エミーリアの日記3
その子供が私の庭に現れたのは、ちょうど一週間ほど前のことだ。
一晩中降り続いた雪で、日が昇ったばかりの庭は青白く光っている。
いつものごとく寝付けずに朝を迎えた私は、いつものごとく自暴自棄な気持ちを持て余し、夏に着るような薄いレースのドレスで庭に佇んでいた。
凍死というものは、眠るように死ぬのだと聞いたことがある。
よくわからないけれど、きっとそういう風に眠るように死ねば、この長い夢から目覚められる気がした。
死ぬのは怖くなかった。
どうせ私が死んだって誰も悲しみはしないし、思い残すほど何かと関わったこともない。
けれど不安なことがあるとすれば、死んだとして私は元の世界に戻れるのか、それだけが不安だった。
もうよく覚えていないのだが、私は日本という国で暮らしていた。
何もとびぬけたところのない、いたって平凡な暮らしをしていたように思う。いや平凡というにはいささか趣味に走りすぎた生活をしていたように思うが、まぁおおむね平凡だったはずだ。
ものすごく眠かったのを覚えている。
数日間ろくに寝れないほどの忙しさが続いていて、ようやくゆっくり休めると気が抜けたら一気に眠気が襲ってきたのだ。あまりの眠さに視界がグラグラして、脳みそが膨張しているような感じがしていた。
それも部屋に入ってひと眠りすれば治るだろうと、必死に鍵をさしこもうとしたのだが、これがなかなか入らない。つるんつるん滑るので、ウナギかよと意味の分からないことを呟くと手から鍵が滑り落ちた。
よく物を無くすので予防としてつけていた好きなゲームのキャラのアクリルキーホルダーが、廊下に落ちて硬質な音を立てた。
私の手のひらほどもあるアホみたいに大きなキーホルダーで、人前じゃとても恥ずかしくて出せない。それでも大好きなキャラのキーホルダーだから愛着もひとしおだった。
「あー、ごめんね、ルーカス……」
私は心底面倒くさく思いながら鍵を拾おうとした。
鍵を拾えたかどうか、私は知らない。
なぜならそこから先がまったく思い出せないからだ。
次に目覚めた時、そこには見知らぬ妙に洒落た天井があった。
そして私は私ではなかった。
私はエミーリアという年端もいかない少女になっていたのだ。
理解できずにパニックに陥った私は周囲の人間にここはどこかと尋ねたけれど、返ってくる答えはレトガーだとか、公爵だとか、どれも聞き覚えのないもので、私はとにもかくにもそこから逃げ出そうとした。
もちろん大人たちは突然逃げ出そうとする私に驚いて、落ち着かせようとしたらしい。しかしそれは逆効果で、見知らぬ大人に囲まれてますますパニックになった私はさらにひどく暴れた、
最終的にはベッドに縛り付けられるはめになった。
あの時は本当に怖かった。だって全く知らない場所で、知らない人間に囲まれて、知らない名前で呼ばれるのだ。だから私が怖くてべしょべしょに泣いて暴れてしまったことに関して、大人げないとか言わないでいただけるとありがたい。
その後すぐに医者がやってきて、私は精神の病いだと診断された。
たぶん医者の手に噛みつこうとしたからだろう。
手も足も出ないから、口を出しただけなのに、それで頭がおかしいとはあの藪医者め。覚えてろよ。
それから療養という名目で私は離れに隔離され、それから十年以上ずっとこの離れで暮らしている。
まともであることを証明して本館に戻ることもできたのだろうし、事実一年に数回は離れから出てこないかとお誘いが来ることもある。
だが私はそうしなかった。
夢が覚めるのを待つことにしたのだ。
この元の私とは似ても似つかない幼い体も、この見慣れない世界も、全ては長い夢の一部なのだと信じることにしたのだ。
……わかっている。
こんなに長い夢、あるわけがない。
だとすれば考えられるのは転生とかそういった類のものなのだが、あいにくと私は自分が死んで転生したなんて信じたくなかった。
ちょっと徹夜が続いて、鍵を拾おうとして死んだとか、絶対に認めない。
せめて昏睡状態でこれは脳が見せている幻なのだと言われたほうがまだ信憑性がある。なんかそういう映画とか見たことあるし。
