第86話 マオ・グランツェル
「獣人の子に会う前に、俺たちは魔法で姿を変える。なに、ちょっと雰囲気を変えるだけさ。物騒な見た目じゃ、仲良くはなれないだろ?」
「……」
「ああ、それと…お前がホムンクルスだということは、他言無用だ。いいな?」
そんなキロの言葉に、内心疑問を呈しつつ、マオは渋々彼らの後に続き、獣人の元へ向かった。
なぜ、そんな子と仲良くならなければいけないのか。家族の真意など、子供のマオに理解できる筈もなく、あくまで勇者パーティの末女として振る舞えばいいだろうと、軽く考えていた。
「ほら、マオ~。あなたも挨拶して~」
「う、うん…」
母親のエマに促され、背後に身を潜めていたマオは、ひょこっと顔を出す。
初めて顔を合わせる獣人。粗相のないようにと促されたことが脳裏に過ぎる。
一体、どんな子なのだろうか…。
そう思い、軽く身構えるマオだったが、気づけば無意識に心を緩ませていた。顔を上げると、目の前には純粋を体現したかのような、屈託のない笑顔があったのだから。
獣人の特徴である耳や尻尾には一切目を向けず、マオはただ、その子の表情に衝撃を受け、一瞬で惹かれてしまった。
(何、この子…。すっごく、綺麗…)
周囲から聞こえてくる些細な物音も、なんなら風に揺られる木々の騒めきさえも、マオの耳には入ってこない。それ程までに、獣人の少女――モナは、マオの視線と集中を奪って離さなかった。
「マオ、よろしく…」
目を見開いて驚きながら、口だけを動かす。
あまりの硬直状態に、緊張しているものだと思われたようで、モナはマオと同じ目線の高さまで屈み込んで、優しく話しかけてきた。
「えへへ、よろしくね~」
生まれた時、マオの耳に入ってきたものは、何も普通の言葉だけではない。
不純な言葉や魔族の汚らわしい会話、陰湿な物事も例外ではなく、幼少の子供にその全てを聞かせるのは、あまりに冷酷だ。簡単に言えば、脳内で拷問されているようなものだろう。
優れた才能を持つが故、子供ながらに嫌なことを沢山知ってしまった。
マオの中に、純粋な子供心など存在しない。意味は分かるものの、自分は生涯、純粋という気持ち・心が何なのかを知らずに生きていくのだと、勝手に思っていた。
「ほら、見て。可愛いでしょ~、にゃんにゃん♡」
モナは師匠と呼ぶ黒猫の脇下を持って、抱き上げる。かなり嫌そうな様子で、黒猫はジタバタと暴れ出した。
「シャーーーー!!!」
「うわぁ!師匠、暴れちゃだめだよ~!ふにゃ!引っ掻かないで~!」
「にゃ~!!」
「やったな~!ほら、見てマオちゃん!師匠の頬っぺたはね、こーんなに伸びるんだよ~」
仕返しに、モナは黒猫の両頬をゴムのように伸ばす。変顔を晒され、黒猫は更に荒れ狂い、軽い喧嘩が始まった。
そんな無邪気で他愛ないじゃれ合いに、マオの口元は緩みだす。
「ふふっ…」
思わず失笑してしまうマオに気づいて、モナは嬉しそうな笑みを浮かべた。
「マオちゃん、笑った!」
「え…?」
「にぃへへ~、何だか緊張?してたみたいだったから、笑顔が見れて、モナすっごく嬉しい!」
今まで一度も笑ってこなかったマオが、初めて破顔した瞬間。そのことに、自分が何よりも驚いて、不意に綻ばせた口元に触れる。
(ほんとに、笑ったのなんて初めて…)
緊張から解放された訳ではない。物事に対して〝笑う〟ということが何なのかを知らなかったのだ。
どうして、笑えたのだろう。と考える前に、マオはモナの言葉に疑問を投げかけた。
「なんで、あたしの笑顔が見れて…その、嬉しいの?」
すると、モナは黒猫を頭に寝かせ、これ以上なくニッコリ笑いながら告げる。
「そりゃ、嬉しいよ~。笑った方が、楽しいもん!思いっきり笑うとね、一瞬でも嫌なことを忘れられる…そんな気がしない?」
「嫌なことを、忘れられる…」
「そっ!モナも色々あって、すっごく落ち込んでたことがあったんだけど、師匠がいっぱい笑わせてくれたから、今は前向きに頑張れてるんだよ」
「にゃ!」
モナの賞賛に、黒猫はドヤ顔をかます。
マオは分かっていた。自分でも修復不可能な程に、心が汚れてしまっていることを…。
嫌な記憶は、一生ついて回ることだってある。どう足掻いても、忘れ去ることはできないのだ。
このままの気持ちで生きていけば、いずれマオも勇者パーティの連中同様、腐り果てた心を持ってしまっていたかもしれない。取り返しのつかない人格になる前に、彼女へ一筋の光、そして大きな道を示してくれたのが、モナであった。
「おいで、マオちゃん!」
