最終話
私が最初に目を開けた時、一番に飛び込んできたのは、鈍く光る銀色の瞳だった。灰色の虹彩がきらめいて繊細な銀細工を思わせる。
私がなんだか腫れぼったい瞼を持ち上げて、その目と視線がかみ合った瞬間、彼はあっ!と珍しく大きな声をあげながら私のほうへ身を乗り出した。
「リジィ!」
私の顔を覗き込みながら、彼は心底ほっとしたような少し情けない顔をする。
その顔を見た瞬間、ああ帰ってきたと思った。現実に。私が会いたかった、この世界のベルンのところに。
なぜか目の周りが濡れていて、ちょっと引き攣ってピリピリする。夢の中でも散々泣いていたけど、現実でも泣いていたらしい。恥ずかしい。
とはいえ頭が働かなくて、涙を拭うでもなくぼんやりとベルンの顔を見上げていると、彼は徐々に不安に顔を曇らせ始める。
「大丈夫?ここ、どこかわかる?」
修道院じゃないのかと言おうとして、後頭部があり得ないほど痛み、私はうう~と我ながら野太い唸り声をあげた。
痛みに驚いて身じろくと、今度は背中とか肘とかが鈍く痛んだ。
え、待って!?めっちゃ痛い!なに!?
慎重にもとの仰向けの体勢に戻りながら、なんでこんなに体のいろんなところがズキズキ痛いのかと心の中で叫びまくる。
でもなんとなく身に覚えのある痛みのような気がする。
あ、これ、打ち身を上から押したときの痛みだ!
「い、いろんなところがいたい…」
「たぶん受け身もなにも取らずに、背中から倒れたからだと思う。ライラも後ろから凄い音がしたから振り返ったら、君が倒れていたって言っているし。…本当に突然、急に、気を失ったわけ?」
「それ、どういう意味?」
もとから馬鹿だが、いまは頭を打ったせいでもっと馬鹿になっているので、ベルンが何を聞きたいのかよくわからない。というか後頭部が痛い。凄く、痛い。
「…まさかだけど、彼女に何かされたわけではないよね?」
眉間にしわを寄せ、険しい顔をして彼は言う。
ん?
ん~?
ライラに何かされたかって?何かって……あっ!まさか意地悪された的な?突き飛ばされた的な?
「違う違う!」
慌てて否定すると、ベルンはそうと言ってするするとまた心配そうなちょっと情けない顔に戻る。
それから黙りこんで、私が放置していた涙の跡を丁寧に拭い始めた。あ、これはどうも、ありがとうございます。
かさかさしていて所々皮の厚い彼の手は、ひんやりしていて気持ちいい。
ちょっと私が気恥ずかしさを感じていると、今度はペタペタと額やら頬やらを無心といったふうに触り始める。
「何してんの?」
「確認」
何のだ。
されるがままになっていると両側から頬を押されて、口を突き出す変顔を強制される。
もしかしなくともこれ、私いま凄くまずい顔面をさらしているのではないだろうか。まずいというか、主に四文字の非常に不名誉な感じの、そう、つまり、
「ぶさいく」
「やめんかー!」
ベルンの手を叩いて強制変顔から脱出するが、叩いた反動が後頭部に響きあえなく撃沈。ちくしょー!
