解決編4
私が最初に目を開けた時、一番に飛び込んできたのは、冬の曇り空みたいな灰色の瞳だった。
「大丈夫?」
灰色の高い天井を背景に、ベルンは心配そうな顔で私を見ている。
背中が硬くて、ひんやりする。掌に石のざらざらした冷たい感触を感じて、ようやく自分が床に仰向けに横たわっているのだと気が付いた。
なんで私はこんな地べたに寝っ転がっているんだ?
状況が飲み込めずに眉間にしわをこれでもかと寄せて唸ってみるが、全くもってわからない。というか思い出せない。ダメだこりゃ。
結局意味もなく瞬きをしたり、唸ったりする私の丸出しになった額にベルンの手がそっと乗せられた。
かさかさしていて、所々皮の厚い彼の手は、どういうわけか冷たくも温かくもない。まるで体温というものがごっそり抜け落ちてしまったような…。まさか本当に体温が無いなんてことあるわけがないし、となると私の感覚に何か問題があるのだろう。
うーん、なんだろう。貧血とか?
言われてみればなんだか体がだるい気もするし、昨日は徹夜だったわけだし、可能性は十分ある。
自分では体が頑丈なのが取り柄だと思っていたけれど、この間は熱も出したし、ちょっと健康にあぐらをかいて不摂生をしていたのかもしれない。
ぎくしゃくと体を起こそうとするとすかさずベルンの手が背中に添えられ、上体を起こすのを手助けしてくれた。やはりその手には温度がなくて、それ以上に何か、落ち着かない。
何かが違う気がしてならない。
「どこか痛むところは?」
妙なことばかり考えてしまう頭を軽く振って、どこも痛いところなどないと言おうとして私はベルンを見上げて、固まった。
彼は笑っていた。
私にいつも向けてくれる笑みとも、対外用のにこやかな顔とも違う。文句のつけようもない穏やかで完璧な笑顔なのに、目の奥が全然笑っていないのだ。
ぞわっと冷たいものが背筋を駆け上がり、体中に散らばっていく。
「ない、けど…」
「そう、よかった」
まるで痛いところなんてあるはずがないことを知っていたような素っ気なさで彼は立ち上がり、服についた埃や砂を払う。
一方の私は氷漬けになったように上体を起こした体勢のまま固まってしまい、ただただ彼を見上げていた。
なんだ、いまの笑顔は。
けれど一番ショックだったのは、彼の笑顔に一瞬恐怖を感じた自分がいたことだった。
「どうかした?」
「…なんでもない」
混乱する頭を軽く振って、そういえばここはどこだろうと辺りを見回す。ベルンに対する違和感についてはいったん脇に置いて、自分の置かれている状況を知りたかった。
見たところ修道院の廊下っぽいけど、それにしては空気が暖かい。暖炉のある室内くらいはあるんじゃないだろうか。
「あ!ライラは?」
ここにこうしてぶっ倒れることになった経緯は依然として思い出せないが、ライラと廊下を歩いていたところまでは覚えている。
ここにベルンがいるということは、もしかしなくともライラが呼んできてくれたのだろう。では、その彼女はいったいどこへ?
