エミーリアの日記6
来たる明けの日。
私は十年ぶりに、本館の絨毯を踏んでいた。
離れの薄っぺらい絨毯に慣れしたしんだ足がずぶずぶ沈むようで、ただでさえ憂鬱な気持ちも一緒に沈んでいく。
それでもルーカスにああ見栄をきった手前、いまさら離れに帰るとも言えず、石を飲んだように重たい体を引きずりながらなんとかダイニングルームの前までやってきた。
この扉の向こうには、私が十年間逃げ続けた世界が待っている。
第一に確認しなければならないことは、私ことエミーリアの本当の両親、特に父親についてだ。
候補者は今のところ一人。そしてこの候補者が父親でなければ、たぶん私は名もなき路傍の石と同然になれる。
「私は石になりたい」
貝でもいいが、どちらかと言えば私はおしゃべりな方だ。
「彫刻かぁ。僕がんばるよ」
「違う。別に自分の像を彫ってほしいわけじゃない」
私はどこかの権力者でもなければ、ナルシストでもないので、ルーカスの頭に軽い拳骨を落とした。
今からレトガー家の面々と顔を突き合わせて、自分の出生のことや、ルーカスと自分のこれからのことを公爵と話す、もしくはその切っ掛けを作らなければならないと思うとなんだか気持ち悪くなってくる。
とはいえ一度の対話で全て解決させられるような手腕も策もない。
とりあえず今日は自分がまともにものを考えられる人間だと証明できればいいと自分に言い聞かせて、なんとか気分を落ち着けようと私は試みた。
「うん、ダメだ、吐きそう」
「今から食べるのにもう吐くの?」
冷えた指先をこすり合わせていると、温かなものに包まれる。
ルーカスの一回り小さな手が私の手を握っていた。彼の手のひらの皮は予想に反して、硬く乾いている。
「ちょっとは心配してくれてもいいと思うんだけど」
「してるよ。父さんは凄く怖い人だから。でもきっと父さんもエミーリアのことを気に入ると思うよ。それにエミーリアも緊張したりするんだと思うと、その新発見でドキドキする」
「ドキドキするな。ちょっと気持ち悪いぞ、お前」
褒めてもないのに、ルーカスはなぜか嬉しそうにはにかむ。
そのふにゃふにゃした顔を見ていると、どうにも力が抜けてしまい私は無意識に上がっていた肩をがっくりと落とした。
「まぁ行くしかないか……」
私が予想していたよりもスムーズに夕食は始まった。
映画でしかみたことのない細長いテーブルのいわゆる誕生日席には、私の養父でありこの家の絶対権力者であるレトガー公爵が座っており、公爵から見て右側の近い方から長男ハロルド、次男ミヒェル、そして三男のルーカスが。そして左側には公爵夫人、私の妹にあたるイルザ、私の順で座ることとなった。なので私の正面にはルーカスが座っている。
本来なら年齢順で私は夫人とイルザの間に座ることになっていたのだが、末席で結構と断りこの席順に落ち着いた。
十年ぶりの顔合わせでいきなり両脇を挟まれるとか嫌すぎる。泣く。
ただでさえほぼ初対面の兄妹たちから訝しむような鋭い視線を投げかけられて針の筵なのだ。
そういうわけで恐ろしいほどに静かな立ち上がりで、私は十年越しにレトガー家の面々と顔を突き合わせることとなった。
最初に口を開いたのはレトガー公爵だった。
三兄弟の長男ハロルドに調子はどうかとあたりさわりのない話題を投げる。
私は味のしない前菜を無心で咀嚼しながら、向かいの席のハロルドやミヒェル、そして公爵を改めて観察していった。ルーカスからの前情報は当てにならないので、自分の目で見て人となりを感じるしかない。
ハロルドは温和そうな青年で少しだけ大人ルーカスに似ている。本物が前髪小僧だということを知らなければ、こちらがルーカスだと勘違いするほどだ。そのためか実年齢よりも達観しているようにも見える。