ベルンはと言えば、はぁ~と長い息を吐きながら、私の寝ているベッドわきに置かれた椅子にどっかり腰を下ろして、魂が抜けたみたいな顔をしていた。
お前は何がしたかったんだ。というかなんだその顔は。ちょっと面白いぞ。
「心配した…」
「え?」
「ライラが慌てた様子で呼びに来て、見に行ったら君は廊下の真ん中で倒れていて、顔も真っ青で、呼びかけても全然起きないし」
ベルンは片手で顔を覆って、ぼそぼそ言うものだから、自然と息をひそめて耳を傾けなければならなかった。
それからまた彼ははぁ~と長いため息を吐いて、聞いているこっちがつらくなるようなよれよれの声で、本当に心配したと呟いた。
「とりあえず、もう二度と徹夜は禁止だから」
妙に据わった目をしたベルンは一言一言強調するように言う。ちょっと怖い。
「ご、ごめんなさい」
私がぶっ倒れた原因って本当に徹夜なんだろうか。
よく思い出せないが、たしか後ろから急に腕が伸びてきて……よく考えるとめちゃくちゃ怖くないか?とんだホラーじゃないか。
いやきっとあれは幻覚だ。私は貧血で倒れたということにしよう。うん、それがいい。凄く不思議な夢だったけれど、あれはやっぱり夢だったのだろうし。なんか世の中不思議なことの一つや二つくらい起こるよみたいなことベルンハルトが言っていたけれども。
だいぶ頭もしゃっきりしてきた。
自分が夢から覚め、ベッドに横たわっているのだとちゃんと理解できるようになってきて、後頭部に響かない範囲で部屋を見回してみたが、どこかの部屋ということしかわからない。けれどまぁ、廊下で急にはっ倒れた私を修道院内のベッドのある部屋に運んでくれたというふうに考えていいだろう。
ベルンはそうしていないと不安とでもいうように、再び私のほうへ手を伸ばした。そしてゆっくりとしたリズムで私の乱れた前髪を指先ですく。空いているもう一方の手は、ベッドの上に放り出していた私の手を握った。
突然倒れてしまった理由が徹夜でなかったとしても、こんなにも心配させてしまったのかとちょっと、というかかなり悪いことをした気になる。
「また、夢を見たよ」
「例の怖い夢?」
そろそろと頭を横に振る。
「同じだけど、怖くはなかったよ。それにもう怖い夢は見ない気がする」
見ない気がするって、そんなものなのかとベルンは苦笑する。
「それならよかった」
さらさらとベルンがすいた前髪が額を滑って、耳のほうへ落ちるのがくすぐったかった。
あいつにとって君は唯一だけれど、君にとってあいつは唯一じゃない。そんなのってあんまりじゃないか。
ベルンハルトの喚くような声が水面からふっと顔を出すように、蘇った。
ベルンが私を大切にしてくれているのは、自分でいうのもなんだけど凄くよくわかっているつもりだ。私だって彼のことを大切にしてきたつもりだったけれど、ベルンもそんなふうに思っているのだろうか。
だとしたらそれはとても悲しいことのように思える。
もしかしたら私が、いままでちゃんとベルンに好きとか言ったことなかったのも悪かったのかも。
そう思ったら、自分でもびっくりするくらい自然に、ぽろっと言葉が出た。
「私、あなたが好き」
不思議なことに恥ずかしさとかいたたまれなさは何も湧いてこなくて、私はとてもリラックスした気持で突然の告白に面食らっているベルンに話しかけ続ける。
「たぶんベルンが思うより、私自身が思うよりも、ずっとベルンのことが好きだよ。愛してる。…だから、私と結婚してくれませんか?」
ベルンは面食らった顔で息を止めて、それからゆっくり二度瞬きして、なんでと小さく呟いた。
「なんで、先に言っちゃうかなぁ」
へなへなと脱力して、ベッドというか、私のお腹の上にベルンは突っ伏した。
ぐぇ。
「しっかり場所とか指輪とか準備して、ちゃんとプロポーズしようと思っていたのに…なんで先に言っちゃうかなぁ…」
というかプロポーズしてくれるつもり気だったんだ…。あれかな、なんかわりと私とエルメンヒルデの話気にしていたから、そこも気になっていたのかな。
嬉しい反面、なんか悪いことしちゃったかなぁなんて思う。
ぶつぶつ恨みがましそうにぼやきながら、乗せた頭をぐりぐりと押し付けてくる。
ちょっとー!
