エミーリアの日記2
母の暮らしていた離れは、想像よりもずっと小さかった。
慎ましい寝室に、壁に背をぴったりとつけるようなコンパクトなタイプ、いわゆるアップライトピアノが置いてある居間。茶くらいしか沸かせないであろうこぢんまりしたキッチン。そして青いタイルの浴室。
調度品も豪華なものというより、白いアンティークで統一されている。
離れに泊まる手配をしてくれたルーカスは、夕食の約束まで仕事があると姿を消したばかりだ。
彼のことだから至る所に母の面影を見て感傷的になるのではないかと思っていたが、案外事務的に各部屋の説明をしていったのは少し意外だった。
改めて見回してみると、少女趣味という言葉がしっくりくるようなこじんまりとした離れだ。
だからだろうか、父や義母から聞いていた母のイメージとはどこか噛み合わない。
「意外って顔に書いてある」
「母は我儘な人だって聞いていたから、もっと豪奢なところなんだとばかり思ってた」
「我儘な人っていうか、きっと凄くこだわりが強い人だったんじゃないかな」
「どうして?」
「だってこのピアノもそうだけど、浴室のタイルとか凄く素敵。小さいけれど、ここに住んでいた人のセンスっていうか好きなものがぎゅっと詰まってる感じがする」
「リジィはこういうの好き?」
「好きっちゃ好きかな。でもここでずっと暮らすのはちょっと落ち着かないかも。ほら、うちって茶色い物ばっかりだし」
「茶色い物っていうか、あれはたぶん凄いアンティークだと思うよ」
「ブルンスマイヤーのお屋敷にあるやつとは比べ物にならないならない」
いやむしろリートベルフ屋敷のほうが色々な物の古さで言えば勝っている気がする。
だからと言って彼女の物の価値判断がおかしいというわけでもないので、単純に身近すぎて過小評価しているというところだろう。
リートベルフ侯爵が聞いたら、泣いてしまわないか心配だ。
小さなピアノの蓋の上に積もった埃に彼女がフッと息を吹きかけると、煙のように埃が舞い上がった。
庭に面した大きな窓から差し込む白い光の中、キラキラと瞬いている。
「このピアノって弾いて良いのかな?」
「いいんじゃない?叔父上には何も言われなかったよ」
蓋を開けると、古ぼけた赤いフェルトが鍵盤の上に敷いてあった。
リジィはそれを丁寧に畳み、長椅子に腰かける。椅子は久しぶりの奏者に驚いたように、ぎぃっと軋んだ音を立てた。
彼女が鍵盤に手を置いて、どこかの音を弾いた。
ポーンとくぐもった音。
「ん?」
もう一度鍵盤を弾いて、リジィはまた怪訝そうな声を上げる。
「どうしたの?」
「なんか、音が変な気がする。調律されてないからかなぁ」
覗き込んでいると、一緒に座りなよとリジィが椅子の端に寄ってくれたので、ありがたく一緒の椅子に座る。
「そっちの端のほう弾いてみて」
「端って、ここらへん?」
「そう、そこらへん」
適当に白い鍵盤を押すと、ボーンとよく響く低い音がした。
さっきよりも音が明瞭で聞き取りやすい。
「おかしいなぁ」
熱心に音がくぐもる所とそうでない所の境界を探る彼女の横顔は思いのほか真剣だ。
でもせっかく二人っきりなのに、ピアノにばかり熱中されても面白くない。
「リジィ」
「んー」
わかりやすい生返事をして、リジィは白い鍵盤を下から上へ確かな指運びでゆっくりと弾いていく。
ピアノなんていつ練習したのだろう。
「こっち向いて」
「なに……」
勢いをつけすぎてしまったのか唇が重なるというより、ぶつかるという感じになってしまった。リジィはむとぶの中間みたいな変な声を上げる。
彼女は僕の顔を両手で掴んで引き離すと、ちょっと赤い顔をして非難するように僕をにらんだ。
「なにするんですか」
「なんで敬語なの?」
「不意打ち、断固反対!罰として、このピアノの蓋を開けてもらいます!」
「していいって聞いてもダメって言うくせに?」
「じゃあ蓋開けてくれたらキスしていいよ」
「ふーん。後からやっぱりなしとか言わないよね」
ずっしりとしたピアノの蓋に手をかけて念を押すと、リジィはさらに顔を赤くして恥ずかしそうに言う。
「優しくしてくれるなら、別に……」
「え」
ずるっと手が滑って、蓋が落ちそうになる。
「うわっ、危ない」
リジィがとっさに蓋を支えてくれたので手を挟まれることはなかったが、別の意味で心臓が痛い。
優しくしてくれるならって、それ、わかって言っているのだろうか。
なんというか、もう、本当に……。
ダメだ、適切な言葉が出てこない。
とにかくすごい破壊力だったことだけは確かだ。
「はぁあああ……」
熱っぽい顔を片手で覆って盛大にため息をつくと、大丈夫?と心配された。
大丈夫じゃない。
全然、大丈夫じゃない。
あー、なんというか、うん。落ち着こう。
少し落ち着いてから、気を取り直して蓋に手をかける。
これを開けた後のことは、あまり考えないようにした。