「うん、モナお姉ちゃん」
モナと一緒にいる時は、蓄積された不快な物事がマオの頭に浮かび上がってくることはなかった。
楽しいことを考えれば、周囲から聞こえてくる音に意識を向けることも少なくなり、精神的苦痛やストレスも軽減される。当たり前の事だが、マオにとって、産まれてから一度も味わうことのなかった〝悦び〟という感情、そして自分を出せる場があることに、どれだけ心が救われたか。
モナに会い、同じ景色を見て、同じ体験を分かち合う。純粋無垢なモナの目に映るもの全てが新鮮に感じ、それを共有する度に、マオは幸福感を味わっていた。
「マオちゃん、最初に会った頃と比べて、笑顔が増えたよね」
「そう…?だとしたら、モナお姉ちゃんのおかげかも」
二人並んで、森の花畑で語り合う。いつ何時も笑みを絶やさないモナを横目に見ながら、マオは一呼吸置き、口を開いた。
「ねぇ、モナお姉ちゃん…。まだ、考えてる?その…あたしたちと一緒に旅すること」
「んー、そうだね…。師匠が凄い心配症でさ。モナは大丈夫って、ずっと言ってるんだけどね」
「そっか…。黒猫も一緒に行けたらいいんだけど、お父さんが許してくれないから。ごめんね」
「ううん、仕方ないよ。師匠はもう歳だし、長距離の移動は難しいからね」
「……でも、でもね、あたしはモナお姉ちゃんが行く行かない関係なく、ずっと一緒に居たいって思ってる!」
「マオちゃん…」
「ダメでも、出来れば…」
モナが勇者パーティと共に旅をすることになったきっかけは、外の世界を見てみたいという願望の他に、マオの強い意志に感化されたからでもあった。
たとえ家族と別れたとしても、モナと一緒にいたい。そんなマオの思いが最後の一押しとなり、モナは勇者パーティについて行くことになったのだ。
「うぅ…」
「大丈夫!?マオちゃん!」
「また、声が…!うっ!!」
マオの聴覚に関して、モナはある程度理解していた。周囲からのノイズに苦しみ、発作のようなものを起こすマオを見る度、優しく抱擁し、安心させる。
「ありがとう、モナお姉ちゃん」
「ううん、全然大丈夫だよ。それにしても…」
マオたちと共にしてから、一年が経とうとしていた頃だ。モナが違和感を覚え始めたのは…。
家族であるにも拘らず、段々とマオの容態を留意しなくなっていったパーティの面々。露呈し始めた異様な家族の空気感に、モナは少しずつ疑心と不安を募らせていく。
(前は、もっとマオちゃんのこと、気に掛けてくれてたのに…。まるで、いないかのように……)
既に二人とも、計画の〝核〟として、闇の手の上で転がされていたのだ。
そんなことなど知る由も無い。
なぜなら、モナは信じていたから。彼らが本性を現す、その時まで。
◇
そして時は過ぎ、モナはキロの手によって拉致された。
抵抗も虚しく、簡単に捕らえられてしまったマオは、キロから計画の全貌を聞かされる。
「優れた才能と聴覚以外じゃ、お前は普通の人間と相違ないからな…。一時の気の迷いで、俺たちに牙を向かれちゃ困る。だから、敢えてお前には、神霊族の研究に関して何も教えてこなかった。勿論、その耳に入らないよう、計画は全て俺の結界内で行い、詳細も一部の口の堅い奴らにしか伝えてねぇ」
「くっ…なんで、なんでそんなことに、モナお姉ちゃんを!!」
「アイツが神霊族だからだ。それ以外に、使える理由がねぇだろ?」
「使えるって…何を言ってるの?まるで、道具みたいに――」
「道具さ!当然、お前もな…」
「……っ!!?」
この時、マオの中で何かがプツン…と切れた。
〝家族〟という言葉一つで繋がっていた唯一の糸。縁の絶たれる音が、マオの優れた耳に届いたのだ。
少し前から、父親の行動に疑念は抱いていたものの、まさかここまで残虐な心を持っているとは思いもしなかった。
家族間の信頼すらも、キロの中では皆無。はなから誰一人として信用しておらず、使える駒として接してきたのだから。
「これ以上俺に歯向かうなら、隔離空間に閉じ込め、音圧の拷問を施してやってもいいんだぞ?マオ…」
「そ、それだけは…やめて……お願い、します…」
「クハハハ!分かればいいんだ!お前は俺とは違う…。くれぐれも、逃げようなどと思うなよ。まあ、お前にはそんな気力すらもねぇだろうがな」
「……」
キロたち勇者パーティが秘密裏に行っていたことは、常識を逸した冷酷な計画。しかし同様に、マオも彼らを欺ける規格外の魔法を、人知れず自分の中に留めていた。
(モナお姉ちゃんは、私が必ず救い出す…!)