「重いんですけど」
「そりゃ、重くしてますから」
お腹の上でしゃべられると、声が直接響いてくすぐったかった。
「それで?結婚してくれるの?」
もぞもぞと少しだけこちらに顔を向け、ベルンは観念したように長い前髪の間から私をじっと見た。彼の灰色の目は自ら光っているかのように、チカチカときらめいている。
唯一良く見える耳が、ほんのり赤くなっていて照れているらしかった。
「うん」
私の顔がベルンの耳なんか非じゃないくらい赤かったのは、言うまでもないことだろう。
ひとまず今日はいったん街に戻ることになった。
修道院の人たちは泊まっていってもいいと言ってくれたのだが、男であるベルンは泊まれないし、私も打撲跡が痛いだけで体調自体は悪くなかったので彼女らの申し出はありがたく断らせてもらった。
まだ話し足りないという気持ちを向こうももってくれていたようで、ライラとは明日もゆっくり話す約束をしている。
私はベルンの背に負ぶわれながら、夕日に染まる景色を眺めていた。
大丈夫だと言ったのだが、彼は私をおんぶすることを頑として譲らず、結局大人しくこうして背中に乗っているというわけだ。
ベルンの背中から見る世界は、いつも見ているものよりもだいぶん視点が高く、新鮮だ。彼が歩くたびに、ゆらゆら揺れるのも何かの乗り物に乗っているみたいで愉快な気もする。時々思い出したように通り過ぎる人に見られることさえ除けば、だが。
修道院から離れ、街に近づくほどに木々は減り、周囲には田畑もないので、荒野のような様相を呈していく。荒野といっても背の低い木がそこここに生えていて、冬咲きの花もある。それに全体が夕日の温かいオレンジに染まっているので、寂しいというよりどこか懐かしいような感じがした。
「そういえば、答えは出た?」
「なんの?」
たぶんいま何言ってんだこいつみたいな顔しているんだろうなと容易に想像できる一瞬の沈黙ののち、ベルンは言う。
「前世とか、君が卑怯だったのかとか。そのためにヴィオラやライラに会いに行ったんだろう?」
「ああ~」
そういえばそうだった。
というかそれがこの旅での私の目的だったような。
「んー、なんだろう。はっきり答えが出たわけじゃないけど…」
あんなに悩んでいたのに、いまはそこまでもやもやしていない。
たぶんライラにありがとうって言ってもらえたことが大きかったのだと思う。もしかしたらただ単にいろんなところに行って、いろんなことを体験したから、気がそれているだけなのかもしれないけれど。
どのみちはい、解決!と終われる簡潔な悩みでもないのだろう。
いまも、もうそんなに悩まなくてもいいのかもなんて思う反面、心の奥底で何か冷たく重たいものを感じないわけではないのだ。ただその冷たく重たいもの、しこりのような何かが、前よりもずっと小さいというだけだ。
道は緩やかな上り坂に入った。少しだけベルンの歩みが遅くなる。
「私、降りようか?」
「これくらいどうってことないよ」
よいしょっと私を背負いなおして、彼はしっかりとした足取りでさっきより急になった坂を上る。
「僕には前世とかまだよくわからないけど、そこまで気に病む必要はないんじゃないかなと思うよ。君が卑怯なら、僕は極悪非道な人間になってしまうわけだしね。何と言ったって、僕は人殺しだ」
わざとらしく過激な言葉を使って、ベルンは私をなだめようとしているらしかった。
「君はそんな僕のことを責める?」
「…ううん」
ベルンは満足したように小さく頷いて続ける。
「正しさなんてものは、それに対してやましさを感じるか感じないかってだけなんだと僕は思う。たとえ他の人間から見て正しくなかったとしても、本人がやましくないなら、それはその人間にとっては正しいことなんだ。それに誰であろうと生きている以上、何の負い目もなく生きていくなんてことできるはずないし、僕は君のそういう優しすぎるところが好きだよ」
正義も正しさも、そんなものは存在しないのだとベルンは言う。
その主張は一見冷たいものに思えるが、残酷な世界を生き抜いてきたベルンが言うからこその重みもあった。
それ以上に彼が私にもう悩まなくてもいいのだと気遣ってくれているのがわかって、私の心のしこりがまた少し小さくなったような気がした。
「そうなのかな」
「少なくとも、僕はそう思う」
「そっか」
もう一度そっかぁと呟いて、私は彼の首に巻き付けた腕の力に少しだけ力を込めた。ありがとうと言うかわりに。きっと彼ならば言わずとも、ちゃんと理解してくれるのだろう。
右足、左足、そしてまた右足。
ベルンの背中に揺られながらしばらく、私は眠気に襲われていた。かと言って眠りこけるのも悪い気がして、彼が踏み出す足を右足、左足と数えて、なんとか意識を保っていた時だった。
「あ」
突然ピタリと彼は足を止めて、一点を真っ直ぐに見つめた。
視線の先を辿ると、道の横のちょっとした崖下に、何か白い物が見えた。彼はそれを一心に見ているらしかった。
「ちょっと待ってて」
そういって私を背中から下ろしたベルンは、長い脚で素早く崖の方へ近づくと、そのままスルスルと崖下に消えて行ってしまった。
どうした!?