また落としてはいけないので慎重に開ききると、ぶわっと埃っぽい空気が顔面に迫った。古い木の甘ったるい匂いも相まって、二人して軽くせき込む。
ぱたぱたと手で扇ぎながら、リジィが背伸びしてピアノの中を覗き込んだ。
「危ないよ」
彼女の頭を挟んでしまわないように蓋を持つ手に力をこめた。
僕がはらはらしていることなどお構いなしに、彼女は首を突っ込む勢いで腕を伸ばし、なにやらごそごそしている。
「もうちょい……取れ……取れた!」
ぱあっと顔を輝かせた彼女の手には、布にくるまれた四角い物があった。
ベルベットの上質な黒い布に包まれたそれは、僕の手のひらほどの大きさで多少の厚みもある。
「これが音が変だった原因?」
「たぶん」
埃まみれの布を取り払うと、またもや埃が舞ってリジィはけほけほとせき込んだ。
部屋が冷えるのを承知で窓を開け、埃まみれの布をパタパタと振る。
粉っぽい埃はたちまち風に運ばれて行って、白けたビロードだけが残った。
「中身は何だった?」
「なんか本っぽい」
黒い革の装丁が施された本だった。
しかし本というにはサイズが一回り小さく見えた。
だいぶ痛んでいるようなので、リジィはそっとその本を手に取り優しくページを捲った。
中身は手書きの文字で埋め尽くされており、筆跡や線の細さから見て女性が書いたもののようだ。
「これって日記かな」
「みたいだね」
ぱらぱらとページをめくる手が止まる。
リジィは開いたページの一部分を凝視していた。
「ベルンハルト」
どうして自分の名前が呼ばれたかわからず、首をかしげる。
そして彼女の手元を覗き込んで、その理由がわかった。
リジィの指先が示す先には、確かに繊細な濃い青のインク文字で僕の名前が書かれていたのだ。
「これってもしかして……」
日記の裏表紙を捲ったところに署名を見つけ、僕らはあっと声をあげた。
そこにはただ短く、エミーリア、とだけ記されていた。
案の定レトガー公爵は多忙な身のため予定があわず、夕食は僕たちとルーカスの三人で離れでとることになった。
三人で囲むにはテーブルが少々小さかったが、誰もそのことにいちいち文句を言うような性格ではないので夕食は和やかに進んだ。
主に学園での出来事や子供のころの昔話に花が咲く。
雪山に二週間放り込まれて、その時干し肉と豆しか食料を持てなかったので豆が嫌いになった話をすると、ものすごく同情された。
僕を豆嫌いにした張本人であるルーカスはそんなこともあったとけらけら笑っていたが。
「そういえば、あのピアノってエミーリアさんが弾いていたんですか?」
僕の後ろにあるピアノを指さしたリジィにそう尋ねられた途端、ルーカスの顔から陽気さが消えた。
彼は少し言葉を濁らせながら、眼鏡をはずして汚れてもいないのにレンズを拭く。
年齢よりもずっと若く見える彼が眼鏡を外すと、さらに若く見えそうなものなのだが、むしろいつもよりぐっと大人らしく見えるから不思議だ。
「そうだね。彼女はよくピアノを弾いていたかな。時々聞いたこともない曲を弾いていたから、音楽の才能があったのかもしれない」
日記のことを告げるかリジィに目配せすると彼女もそのことを悩んでいるようだった。
ルーカスにとって母は特別な人で、彼は彼女という存在に並々ならぬ執着をしている。
そんな彼が日記の存在を知ったらどうなるか、とんと見当がつかない。
中身はまだ読んでいないが、わざわざピアノの中に隠してあったくらいだ。その内容がルーカスにとって喜ばしいものであるとは限らない。
もしも喜ばしいものではなかったとき、ルーカスがどうするかはあまり考えたくないし、どのみち面倒くさいことになることだけは明白だ。
やはりルーカスに見せる前に、一度自分たちで中身を改めた方がいいだろう。
僕がかすかに首を横に振ると、リジィは困ったように小さく頷いて返した。
それから夜更けまでルーカスはとめどなく母の話をした。
見た目は儚げなのに、言葉遣いや行動が男っぽくてよく周囲を驚かせていたこと。
兄たちに画材を隠された時、すぐにその隠し場所を当ててくれたこと。
いつも何かに怒っているような、失望しているような顔をしていたこと。
「彼女といると時々、彼女と僕らの生きる世界は半歩ずれているような、そんな不思議な感じがしたよ」
そうこぼしたルーカスの瞳はだいぶ酔っているということもあってか、うっすらと潤んでいるように見えて、僕はなんだかいたたまれない気持ちになった。
僕の知る限り、母は彼がこうまで想うほど素敵な女性だとは思えなかったからだ。
「母は我儘な人だったと聞きました」
水をさすようで悪いと思いながらも、堪えられずにそう言ってからしまったと思った。
僕にとってルーカスは兄のような父のような存在で、彼の機嫌を害するようなことを言ってしまったのではないかと不安になったのだ。
