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いつも読みに来て下さってありがとうございますですv
本日2話目です。
季節外れの暖かな昼下がり。小春日和だ。
まだまだ昼より夜の方が長いこの時節において少しでも太陽の恩恵を受けようと、たくさんの生徒たちが学院の中庭でゆったりとした時間を過ごしていた。
購買で購入したサンドイッチを食む者、急いで食べ終えて持ち出してきた本を寝そべって読む者、仲の良い同士集まって輪を作ってお喋りに興じる者、それぞれだ。
ただし、このガゼイン王国の貴族であれば皆魔法が使えるので地面に座っているように見えても実際には10センチほど浮いているので服が汚れることはないし、寝そべって本を読んでいてもその本を支える為に肘をついたり頁をめくるのに体勢を変えたりする必要もない。
だから、雨が降っていたとしてもそれを避けることもできるので晴れの日しか中庭に出れないという事は無いのだけれど、それでもやはり晴天の下で過ごす方がずっと気持ちがいい。
そこにいる全ての生徒が、今日という好天を喜んでいた、筈だった。
怒り狂った様子の彼女が来るまでは。
「もう我慢なりません。殿下、貴方の婚約者は、私フリーディア・リスターです。
私ではなく一男爵令嬢などを傍に侍らすなど。私のみならず父であるリスター公爵まで軽視する行為だと思し召し下さい」
ざぁっと周囲が静まり返り、中央にいた集団に視線が集まる。
そこにいたのは、先ほど批難の声を上げたフリーディア・リスター公爵令嬢と、その婚約者でありこの王国の王太子であるリオノール・ガゼイン殿下、王太子の未来の側近として目される2人の学友達、宰相嫡男であるジェームス・クレイヴンと騎士団長嫡男であるベン・パニエル、そして小動物めいた一人の少女、男爵令嬢リィズベリ・エネスの5人だ。
少し遅れてフリーディア・リスター公爵令嬢の取り巻きであるご令嬢達が慌てて駆け付けその周囲に壁を作ったが、すでに始まっている会話について隠すことは無理だった。心が乱れているだけでなくお互いの魔法が干渉しあって視線を遮るどころか音すら塞ぐことができなくなっている。
周囲にいる学生たちは視線だけは外しながらも、その実、魔法を使って集音してまでこの突然起こった騒動に集中していた。
「やぁ、国王陛下がお決めになった婚約者殿。ひさしぶりに話し掛けられたと思ったら、侍らすなどとは他人聞きが悪い。僕はクラスメイト達と歓談しているだけですよ」
柔らかな笑顔で王太子が婚約者の批難を受け流す。その笑顔に、婚約者殿と呼ばれたフリーディアの眉が顰められる。
人形王子。誰が呼んだか我が国の王太子を表すのに、これ以上似合う言葉はない。その認識は近しいものほど強く感じていた。
今から30年近くも前のことになるが、天上から舞い降りた美姫として名高い隣国の王女を正室にと迎え入れることが叶った国王陛下だったが、水が合わなかったのか何が悪かったのか、元々お身体もそれほどお強い方ではなかったこともあり体調を崩され、なかなか子宝に恵まれなかった。そうして隣国も交えて何度も話し合いが行われ王は国内から側室を迎え入れ一人の王子をもうける。しかしその3年後、諦めていた正室である王妃にも御子が恵まれる。それがこのリオノール王太子殿下だ。近隣諸国に鳴り響く美姫として名高かった母親そっくりの美貌。輝くような黄金の髪に紺碧の海の様な瞳。滑らかな頬は遠い東方から持ち込まれる高価な磁器より白く、完璧なカーブを描く鼻筋と唇が神によって配置されていた。残念ながら王子を産んだ後は次第に美しい王妃は日々その身体から命の輝きを薄くしていき、ついには儚くなった。リオノールの8歳の誕生日まであとひと月という頃だった。