珍しい彼の奇行に目を白黒させながら、崖下を覗き込む。高さは三、四メートルほどだろうか。私はてっきり崖だと思っていたのだが、どちらかというと急な斜面といった方が正しいようである。
いったい下に何の用事があるのか、ベルンは崖下の茂みに体を屈ませ何やらごそごそしていた。
しかしそう時間も経たずに、何かを持って斜面をグッとグッと登ってくる。
斜面の最後のほうに差し掛かった彼に手を貸し、道の上へ上がるのを助ける。
「下に何かあったの?」
ベルンは私の問いに答えず、服の汚れをさっと払う。
そしてどことなくやりずらそうというか、照れたように手に持っていたものを私に差し出した。
それは、細長い筒状の白い花が鈴なりについた一枝だった。
エリカだ。
あの夢でベルンハルトが握りつぶそうとした、白いエリカ。
私はなんだか恐ろしくなって、どうしてと彼に尋ねた。
ベルンは一瞬きょとんとしたのち、やっちまったみたいな表情をして視線を左右にきょろきょろさせる。
「もしかして知らない?」
「何を?」
それから観念したように、少し口ごもりながら言った。
「白いエリカは珍しいから、その、…意中の相手に贈ると幸せになれるって言い伝えがあるんだ。昔、カテリーナが言っていたから、てっきり君も知っているとばかり…」
へぇ白いエリカの花には、そんなロマンチックな言い伝えがあるのか~なんて呑気に思ってから、そのロマンチックの中心にいるのが自分だと気が付いて、急激に顔に熱が集まっていくのがわかった。
真っ赤になったわたしにつられたように、自身も赤くなりながらベルンは言い訳めいた口調で続ける。
「さっき君にプロポーズを取られちゃって、格好つかないなって思っていたらタイミングよく見えたから、せめてこれくらいはと思って…。自分でも似合わないことをしているとはわかっているんだけど、僕も、君のことを」
一瞬戸惑ったような顔をして、ベルンは言葉を切った。
それから眉尻を下げてふわりと笑う。
「愛しているって伝えたくて」
私、この人と結婚するんですよー!とベルンを抱えて、そこらじゅうの人に自慢したい気持ちだった。
いや、さっきまでおんぶされていたのは私のほうなんですけれども。というか物理的に不可能なんですけれども!
はぁ、この世界に愛してるって言葉があってよかった。作ってくれた人に感謝。ひいてはこの世界に感謝。
…なんか気持ち悪いな私。
とにもかくにもわーとかきゃーとか叫びながら、そこらへんを飛び回りたい気分だった。なんだったら側転してもいい。側転できないけど。
とはいえそんな奇行をさらすわけにもいかず、恥ずかしいやら嬉しいやらでたまらなくなった私は顔を覆って、へなへなとその場にしゃがみ込んだ。
いつもこんなことしないくせにとか、カテリーナありがとうとか、花を持つ姿も様になってるよとか脳内は実に忙しないままだ。
「嫌だった?」
「まさか!」
不安げな声だったので、慌てて立ち上がって否定する。勢いが良すぎて体がちょっと痛かったが、どちらかというと冬なのに熱いと感じるほど上がってしまった体温のほうが気になる。もう夏が来たのか。春はどこに行った。春は。なんて馬鹿げたことを考えるくらいには、花を贈られたことが嬉しかった。
よかったとはにかむベルンの手から、エリカの枝を受け取る。
ふるふると鈴なりについた花が震えて、ほんのりと甘い香りがした気がした。
「…凄く。凄く、嬉しい。ありがとう」
なんだか足元がふわふわするし、むず痒いような心地よいような、不思議な感じがする。でも決して嫌というわけではなくてだな…。
自然と笑みがこぼれてニヤニヤしていたら、ベルンの腕が伸びてきて、ぎゅっと抱きしめられた。
うわ、なんだこれ!なんだこの展開!乙女ゲームか!?あ、いや、乙女ゲームっちゃゲームなんだけど、そうじゃなくてですね。うわー!うわー!
私はせっかくもらった花が潰れないように慎重に彼の背中に腕を回す。
うーん、相変わらず大きい。見た目はわりと線が細いという感じがするのに、こうして抱きしめられるたびに自分との大きさの違いにびっくりしてしまう。
「僕たちって、出会って一か月も経たないうちにはもう婚約者同士だっただろう?だからちゃんと考えたことはなかったけれど、世の中には婚約者になる前に、恋人って言う段階があるわけだ」
私を抱きしめながらベルンは唐突にこんなことを言い出す。
「うん?そうだね」
だから何だ。
というか熱い。抱きしめられたことによって、熱さが限界突破している。そのうち私、発火するんじゃないだろうか。
すっと肩に手を置かれ、顔と顔が向き合う。
ん?なんだろう。
「それで、してみたいことがあるんだけど」
「申してみるがよかろう」
「なにその上から目線…」
いや、なんとなく。
決して恥ずかさをごまかすために、茶々を入れたわけではないんですよ。ええ、決して。
そう、次のベルンの言葉を聞くまで私は、これ以上恥ずかしい事態にはならないだろうなんて高をくくっていたのである。
「キスしてもいい?」
きす?
