エミーリアの日記9
鏡に映った自分と向き合うのは嫌いだ。
真っ直ぐな黒髪に、金属のような灰色の瞳。整ってはいるが、切れ長の目ときつく結んだような口元が酷く冷たい印象を与える。
これが、私の顔だ。
どこにも昔の顔の面影なんてなくて、いつまで経っても慣れないけれど、それでもこれが私の顔だと、今は少なくとも思える。
ちょっと前までは極力自分の顔は見ないようにしていたが、いつまでも逃げられないと悟ってからはこうしてわざと時間をとって見るようにしている。
それにしても見れば見るほど、ベルンハルトに似ている。どうして気が付かなかったのかと首を捻るほどだ。
私は垂れ目ではないのだが、なんというか全体の作りとかバランスがそっくりなのだ。
ベルンハルトが私に似ているというほうが正しいのだろうが、自分の今の顔よりもあちらの顔のほうが見慣れているので、どうにも自分がベルンハルトに似ていると思ってしまう。
息子……。
息子かぁ……。
全然想像できない。
完全に未知の生物だ。
いやベルンハルトがどういう人間かということは知っているけれど、それが自分の息子だと受け入れられるかは別の話であって、自分の息子としてのベルンハルトというのは全くもって未知の存在であり、なにやら恐ろしいものであった。
鏡に向かって渋面をつくっていると、肩口からひょっこりと紫色の頭が現れる。
「どうかしたの?」
どうしたもこうしたもない。
というか、お前は勝手に部屋に入るな。
ノックもせずに入ってきた不埒者ことルーカスに呆れつつ、私は鏡の中の自分と向き合うのをやめて振り返る。
上半身は白の光沢のあるドレスシャツにベストだけで、上着は着ておらず腕にかけた状態だった。そのため骨ばった肩の硬そうな輪郭がよく見える。
「何か用?」
「姉上をホールまでエスコートしようかと思いまして」
「一人で結構」
「今夜ついにレトガー公爵家の掌中の珠が現れるって、皆噂しているよ。それなのにエスコートもなしじゃ格好がつかないだろう?僕はエミーリアのためにできることなら、なんでもしてあげたいんだ」
エスコートごときで大げさな奴だ。
「いらん、帰れ!」
しっしっと犬を追い払うように手を動かすと、ルーカスはそんなぁと表面上嘆くような素振りをした。振りをするだけでその実びくともしていないことは明白だった。
なにが掌中の珠だ。
私はただの引きこもりで、それを上手いことオブラートに包んで言っているだけに過ぎない。自分が引きこもり姫と呼ばれていることくらい知っている。
だがまぁ例えルーカスでもエスコートしてくれる人間がいるのならそれに越したことはないか。
私はルーカスの腕から上着を抜き取り、広げてやった。
ルーカスはぽかんと口を開けて固まる。
「エスコートしてくれるんでしょ」
片眉を吊り上げそう言うと、ルーカスはゆっくりと言葉の意味を理解して、ゆるゆると頬を緩めた。
「……うん。ありがとう、エミーリア」
上着に腕を通し、そっと右腕を差し出したルーカスは調子を取り戻して、いつものへらっとした笑い方をする。
「そういえばそのドレス、僕らが初めて会った時のものと少し似てるね。凄く似合ってる」
そうだろうか。
改めて自分の着ているものを確認してみるが、出会ったときに着ていたものが夏物で白かったくらいのことしか覚えていなかったので、確かめようもない。ただ薄いレースの裾が揺れているだけだ。
「よく覚えてるわね、そんなこと」
「覚えているとも。大事な思い出だから」
誰かに大事だと言われるのはとてもむず痒いことで、つい頬が緩みそうになる。けれどルーカス如きにときめかされたと思うのはちょっと癪だったので、なんでもないように取り繕った。
私は差し出されたまま静かに待っている彼の腕に自らの手を添え、気持ちを切り替えるべく、しゃんと背筋を伸ばす。
「さ、行くわよ、ルーカス」
私たちはこれから交流会最初の夜会に参加する。
湖畔の森、木々の狭間には、のったりとした闇が横たわり、それを押し返すようにボートハウスには煌々と明かりがともされていた。湖の水面は真っ黒で、ボートハウスからの明かりが届く範囲は水銀のようにのっぺりとした反射を見せる。
