エミーリアの日記4
次の日、ものの見事に私は風邪をひいた。
言い忘れていたが、我が肉体は非常に軟弱である。
引き籠り生活で鍛えた免疫力のなさには少しばかりだが自信がある。まったくもって胸を張れない内容だが、私は自虐的に自信をもって生きていこうと思う。
鼻をずびずび鳴らしながら毛布にくるまって浅い眠りと覚醒を繰り返す。
時間も自分の体も意識も輪郭を失って、熱に浮かされた私が夢の中をふわふわと漂い続けていると、枕元に誰かが現れた。
柔和だけどどこか寂し気な目の見覚えのある男の人だった。紫の髪は襟足が長くて、癖の強い毛先がクルクルと跳ねている。
「どうやったらこの夢から覚めることができるの?」
そう問いかけた私に彼は困ったように微笑んで、額にそっと手をのせた。
熱を発する私の額には、彼の手は冷たすぎてまるで氷か大理石みたいに思えた。
「眠るといい。そして寝覚めれば、夢を見ていたことすら忘れるよ」
忘れてしまうのだと言われて、なぜだか少し寂しくなった。
この世界で生きていて、忘れたくないことなんて一つもないはずで、これからもできるわけがないのに。
眦から涙が一粒こぼれた。
彼は少し驚いたように目を見開いて、私の涙を人差し指で拭ってくれた。
スイッチが入るように唐突に目が覚めた。
よく眠ったからか少しだけ頭がすっきりしている。
その代わりちょっと身じろぎしただけで固まった関節がキシキシと軋んで痛んだ。
今、何時ごろだろう。
部屋の白い壁紙は、窓から差し込む夕日にオレンジ色に染められている。
起き上がるのはまだつらかったので窓の方へ首だけ動かすと、目が合った。目が合ったと思ったのだが、長い前髪のせいで本当にそうだったのかはわからない。
けれどベッド脇の椅子に腰かけた少年は、私が起きたことに気が付いてにっこりと笑った。
「おはよう、姉さん」
「不法侵入!」
とっさにそう叫んで盛大にむせた。
寝起きの喉でやるようなことじゃなかったけど、それは不法侵入した少年が悪い。
少年は膝の上に立てた板を慌てておろして、水を渡してくれた。それをありがたく受け取り、せき込みながらもなんとか飲み干す。
人心地ついた私はじろりと少年をにらみつけた。
しかし少年はどこ吹く風といった様子で空いたコップに水を注ごうとする。
「いい、いらない」
「寝起きだし、風邪の時は水をたくさん飲んだ方がいいよ」
「そういう豆知識より、なんでここにいるのか教えてほしいんだけど」
少年は恥ずかしそうにうざったい前髪をいじりつつ、お礼に来たんだと言った。
「でも全然返事が返ってこないから、もしかしたら倒れているんじゃないかと思って」
「外出しているとは思わなかったわけ?」
「外出?」
やめろ。そのありえない単語を聞いたみたいな顔をするのは。
外出がありえないことくらい、自分が一番よくわかってるよ!
「悪いとは思ったけれど中に入ったら苦しそうな声が聞こえて、それでさすがに寝室は入っちゃダメかなと思ったんだけど、やっぱり凄く苦しそうにしていたし、ここメイドの一人もいないから、お礼の代わりに看病しようと思って……」
もにょもにょもにょもにょ言うものだから、かろうじて聞き取れた内容から推測するにそういうことを少年は言ったらしかった。
「もうちょっとはっきり、簡潔に喋ってくれない?」
「……ごめんなさい」
「別に怒ってるわけじゃない」
ついついきつい言い方をしてしまって、少年をさらに委縮させてしまう。
私はため息をついてぐったりと体の力を抜いた。
これじゃあ私がいじめているみたいじゃないか。
「看病してくれたのはありがたいけど、風邪がうつるといけないから早く帰りな」
できるだけ優しい言い方になるように気を付けて言うと、少年はぱっと顔をあげなぜか嬉しそうにした。
「大丈夫だよ。僕、体だけは頑丈だから」
「私より小さいひょろひょろの前髪小僧のくせによく言うよ」
「すぐに姉さんより大きくなるもん」
「……あのさ、姉さんって呼ぶのやめてくれない?」