ベルンは私の質問には答えず、中腰になって手を差し出す。
その口元はうっすらと弧を描いていて、どういうわけか機嫌がいいらしい。
なんでだ。人が床にぶっ倒れてんのがそんなに面白いのか。
違和感やら不安やらを拭えず、差し出された手を掴むべきか思案していた時だった。
変な臭いがした。
すえて淀んだ、鉄っぽい臭い。
それは一瞬のことで、勘違いと言われてもおかしくはなかったのだが、私はそれを嗅いだことがあったのですぐにその臭いがなんだのかわかった。
そしてこの周囲を包む、冬とは思えない、生暖かい空気。
ちかちかと目の前が瞬いて、一つの答えがひらめく。
これは、現実じゃない。
目の前のベルンは、彼は、
「ベルンハルト?」
彼は驚いたふうでもなく、やはりにこやかに微笑んだ。そして差し出したままだった手をすっと引っ込め、曲げていた腰を伸ばす。
床に座ったまま見上げる彼は、異様なほど大きく見えた。
「少し、歩こうか」
ひらりとコートの裾をひるがえして歩き始めたベルンハルトらしき人物の二、三歩後ろからついていくと、見覚えのある庭に出た。
見覚えというか、まんま王都にあるうちの別邸の中庭だ。
もちろん修道院にうちの庭があるはずない。ここが夢の中でもない限り。
手前の背の低い木には小粒の白い花が鈴なりに咲いており、その下の花壇には薄い紫の花が風にそよそよと揺れている。前者は春にしか咲かないし、後者は夏にしか咲かない。
夢の中なのだから、季節なんてあってないようなものということだろう。
ぱっと見た感じ、庭にある花という花は全て咲いているらしく、綺麗と言うよりごちゃごちゃしている。
「これは夢、なんだよね」
自分でもどうしてこんな荒唐無稽なことを無条件に確信できているのか謎だったが、どういうわけかそれ以外の考えは全くといっていいほど浮かばなかった。
「そうだよ」
事もなげにそう答えて、ベルンハルトは笑う。
さっきからこの人笑ってばっかりだ。どちらかというと無表情なことの多いベルンと同じ顔をしているもんだから、こんなにニコニコされると変な物でも食べたのかと心配になる。
でも、まぁ、彼にとっては常に笑顔が普通なのだろう。少なくとも私の知るベルンハルトはそういうキャラだった。
親切で、人当たりが良くて、穏やかな笑みでたくみに本心を覆い隠している。
それがベルンハルトという、悪役だった。
「あなたはゲームの…というより、エドウィンルートのベルンハルトだと考えてもいいのかな。…それと私がずっと見ている夢と、あなたは、この夢は関係あるの?」
自分の夢の登場人物とこんなふうに会話するのは、とても変な気持ちだったが、彼は夢の登場人物というには少し異質すぎた。私の脳が作った幻ではなく、外側からやってきたものなのだという気がするのである。
もちろんさっきから自分でも電波なこと言っているなって自覚はある。あるけど、こんな変な夢の中なら思考の一つや二つでんぱっぱになったって仕方ないと思うんだ。
ベルンハルトはそうだなぁと、ふくろうのように首を傾げてみせる。
「最初の質問に関してだけど、半分正解、半分不正解ってところかな。それは真実の一部ではあるけれど、全部ではない。僕は君たち、ああ君のもといた世界の人々のことなんだけれど、そう、君たちのイデアの集合体。数多の成長と発達の可能性の源流。前提としての存在。いわばベルンハルトのアーキタイプ。原型って言えばわかりやすいかな?けれど君の夢の中では、意識的にエドウィンに負けたルートの僕を見せていたわけだから、半分正解ってわけ」
「は、はぁ…」
何を言っているのか、ぜんっぜんわからん。
イ、イデア?
アーキ……何!?
もう一回言うけど、ぜんっぜんわからん!
「なーんてね。僕はただの君の脳が作り出した幻かもしれないし、君のベルンハルトが選ばなかった未来の亡霊、なんていう詩的な存在なのかもしれない。ほら、誰かが言っていただろう。人生は歩き回る影法師だって」
な、なんだろう。凄く適当なことを言って、おちょくられている気がする。
おそらく、というか十中八九アホ面をさらしているであろう私を見て、彼はあははと軽やかな笑い声をあげた。
「ちょっと難しかったかな?君は小難しい話が苦手だもんね」
「…ずいぶんと私に詳しいみたいですけど」
「まさか!まるで僕が君のことが好きみたいな言い方はやめて欲しいな」
なんだろう。まるで私が自意識過剰みたいな言い方をされちゃったわけだが、なかなかにムカつくぞ。
それにベルンと目の前のベルンハルトが違う存在だと仮定したとしても、同じ顔でそういうことを言われると多少なりとも傷つく。
「でも見ていればわかるよ。君は単純で、お人よしで、そのわりには白黒つけるのが苦手。というより、嫌いなのかな。だからといって自分で何かを決めることが嫌なわけではなく、時々思ってもみないような大胆なこともするし…。なんだろう?馬鹿なのかな?」
「失敬な!」
どういうわけで最終的に馬鹿に落ち着くんだ!言いたい放題だな!