私がふざけてミッフィーと呼んでいたミヒェルはもちろんあのお口がばってんの兎に似てるなんてこともなく、勝気そうなピカピカ光る目をした少年だった。体格がよく、快活そうなのだが、まとう空気はどこか神経質だ。
そして彼らの父であり、私の養父である公爵は、三十代半ばのややたるんだ男性だった。顎のあたりが早くもたぷついており、ぱっと見冴えないおじさんと言われても仕方のない容姿をしている。しかし彼は常に油断なく、鋭く私たちを見つめており、その目に見つめられると心臓がひんやりするのであった。
「ミヒェルはどうだ?悪さばかりしてないだろうな」
公爵は優しい父親の顔をハロルドからミッフィーへ向ける。
「いいえ、父上」
「まぁ多少の悪さはかまわんか。弟に出し抜かれるようではまだまだだが」
「あれは!」
そこでなぜかミッフィーは私をキッとにらみつけた。
「誰かが入れ知恵したに決まってる」
ミッフィーのだけではない。全員の視線が私に集まっていた。
すうっと血の気が引いていく。
普通ならば震えるところかもしれない。
しかし私は昔から緊張して血の気が引くと、妙に肝が据わるところがあり、この時もまさにそうだった。
私は臆することなく、自然なふうに口を開く。
「私がその入れ知恵をしたとでも?」
答えが返ってくるとは思っていなかったのか、気圧されたようにミッフィーは目を反らしかけて悔しそうな顔をする。
彼は目を反らしかけてしまったことを恥じているのか、挽回するように皮肉気に口の端を釣り上げた。
子供のくせになかなかに様になっている。
「あんたが何と呼ばれているか教えてやろうか?離れの魔女だよ」
正面に座ったルーカスの頬がこわばるのが見えた。
なるほど。一度、魔女なのかと尋ねられたことがあったが、そういう呼び名があったからか。
ただ単にルーカスの脳内がファンタジー寄りなだけだと思っていた。
いやでも、初対面では雪の妖精とか言っていたし、脳内ファンタジーは元々か。
「魔女だなんて光栄だわ。邪悪でも馬鹿ではないってことでしょう?」
「自分で自分のことを邪悪だと?」
「それこそ言葉の綾でしょう」
自分が善良な人間ではないことくらい自覚していたので、そう嫌な気分にはならなかった。もちろん嬉しくもないが。
一瞬。口げんかに発展するラインギリギリまで緊張感が高まる。
ルーカスがじっと私を見ていた。
自分がなんのために来たのか思い出した私が、勘弁してほしいというふうに眉を下げると、場の空気が少しだけ和む。
まったくもって自分自身が人と仲良くするのに向いていない人種なのだとほとほと感じて、少しだけ死にたくなった。
むずむずする空気の中、前菜が終わり、スープが運ばれてくる。
柔らかな薄緑色のポタージュに少しだけ頬が緩む。
たぶん材料はソラマメかなにかだろう。豆は得意ではないが、ポタージュになると甘いので好きだ。
さてここからどうするか。
どのみちミッフィーは気にくわないから対立することはわかっていたが、喧嘩をしに来たわけでもない。
私が思い悩んでスープをゆっくりとかき回していた時だった。
「お姉さまが魔女だとしたら」
横から声をかけられ、驚いた拍子にスプーンが皿にぶつかり硬質な音を立てた。
「ルーカスは魔女の教えでも授けてもらっているのかしら。最近離れに入り浸ってる話だもの」
お姉さまという呼びかけにぶわっと鳥肌が立つ。姉さんならまだしも、お姉さまとか一生慣れる気がしない。
隣を見ると、妹にあたるイルデがそばかすの浮いた幼さの残る頬ににこにことした笑みを浮かべていた。決して意地悪そうには見えないのに、なんとなくこの子とは気が合わないなと直感する。