けれど目の前の現実は私一人の頭が生み出したにしては驚くほどにリアルで、私はこれは夢なんだと自分に言い聞かせて逃げるほかなかった。
鏡を見るたびに思う。
これは私の顔じゃない、と。
黒い髪に灰色の瞳。顔立ちは整っているのだが、女性的というよりは男性的な感じがするし、なにより切れ長の目が酷く冷たい印象を与える。
これは私の顔じゃない。
だから離れの鏡には基本的には覆いをかけている。
そうしないと自分の本当の顔を忘れてしまいそうで恐ろしかったのだ。
離れで暮らすうちに少しずつだが、自分がエミーリアという名前であり、このレトガー公爵家の長女であるということ、そして養女であるということがわかった。本当の父母には興味はない。知ったところで、私の両親は日本で私を産み育ててくれた二人以外にいないのだ。
だからといって自殺とかそういう過激な手段を試してみるほどの度胸はなかった。
きっと心のどこかでは自分はもしかしたら転生したのかもしれないという思いがあったのだろう。自分の命を惜しくとは思わないが、それを投げ打つのはやはりとんでもなく恐ろしいことだった。
毎日何もすることなく、眠って、だらだらして、元の世界のことを忘れたくない一心で思いつくままにノートに書き留めた。
ただ変に真面目というか、引きこもり続けることに少しの罪悪感もあったので勉強だけは言われるままにしていた。言葉は日本語じゃなかったけどどういうわけか最初から読み書きできたし、課される課題もそう難しくはなかったから、暇つぶしにはなった。
そうして十年が経った。
数字だけ見れば長いのに、なんの中身もないスカスカな十年だ。
そのころにはすっかり私は自暴自棄になってしまっていて、凍死してもおかしくない格好で外に出るなんて馬鹿げたことを平気でするようになっていたというわけである。
反抗期かよと突っ込みつつ、でもこの体はそういう年齢にあたるのだと思うと、ものすごく不快だった。
というわけで情緒不安定な面倒くさいティーンエイジャー(肉体年齢)である私と、変な子供の出会いに話を戻したいと思う。
私のこれまでの話って長いし、大分はしょったけど際限なく暗くなるので、これ以上はカットだ。
さて話を戻すとして、どこまで話しただろうか。
まだ日も昇りきっていない庭で凍死しないかなぁとぼんやり私が突っ立っていたってあたりかな。
凍死してもおかしくないほどに寒いのだから、当然めちゃくちゃ寒かった。あー、これ無理だわ、さっさと部屋の中に戻ろうと思っていると、背後の茂みがガサガサと揺れる音がした。
驚いて振り返ると、ひょろひょろとした十歳くらいの男の子がポカンと口を開けて私を見ていた。
紫色の重たい前髪が目元を隠しているので顔はよく見えないが、とても驚いているように見える。
せいぜい小動物だろうと思っていた私もまさかの人間の登場に固まってしまい、私と少年はしばらく気まずい沈黙の中見つめあうこととなった。
先に沈黙を破ったのは、少年だった。
「雪の精よ、日が昇りきったらあなたは消えてしまうのですか?」
「君、アホなの?雪の精なんているわけないでしょ」
気色悪いことを言うなよ。ただでさえ鳥肌凄いのに。見てみ、これ。すっごいぶつぶつ。
どういった種類の寒さからかはわからなかったが腕をさすって、顔を引きつらせる私に、少年ははっと我に返ったようだった。
「ごめんなさい。……その、あんまりにあなたが綺麗だったから」
「あ、そう」
お礼を言うべきなのかもしれなかったが、離れで引きこもりを極めていた私はとっさに上手い返しができず、我ながらつっけんどんな返事をしてしまう。
よくよく考えなくとも、人とまともに話したのは随分と久しぶりのことだ。
次に何を言えばいいのかさっぱりわからず途方に暮れていると、少年はゴソゴソとコートを脱ぎ始めた。
「あの、これどうぞ」
差し出されたコートの意味が分からず見つめると少年はもにょもにょと恥ずかしそうに言う。
「そんな恰好じゃ寒いでしょう」
「……ありがとう」
小さくても紳士ってわけか。
凍死しようと思ってわざとやっているのだとはさすがに言わなかった。
とはいえ十歳の子供のコートは小さい。