きすってなんぞや。
なんてとぼけたことを思ったのは一瞬。
すぐにそれが口づけとか、接吻とかともいうものだと、普段はあまり役に立たない脳みそが答える。
「え!?」
素っ頓狂な叫びをあげた私に、ベルンは苦笑いを浮かべる。まるで私がこういう反応をするとわかっていたみたいな笑い方だった。
「しても?」
「あ、え、いやぁ、ちょっと今日はもう閉店っていうか~」
開店していた覚えもないが。
「営業時間なんてあるの?」
ぐっ。
「…ないです」
「ないなら、しよう」
「なんでそんなに積極的なの!?」
「それは、まぁ、いちおう僕も男だし」
「イヤー!」
思わず叫ぶ。
「ひどい…。人がせっかく許可を取ろうとしているのに」
ベルンはわかりやすく傷ついたような顔をして、肩を落とす。
「ご、ごめん。嫌とかじゃないんだよ。ただちょっと、びっくりして」
でもそっかぁ、そうだよね。そうなのかぁ。ベルンも男の子、なんだよなぁ。なんか急にドキドキしてきた。
なにこれ、乙女ゲーム?乙女ゲームなの?選択肢はどこだ。開発者を呼んで来い。
私が一人うんうん唸っていると、さっきのしょんぼりが嘘のようにさっと表情を切り替えたベルン有無を言わせぬ迫力で再び尋ねてくる。
「で、していいの?」
やられた。さっきのしょんぼりは演技だったんだな。嫌じゃないという言質を取るがためだけの演技だったわけだ。
は、謀ったな!
…でも、嫌じゃないのは本当である。そう、決して、嫌なんかではなく、私だっていつかはしたいなぁ、するのかぁなんて思っていたのだ。いちおう私も女の子なので…。
けれどまぁ、私は可愛げのない女なので、
「……イイヨ」
と言うのが精いっぱいだった。
ベルンは変なカタコトと愉快そうに笑った。
うう…なんでそんなに普通にしていられるわけ?
ベルンの肩越し、遠くに街の影が見えていた。沈みかけた日の中、幻みたいに浮かんでいる。
さわさわと草の葉が擦れるささやかな音がする以外、ここはとても静かだ。
私はもうどうにでもしてくれと観念して、ぎゅっと強く目を閉じた。
だってこういう時は、やっぱり目を閉じるものでしょう?
目を閉じると鼓膜のすぐそばに心臓があるみたいに、ドクドク脈打つのが聞こえる。全身の血が逆流しているみたいで、なんだかざわざわする。
ふっとベルンの吐息を近くで感じて、勝手に体が強張る。
すると頬にひんやりした彼の手が添えられるのがわかった。最後の確認をするように、親指が私の目の下を何度かなぞっていく。
するとなんだか緊張が解けて、俯きがちだった顔が自然と上を向く。
ゆっくりと気配が近づいて、唇、ではなく鼻がぶつかった。
私ばかり緊張しているような気がしていたけど、ベルンだって初めてなのだ。
そう思うと笑いがこぼれた。
「笑わないでよ」
不満げな声を漏らして、もう一度と気配が近づいてくる。
唇と唇をくっつける、ただそれだけのことなのに、それはこれまでの人生で体験したどの経験よりも、素晴らしいものであった。
いまや私たちはどこからどう見ても、いたってありふれた普通の恋人たちだった。
誰かが憎み、誰かが憧れた、得難い普通。
加えて幸せなんだから、もう最強なんじゃないだろうか。
そう言うと、ベルンはあの私の好きなちょっと困ったような笑顔になって、じゃあもう一度する?なんておどけてみせたのだった。
その提案を冗談で済ませるのはもったいない気がして、私はもちろん!と答えた。
これにて婚前旅行記完結となります。
ここまでお付き合いくださり、ありがとうございました!
今後の予定は、また二人の話を書くか、新しい話を始めるか、それとも長らく休載しているほうを書くか…などなどまだ決まっていませんが、とりあえずしばらくお休みしようと思います。
ただ休み中も皆様にまた嬉しい報告ができるよう頑張りますので、忘れないでいただけると嬉しいです。
それではまた、お目にかかれる日まで。




