幕間あるいはささいな暴露
ふと陶器のぶつかるかすかな音に集中が途切れる。
顔を上げると、ちょうどテーブルにカップを置いたところのリジィと目が合った。
「どこまで読めた?」
徹夜で母の日記を読んでいた彼女は、仮眠から目覚めた後だからか案外すっきりとした顔をしている。
「公爵と喧嘩した後、自棄を起こしたけど、最終的に叔父上のためにも死んでたまるかと決意したって書いてあるあたりまで」
「ああ、そこらへんね。じゃあ、あと半分くらいかな。意外と時間がかかってるみたいだけど」
対面に腰かけたリジィは紅茶にミルクを注ぎ、スプーンでかき混ぜる。カチカチと硬質な音がして、柔らかなミルクと紅茶の匂いが鼻を掠めた。
キッチンの方からは本館から僕らの世話をするためだけに来ているメイドがなにやら作業する音がしており、すっかり高くなった陽の光の中、埃がキラキラと瞬いている。
呆れるほどにゆったりとした午後だった。
僕はこれまで読んだページをめくりながら、思ったよりも時間がかかっている原因を指差した。
「時々意味のわからない単語が出てくるんだ。例えばこれとか」
ダリウスについて書かれた一文の「ツンデレ」という単語を示すと、明らかにリジィの顔が引きつる。
「あー、それは別にわからなくても大丈夫なんじゃないかな……」
そうなのか。
まぁリジィがそう言うのなら、そうなのだろう。
「正直、驚くことばかりだよ」
前世という考え方はリジィの話があったからなんとか理解できているが、そこから先が少しややこしい。
まず、母は前世で僕らの生きている時代に起こることを知っていた。ここを現代というポイントだとして、彼女は現代、過去でいう未来のことしか知らない状態で、過去に生まれてしまった。
過去のまだ幼い叔父と出会った彼女は、自分は現代と地続きの過去に生まれてしまったのだと気が付く。
同時に自身の正体に疑問を抱いた彼女は、自分は現代では死んでいるはずの人間なのだという確証を公爵との会話から得るに至った。
ゲームとか、ルートとかはおそらく僕の考えている意味とやや用法が異なるように思うが、全くわからないわけではない。だが母の文章は誰かに読ませる目的が書かれたものではないので、必然書かれている内容を把握するのに時間がかかってしまう。
つらつらとそういった感想を述べると、リジィは気まずげに口の端をもにょもにょさせた。
「なんか、ごめんね」
「どうしてリジィが謝るの?」
「なんだろう……よくわからない原理で転生させられてしまったオタクの代表として、謝っておきたくなってしまったというか」
よくわからなかったし、あまり深く突っ込んでほしくなさそうだったので適当に流す。
「でも母も叔父上のことが好きだったなんて、思いもしなかったな」
何をおいてもそこが一番の驚きだったかもしれない。
どうせ叔父が一方的に思いを寄せていたものだとばかり思っていたし、母がこんな人間味ある人物だとも思っていなかった。
苛烈で自分勝手で怒りっぽくて、でも叔父上のことを捨てておけない母。
生きることにすら執着できない彼女が唯一執着したものが叔父上だった。
「これじゃまるで母もまた叔父上のために生きていたみたいだ」
「とても信じられないって顔してるね」
「リジィは意外じゃなかったの?」
「もちろんびっくりしたよ。でも、私はエミーリアさんの気持ちなんとなくわかる気がするから」
リジィは肘をついて、少し遠い目をした。
「私たちが持っていた前世での好きって気持ちは、一生触れ合うことはできないけど、それでも見ていたい、応援したいっていう好きで、なんだろうガラス越しに恋してるっていう感じが一番近かったのかな」
庭の方を向いて話す彼女の口調は、まるで夢でも見ているかのようにどこかふわふわとしている。
「それが突然同じ世界に生まれて、触れ合って、関わっていくうちにガラスが消えてしまって、自分の目の前にいる人が生身の人間なんだって急に怖くなるの。私はこの人をどんな意味で好きだと思っているんだろうって。でももう私はとっくの昔からこの人のことを知っていて、好きになってしまっているんだから、いまさら好きじゃなくなることなんて絶対にありえないんだって覚悟するしかない」