「どうして?」
そんな不思議そうに言われても、嫌なものは嫌だから仕方ないだろう。
姉さんとか呼ばれるたびに、体がむず痒くなってしまうのだ。
「確かに戸籍上私は君の姉なんだろうけど、昨日までまともにしゃべったこともない相手に姉さんなんて呼ばれても正直困る」
「じゃあなんて呼べばいいの?」
その問いに私はとっさに答えることができなかった。
今の私は、この体はエミーリアという名前であるけれど、それが自分の名前としてしっくりくるものであるかと聞かれれば答えは否だ。
しかし今はそれ以外に呼び名としてふさわしいものも思いつかなかったので、普通に名前で呼べばいいと言うしかなかった。
「わかった、エミーリア」
誰かに名前を呼ばれるのは久しぶりのことだったからか、声変わり前の少年の柔らかな高い声はいつまでも耳の奥で響くような気がした。
ベッドの上で体を起こすのを手伝ってくれた少年は、昨日彼が離れから戻った後のことを教えてくれた。
彼が私に言われた通り抜き打ちの掃除があったことを伝えると、ミッフィーは急いで部屋に戻ったらしい。中からゴソゴソ音が聞こえてきたので、少し待ってから部屋に突撃すると、クローゼットの奥の板が外れていてそこにこれまでの略奪品があったそうだ。
ミッフィーがポカンとしている隙に、少年は大声でメイドを呼んで自分のものを回収する手伝いをしてもらったそうだ。
略奪品の中には、少年とミッフィーの兄、つまり長男のところから盗んできたものもあったらしい。人の者盗んで隠すとかとんだクソガキだな。
こうしてミッフィーの罪状は屋敷中の知る所となり、その晩父からこっぴどく叱られたらしい。いい勉強になったことだろう。
「へぇ、よかったじゃん」
自分のアドバイスで上手くいったと言われ、わかりやすく気分がよくなった私がそう言うと、少年は急に真面目な顔をする。
「エミーリアって本当は魔女なんじゃないの?」
「またお前はファンシーなことを……」
昨日は雪の妖精だったっけ?
よくもまぁ妖精だとか魔女だとか、そういう恥ずかしいことを大真面目に言えるものだ。そういうところはやっぱりおこちゃまだな。
だけど私という存在はどうしてもこの世界になじむことはできないわけなので。
「まぁあながち間違ってないかもね」
自虐的な気持ちでそう呟くと、少年はえっと大きな声をあげる。
臆病そうに見えて、実は図太くて、それでいて夢見がちというか純粋というか。
まったくもって変な子供だ。
「そういえばさっき持ってた板みたいなのは何なの?」
今度は聞かれたくないことを聞かれたと言うような、短いえっという声をあげて少年は固まった。
「見せられないようなことしてたわけ?」
じとっと見つめると、じわじわと顔が赤くなって、明らかに挙動不審になる。
とはいえ対して興味があるわけでもないので、どうしても見せたくないようならそれ以上追及するつもりはなかったのだが、少年が恥ずかしがりながら見てほしそうな素振りを見せるので面倒くさいなと思いながらも彼が決心するのを待ってやることにした。
しばらく待っているとタコみたいに顔を真っ赤にした少年は、足元に隠していた板をおずおずと差し出してきた。
板だと思っていたものは画板というものだろうか、紙が挟んであり、その紙には庭に佇む女性が鉛筆だか木炭だかで描かれていた。
ぶっちゃけ学生時代美術の評価万年2の女だったので、絵のことは全くわからないのだが、それでも子供が描いたとは思えないほどよく描けているということくらいはわかる。
雪の積もった庭に、佇む女性は夢見るような眼で遠くを見つめている。綺麗な女性だが、どこか見覚えがある。女優の誰かに似ているのだろうか。
絵の表面から空気の冷たさや冬の匂いがしてきそうだった。
「上手ね。綺麗だし、ちょっと寂しい感じがして……絵とかよくわからないけど、私は好きだと思う」
「本当!?」
私の言葉を聞いて少年は、椅子から飛び上がって喜んだ。
「よかった!勝手にエミーリアを描いちゃったから、怒られないかひやひやしちゃった」
