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婚約者が悪役で困ってます  作者: 散茶
エミーリアの日記
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エミーリアの日記5


ゴンと鈍器で殴ったような重たい音がした。

背表紙が普通の本の五冊分はありそうな貴族年鑑を机の上に置いた音だ。

重たいだろうと覚悟して持ったところまではよかったのだが、我が肉体が予想よりも貧弱であったために、置くというよりも落下させたというほうが正しい。

「今、すごい音がしたけど大丈夫?」

浴室の方からひょっこりと顔を出したルーカスが心配そうに言う。その手には深い海を切り取ったような青いタイルが握られている。

彼は無造作に置かれた年鑑を見て、勝手に納得したというように頷いた。

「タイルの貼り換え進んでる?」

「ばっちりだよ!期待してて!」

本当に大丈夫だろうか。


私の血の繋がらない弟であり、狂人(私)の住む離れに入り浸る少年が、私がこの世界で目覚める前に激推ししていたゲームのキャラだと判明して早くも一週間は経っていた。

目に見えてルーカスへの態度を変えたつもりはないが、このガキンチョが成長すると私の知るルーカスになるのだと思うと、少しばかりの居心地の悪さと恥ずかしさを感じないでもなかった。そのせいでいつも以上に素っ気ない態度を取ってしまっているのだが、ルーカスは気にした様子もなく普段通り、我が物顔で私の離れに入り浸っている。

いやもはや入り浸るだけでは飽き足らず、模様替えまで勝手にし始める始末だ。

最初はテーブルクロスや玄関わきにキャビネットが増えたくらいで、それが白を基調とした品の良い感じだったので迂闊にいいじゃんなんて言ったのが運のつきだった。それからあれよあれよという間に家具が入れ替わり、ついには一昨日から使用人を巻き込んで浴室を大改造している。

「なにをやっとるんだお前は」

さすがにそう叱ると、

「エミーリアが住んでいたらいいな、絶対似合うなって思う空間を作りたくて」

とのことで犯人に反省の色はまったく見られなかった。

別にこだわりはないからかまわないが、人の離れを勝手に劇的ビフォーアフターするんじゃないよ。せめて家主の許可を取ってからやりなさい。

私はゲームのキャラである大人ルーカスの空気の読めない、いやむしろ空気を読まないところが好きだったのだが、いざ目の当たりにするとこいついい性格してるなと思わないでもない。子供のころからこうなのだから、これはもう筋金入りだなと感心すらしてしまう。


いや、ルーカスの話はいいのだ。

今私が考えるべき問題はほかにある。

絶対に姉として叱るべきなんだろうけど、真面目に叱るだけ馬鹿らしいし、なんだかんだで模様替えした離れも住み心地が良かったので、自分はルーカスを止めるよりも自身の問題を解決することを優先することにした。

ものすごく頭の痛い話であるが、仮にここが『ライラックの君』という乙女ゲームの世界だとしよう。

そうするとゲーム内では三十路だったルーカスが少年であるということから、私はゲーム本編よりもかなり前の時代にいることになる。おそらくは二十年前とかそれくらいだろう。

そして私はレトガー公爵の養女エミーリアであり、ルーカスの姉ということになっている。

そう、ルーカスルートを擦り切れるほど見た私が、存在すら覚えていないルーカスの姉だ。

もしかしたら設定資料にちょろっと書いてあったりしたのかもしれないが、ルーカスルートでエミーリアなんて名前どころか姉という字すら見た記憶がない。兄弟が何人もいることなら知ってはいたのだが。


ということは、私は名もなき脇役なのか?

幸い引き籠り生活のさなかにボケ防止で書き溜めていたメモには、『ライラックの君』に関するものもあった。

主にルーカスに関することが中心だが、覚えている限りの登場人物と簡単なプロフィールくらいはある。

まだこちらで目覚めてから数年も経っていないころに書いたものだから、今の私の記憶よりもずっと確かで信頼できるはずだ。

先述した通り、ルーカスの姉という存在はゲーム内では影すら登場していなかった、と思う。

手元にゲーム機とソフトがあれば寝ずに全ルートを確認するのだが、残念なことにドラえもんでも召喚しない限り手に入りそうにもない。というか、この現状がもしもボックスでも使ったのか?と言いたくなるような状況だ。

もしも乙女ゲームの世界だったら~?

なんとゲーム本編の二十年前で、謎の人物に生まれ変わってましたー!

とか冗談じゃねー!

年上キャラが好きなのに、そのキャラが自分よりも年下って私何か悪いことでもしましたかね!?

だって二十年後にルーカスがあの大人ルーカスになっても、私もプラス二十されてるわけだから結局は年下というわけで、私は永遠に年上の大人ルーカスには会えないのだ。

こんなことってある?

乙女ゲームの世界に意識だか魂だかが飛ばされて好きなキャラに会えたのに、なんなの?遠目で見て、はわわルーカス素敵!大人の色気だわ!だなんてときめくことすら私には許されないのか。

もう弟だと認識してしまったから、いまさらそんなふうにこの胸はときめいてはくれないのだぞ。

どうしてくれる。

責任者はどこだー!責任者を出せー!