「……それって実体験の話だよね?」
「そうだけど……?」
怪訝そうな表情の後、ぴきっと面白いくらいに体が固まる。
いまさらになって自分が恥ずかしいことを言っていたのだと気が付いたらしいリジィは、わっと大きな声を上げて突っ伏した。
ゴンと額のぶつかる鈍い音がしたが、痛がるそぶりはない。おそらく恥ずかしさが勝っているのだろう。
そういう僕もなんだかさっきから顔が熱くて仕方ない。
「その話に出てくるリジィが前世から好きだった人って、僕だと思ってもいいの?」
隙間から覗き込もうとしたが、真っ赤になった耳くらいしか見えなかった。
それでも彼女が照れているのだということは十分にわかった。
「知らない!何も知らない!私は貝になります!」
「それは困る。リジィが僕のことをいつから好きだったのかちゃんと教えてもらわないと、気になって続きも読めない」
「いっそひと思いに殺せー!」
座ったまま地団駄を踏んで、リジィは叫んだ。
随分大きな声だったからか様子を見に来たメイドが、羞恥に悶えるリジィを見つけて微笑みながらキッチンに戻っていく。
そんなに嫌がらなくてもいいじゃないか。
だいたい僕がリジィに好意を伝えた回数と、伝えられた回数は圧倒的に後者が少ない気がするのだから、こういう機会くらいしっかりと聞かせてほしい。
「ねぇ僕と会う前から、リジィは僕のこと一番好きだったの?」
とても大事なことだから、どうしても教えてほしくて真剣に尋ねると、彼女はむっくりと上体を起こした。
しかし何も言わず、何かするわけでもなく、妙に据わった目でむっすりと黙り込んでしまう。
こちらも答えを聞き出すまで引くつもりはなかったので見つめ返していると、次第にきょろきょろと視線が泳ぎ始め、顔も赤くなっていく。
僕から折れる気配がみじんもないと悟ったのかとうとう観念して、肺の空気全てを吐き出すがごとく大きなため息をついた。
リジィはもじもじと恥ずかしそうにしながら口を開く。
「でもたぶんエミーリアさんの方が前世から好きだった度は高かったと思うんですよ。いや確かにベルンのルートをちゃんとやっていたら激ハマりしてたかもしれないんですけども、けども!私はいちおう前世ではベルンのことかわいそうだなぁ、幸せにしてあげたいなぁ、応援したいなぁって思ってたくらいで、まぁ他の人と比べればちょっと特別だったけど……」
「それって結構好きに入るんじゃないの?実際に僕は幸せにしてもらったわけだし」
「ぐっ……!」
なぜか胸を押さえて、リジィは再びテーブルに突っ伏した。
ゴン!とさっきよりも痛そうな音がする。
「無理。恥ずかしい。この話はもうおしまい!」
「わかった。今度またゆっくり聞くことにするよ」
「この悪魔め!お前は悪魔だ!」
そんなおどろおどろしいものになった覚えはない。
ないが、今度は絶対に何から何まで詳しく聞き出してやろうと決めた。
だってリジィがずっと前から僕のことを少なからず特別に想ってくれていたなんて、そんな凄いこと思いつきもしなかったのだ。
リジィが今度ちゃんと教えてくれたら、僕はその事実が心から嬉しいと思ったのだということを伝えよう。
気を取り直して、僕らはともに日記の続きに取り掛かることにした。
というのもそこから先は基本的に箇条書きで、前世とやらの知識に乏しい僕にはいささか難しいものだったからだ。
リジィに手伝ってもらいながら解読した内容をまとめるとこのようになる。
エミーリアは結婚してベルンハルトを産めば死ぬ。
その結婚相手はブルンスマイヤー家である。
「エミーリアさんは、結婚しなければ死なずに済むんじゃないかって考えたみたい」
「僕を産まなければ済むんじゃないの?」
リジィはものすごく苦い物を食べたような顔になった。
「いや、僕をというか、違う相手と結婚するのではダメだったのかなって」
「……たぶん、子供を産むことが死ぬ原因になるって考えたんだと思う」