そんな周囲の不気味な様子など気にも留めずに、室内では豪華なパーティが始まろうとしていた。まだ主役であるフリッツ殿下は登場していないが、ほぼすべての参加者が揃っているのでそう広くはない室内は少しむし暑い。
私は冷えた果実水をちびちび飲みながら、きらびやかな人々の間をゆっくりと歩き回っていた。
交流会は長くても一週間の予定だ。
たった一週間で、私は『王妃』を見つけ、フリッツ殿下に別の女性を選んでもらわなければならない。
私は豪華な食事もとりあえずで、面倒な挨拶周りもルーカスに任せ、人探しに明け暮れていた。
今回の私の計画の要となる人物だ。実際に会ったことはないが、特徴的な容姿をしているからわかるはずなのだが。
ふっと長身の人影が進路を遮るように現れた。
「やぁ」
そこには涼やかな顔をしたクレイグが立っていた。
当たり前だが、今度はきっちりと服を着こんでいる。
思わず、げっと声を上げる私に、彼はキザっぽく髪をかき上げ苦笑した。
「昼間は良いパンチだった。ああいうのを腰が入っていた、とでも言うのかな。まぁ喧嘩なんてしたことないからわからないけど」
「そりゃどーも」
不機嫌全開な返事だったのに、気にする様子もなくクレイグは私の髪の毛を一房すくい後ろに流した。いかにも女の子の扱いに慣れた人間の手つきという感じだ。
「何」
つっけんどんにそう言って、クレイグの手を叩く。
彼はそれすらも面白い様子で、非常に腹立たしい。
「公爵家の人間同士仲良くしようと思うのは普通のことじゃないかな?」
「お友達になろうってわけ?どうして私が人の部屋ではしたないことをする人とお友達にならなきゃいけないの?」
「お友達にもいろんな種類があるだろ。俺は君にとって誰よりも親密で誰より薄っぺらなお友達になれると思うんだ」
私にとって大変魅力的かつ自虐的な微笑みを浮かべて、クレイグは私の手からグラスを抜き取った。
たぶんわざとだろうが、指先が触れ合い、かっと顔に血が昇る。
クレイグの硬い指の腹が、私の爪先をそっとなぞって。
そんないい感じの雰囲気を敏感に察知したかのように、クレイグの背後にぬっと黒い影が現れた。
「そこらの女にするように、僕の姉さんにちょっかい出すのはやめてくれないかな」
「いだだだだ」
クレイグの肩に指をめり込ませて、ルーカスは張り付けたような笑みを浮かべている。
凄い、クレイグの肩がミシミシいっている。どれだけ力を込めたらあんな音がするのだろう。自分の肩がああなることはないだろうから、別にどうでもいいのだが。
しかし危なかった。
一瞬ちょっといい雰囲気に飲み込まれそうだったぞ。こればかりは、ルーカスに感謝だ。
やはり好みの顔と言うのは危険すぎる。あんなすけすけのナンパでも、ちょっとときめいてしまうのだから。
悔しさのあまり、クレイグの顔面にクリームパイを投げつけるか、ストッキングでも被せてやりたい気分になる。
「ルーカス、そのまま肩をもいじゃいなさい」
クレイグの本気で痛がる悲鳴を聞きながら心を落ち着かせると、自分たちに周囲の好奇の視線が集まっていることに気がつく。そりゃそうだ。
幸いまだフリッツ殿下は現れていない。
もうやめとけという意味を込めて私が首を振ると、ルーカスはすぐに手を離した。
けれどいささか十分すぎるほどに、私たちは目立ってしまったのだろう。
ふんわりと花のいい香りがした。
「あなたみたいな冷血漢でも痛がる神経はあるのね」
自然と開かれた人の間を当たり前のように堂々と歩いて、その少女はおかしくてたまらないという調子でそう言った。
豊かな金髪はいかにもゴージャスで、形の良い唇は自信にあふれた笑みを形作っている。着ているドレスも今年流行りの紫で、縫い付けられたビーズがきらきら光って眩しい。
彼女の存在感に圧迫されるように道を開いたあげく、他の参加者は半歩下がる。
「わたくしはキルステン侯爵の娘、テアよ。学園で見たことのない顔ね。あなたお名前は?」
お前は何者だ?