「あ!これ、私か!」
自分の姿はあまり見ないようにしていたから、わからなかった。どうりで見覚えがあるわけだ。
これが少年から見た私の姿なのかとまじまじと見返してみると、不思議なことにいつも抱く嫌悪感のようなものがなかった。
「……やっぱり下手だよね」
「違う違う!下手だからわからなかったわけじゃないのよ?まさか自分を描いてもらえるとは思わなかったから」
「そうかなぁ、僕はエミーリアよりも綺麗な人見たことないけど」
「お、おう……」
コミュ障だから上手な返しができずに、目をきょろきょろと泳がせる。
この世界での私の容姿は確かに劇的ビフォーアフターしてるわけなのだが、人づきあいゼロだったためにこうやって容姿を褒められるのは初めてのことだった。
「ねぇ、エミーリア、明日も来ていい?」
そっとうかがいながら、少年は秘密を打ち明けるように言った。
私は持ったままだった絵に視線を落とし、逡巡した。
静かに、誰とも触れ合わず、誰の記憶にも残らないように生きていきたいという気持ちに変わりはない。
けれど相手は子供で、一応は私の弟なのだ。
それでも意固地に来るなと言うことほど、馬鹿らしいこともない。
「手土産を持ってきてくれたら、追い返しはしないかもね」
少年はそれから毎日昼過ぎに来ては、夕食の時間まで私の離れに入り浸るようになった。律儀に手土産としてちょっとしたお菓子や果物を携えて。
「毎日、こんなところに来て怒られないわけ?」
四日目だったか、私が呆れていると少年は憎きミッフィーから取り返した絵画道具でスケッチをしながら、
「僕は出来損ないだから」
「出来損ない?」
少年はそれ以上語らず、寂しそうに微笑んだ。
子供には似つかわしくない笑みに、私の中のちっぽけな良心が痛む。
そのうち飽きてここには来なくなるのだろうし、これ以上少年の事情に立ち入る必要はない。そう言い訳をして、それ以上深く聞くことはしなかった。
少年は毎日来ては、絵を描いた。
私の離れにはうっすらと絵の具の匂いが漂うになり、そのことについて文句を言うと少年はポプリをくれた。私が要求した絵の具を使わないという根本的な解決はいつまでたってもなされる気配がない。
少年が絵を描いている間、私は読書をしたりピアノを弾いたりして、各々自由に過ごした。もちろんおしゃべりすることもあったが、互いに好きな作業をしている時間のほうが圧倒的に多かったように思う。
少年はよく私に絵のモデルになってほしいと頼んだ。
もちろん面倒だったからすべて断った。あれこれとポーズの注文を付けられて、何時間もじっとしていなければならないなんてとんでもない。
その代わりこっそり私をスケッチしていることには目をつむってやった。
そんなこんなで一か月が過ぎた。
その間、私は少年を呼ぶとき、君という二人称で突き通していたのだがさすがにそろそろ罪悪感がやばい。
いや少年は勝手にここに来るのであって、別に来てほしいとか仲良くしてほしいとか頼んだ覚えもないわけなのだが、ここまでなつかれてしまっては年上としての責任を感じるのも事実だ。
いつまでも君呼びじゃかわいそうだよね、と善なる私がささやくのである。
とはいえ名前何?と直球で尋ねるのが気まずくて、ずるずると引き延ばすうちにもうどうあがいても今更名前を聞くの?正気?みたいな時間が経ってしまった。
そして悩みぬいた末にたどり着いた解決策がこれだった。
「少し前から日記を書き始めたんだけど、君の名前のつづりを確認したいからここに書いてくれない?」
いたって自然なふうを装って、私は数週間前から書き始めた日記のまっさらなページを開いて少年に見せた。
さぁ、ころっと騙されて名前を書くがいい!
「本当は僕の名前わからないんでしょ」
「ち、違うもん!」
うわー!図星すぎてもんとかかわい子ぶってしまった。最悪。
ええい、もう知るか!
いまさら何を気を遣うことがあるのか。
私は姉なのだからたぶん少年より偉いのだ!