なるほど。実際に僕を産んで母は死んだわけだし、おそらく彼女は出産に耐えられるほど体が強くなかったのだろう。となれば結婚せずにいるのが一番安全だ。
「僕がここにいるということは、母は生き残ることに失敗してしまったということで、母が望み通りに生き残っていれば僕は生まれていなかった。なんだか変な感じだ」
「私も。私はベルンがいなかったら凄く嫌だから、日記を読んでいる間はどっちを応援すればいいのか全然わからなかった」
もうすでに結末が決まってしまっている物事に応援するもなにもないだろうに。
そう思ったが、そういう彼女の善良さが僕は好きなのでそうだねと相槌を打っておくことにした。
母は結婚を回避することで生き残りをかけたが、同時に苦悩もしていた。
僕をこの世に産まないことで、何か恐ろしいことが起きてしまうのではないだろうか、と。
ただでさえ叔父の人生を大きく変えてしまったことに気が付いていた彼女は、相談する相手もおらず、悩みに悩んだ。
しかし彼女は保守と攻撃ならば、攻撃を選ぶタイプの人間だった。
一つを変えてしまったのなら、他のものもすっかり変えてしまえばいいと結論づけたのだ。
母が目を付けたのは、当時の王太子、エドウィン元殿下の父である現国王だった。
当時は二十四歳にして未婚だったフリッツ殿下は、まさに未来の王妃となるべき女性を探していた。
幼いころから婚約者であった少女が病で亡くなり、フリッツは数年間ふさぎ込んでいたらしい。そのせいで次の婚約者決めは難航し、周囲がやきもきする結果となった。
そんな状況を見かねたフリッツの父、先代の国王は、一年後の夏に年頃の貴族の男女を集めた交流会を開くことを決めた。要はお見合いパーティだ。
フリッツはこの交流会で出会った誰かを未来の王妃とすることを強制されたに違いない。
そして母はこの機会を利用することにした。
一つを変えてしまったなら、他のものも。
つまり、フリッツが本来選ぶはずの女性と違う女性をあてがい、エドウィン殿下も生まれない未来をつくろうと考えたのだ。
なぜそんな面倒なことをとも思ったが、エドウィンの母である王妃が長い間権力をふるってきたことを考えるに、母はおそらく政治に関心のない女性を王妃にしたかったのだと考えることもできる。
母のメモには、一番性格の良い子を王妃にして、恩を売れば王宮で働くことができるかもしれないと書かれていた。
王宮勤めの侍女としての地位と王妃からの庇護を得れば、レトガー公爵も結婚を強く言えなくなると考えたのだろう。
そして母は公爵と交渉した。
母の要求は自身とルーカスの自由を。
その代わり、母は公爵の指示で交流会に参加し、公爵から見て好ましくないと思われる女性をフリッツが選んでしまわないように工作するということになった。
そして交流会までの一年と少しの間、母とルーカスは公爵の用意した教育をしっかりと受けること。
ルーカスの教育にはかなり揉めたようだったが、母が公爵に勝てる道理もなかった。
母は、公爵にとっても母にとっても最も都合のよい女性を探し出し、それを王妃にすること、という目的を達成するために、奔走することとなった。
それから先、交流会までの一年と少しの間に関して、日記にはほとんど書かれていない。
毎日早くから遅くまで、それまで怠っていたマナーや勉強、そして工作に必要な知識と振る舞いをみっちりと叩きこまれていること。たまに会えるルーカスもなにやら忙しそうだということ。人づての情報を集めて、候補を絞っているとき、ふとした瞬間にこんなことに意味はあるのかと落ち込んでしまうこと。それでも、ルーカスのためにも生きると決めたこと。
散文的で、時には判別できない殴り書きなどもあったが、逆に母は確かに生きていたのだという事実が目の前に迫って、少し胸が痛んだ。
遅めの昼食を取り一息ついた頃、リジィがそうだと声を上げた。
「ちょっと休憩がてら、お風呂場のぞいてみない?」
「夜の底だっけ?」
「そうそう!昨日の夜入った時はぜんぜん気を付けて見てなかったから、ベルンとちゃんと見てみたいなってご飯を食べてるときに思いついて」