王妃の位を空席にすることはできず、隣国との間においてリオノールを立太子することを確約することで第一王子の母である側妃を王妃として迎える事になったのである。
以来、神が造りたもう最高の美を体現した完璧な顔には常に綺麗な笑顔が浮かんでいる。
朝から晩まで。傍付きの侍女も、この国最高レベルの教育機関で教鞭を揮ってきた教育係のお歴々の面々も、厳しい訓練を課すことで有名な剣の師匠である強面の元騎士団長も、偏屈として名高い孤高とされた魔術師すらも。その綺麗な笑顔が崩れたところすら見たことがないという。
ただし、その綺麗な笑顔には何の熱も感じられない。ただ綺麗な笑顔というだけのものだった。
誰に対しても、どんな時でもその笑顔は崩れない。
意思もなく、ただ浮かべられるその笑顔。何時間にも渡る古代語の写本をしている最中も、重い鎧を着けたまま剣の素振りを続けさせられても、綺麗な笑顔のままの王太子は、いつしか不気味だと囁かれるようにまでなっていた。
そうして。その笑顔が特に美しくなるのは自分の婚約者に対してだった。
誰よりも綺麗に微笑んでみせる癖に、この王太子はフリーディアに会うために公爵邸まで出向いた事は一度もない。
誕生日にも、毎年花束と『誕生会に出席できなくて残念に思う』と書かれたカードが届くのみだ。デビュタントに贈られたドレスの御礼を述べれば『僕からではないよ。誰が僕の名前で贈ったんだろうね』とあからさまにフリーディアに興味はないと言い切られる始末だった。勿論、公爵邸まで迎えに来るようなことも一切なかった。婚約者がいながら父親にエスコートされて会場に入る屈辱にフリーディアは足が動かなくなり、父である公爵に半ば引き摺られるようにして会場入りする破目になったのは、今でもフリーディアの心に大きな傷を残している。
──そんな人形王子が、最近、一人の女生徒をずっと傍に置いているらしい。
そんな噂がフリーディアの耳に入ったのは、その噂が誰の目からも明らかになった頃、というよりフリーディア自身がそれを目の当たりにした時の事だった。
「あれは? 誰かしら」
婚約者である王太子が見たことのないような顔で笑っている。しかも声を上げて。
その視線の先にいるのは勿論フリーディアではない。そうして幼い頃からずっと傍にいる学友達でもなく、一人の女生徒、それも下級生の男爵令嬢だと判った時の、フリーディアの心情たるや激情としか言い表せないものだった。
笑顔の防壁の向こう側に追いやられているのは、自分だけではない。
それだけが、フリーディアの王太子の婚約者としての自分というものを支えていたのだ。
王は孤独であるという。ならば未来の王たる王太子という存在も孤独であろうとしているのだと、そう信じていた。もしくはそう信じたかっただけかもしれない。
どちらにしろ、フリーディアにとって婚約者たる王太子は誰も傍に寄せ付けない、そんな存在だった。それまでは、ずっと。
「クラスメイト達と歓談、ですか。これまで婚約者である私とですら同席されたことのない殿下が、学年の違う男爵令嬢と?」
言外に含みを持たせてゆっくりと爵位で呼ぶ。名前を呼ぶ価値もない、そう伝える。
「ジェフリーもベンも僕のクラスメイトだからね。クラスメイト達で間違いないでしょう?