そう詰問するように、濃い緑の瞳がひたりと見つめてくる。完全に自分の庭に忍び込んだ無法者を見る目つきだった。
なるほど。この女がテアか。
髪の色も瞳の色もエドウィンと同じ。顔立ちもどことなく似ている気もする。これという決め手はないが、やはり現状、彼女が『王妃』の可能性が一番高いか。
私は気圧されることなく、静かにテアを見つめ返す。
想像していたよりも小柄で、私よりも拳一つ分ほど小さい。しかしまとう雰囲気というかオーラのために、実際よりも大きく見えた。
「エミーリア・イザベラ・レトガーよ」
簡素にそう名乗って微笑むと、テアはほんの少しプライドを傷つけられたような顔をした。
しかし私が自分より格上のレトガー公爵家の人間だと気が付いたのか、ゆっくりと笑みを作る。
焦るどころか余裕の態度に、私は少し感心すらしてしまった。
「あ、あの……」
か細い声がして、そちらのほうを見ると、テアの背中に隠れるようにして立っている少女の存在に気が付いた。
テアと体格はほぼ同じように見えるが、猫背なのでもしかしたらテアよりも背が高いのかもしれない。
彼女は恥じらうみたいにもじもじとしながら、レネと名乗った。
「そんな態度ではエミーリア様に失礼でしょ。もっとしっかりなさい!」
「……ごめんなさい、姉様」
薄くそばかすの浮いた頬を真っ赤にさせて、レネは項垂れる。
髪や瞳の色は姉であるテアと同じなのに、猫背なせいもあってかとても地味な印象を受ける。ドレスもなんだか色あせたような地味な色だ。
噂には聞いていたが、驚くほどに対照的な姉妹だった。
「わたくし、エミーリア様はどんな方かしらと前々から興味がありましたの。お会いできて嬉しいわ。でもどうして突然、こんな人の多いところに出ようと思われたの?エミーリア様は学園にも通えないほど、病弱だと聞いていたのだけれど」
これは暗に引きこもっていたことを馬鹿にされているのだろうかと一瞬身構えたが、ただ単に私が被害妄想過多なだけという可能性もまだ捨てきれないので、ひとまず私は世間知らずな令嬢を装うことにした。
「ええ、体が弱いせいで屋敷の外には全然出してもらえなかったのですけど、ここ最近はとても調子がよくて、同年代の方々と話してみたいと父に頼み込んだの」
「まぁ、そうなの!」
テアは大げさなくらいに仰け反って、新しいおもちゃでも見つけたように目を輝かせ。
どうやら初対面の品定めは通過したらしい。
そして彼女の興味はクレイグの脇で、彼を監視するかのごとく突っ立っているルーカスへと向かった。
「こちらは?」
「弟のルーカスよ」
愛想よく微笑んだルーカスを興味なさそうに一瞥だけして、テアの視線は私に戻る。
「もしよかったら明日、一緒にお茶でもしませんこと?」
「え?ええ、ぜひ」
それは願ったり叶ったりではあるが、早いところ切り上げて私は人探しに戻りたいのだが。
つま先をじんわりと動かしてテアから離れようとしたのだが、彼女はそれを許さないとばかりに距離を詰めてくる。
「エミーリア様は学園のことは何もご存じじゃないでしょう?わたくし心配だわ。このクレイグなんか、本当に酷い男なのよ。婚約者がいるのにあちこちの令嬢にちょっかいをかけて、交流会にだってこれる人間ではないはずなのに。あげくの果てにはエミーリア様にまで!ブルンスマイヤー公爵家が聞いてあきれる!」
槍玉にあげられたクレイグは芝居がかった動きで肩をすくめた。
こいつ、婚約者がいるのか。しかもそんなご身分で、女の尻を追いかけまわしているとは……。
端的に言って、ただの顔がいいクズだな。
「今回は殿下の友人として参加しているだけだよ」
「ならばなおのこと大人しくするべきだわ。フリッツ殿下に恥をかかせるつもり?」
「まったく……もう妻気取りかい、テア?」
「気取りではないわ。でも、そうなるのも時間の問題じゃなくて?フリッツ殿下と結ばれるのはわたくしだと決まっているようなもの」
「姉様、そんな大声で言っては」
「なに?わたくし何か間違ったことを言った?」
ぎろりと姉に睨まれ、レネはすごすごと小さくなった。
私も早いところすごすごと退散させていただきたい。
そんな私の思いを打ち砕くように、またもや新たな人物が現れる。
「あらあら。大ほら吹きがいると思えば、テア様ではないですか」
小柄なテアとは対照的な、すらっとした女性だ。
髪は真っ直ぐな茶髪で、瞳は美しい翡翠のようにきらめいている。非常に整った顔立ちをしているが、この交流会に来るには少しばかり歳が行き過ぎているように思われた。
そして学園では女王のように振舞うテアに対抗するような発言。
おそらくフロイデンベルク侯爵の娘、アデリナだろう。
私の予想を裏付けるように、テアは再び挑発するようなあの目つきで彼女のことをアデリナ様と呼んだ。
アデリナの登場により、室内の空気は一気にピリついたものと化した。
気が付くと参加者のほとんどが、テアかアデリナの背後につくように立っている。そして私とルーカス、クレイグはちょうどその中間に立っていた。
「まぁ若い時分というのは、妄想と現実の区別がつかずに暴走してしまうものよね」
嫌味を言っているとは思えないほど優しい顔でアデリナはそう言い、周囲に同意を求めるように見回した。
テアの目の下がピクピクと痙攣する。
「そういうアデリナ様は婚約者が亡くなったご自身と殿下を重ね合わせているとか。それこそ妄想の類ではなくて?ねぇ、エミーリア様」
はい!?