しかし意外なことにルーカスは不機嫌になるでもなく、むしろ優し気な顔をして笑っていた。
「……そうだね。我儘なところがあったことは否定しないよ。たぶん彼女は自分が他人にどう思われようがどうでもよかったんだと思う。僕はそういうところ、けっこう好きだったけど」
「ああ、こう見えて振り回される方が好きとかそういう」
リジィが合いの手を入れてくれたおかげで、少しだけ雰囲気が明るくなる。
「好きな人のお願いって、叶えてあげたくなるだろう?」
お願いと我儘を一緒にしてしまえるあたり、懐が広いというべきか否か。
けれど僕もリジィのお願いなら、なんだって叶えてあげたい気持ちになることは確かだ。
そうですねと同意すると、なぜかリジィが異議ありと声をあげた。
「私は我儘なんてほとんど言ってないと思います」
「リジィはもっと我儘でも僕はかまわないんだけど」
だから僕はいつも自分ばかりが求めて過ぎていないか少し心配になる。
あと普段は我儘言わないかわりに、時々突拍子もないことをしでかすのをやめてほしい。
「僕だってリジーアのお願いなら聞いてあげるよ」
酔っ払いらしい上機嫌を取り戻したルーカスが冗談めいた口調でそんなことを言う。
「ルーカス先生にお願いするようなことは今のところないので、お引き取りください」
「ははは!エミーリアにも同じようなことを言われたよ。いらん、帰れ!ってね」
しっとしっと追い払う手ぶりをするルーカスに、僕らは子供のように笑った。
ルーカスが本館に戻って、寝る支度をしていた時だった。
袖を引かれたので振り返ると、日記を抱えたリジィが上目遣いに僕を見ている。
「あのね、本当は私じゃなくてベルンが読むべきなんだろうけど……。この日記、私が先に読んでもいいかな?」
「これから?」
もう夜遅いだろうと言外ににじませると、リジィはうっと言葉を詰まらせる。
「最初のほうだけ読んだらすぐに寝るから」
たぶん嘘だ。
明日読めばいいじゃないか。
そう説得しようと思ったのだが、リジィの顔を見てやめた。
彼女は昔から、意外なところで頑固さを発揮するというか、一度決めてしまったらなかなか譲らないところがある。
今がそうだ。
もう完全に日記を読むと決めている顔をしている。
こんな時に僕が何を言っても、のらりくらりとかわされるし、最終的にはお願いなんて言われて断れなくなるのが落ちだ。
「あまり夜更かししないようにね」
神妙な顔で頷いて、リジィはさっそく居間へ消えていった。
一緒に行こうかとも思ったが、読書の邪魔になるだろうと思い直し、寂しく思いながらも僕は一人ベッドに潜り込んだのであった。
翌朝、早めに起きると案の定リジィはまだ居間にいた。
青白い朝日の中、寝間着の白い背中が眩しい。
修道院に行ったときに徹夜して体調を崩したことがあったから、あまり徹夜はしてほしくないのだが。
さすがに渋い顔をしながら彼女の肩に手をかけてぎょっとした。
リジィは日記を抱きしめて、ぽろぽろと静かに涙をこぼしていたのだ。
「どうしたの?」
慌てて何か拭くものを探したが見つからなかったので、着ていたシャツの袖で彼女の涙を拭ってやる。
リジィはすんすんと小さく鼻を鳴らして、おはようと呟いた。
「この日記を読んで、泣いていたんだよね?」
とてもそんな彼女が泣くような内容が書かれているとは思えないのだが。
訝しい気持ちで古びた日記を見つめていると、リジィは胸に抱いていたそれを僕に差し出してきた。
「ベルンも読んだ方がいいと思う」
「……僕は」
正直言って、あまり読みたいとは思わなかった。
母のことを全く知りたくないかと問われれば、それは違うと答えるだろう。
けれどこの日記の中にもしも自分に関することが書いてあったら。
それがもし、自分を否定するような内容だったら。
もしくはあまり考えられないけれど、母が自分を愛していた、なんて内容だったら。
僕はどんな感情を抱けばいいのか。
「大丈夫だよ」
リジィは迷う僕の手を取って、日記の表紙へと導く。
母の日記。
黒い革の表紙を撫でると、ほんのりと温かい気がした。
リジィの大丈夫という言葉に後押しされてか、それとも少なからず好奇心が勝ったからなのか、気がつくと僕は表紙を開いていた。
母もこの日記を書き始めた時、同じように表紙を開いたのだろうか。なんてそんなことを思いながら。
リジィが一度読んだからか、ページは思ったよりすんなりと捲ることができる。
書き出しはこうだった。
変な子供が私の庭にやってくるようになって、一週間が経った。
本当に変な奴で少し面白くなってきたので、暇つぶしに観察日記をつけてみることにした。
次の更新は二週間後の水曜になります。
12/7(金)より、本作のコミカライズがゼロサムオンラインにて開始します!
よかったらコミカライズ合わせて、よろしくお願いします!