私はコートを少年につき返して、さっさと部屋の中に戻ろうと思ったのだが、少年の薄い肩が寒さに震えているのを見てなんだかちょっとかわいそうになった。
それにこの少年がどうして離れに現れたのかということも気になる。離れには頭のおかしい娘がいると、誰も近寄りたがらないことを知っていたからだ。
だからだろうか、私にしては珍しく他者への興味というものが湧いたのだ。
「お茶でも飲んでいく?」
え、と大きな声を上げ、少年は固まった。
明らかに返答に困っている様子に、誘うんじゃなかったとすぐさま後悔する。そりゃこんな雪の日に薄着で外に出てるようなやばい噂のある女の入れるお茶なんか飲みたくないに決まっている。あー、いらんことした。
「いらないなら、別にいいけど……」
「いえ、いただきます!」
「あ、そう」
断られなかったことを嬉しいような残念なような気持ちになりながら、私は少年が付いてきているかも見ずにそそくさと離れに入る。
寝室で素早く分厚い生地のワンピースに着替えて戻ってくると、少年は案外図太いのか暖炉前に勝手に移動させた椅子に座って暖を取っていた。
私もすぐにでも火にあたりたかったが自分で茶に誘った手前淹れないわけにもいかず、湯を沸かしに狭いキッチンへ向かう。
最初のころはかまどの火を起こすのも一苦労だったが、四六時中メイドに見張られることに耐えられず全員追い出してしまったために、簡単な家事はすべて自分でできるようになっていた。我儘だとかクソ引き籠りだとかという批判は言われずともわかっているので、どうか心の中にしまっておいていただきたい。
淹れたての茶を出すと、少年はおっかなびっくりという調子でカップを受け取る。
「あなたが淹れたの?」
「何か文句でも?」
「メイドを起こさないで自分でお茶を淹れるなんて、変わってると思って」
「起こすも何もいないから」
「どうりで静かだと思った」
着ている服は上等そうだし、茶はメイドに淹れてもらうものだと思っているあたりから、この少年が貴族の息子なのだということは容易に想像できる。それにこの離れに忍び込めるとなると、本館から来たと考えるのが普通だろう。
そして私には弟が三人と、姉が一人、妹が一人いるらしい。
ずっと引き籠っていたから姉と一番上の弟くらいしか記憶にないが、おそらくこの少年は下の弟のうちのどちらかだ。
名前は……なんだっけ。ダメだ、全然出てこない。
というか家の名前すらかろうじて憶えているレベルなのだ。
たしかレトガーだったっけ。私が好きだったキャラと同じファミリーネームだったからなんとか憶えている。
弟らしき少年に名前を尋ねようか悩んだが、どうせすぐにいなくなる相手だから聞かないことにした。別に弟の名前も覚えていないような薄情女だと思われたら嫌だなぁとか思ったからではない。……嘘です。ちょっとは思いました。
「君は何しに私の庭にいたのかな?それもこんな早朝に」
少年は長ったらしい前髪をちょいちょいといじりながら、恥じ入るように庭に忍び込んだ理由を話し始めた。
「ここには入っちゃダメだって言われてたんだけど、ミヒェルにこの庭から石を取ってこれなきゃ筆を全部折るぞって脅されて……。だから誰にも見つからないように、朝頑張って起きてきたんだけど」
馬鹿正直にここに忍び込まずに、そこらへんの石を適当に拾っていけばいいのにとは思わでもなかったが、少年があまりにもしょんぼりしているので言わないでおいた。
私にはショタの趣味はないし、むしろ年上の大人キャラが好きなのだが、それでも小さい生き物を可愛いと思う心がないわけではない。
「ミヒェルって?」
聞いてからしまったと思った。
弟の名前を憶えていないと思われるのが嫌で、少年の名前を聞かなかったのに、これではそうだと白状したようなものだ。
だが少年は特に気にした様子もなく、ミヒェルは僕の兄さんだよと答えた。
「自分の方が一つ上で兄貴だからって、いつも僕を馬鹿にするんだ」
「ふーん、そのミヘ、ミヒェ……言いづらいな。ミッフィーでいいや。ミッフィーにいつも意地悪されてるってわけ?」
少年はミッフィーと呟いて、口の端をもごもごさせて俯いた。
なんだ。そのもごもごはなんなんだ。怒っているのか?