とまぁ存在すら定かでない責任者に怒りを爆発させていたわけなのだが、はたととてつもなく恐ろしい可能性に気づいてしまったのだ。

二十年前ということは、私が攻略対象の母親であってもおかしくないという可能性に。

この世界がゲーム通りのなんちゃって中世なのだとしたら、貴族の娘は二十歳で子供の一人や二人産んでいて何もおかしくはない。

そこで私は思いつく登場人物思い出せる限りの特徴、経歴を項目で書き出し、自分がそれにどれほど当てはまっているかのリストを作成した。

正ヒーローの王子(名前は忘れた)の母はおそらくないだろう。筋金入りの引き籠りが王妃になれるわけがないし、たしか王子は金髪だった。

茶髪ワンコ系の名前が三文字の奴(これも名前は忘れた)はたしか身分が低めだったので、腐っても公爵家の私が嫁ぐ可能性は低い。

次にアロイス(若干好みだったので名前は憶えている)は、彼の父親らしき貴族がすでに結婚しているとの確認がとれたのでこちらも可能性は低い。あと私は赤髪の子供とか産める気がしない。

残るは白髪ツンデレ枠のダリウスと隠しキャラのあいつなわけなのだが……。

まぁダリウスはないだろう。彼の一族はかなり特殊で、基本的には他の一族とは交わらないことを信条としていたはずだ。

そして隠しキャラの奴に関してなのだが、攻略対象の中では一番私とつながりがある可能性が高いと言わざるを得ない。

……言わざるを得ないのだ。

いやでもたぶん、違うと思う。

絶対違う。

私は名もなき脇役。

背景にすら描かれないし、シルエット登場もしない存在。

そうに決まっている。

頼む、そうであってくれ。


ルーカスたちが浴室で作業するくぐもった音を聞きながら、私は天井を仰ぎ見る。

私が誰であるか、それを突き止めるためにはやはり実の父母が誰であるかを知らなければどうにもならないだろう。

そしてそれを知っていて教えてくれそうな人物はただ一人。養父のレトガー公爵だ。

「面倒くさいなぁ……」

年鑑の硬い表紙を開いて、パラパラとめくっていく。

王族の系譜のページで手を止めた。

爪先で国王の名をトントンと弾いて、その下に連なる子供たちの名前をなぞっていく。

本来ならば私の名前はここに連なっていた……。

「いやいや、ないない。まだ可能性があるってだけだし……」

でももし本当にそうだったら?

もし本当にそうだったら、私は……。





肩を揺さぶられ、私は目を覚ました。

考え事をしているうちにうたた寝してしまったらしい。夜は寝れないくせにすぐ昼寝してしまうから引きこもりはいけない。

日のさしこむ角度を見るに、夕方に入るか入らないかという時刻のようだった。

「おはよう」

ぼんやりと瞬きを繰り返す私を見て、ルーカスはくすくす笑っている。人の寝起きを笑うとは失礼なやつめ。ムカついたので頬やら鼻の頭に絵の具が付いているのはしばらく黙っておくことにした。

ふと大勢あった人の気配がなくなっていることに気が付く。

「もしかして終わった?」

「うん、さっき。早く見てもらいたくて起こしちゃった」

ニカっと笑うのがなんだか眩しくて目を細める。

これがあと二十年も経てばあーなるのかと大人ルーカスを思い浮かべて比べてみるが、ぶっちゃけそんなことしなくともこの笑顔は可愛いし、推せる。可愛いなコンチクショウである。

寝ている間に掛けてくれていたショールを巻き付け、ルーカスに乞われるまま浴室を見に行くことにした。


壁一面はつやつやとした深い紺色のタイルでおおわれており、まるで深海にアクリルケースの部屋を沈めたみたいだった。洗い場のタイルやバスタブは依然のものをそのまま使っているので柔らかいクリーム色のままだったが、それが余計深海の砂底のように見える。