「それで二つ目の質問に関してなんだけれど」
さらっとかわされ、私一人がそれこそ馬鹿みたいに騒いでいる感じになって、なおのことムカつく。ムカつくが二つ目の質問、私がずっと見ている夢と彼は関係あるのかという質問に答えてくれるというので、ひとまず文句を言うのは我慢した。
「また難しい話をしてもいいけど簡単にいうと、ここ最近君が見ていた悪夢は僕が見せていたものだ」
そんなことできるの?
というかあれやっぱり悪夢だったんだ。
そんな私の心の声を聞いたように、彼は朗らかに笑いながら言う。
「ゲームの世界に産まれ変われるんだから、不思議な存在の僕が、不思議な夢を見せたって、何も不思議なことはないだろう」
「いや、不思議なものは不思議でしょ」
「君のそういうところ、けっこう好きだよ」
「…どーも」
よくわからんが褒められた。八割がた皮肉っぽかったけど。
「つまりイデアだかアーキだかよくわからないけど、ベルンハルトの原型?亡霊?のあなたが私に毎日せっせと悪夢を見せていた、と」
肯定する代わりに、ベルンハルトはこてんと首を傾げる。
うっ。見た目は完璧ベルンだから、一瞬ときめいてしまった。不覚。
「えっと、それは、どうして…?」
ベルンハルトはすぐには答えず、少し離れたところにあった白いエリカに歩み寄った。
そしてその細長い筒状の花を適当に一つちぎって、指先でくるくると回す。
あんな花、うちの庭にあったっけ?
「君の幸せに、小さな傷をつけてやろうと思った」
季節などお構いなしに咲き乱れた花の甘く、青臭い香りに混じって、またあのすえて淀んだ鉄っぽい臭いがした。それはあの地下の冷たい牢獄の臭いだった。
「単なる嫌がらせだよ。そう、子供じみた、しょうもない嫌がらせ」
そう自嘲気味に言った彼の顔に、寂しそうな影がよぎる。しかしそれは一瞬のことで、私の見間違いだったのかもしれなかった。
「ベルンハルトの惨めで無様な最期を知れば、きっと君は心を痛めるだろう。きっと傷つくだろう。時々思い出して、どうしようもない、行き場のない苦しみを抱えるんだろう。ほら、小指のさかむけって傷自体は小さいのに、いつまでも痛いし鬱陶しいだろう?」
私は誰であろうと人から悪意や敵意を向けられるのが嫌いだ。きっとそれは誰だってそうだろうし、実際私は何度も人の悪意や敵意に気後れして、時には傷ついた。
けれど不思議なことに、私は自分でも驚くほど平静だった。
彼は私を傷つけようとしたのだとはっきり言ったのにも関わらず、悲しみもショックもちっとも湧いてこない。
どちらかと言うと、そんな憎まれごとを言う彼をかわいそうに思ったのだった。
「どうして?」
くるくる、くるくる。
筋張った白い手の中で、白いエリカは回り続けている。
「君があいつを変えてしまったから。そのせいで僕とあいつは似ているけれど、全く違う人間になってしまった。僕は変わりたくなんてなかったのに。たとえどんな結末を迎えようが、僕は自分が普通になりたかったなんて……ましてやなれるなんて認めない」
ぴたりと花を回すのをやめ、彼は私を見た。
少し垂れ気味な切れ長の灰色の目。
それは彼の体の部位の中でも、私が一番好きなところだった。
けれど、これは違う。
彼が私を見下ろす瞳には冷徹さとどこか憎々し気な色さえ浮かんでいて、再び恐怖が私を襲う。
もしいまここで私が彼の気に障ることをしたら、何をされるかわからない。というか、何を考えているのかわからない。理解不能。まるで違う生態の生き物を相手にしているような、そんな怖さが彼にはあった。