私が戸惑っていると、少年は弾けたように笑い始めた。
ああ、あれ、笑いをこらえていた顔だったのか。目元が見えないから何かと思って、無駄にドキドキしたじゃないか。
「兄さんが聞いたら、変な名前で呼ぶなってきっと真っ赤になるよ」
「筆を取り返して、間抜けなミッフィーちゃんって呼んでやったらいい」
「見つけられないから、こうして石を取りに来たんじゃないか」
少年はむっとしたように言い返した。
「筆の一本の二本くらい、いいじゃない」
「よくないよ!一本でも嫌だけど、筆を入れてた箱ごと取られちゃったんだ」
少年にとっての絵画道具は、私が思うよりも大切なものらしい。
軽率に筆の一本や二本くらいいいじゃないと言ってしまったことを密かに反省した。
「ふーん、それってどれくらいの大きさ?」
少年は空に手で細長い四角を描いた。だいたい縦は三十センチもないくらいか。
「ベッドの下にでも隠してるんじゃないの?」
「探したけどなかった」
部屋に忍び込んだのか。
臆病なのか大胆なのかよくわからないやつだ。
「ミッフィーはいつも君の持ち物を隠したりするわけ?」
「そうだよ。屋敷は毎日掃除してるし物置にもなかったから、たぶん兄さんの部屋にあるはずなんだけど部屋中探すのは難しくて」
私はカップの持ち手を人差し指でコツコツ叩きながら、自分だったらどこに隠すだろうか考えた。
一番は自分の部屋だが、敷地内に秘密基地を作って隠している可能性もある。貴族の男の子でも秘密基地なんて俗っぽいものを作るかは知らないが。
「いままで返してもらったものは綺麗な状態だった?」
「うん。でもまだ返してもらってないものもあるし……」
試しに聞いてみると、まだ返ってきていない物は少年が誕生日にもらった玩具であったり、、お気に入りの冒険譚であったりするらしかった。
綺麗な状態で返ってきたということを考えると、ひとまず隠し場所は外ではないだろう。それに子供が入れないようなところにも隠せないはずだ。となるとどこかにミッフィーしか知らない物を隠すのにちょうどいいスペースがあるのだろう。
シャーロックホームズに似たような話があった気がする。あれは手紙だか写真だったけど。
あ、そうだ!
シャーロックホームズに天啓を受けた私は、ダメ元で少年にアドバイスを授けてやることにした。
どうせもうほとんど会うことなんてないわけだし、アドバイスが外れていても私の知ったことではない。
久々にまともに人と話したからか、私もわずかばかりテンションが上がっていたのだと思う。
そうじゃなかったらもっと早くに少年を追い出していただろうから。
「今から君に知恵を授けてあげよう」
「本当?」
少年はキラキラと輝く期待のまなざしを私に向けた。かもしれなかった。
恐ろしく邪魔くさい前髪のせいで、顔の上半分は見えないままだったので。
「抜き打ちで部屋の掃除があったってミッフィーに言うのよ」
「なんで?」
「馬鹿ね。それは今から話すの。君、動物好き?」
少年はなぜそんなことを聞かれるのかわからないふうだったが、黙って頷いた。
「君が部屋でこっそり飼っていた子猫が見つかっちゃって、他の兄弟も部屋に何か隠していないか隅々まで確認することになったって言うの」
「僕、子猫なんて隠してないよ」
「そういうのはいいのよ。理由はなんだっていいんだから。とにかくミッフィーが慌てて部屋に戻ったら、こっそり後を追ってしばらくして部屋に踏み込むの。いい?」
「……そんなことしていいのかな」
「いつまでもやられっぱなしで悔しくないわけ?男なら、部屋のドア蹴破ってでも入りな」
「ドアを壊したら怒られちゃうよ」
「それこそ私の知ったことじゃないわ。ほら、もうすっかり明るくなったし、十分あったまったでしょ。さぁ帰った帰った!」
「え、ちょ、ちょっと待って……!」
カップを取り上げ、少年の背をグイグイ押して離れから追い出す。
少年は抵抗したが、小さな紳士らしく力づくで暴れたりせず、されるがままに外に放り出されてくれた。
玄関を閉める間際に、少年が赤い顔で叫ぶように言った。
「また来るよ、姉さん!」
「来んでいい」
冷たく少年の申し出を断って、鍵をかける。
というかやっぱりあいつ私の弟だったのか。
まぁどうでもいいけど。
「はぁー、なんか疲れたな」
あと眠い。
今頃になって寒さが襲ってきて、寒い寒い言いながら布団に潜り込み、うつらうつらし始めたころには少年のことなどすっかり頭の中から消えていた。