「まさか。むしろ私が絵の教授をしてもらっています」
「いやだわ、妹にそんな堅苦しい喋り方。私、ずっとお姉さまと話してみたいと思っていましたのに」
イルデは私より三つか四つか下といったところか。この世界のことに疎い私が描く貴族のお嬢さんそのままなしゃべり方をするものだからちょっと笑いそうになった。
「私と話してもつまらないだけだと思うけど」
「そうかしら?私、お姉さまってきっと怖い人だと思っていました」
「思ったよりも普通で拍子抜けしたでしょう」
「まさか!美人だったとは聞いていたけれど、まるで絵物語のお姫様みたいでびっくりしました。私もお姉さまくらい美人だったらよかったのだけれど」
哀れを誘うようにイルデは目を伏せた。
私自身はこの容姿を気に入っているわけでもないので、非常に反応に困ってしまう。
「美しさだけが価値ではないだろう」
斜め前にいるハロルドが機械的にスプーンを口元に運びつつ、とりなしているつもりなのかポツリと呟いた。
「そうね。少なくとも我が家ではそうでしょうとも。だからこそルーカスなんかに優しくするお姉さまとは仲良くできそうだと思わない?だってルーカスは逃げだした出来損ないなんだもの」
そこでようやくイルデは意地悪そうな本性を現して、鼻にしわを寄せた。
それに同調しているのはミッフィーだけで、ハロルドは不快そうに眉をひそめている。夫人は我関せずといった態度で、公爵は私たちのやり取りを楽しんでいる節さえ見えた。
ついに登場した出来損ないという言葉に、少し心配になってルーカスの方をちらっと見ると、向こうも私の視線に気づいてかすかに首をかしげる。
あまり落ち込んだ様子もないので、なんだか肩透かしを食らったような気持ちになった。
もしかしたら言われ慣れていて、いまさら目に見えて落ち込んだりしないだけなのかもしれない。
ここはひとつルーカスのためにも、出来損ない発言に反発しておくかと、変な正義感が働き私を鼓舞した。
「逃げることはそんなに悪いことかしら。ルーカスは絵が好きで、絵の道でも食っていける可能性があるのだから、その道を選んでも責められるいわれはないと思うけど。それにまだ子供じゃない」
私がそう反論するとイルデはむっとしたようだった。
そしてミッフィーもまた私の発言が気に入らなかったのか、イラついたように肩を震わせる。
「レトガー家の人間は子供だからって甘やかされたりはしない。俺だって……」
彼はぎりぎりと音が聞こえそうなほど歯をかみしめて、ルーカスを横目でにらんだ。
そういえばミッフィーはルーカスと年子なんだったか。
そしてルーカスは一年前にはもう一番上の兄と同じレベルまで進んでいて、今はサボり中。
勝気そうなミッフィーからしたら一つ違いの弟に勝てないことも悔しいし、できる奴がサボっているのも許せないということなのかもしれない。
クソガキ・オブ・クソガキだと思っていたけど、そう思うと少しだけかわいそうになった。
「ミヒェル、お姉さまはお家のことは何も知らないのよ。私と一緒、ね?」
「……何も知らないわけじゃないわ」
なんだか遠回しに馬鹿にされている気がして、そう呟くとイルデは面白くなさそうにふーんと顎を反らせる。
「じゃあ私にもわかるように説明してくださる?」
最初に感じた仲良く出来なさそうという感覚は間違っていなかったようだ。
そばかすのおとなしそうな見た目はわりとかわいいと思うのだが、どうにも中身と気が合わない。
というか、
「あなた、自分よりも下の人間がいないと安心できない質の人間でしょ」
「な……」
図星だったのだろう。
イルデはわなわなと震えて、絶句した。