ベルンは私の言うことなんて聞いちゃくれないけれど、でもちゃんと私の意思を尊重してくれていた。私がバカやったって、仕方ないなって困ったように笑って、本当に危なくなったらいつでも助けられるようにと見ていてくれていた。こんな時にベルンの優しさに気が付くなんて。
しかも、しかもだ。と声を荒げて彼は続ける。
「君はあいつがいなくたって生きていける。けれどあいつは君がいなきゃ生きていけないんだ。あいつにとって君は唯一だけれど、君にとってあいつは唯一じゃない。そんなのってあんまりじゃないか」
あいつって、ベルンのこと?だとしたら、
「そんなこと…」
ないと言おうとしたが、それよりも早くベルンハルトが口を開いて私の言葉をさえぎってしまう。
「君はどうしてあいつを好きになったんだ」
「え、それは…」
次から次へと話題を変えられるとついていけない。
というか向こうははなから私の答えなんて必要としていないし、まともに話そうともしていない気がする。私の理解なんて求めていなくて、ただ言いたいことを好き勝手言っているだけ。まるで扱いづらい子供と話しているような気持ちになる。
「あいつが君を必要としていたから。違うか?」
なんじゃそりゃと思って、そう言おうとしたのに、何も言えなかった。
そうかもしれないなんて一瞬、本当に一瞬、思ってしまったからだ。
「君は自分の存在があいつにとって必要なものだとわかっていた。あいつが自分に欠けているものを君に求めていることをわかっていたんだ。だから側に居続けた。君は反吐が出るくらいにお優しい慈愛にみちた人間だからね。あいつを、僕を、かわいそうだと思ったんだろう?」
ベルンハルトは私の答えなんて必要ないとばかりに、畳みかけてくる。
かと思えば今度はこっちの息が詰まるほどの緊張感を漂わせながら黙り込み、ずっと持っていたエリカをぐっと握りしめた。ぎゅうとこれでもかと力を込め、握りつぶそうとする。
彼の感情のふり幅にも行動にもついていけず、私は驚きか恐怖ゆえかわからない激しい動悸を抑えようと、心臓の上に手をあて立ち尽くすしかなかった。
そんなことないとか、何を言っているんだとか、言いたいことは色々あった。けれど喉のところで引っ掛かって、詰まって、どうしても舌まで上がってこない。
どのくらいの時間が流れたのかはわからない。
たぶん本当に数秒ほどの短い時間だったのだろうが、私には数分かそれよりも長い時間に感じられた。というか夢の中では、時間の概念なんてあってないようなものだ。
「僕は君に救われたなんて思わない」
脈絡なくぽつりとそう言って、彼は拳を開いた。
あんなに強い力を込めて握りつぶされたというのに、どこもひしゃげていない。綺麗な形を保ったままのエリカの花は、音もなく地面に落ちる。
地面に落ちた花が、空っぽになった手を見つめる彼の姿が、この上もなく悲しいもののように思えた。
「だから君も、もう自由になりなよ」
「はっ…」
私たちの間には数歩の距離があったはずだった。
しかし瞬き一つした瞬間に、彼は目の前まで迫ってきていて、トンと軽い力で肩を押される。
私の体は糸が切れたみたいに力を失い、そのまま後ろへ崩れ落ちていく。
自分だけ言いたいことを言って、それで自由になれとかいったいどういう了見なのか。
悔しまぎれに伸ばした手は、当たり前のように空を切る。
「待って…!」
てっきり地面に叩き付けられるのだとばかり思って身を強張らせていた私は、ぼすんと重い音を立てて、背中から何かに沈んだ。
「ぐぅ」
地面のように固くはないが、決して柔らかいわけではない。現に背中から着地したせいで、一瞬息が止まりかけた。ジタバタと暴れると、周囲の白いものが崩れて顔の上に落ちてくるので慌てて振り払う。服の上からもじわじわと冷たさを感じるし、これは、雪?