……素直に謝ります、はい。
「ごめん、実は君の名前がわからないんだ。よかったら、教えてくれる?」
「最初からそう言えばいいのに」
少年は怒りもせずにむしろ楽しそうにけらけらと笑って、日記帳の開いたページに彼の名前を書きつけた。
「ルーカス?」
また随分となじみ深い名前だ。
というのも私はいわゆるオタクに分類される人間だった。
特に思い出せる直近では、『ライラックの君』という乙女ゲームにはまっていて、その攻略キャラの一人であるルーカスに熱をあげていた。鍵にアホみたいに大きなキーホルダーをつけ、本棚や机の上にグッズを飾り、携帯の待ち受けはぱっと見じゃわからないように偽装したルーカスモチーフの画像を設定し、おはようからおやすみまでを彼とともに生きていた。
ルーカスは攻略キャラの中でも最年長で、ゲームの舞台である学園で美術教師をしていた。
だぼっとしたローブをいつも着ていて、天然っぽいゆるゆるな言動を繰り返すのだが、その実自虐的で皮肉屋である。そして何より一途で、本質的には純真なキャラだ。
たしかルーカスの一族は代々政治を裏から動かし、国を守護する役目を持っていて、彼はその役目に反して絵の道に進んだために出来損ないと卑下されながら育つ。そんな彼の唯一の希望が絵であり、初恋の彼女だ。
初恋の彼女はルーカスの絵の先生の奥さんで、ゲームのシナリオ内では故人として登場していた。
けれどもうずっと前に亡くなってしまっているので、ルーカスは彼女の顔を忘れまいと、渡せなかった彼女の肖像画を何枚も何枚も書き続けていた。
「彼女の声も匂いも、手の感触も思い出せないんだ……!だから描かなきゃ……せめて、彼女の姿だけでも忘れないように!」
血を吐くようにそう言ってぐちゃぐちゃのキャンバスに向かう彼のスチルを思い出すと、今でも心臓がギュッとなる。
うわー、切ない!かわいそう!好き!ってなっちゃうのだ。
ヒロイン以外の女性を思い続けるという設定はかなり好みがわかれるものだが、私は彼のそういう一途すぎるところが本当に本当に好きだった。
さらに言えば、年上の男が年下の女の子に癒されて立ち直っていくというところが非常にポイント高かった。最後にヒロインの絵を描いて渡してくれるところとか、色々な乙女ゲームをやってきたけどあんなに泣いたことはないってくらい泣いたものだ。
あと純粋に見た目が好きだった。
何度見ても立ち絵が出てくるたびに、うわ、顔がいいってなっちゃってた。
実際に居たら面倒極まりないし、自殺未遂を何回もかますやばい奴なので関わり合いになりたくないとは思うのだけど、画面の中で微笑む彼は間違いなく私の生きる糧だった。
だが悲しいことにもうずっと拝めていないので、どんな顔だったのか思い出そうとしてもぼんやりと曇りガラスの向こうにいるようにはっきりしない。
こうやって好きなものも嫌いなものも、全部忘れていってしまうのだろうか。
額にひんやりとしたものが触れて私は我に返った。
思ったよりもルーカスの顔が近くて、ひっくり返りそうになる。
彼は私の額に手のひらを当てて心配そうな顔をしていた。
「な、なに?」
「突然ぼおっとしだしたから、熱でもあるのかと思って」
「ああ、大丈夫。ちょっと考え事してただけだから」
それにしても不思議な符合が重なるものだ。
レトガー。
ルーカス。
紫の髪。
絵を描くことが好きで、家では出来損ないと呼ばれていて。
「……ル、ルーカス?」
「そうだよ」
「ルーカス・マルコ・レトガーじゃないよね?」
「あれ、僕の名前知ってたの?なんだ、てっきり興味ないから知らないものだとばかり思ってたよ。ふふ、ちょっと嬉しいや」
私はなりふりかまわず少年の頭をアイアンクローして、前髪をかき上げた。
「うわっ!?」
そして私は初めてちゃんと少年の目を見た。
大きく見開かれた目は女の子みたいに睫毛が長くて、瞳は黒かった。
目鼻立ちは整っていて、ちょっと口が大きくて愛嬌がある。
成長途中の少年の顔はまだ子供らしい丸みを帯びていたが、それでも彼の顔を見た瞬間にこの顔だ!と思った。
何度も妄想して、ファンアートで見たけれど、まさか誰がルーカスの子供時代が前髪お化けだなんて思うだろうか。
そう、信じがたいことに、離れに通ってくる奇特なこの少年はどう考えても、どこからどう見ても、私が愛していたゲームキャラのルーカス・マルコ・レトガーだった。
「ルーカスじゃん!?」
「ど、どうしたの、エミーリア。僕はルーカスだって言ってるじゃないか」
私は少年の前髪をしつこいくらいになでつけ、顔を何度も確認した。
けれど何度見てもそのたびに、ルーカスに顔が似ていていることを認めざるを得ない。
おま、お前、なんで……なんでよりによって、ショタなんだ!?
私は年上のルーカスが好きなのであって、でもルーカスはルーカスだからショタでも愛するべきであって、というか現実にいる人物にたいしてショタとかどうとか失礼だよね!?というかそういう思考、人としてよくないって言うか。
……ちょっと、落ち着こう。
百歩譲って少年がルーカスだとして、ということはここは『ライラックの君』のシナリオでいうところの過去軸にあたるのか?
なんで!?なんでなの!?
どういうこと?まったくもって理解が追い付かない。
待てよ……じゃあ、私は?
私は一体、誰なんだ?