突然同意を求められ、とっさに出かけた声を飲み込む。
……しまった、完全に二人の小競り合いに巻き込まれてしまった。
どうする?あいまいな返事で濁すか、いっそのことテアの肩をもって取り入る?
だけどフロイデンベルクは……。
「エミーリア様と私は又従兄弟なのよ。そんなことも知らないの?」
仰る通りです。
そう、私とアデリナはいちおう親戚にあたる。
だから仲良くしたくないとしても、彼女と敵対するのはあまり褒められたことではない。
「それとこれがどう関係あるのかしら?これだから頭の硬い人は嫌だわ」
「相変わらず、年上への口の利き方がなってないのね。エミーリア様もそう思いませんこと?」
だから、なんで、二人とも私に聞くんだ!
私はどちらの肩を持つ気などないし、争うなら私の関与しない所で勝手にやっていて欲しい。
ダメだ、イライラしてきた。
視界の端で、ルーカスが小さく首を振るのが見える。
わかってる。わかってるけどさ。
なおも嫌味の応酬を続けるテアとアデリナはちょくちょく私に同意を求めてくる。
そのたびに言葉に窮し、何度目かのやり取りかわからなくなったころ、気が付くと私はきっぱりとこう言い放っていた。
「仮にも公爵家の娘である私を、自分たちの勢力争いの駒にでもしたつもり?二人とも友達になりたいということではないなら、他を当たってください」
全員の視線が自分に注がれる。
やって、しまった。すぐに何かフォローしなければ。
なぜ私はいつもこうなんだ。
あぁいっそのこと地面に埋まって植物にでもなりたい。
その時、天の救いか、カンカンとグラスを鳴らす甲高い音が響き渡った。
フリッツ殿下が現れる合図だ。
それまでにらみ合っていたのが嘘のように、テアもアデリナも熱のこもった視線を階段上の扉へ注ぐ。
お陰で私の発言も取りざたなしとなり、ほっと胸をなでおろしながら私もまた階上を見上げる。
もったいぶったような間の後、ゆっくりと扉は開かれた。
フリッツ殿下は眼鏡をかけた細面の長身の男性だった。二十四歳だと聞いているが、神経質そうな顔は歳よりも大人びて見え、どこか頼りない。それでも正統派イケメンのエドウィンの父なだけあって、顔のパーツは整っていた。
王族の権威を誇るような煌びやかな夜会服もよく似合っている。
彼はまず集まった参加者への謝辞を述べ、どうか硬くならず、一緒に楽しく過ごしてほしいといったようなことを語った。
刻み込んだような笑みを浮かべて、フリッツ殿下は会場の一人一人を見回していく。
「父のお節介には困ったものだが、こうして近しい年齢の者たちだけと語り合う機会を得られて嬉しく思う。どうか私だけではなく、ここにいる皆さんによい出会いが……」
ふっと言葉が途切れた。
どうかしたのかとざわめきが起こる。
フリッツ殿下は一か所を見つめ、その顔はまるで亡霊でも見たかのように強張っている。
彼の視線は私に固定されていた。
意味が分からず眉を顰めると、フリッツ殿下ははっと我に返り咳ばらいをする。
彼が何事もなかったかのように話を再開しても、人々は訝し気な顔で言葉に詰まるなど珍しいこともあるものだ、緊張しているのだろうかと囁き合った。
特に私の近くにいたテアとアデリナはきっと自分に見とれていたに違いないのだと、妹や取り巻きに得意げに囁き興奮した様子だ。
私はそっとルーカスに目配せをした。
殿下が言葉を詰まらせた理由に心当たりがあったからだ。
ルーカスは何やら難しい顔をして、どうするというように見返してくる。彼は完全に理由がわかっているようだった。
そして私は静かに確信した。