最初は修道院で、別邸の中庭、それで今度は雪?
もんどりうってなんとか起き上がったころには、全身雪まみれになっていた。
雪の冷たさは感じるのに、寒いわけではない。やはりまだここは夢の中、ということなのだろうか。というか明晰夢とかいう次元ではない気がする。あのベルンハルトは世の中不思議なことくらいいくらでも起こるみたいなことを言っていたけれど。
さてどうしたものかと髪についた雪を手で払いながら、辺りを見回す。
背後には雪に覆われた林があり、それ以外は見渡す限り果てのない雪原だった。
ひゅおおおおと不気味な音を立てて凍えそうに冷たい風が、背後の閑散とした林から吹き付けてきている。髪の毛や服の裾がバサバサとはためいてちょっと邪魔だ。
いったいここからどうしろってんだ。
はぁとため息をつくと息は白い靄になり、風に運ばれてたちまちのうちに消えていく。その行方をなんとはなしに見つめていると、ずっと遠く、前方に、たくさんの人影が見えた。
すると急におーいとこちらを呼ぶ声が聞こえてきて、私はもっとよく見ようと目を凝らす。
特に大きく手を振る影が二つ。あれは…。
「お父さん…に、お母さん…?」
二人だけではない。
おじいちゃんに、おばあちゃん。卒業旅行に行こうって約束していた友達に、いつかまた会おうねって約束していつのまにか疎遠になってしまった友達。お世話になった思い出の先生も、仲の良かった後輩もいる。
もう二度と会えないはずの人たちが、そこにいた。
みんな、私に手を振っている。
思いもよらない再会に手足が震えて、目の奥がかあっと熱くなった。
懐かしくて、会えたことが嬉しくて、思わずそちらに駆けだそうとした。
そう、駆け出そうとしたのだ。
なのに私は、いつのまにか後ろから吹き付ける風がやんでいることに気が付いてしまった。
風がやんだだけ。ただそれだけなのに、そのことがとても気になって、無視してはいけないと踏み出そうとした足が動かなくなる。
振り返るとまっさらな雪の上に、さっきまで無かった小さな赤い点が、林の奥へ途切れ途切れに続いているのが見えた。
みんなが私を呼び声は早く来いと急かすように、徐々に小さくなっている。
唐突に、ああ、これが本当に、本当のお別れなんだと理解した。
「…さよなら」
その言葉を口にしたとたん、ぽろっと涙が勝手にこぼれた。舌の付け根よりも下の喉の一部が、キュウッと腫れ上がったかのように痛む。
それでも言わなくちゃ。
一度折り合いをつけているとはいえ、今度は自分からお別れをしなくちゃいけない。そう思うと、胸が引き裂かれるようにつらい。
けれど私はそっちには行けない。行かない。
涙をのみ込み、私は手を大きく振って声のかぎり叫んだ。
「さよなら!」
時々退屈なくらいに平和で、それでもやっぱりつらいこと、苦しいこともあった。そしてそれ以上に思い出すだけで泣いてしまいそうな平凡で幸せな思い出もたくさん、たくさんあったのだ。
いままで忘れたことなんてなかった。そしてそれはこれからも。
けれど多少なりとも細かいことは忘れてしまうのだろう。だって人間なんだから。
でも絶対に、忘れたりなんかしない。思い出して胸が痛んだとしても、その痛みも全部ひっくるめて、私は生きていくだろう。
だからいまは、さよならだ。
もう私を呼ぶ声はほとんど聞こえなかった。
白い靄の向こうに消えていく懐かしい人たちが、手を振り返してくれているのを最後によく目に焼き付けて、くるりと踵を返し、私は冬の林へ飛び込んだ。
真っ白な紙に墨汁で描き加えたように黒い木々の間を縫って、赤い点を追って私は駆けた。
空気中に細かい雪が舞い上がったかのような白く冷たい靄のようなものがあたりに漂い、視界も悪い。