それにしても。侍らすなどという、令嬢が口にするべきではない言葉を使った挙句にそれですか。貴族学院の生徒である限り、そこに爵位を持ち込むことはあってはならないことですよ。マナー違反にもほどがありますね」
無粋にも程があると、己が窘めた筈の相手から逆にため息交じりに諭されてフリーディアの頬に朱がのぼる。
「……婚約者がありながら、他の女生徒と二人で話す方がマナー違反ではありませんか?」
脇に下ろした手を、ぎりりと音がしそうなくらい握りしめる。
険を帯びた眼差しで睨みつければ、ふわっと柔らかな笑顔が返ってきた。それは普段、フリーディアが見せられてきたそれとはまったくの別物、人としての熱を持った本物の笑顔だった。それに虚を突かれる。
「リィズベリ嬢と二人きりになってみたいのは山々だけれど、僕には頼りになりすぎるほど実直に仕えてくれる未来の側近が二人もいるものでね。そういう楽しそうな時間を持てたことは無いんだよね」
本当に残念だ、と横にいる女生徒を愛しげに見つめる。
その視線を受けて真っ赤になって俯く女生徒の姿に、フリーディアは苛立ちを深くした。
「…それです。その態度が、婚約者のいる男性として如何かと申し上げております」
視線だけで人が殺せるなら、フリーディアはとっくにこの男爵令嬢を殺しているだろう。残念ながらそんな強い呪力を持っていることが判ったら、首に魔力阻害の封印錠を着けられてそこから魔力を吸いだされながら一生を奉仕活動に費やし生きていかねばならないが。
「学生同士、ちょっとした冗談を交わすことも許せないほど狭量だとは」
未来の王妃殿として悋気がすぎませんか? そう横から言われてフリーディアはぎろりと視線を向ける。
「…クレイヴン様。それはあまりにも過ぎたお言葉ではありませんか?」
伯爵令息ごときが公爵令嬢たるフリーディアに対して述べていい感想ではない、と言外に篭める。しかし
「貴族学院にいる間は、爵位を持ち込まないのがマナー、ですよね?」
さらにベン・パニエルからも窘められる。一対四ではさすがに分が悪いとフリーディアは唇を嚙み締めた。
「リオ殿下のお傍には我々が常に共におります。フリーディア様がご心配になられるようなことには絶対になりませんよ」
ジェフリーのその言葉に、意を決したように壁となっていた令嬢から声が上がった。
「ジェフリー様も、ベン様も、その男爵令嬢に騙されて一緒に侍っておられるではありませんか!」
王太子であるリオノールには直接物を申せなくとも、学友であろうと所詮伯爵家の嫡男でしかないジェフリーとベン相手になら強く出れるようだ。
「私達が侍っているとしたら、それは王太子殿下に対してなのですが。
…自分で言っていて、この単語を使うのは寒気がしますね」
わざとらしくジェフリーが冗談めかして言うと、ぶふっと噴き出す声がする。
「なんだ。ジェフリーとベンは僕に侍っていたのか。では次からはもっと布の少ない服でも着てみるか?」
でも見たくないな、とリオノールが笑顔のまま言えば、
「風邪を引くので嫌です」とジェフリーが冷静に言い返した。
その様子に、リオノールの横でずっと俯いていた少女も噴き出した。
「やっと笑った。リィズベリ嬢は笑顔の方が似合うね」
愛おしそうにその小さな顔をリオノールが覗き込む。その瞳は甘く蕩けそうに輝いていた。
「…王太子殿下」
視線を合わせた瞬間、耳まで真っ赤になった少女が、慌てて視線を再び外して横を向いた。
その仕草はどこまでも小動物めいていて愛らしい。
艶のある黒髪はボリュームがあり、綺麗に巻かれたその髪にはリオノールの瞳の色と同じ美しい碧色をしたベルベットのリボンが結ばれている。
風で揺れるそれを、うっとりした同じ色の瞳が見つめる。それはどこにでもある初々しい恋の一場面。それが既に婚約者を持つ王太子と男爵令嬢との間で交わされたものでさえなければ、だが。
「皆と同じように、僕の事はリオって呼んでって言ってるのに」
拗ねたような声を出すリオノールに、今度こそその場にいた全ての視線が集まる。
人形王子と揶揄されるいつもの笑顔と全く違う、その笑顔に釘付けになる。
柔らかでどこか切なさを帯びた笑顔に、フリーディアの取り巻きである筈の令嬢達すらぽうっとなっていた。
「……高々、男爵令嬢ごときに墜とされるとは。どんな手練手管を使われたのか。
王太子殿下におかれましては、些か身持ちが悪すぎるのではありませんか!?」