縁の切れた者の言う事など、聞く耳はない。マオは、キロが安易に口走ったモナの居場所に、すぐさま向かって行った。
まだ生まれて間もないと、彼女に対する油断もあったのだろう。有能な諜報員に育て上げるため、自分たちの計画・思想を真っ先に伝えたのが徒となった。
あろうことか、サイレントという高度な固有魔法を今まで隠していたとは思いも寄らず、マオの失踪に気づき、キロは憤怒を露わにする。
「絶対に探し出せ…。計画が漏れたら、テメェら全員、抹殺するぞ」
怯えるエージェントにそう告げ、キロは勇者の権限を用い、当時拠点としていた王都レアリム周辺一帯を完全に包囲。更に、嗅覚の超人――エマ・グランツェルが、マオの匂いを探知し、連中は痕跡を辿り始めた。
「エマ、お前の鼻で何とかなんねぇか?」
「やってるけど、マオの匂いは二手からしてくるのよね。レアリムの内か外か…ん~、どっちかしらね~」
「チッ、小癪な真似しやがって…。このまま、エルフの森を迂回でもされたら厄介だな」
異常な改造を施されたエマの嗅覚。その特性をマオも理解していたため、勇者パーティの行動は粗方予想できていた。
(これで、少しは時間稼ぎができる筈…)
王都を出発するであろう馬車に、自分の匂いが染みついた衣服を詰め込んで、上手くエマを惑わすことに成功。領地外の勇者に助けを求められれば厄介だからと、レアリムにエージェントを寄越した上で、グランツェル家は先に王都外を探し回った。
「モナお姉ちゃんが捕まってるのは、お城の地下…。でも、この姿のまま中に入るのは良くないよね」
しかしそう悠長に考え事をしている余裕など、マオにはなかった。王都中のノイズが耳へ流れ込んでくる厳しい状況下で、都内を彷徨うエージェントを掻い潜り、モナの元に向かわなければならないのだから。
(ダメ…このままじゃ、耳がおかしくなる!)
両耳を抑え、マオは裏路地へと転がり込んだ。レアリム西の市街地――その外れ故に、少しばかり都内のノイズは緩和されている。
それでも、苦しみは続く一方。どうにかして対策を練らねばと奮闘する最中、とある奇妙な一軒家が、マオの目に映った。
「ここは…?」
気味の悪い黒塗りの住居。何かのお店のようで、『御用がある者は、お気軽に』と書かれた看板が、出入り口に立てかけられている。
(変なとこ…)
そう思い、建物を眺めていたマオは、不意に近づいてくる声へと耳を傾けた。
「いたのか?」
「ああ、恐らくな。ここら辺で、耳を抑えて苦しんでる子供を見かけたと……」
グランツェル家のエージェントが、しつこく嗅ぎつけてきたようだ。
ここで姿を見られてしまえば、服を囮にした意味がない。マオは咄嗟の判断で、目の前の薄暗い一軒家へ駆け込み、難を逃れた。
「ハァ、ハァ…。多分、大丈夫かも」
耳を澄まし、外の状況を確認する。裏路地から遠ざかっていくエージェントの声に、マオはほっと息をついた。
しかし安心したのも束の間、部屋の奥からギシギシ…と何かが軋む音が聞こえてきて、マオの緩みかけた警戒心が強まる。おずおずとそちらへ視線を向けると、部屋中に並べられた数多の骨董品に囲まれながら、木製のロッキングチェアーに座る女性の姿が目に入った。
「おや、お客さんかい?誰かを迎え入れるなんて、何年振りかねぇ…」
かなり年を食った老婆のようで、随分としわがれた声で語り掛けてきた。
その姿は、俗に言う〝魔女〟そのもの。古びたトンガリ帽子と色褪せたローブを着こなし、ゆらゆらと椅子に揺られながら、マオを凝視している。
「あ、あの…」
「ううん、分かってる。随分、大変だったみたいだねぇ…」
「え…?」
どこか、全てを見透かしているかのような視線を老婆から向けられるも、何故だか嫌な感じはしないと、マオは驚きつつ、気づけば自然と緊張を解いていた。