何もかも死に絶えたかのような寂しい冬の林を、途中何度も雪に脚をとられてこけそうになりながら、転がるように私は駆けて、駆けて、駆けて。
ふっと目の前の靄の一部の色が濃くなった気がした。
次第に濃い部分は黒い影となり、小さな人の形をとる。
心臓が鼓膜のすぐそこで鳴っているかのようにうるさい。なんだか息が上がりすぎて、ちょっと吐きそうだ。
人影は小さな体で苦労しながら、それでも雪をかけ分け前に進んでいる。
「ベルン!」
私の呼びかけに、彼は驚いたように大きく肩を震わせ、振り返った。
私たちが初めて出会ったときよりもずっと幼い姿をしたベルンハルトは、鼻血やら切り傷やらでボロボロの酷い有様だった。両手が真っ赤なペンキの中に突っ込んだみたいで、その指先から垂れたものが私をここまで導いた赤い点を雪の上に作っている。
ぜぇぜぇみっともなく喘ぎながら、私は雪をかき分け呆然としているベルンハルトに近づいていった。
「たしかに私はベルンに同情したのかもしれない。破滅してしまう未来が待っているなら、私が変えなきゃいけないとも思ってた。…でもそれ以上に私はベルンと一緒にいて、楽しかった。ずっと一緒にいられたらいいなって…」
一度大きく吸って雪にずぶずぶと脚を沈めては、半ば無理矢理に引き抜いて、また一歩、また一歩と少年に近づいていく。
「それにベルンって、とても寂しがり屋なの。本人はそんなことないって言うけど、だからこそ私は……ううん、そんなこと本当はどうだっていいんだ」
なんか小難しいことをごちゃごちゃ言って、理由をつける必要なんてない。
物事はなんであろうと、シンプルが一番。
いつもそう考えてきたじゃないか。
そうなるとやっぱり思い出すのは、子供のころの遠いあの日のこと。
二人初めて行った感謝祭で、私を守ってくれた血で汚れたあなたの手を握ったあの日から、ずっと、ずっと、
「私、ベルンが、あなたが好き」
どうして好きになったんだっていう質問に、好きだからだ、なんて物凄くふざけた答えだけれど。でもそれ以外に言いようがないのだ。
それらしいことはいくらでも言える。けれど、好きなものは好き。それ以外に何があるっていうわけ?
彼はぽかんと口を開けて、立ち尽くしていた。
間抜け面でも、美少年はやっぱり美少年だ。凄い。
「ありがとう。ベルンハルトのことを教えてくれて」
彼はあえぐように数回息を吸って、それから痛みをこらえるように顔を歪め、背中を丸め、ずるずるとその場に座り込んだ。
私も走ってきた疲労で立っているのがつらくて、一緒になって座り込む。
「大好きだよ」
脈絡もなく、ただ言いたかったから、そう呟くように言った。好きだという気持ちが溢れて、言葉にしないと泣いてしまいそうだった。
こわごわとボロボロになった少年に腕を伸ばし、拒否されないことを確認してからそっと抱きしめた。
やはり冷たくも温かくもない。それどころか彼の体は成長期の子供らしく骨ばって薄く、ともすればバラバラに壊れてしまいそうだった。
私は少しでも自分の体温が移ればいいと、抱きしめる力をほんの少しだけ強めた。
すると腕の中から、幼い嗚咽が漏れ聞こえきて、一度引っ込めた私の涙もつられて出てきてしまいそうになる。
必死に泣き声を殺して、途切れ途切れにベルンは言う。
「だから君は、馬鹿なんだ」
ほとほとと軽い音を立てて、私たちの周りに何かが降っていた。雪のように白いが、もっと大きくて、細長い。エリカの花だ。
いつのまにか雪の冷たさは消え、辺りはエリカの花で埋め尽くされていた。
白い花弁が照り輝いてあまりに眩しいものだから、私たちはますます馬鹿みたいに泣いてしまうのであった。
そうして長い一連の夢は終わり、私は目覚めた。