座りっぱなしで少し動きたかったところだ。
二つ返事で了承し、僕らは風呂場へ向かった。
靴を脱いで、ひんやりとしたタイルの上に足を置く。換気のために窓が開けられており、風呂場にはほんのりと石鹸と冷たい土の匂いが漂っている。
リジィの言う通り、昨夜体を洗うために入った時は気が付かなかったが、壁のタイルは下から上にかけて色が濃くなり、天井には星空の絵が描かれている。
母はここを海の底みたいだと書いていた。
せっかくだから母と叔父がしたようにバスタブに入ってみようと、いそいそとリジィは小さな体を折り曲げて、本来なら脚を伸ばして入るところを三角座りになって入る。
「痛くない?」
「ドレスの裾がクッションみたいになってて、意外と平気」
僕が入れるようにと一生懸命空間を空けてくれているので、なんとなく不安を感じながら僕はバスタブをまたいだ。
二人して横向きに三角座りで、なんとか入るかどうかだが……。
格闘すること少し。
肘やら膝やらを大概ぶつけまくって、結局脚をバスタブから放り出す形でなんとかおさまった。
「脚が長い人は大変だねぇ」
僕のまぬけな格好がおかしいのか、リジィは笑いをかみ殺したような顔でそう言う。少し腹立たしくなって頬を引っ張ると、何が嬉しいのか痛い痛いと彼女は笑った。
引っ張られた頬をさすりながら、リジィは天井を見上げ、へぇだかほうだかよくわからない声を上げた。
濃い青のタイルを背景に見た彼女の栗色の髪の毛は、いつもより暖かそうに見える。
「夜の底を行く船って凄く綺麗な表現だよね」
すぐに日記に書かれていた言葉だと気が付く。
確か、バスタブの色もそろえたかったと言った叔父に対して、母は夜の底を行く船みたいでいいと返したのだったか。それで叔父が泣き出したから、とても驚いたとも。
「いかにも叔父上が好きそうだ」
「ルーカスはエミーリアさんのそういうところも好きだったのかな」
「むしろ嫌いなところなんてない、全てが好きだって言いそうだけど」
「それもそうか」
なんとなく左上を見上げて、そんな叔父の姿を想像してみる。あまりにも容易に想像がつくので、馬鹿らしくなってすぐにやめた。
母はそんな叔父のことをきっと愛していたのだろう。
僕は思う。
ならばどうして僕はここに居るのだろう、と。
おそらく僕は彼女の失敗の産物なのだ。
「……読んでいる時、ふと思うんだ。この人はこんなにあがいているのに、結局最後は失敗してしまうんだって」
「悲しいの?」
「わからない。でも楽しくはないな」
「大丈夫だよ。結末は失敗でしかなかったとしても、エミーリアさんはベルンのことを恨んだりなんかしていないから」
「それは最後まで読んだから?」
「それもあるけど、女の勘、みたいな?」
リジィは冗談めかしてそう言ったけれど、彼女には母のことが僕よりも、もしかしたら叔父よりもわかっているのかもしれなかった。
……それはそれとして。
「……リジィ、大変だ」
「ど、どうしたの?」
「体が痛いから早く出たいんだけど、そもそも出られる気がしない」
「あちゃー」
先にバスタブから出たリジィに引っ張ってもらう形で、からがら僕は抜け出した。引っ張ると言うか引っこ抜くという感じのほうが近かったかもしれないし、出る時にも盛大に肘やら肩やらをぶつけたので、正直もう二度とやりたくない。
バスタブに入ろうと言い出したリジィはさすがに悪いと感じたのか、居間に戻ってから温かい飲み物もらってくるねと小走りにキッチンへ消えていった。
そして一人になって、僕はテーブルに置きっぱなしにしていた日記を再び手に取る。
自分の母ではなく、一人の人間として、エミーリアがルーカスと生きていければいいのにと思ってしまう。
けれど僕は確かに今存在していて、母はもう死んでいて。
だからこの先を読むのは少し怖い。
それと同時に、以前よりもずっと近くに母を感じる気がするのだ。
僕は生まれて初めて、母のことをもっと知りたいと思っている。
お久しぶりです。生きてます。
次話からエミーリアの日記後半戦です。よろしくお願いします!