それは、いくら婚約者たる公爵令嬢とはいえ不敬に過ぎる言葉であった。
それが、耳を澄ましていた生徒達のみならず未だ何かが起きているということすら気が付いていなかった生徒たちの衆目を集めるほどに、大きな声で学院の中庭に響き渡った。響き渡ってしまった。
「…手練手管とは、どういう事か?」
ゆらり、と立ち上がった王太子に睨まれて、フリーディアは背筋に汗が落ちていくのを感じる。それはかつて一度もリオノールからは感じ取ったことのない、王者の威圧であった。
「ひっ…」
フリーディアを守るがごとく壁を作っていた令嬢達が膝から崩れ落ちる。
そうして、公爵令嬢として常に誇り高くあったフリーディア自身もが後ろに足を引いてしまっていた。その事に屈辱を感じる前に、恐怖が先に立つ。
「フリーディア・リスター公爵令嬢。僕の質問に答えてくれないか?」
初めてみる婚約者の恐ろしい顔に、フリーディアは頭の中が真っ白になってどうしたらいいのか判らなくなっていた。ずっと侮っていた相手だった。
頭が悪い訳ではない。顔もいい。しかし、どんなことに対してでも一定以上の興味を持たず、心を動かさない。いや、動かす処か人としての心を持たない人形のような飾り物。
それがリスター公爵家におけるリオノールへの評であり、フリーディア自身による評価であった。
いつか自分が王妃として立つ、その時は王を支えるというより引っ張っていく。そう信じていた。それなのに。
目の前に立って自分に問いかける姿はまったくの別人で、とてもフリーディアに御せる相手だとは思えなかった。
そんなリオノールの手をそうっと引っ張り窘めたのは、件の男爵令嬢リィズベリ・エネスだった。
「王太子殿下、おやめください。ご令嬢方が怖がってます」
その大きな瞳には今にも零れ落ちそうなほどの涙が溜まり、すでに長い睫毛は濡れそぼって如何にも重そうに震えていた。きっと瞬き一つすればそこから透明の雫が頬を伝わり零れ落ちるだろう。それを何より恐れたリオノールは追及を諦めて大きなため息にした。
「リィズベリ嬢は優しすぎる。今、不当に貶められようとしているのは貴女なのですよ?」
そう窘めながらもリオノールの瞳は甘やかすように優しげだ。
「…っどこが不当」
舌打ち交じりで囁かれたフリーディアの声に、再びリオノールの瞳が妖しく輝いた。
男爵令嬢を後ろに庇い、己の婚約者に向かってまっすぐに姿勢を正して見据える。
そうして人形王子と呼ばれた王太子は、ゆっくりと、その言葉を告げたのだった。
「…もう我慢できない。フリーディア・リスター公爵令嬢。貴女との婚約は今を以って破棄させていただく。追って、陛下とリスター公爵へは話を通す」
そう言い切る。その驚愕の内容と言い切った時の王太子の覚悟に、それ以上の言葉を見つけられなかったフリーディアは、何度か口を開きかけては言葉を形にしようと試みるも結局それはどんな音にすらならずに遂には肩を落として黙り込んだ。
そうして、背後に控えていた令嬢方に支えられてその場からなんとか立ち去っていく。
その様子を目で追っていたリオノールは、ふぅと大きく息を吐いた。
「…困ったな。こんな風に伝えるつもりではなかったんだけど」
そう、少しだけ俯いて呟くと目を閉じる。
再び目を開けた時には、覚悟を決めた顔をして隣で心配そうにしていたリィズベベリの足元に跪いた。
「で、殿下! どうされたんですか?」
慌てるリィズベリの顔を見上げて、ゆっくりと目を眇めた王太子は、よく通る声でその言葉を紡いだ。
「リィズベリ・エネス男爵令嬢。私は絶対に今の不本意な婚約を破棄してみせる。
だから。ずっと、私の傍にいてくれないだろうか。
リィズ。君に、…僕のお嫁さんになって欲しいんだ」
その言葉は、中庭にいたのみならず全校生徒および全教員全職員の耳に隈なく届いた。
辺りが、しいん、と静まり返る。
それは学院という10代の生徒たちが集う場所での昼休みにはありえない現象であり、魔法によって届けられたことは明白だった。
「絶対に、リィズを僕のお嫁さんにする。約束だ」
真っ赤になって頷くだけになった男爵令嬢と、それを蕩けるような笑顔で嬉しそうに見つめる王太子に向けて祝福の拍手を送るのはすぐ傍に立つ男子生徒2人のみ。
派手な公開告白で誕生したばかりの恋人同士へ向ける餞にしては少々寂しいが、それを受ける二人には十分だったようだ。幸せそうに見つめ合う。
突然の、王太子と公爵令嬢の婚約破棄。そして新たなる婚約の申し込みに、学院は揺れた。