年下相手に少し大人げない気もするが、いまは私も十代の少女だし、仲良く出来なさそうな人間に媚びる元気もない。
まぁ下を見て安心したい気持ちはわかる。
それに十五とかそこらは、一番傷つきやすく多感な時期だろう。私も昔は結構荒れたくちだ。
じゃあなおのこと優しくするべきだったのでは?と思ったが、ミッフィーもイルデも私の可愛いルーカスをいじめている奴らなので多少意地悪を返してもいいんだよ!と自己弁護することにした。
私は彼ら曰く、魔女らしいので。
「それぞれに得意不得意はあるんだから、人のことの欠点を笑って安心するよりも自分に向いているものを探した方が精神的にはいいと思うけど」
「引きこもって何も努力していないやつに、とやかく言われたくないね!」
逆鱗に触れてしまったのか、ミッフィーがテーブルに拳を叩きつけ怒鳴った。
そんなに怒るほど失礼なことを言ったのだろうかと眉をひそめていると、視界の端でルーカスがさりげない動きで、ミッフィーのグラスの位置をずらすのが見えた。
何をこそこそやっているのだろう。
「別に指図しようってわけじゃないわ。でも私が思ったことを言うのは自由でしょう?」
「ああいえばこういう女だな!」
うわ、年下に女呼ばわりされてしまった。ちょっとショック。
しかし私は性格が悪いので、やーい怒ってやんのーと心の中ではやし立ててみたりする。
ミッフィーは怒鳴って喉が渇いたのか、私をにらみつけたまま手元も見ずに水を取ろうとした。
しかし先ほどルーカスが位置をずらしていたので、彼の手はグラスを掴むどころか払いのけてしまった。
ころんとグラスが倒れて、水がぶちまけられる。
じわじわと青いテーブルクロスに広がる染みを見て、ミッフィーはあっと小さく声を上げた。
まさしく水をかけられたように場が静まりかえる。
誰もが身動きせず、メイドがこぼれた水を拭くのを眺めていた。
そんな白けた空気の中、控えめな低い笑い声が聞こえて私はぎょっと声の出所に顔を向ける。
「月に一度の家族そろっての夕食にとんだ波乱を持ち込んだな、エミーリア。とんと噂を聞かないものだからおとなしくなったと思っていたが、じゃじゃ馬ぶりは健在かな」
公爵は行儀悪くスプーンで空中にくるくると綺麗な円を描く。
「ソフィー、ミヒェルとイルデを連れて一度下がりなさい。残りの面子と少し話がしたい」
「どうしてですか父上!」
「ミヒェル、下がりなさいと言っている。お前には荷の重い話だ」
公爵の言葉に絶望したように顔を歪めてミッフィーは乱暴に立ち上がった。椅子がガタゴトと派手な音を立てる。
彼は首にかけていたナプキンをむしり取って、隣のルーカスに投げつけた。
ナプキン投げつけられたルーカスは無表情に頭にかかったそれを取り払い、丁寧に畳んでメイドに渡していた。慣れた様子に、度々繰り返されてきたやり取りなのではないかという考えが浮かぶ。
ミッフィーに続いてイルデと夫人が立ち上がる気配がした。
「どうせあなたもお父様の道具よ」
去り際にそうささやいて夫人とともにイルデもダイニングルームから出て行った。
そしてテーブルについているのは公爵とハロルド、ルーカス、私の四人となった。
「あの二人は決して悪い子じゃないんだ。ちょっと多感な時期なんだな」
二人を庇いつつ、公爵は一瞬咎めるような目を私に向けた。
案外父親らしいその態度に少し面食らってしまう。
「だがおかげで君がどんな女の子に成長したのか知ることができた。なかなか面白かったよ」
「……ありがとうございます?」
「ははは、素直でよろしい。ではさくっと本題に入ろうじゃないか」
公爵はテーブルに肘をついて、少しだけラフな格好になり、親し気にウィンクしてみせた。
「それで何をしにきたのかな、お姫様は?」