「真っ青にするって言うから、もっと寒々しい感じになると思ってたけど、結構いいじゃん」

よく見ると壁の青いタイルは少しずつ色の濃さが違っており、総合的には下から上にかけて色が濃くなっていっている。

「よかった!でももっと見てほしいところがあるんだ」

ルーカスは鼻息荒くいそいそと靴を脱いで、湯を張っていないバスタブの中に入った。

「え、なにしてんの?」

全くもって意図が分からず困惑していると、早く来いとにこにこ微笑まれ、その圧に負けて渋々バスタブの中に入る。

いくら成人前の女と小さな子供といえども二人並んで入るには少々窮屈だ。

結果、肩を寄せ合うようにして、バスタブの中で仲良く体育座りをする羽目になったのだが、ルーカスはご機嫌そのものだった。

言われるままにバスタブに入ってみたものの、特に変わったところはない。

「上、見てみて」

なんだか釈然としない気持ちを抱きつつ、上を見上げた私は思わずおおと感嘆の声を漏らした。

天井には夜空が描かれていた。

トゲトゲとデフォルメされたいくつもの星が散らばり、薄い雲が月明かりをうけて灰色に輝いている。

「夜の中にいるみたいでしょ?」

ひんやりとしたバスタブの中、くっついたルーカスの体だけが温かい。

ルーカスは夜の中と表現したが、私には深い海の底から夜空を見上げているような気がした。

「本当はバスタブも綺麗な色のものに変えたかったんだけど、さすがに無理だったよ」

残念がる声に同意も否定もせず、ふーんと相槌を打つ。

「船みたいでいいと思うけど」

「船……」

「そう。夜を渡る船」

雰囲気に流されてえらくポエミーなことを言ってしまった気がする。

猛烈に襲い来る恥ずかしさで仏頂面になっていると、鼻をすする音が隣から聞こえた。

もう少し楽しみたいが、さすがに冬場の浴室で、しかも湯もはっていないバスタブは冷える。寒いから部屋に戻ろうと促したが、ルーカスは歯切れの悪い返事をするばかりで全く動こうとしない。

不審に思って顔を覗き込むと、なんと彼はちょっと泣いていた。

涙がこぼれないように我慢したせいで、鼻がずるずるになってしまったらしい。一生懸命鼻をすすっていた彼は突然近づいた顔に驚いて、うわっと声を上げて仰け反った。

そしてその拍子に壁に頭をぶつけてしまい、ゴンッと鈍い音が響く。

「なにやってんの。大丈夫?」

ルーカスは返事をする代わりに、立てた膝の間に頭を埋めて呻いた。これは相当痛かったに違いない。

がんばって浴室を改装してくれたお礼も兼ねて、小さな紫色の頭を労わるように撫でるとぐうとルーカスは唸る。

彼の髪の毛は細く、ふわふわとしていた。

紫色が背景の深い紺に溶けていきそうで何度も存在を確認するように撫でた。


「……明日、父さんが早く帰ってくるから、全員で夕食を取るんだ」

「あまり嬉しくなさそうね」

「僕は出来損ないだから肩身が狭い」

肩身が狭いなんて言葉よく知っていたなと思いつつ、私はルーカスの薄く頼りない肩を見つめた。

前はこんなふうに仲よくするつもりもなかったので踏み込まなかったが、もうすでに私は彼と十分関わり合いになってしまっている。

だからルーカスを出来損ないだとなじる存在が憎らしくなり、誰がそんなこと言うのかと尋ねた。

「兄さん達と姉さんが……。でも父さんはどうしてか僕に凄く期待しているんだ。だから余計居づらい」

「言われたことだけこなして、後は好きにするとかじゃだめなの?」

立てた膝に頭をのせたまま、もそもそとルーカスは答える。

「去年までは真面目に言われるままに勉強も武術もやってたんだ。嫌いじゃなかったし、絵はこっそり描けばよかったから。でも、僕、兄さんを追い越しそうになって」

「それってミッフィー?」

ルーカスは首を横に振って、一番上の兄さんと小さく呟いた。

「え、待って、一番の上の兄さんって私くらいの年齢でしょう?」

信じられない気持ちで尋ねたが、ルーカスは誇るでも恥じるでもなく、うんとうなづく。

「兄さんは怒らなかったけど、嬉しそうでもなかった。それに……」

「それに?」

「……次の段階に進みたくない。進んだら戻ってこれなくなる」

それからいくら尋ねてもルーカスは次の段階については教えてくれなかった。ただ青い顔で首をゆるゆると振るばかりだ。

「エミーリアはずっとここに居たいと思う?僕は……僕は嫌だ。いつか画家になって自由に生きていきたい。僕はレトガーの大人にはなれない」

次の段階に進むこと、それはすなわちレトガーの大人になるということらしい。

「じゃあ私がきっぱり言ってあげようか」

ピクリと肩が震えて、ルーカスはやっと顔を上げた。

鼻の頭についた絵の具を親指でこすると、乾いてパリパリになった絵の具の粉がぽろぽろと落ちる。

「ルーカスは私が責任もって一人前の画家にします。だからもう放っておいてあげてくださいって」

「でもエミーリアは……」

「引きこもりはもうやめるわ。明日はそれも伝えないとね」

ショックを受けた顔でルーカスはそんなと弱々しく囁く。

「引きこもりをやめてどうするの?」

「さぁ?」

実のところ引きこもりをやめると決めたのはついさっきのことだったので、まったくもってこれからの展望もなければ、実感もなかった。というか自分が言った言葉を聞いて、ああ、私ついに脱引きこもりするのかと驚いたくらいだ。

この小さな生き物が必死で生きているのに、自分は逃避し続けているということがあまりにも情けなく思えてきたからなのかもしれないし、ただ単に終わらない夢で目的もなく過ごすことに飽きたからなのかもしれなかった。

だというのに今この瞬間にもぱちんと弾けて終わってしまいそうだという感覚は拭えなくて、私は細く息を吐きながら絵の具で描かれた星空を見つめる。

ルーカスと二人、誰もいない惑星に放り出されたような空恐ろしい気持ちに襲われて、少しだけ体が震えた。



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