迎える二回目の夜がきた。
昼間宣言した通り、私の部屋までクレイグがエスコートをしに来たのでありがたくエスコートしてもらうことにした。
見た目と肩書だけなら文句のつけどころがない男なので、エスコートされること自体は悪くない。それにプレイボーイと名高い彼と表面上仲の良い振りをしていれば、殿下をめぐる争いからは自動的に脱落できるだろうという打算もあった。
その殿下をめぐる争い筆頭の二人とは、夜会前までに都合が合わなかったので、テアとは夜会の終わりに、アデリナとは明日の昼前にこっそりと会うことになっていた。
それ以外で今晩私がしなければならないことは、もう他には何もない。
だから離れたところで、赤いバラを胸にさした殿下を挟んでテアとアデリナがやりあっていようが今は関係ないのである。
開け放たれたテラスから湿気た夜風が吹き込み、ピアスが揺れる。その重たい感触を味わっていると、ふっと隣でクレイグが笑う気配がした。
「今夜のエマは機嫌がいいみたいだ」
そう言うクレイグもまた機嫌が良さそうにグラスを傾ける。
クリーム色の夜会服に銀色の髪と全身白っぽい彼は、煌々とした明かりの中、美貌と相まって眩い。
対する私は鮮やかな緑のドレスを着ていたので、まるでバニラと抹茶のアイスが並んだみたいになっていた。多分、この場では私以外には誰も理解できない例えなのだろうが。
「そう?」
「ああ、とても。何か良い事でもあった?それとも僕にエスコートされて嬉しいかったとか?」
「顔だけいい男のくせにうぬぼれが過ぎるわよ」
「へぇ、こういう顔が好みなんだ」
「寄るな!顔を決めるな!」
ずいずいと綺麗な笑みをのせた顔を近づけてくるクレイグを押しのけつつ、しまった迂闊に顔が良いとか言うべきじゃなかったなどと後悔したが、だからといって自分には嘘はつけない。私は自分の性癖には嘘がつけないタイプの人間なので。
「でもそうね、今夜は良い夜だから多少は機嫌がいいのかもしれない」
そう、今夜は良い夜だ。
なぜなら、今夜から運命は変わるのだから。
例え私の命が狙われていようが、いつか死ぬことが決まっていようが、今を変えられるならそれは絶対ではない。すべてはありうるかもしれない未来の一つになる。
だから多少は機嫌もよくなるし、クレイグと他愛無い話をしてもみようなどという気持ちにもなったのかもしれない。
「私、夜会に出るのは今夜で二回目なの」
「驚いた。実は俺も二回目なんだ。ボートハウスでの夜会は」
なかなかにウィットにとんだことを言うので、ちょっと笑ってしまう。
「夜会も舞踏会も腐るほど参加しているくせに、こんな引きこもりにも随分と優しいのね」
「それは自虐が過ぎるんじゃないかい?」
「たまには自分をほめることもあるわ。これでも前向きに生きてるのよ、私」
それはクレイグに言ってるようで、その実自分自身を認めるために言った言葉だった。
希望の光が見えてきたからか、自分への評価も上昇傾向にあるらしい。
ルーカスがいればきっと、太鼓持ちのように私の気持ちをさらに上向きにしてくれたことだろう。その彼は今、私の指示でこの場にはいないのだが。
「特に今夜はなんていうか、ちゃんと生きて、前に進んでいるっていう感じが特にするっていうか。いつもより良い夜、みたいな?」
言葉では表現しづらくて、最後には疑問形になってしまった。
誰にともなく問いかける形で両手を中途半端に広げた私の姿を見て、クレイグはクスクスと上品に笑った。
「前に進むっていうのはいいことだよ。たとえどんな道であろうと進んでいれば、どこかにはたどり着ける。よく揶揄されるけれど、俺にとっては一夜の恋も先のない恋も貴重な一歩だ」
「……いや良い感じのこと言ってごまかしているけど、あなたが恋愛面に関してはクズなことに変わりはないと思うのだけど」
「俺、君のそういう辛辣なところ、好きだな」
「悪いけど、私はあなたの貴重な一歩にはなれそうにない」
「それはどうだろう?まだわからないんじゃないかな」
私のピアスをつんと突いて、クレイグは余裕そうに目を細める。
私と同い年だと言うのに、ひどく大人びた男の顔という感じで、こういうところがもてるんだろうなと思った。
そして不本意ながら、クレイグと本気とも冗談ともつかない軽口を言い合うのは、少し楽しいとも思った。
ルーカスといると時々、苦しくなる。
私は彼の人生に責任を感じてしまっているから。
いつだって私の頭の片隅には彼の行く末を案じる気持ちがあって、私は口には出さないけれど彼に幸せになってほしいと心から願っている。そしてそのためにも死ぬわけにはいかない。
たいしてクレイグという人間には、いつかもしかしたらゲーム通りに結婚するかもしれないが、しなくてもこいつはこいつで生きていくだろうという楽な気持ちで接することができるのだ。知り合って日が浅いのだから当たり前といえば当たり前だが。
「返してちょうだい!」
緩やかに波打つ水面を突然乱すかのごとく、とんがった女の声が響いた。
気持ちのいい夜風に吹かれながら思考の海を漂っていた私は、一気に現実に引き戻され、声のした方を見る。
周りの着飾った煌びやかな人々も同様に、声の主を見ている。
騒動の中心にいたのは、アデリナだった。
そしてアデリナが顔を赤くして睨みつけているのは、当然のように彼女のライバルであるテアであった。




