第117話 吸血鬼襲撃事件と鍵のかかった書物
「勇者の、祭典…??」
これまたタイムリーなワードが耳に飛び込んできた。私が示した反応を見るや、シャロは懐から金箔に包まれた洋型封筒を取り出す。
「はい。貰ってますよね?招待状」
「え、うん。ちょうど今日の朝…」
「それはグッドタイミングです!しかし、届くのが遅かったようですね。普通なら、とっくに受け取っていてもおかしくないのですが…」
「…てことは、結構前から招待状は送られていたの?」
「そうですね。少なくとも、一か月前には」
「そんなに前から!?」
ネオミリムから人間界の端に位置するカギ村へ何かを届けるとなると、どうしても他の地方より時間を要してしまう。しかし、送った物が一か月以上も後になって届くことなど、伝書鳩でもあり得ない。
魔法を使ったのなら猶更だ。瞬時に送り先へ渡るようにしなければ、魔力を利用した意味がないのだから。
私は不審に思い、同じ封筒を持っていたシャロに問いかける。
「その中身、ちょっと見せてくれる?」
「ああ、これは中身のないただの封筒ですよ。ふむ…妙に思われるのであれば、先に私がこの中に入っていたものを言いましょうか?中身が全く同じであれば、少しは不安も消えるかと」
「うん、お願い」
「ええっと…プレミアムパスポートに案内状、ネオミリム都内マップの3点でしたね。書いてあったことも答えますよ。私、天才ですから。記憶力も良いんですよ」
内容物に違いはない。その後、パスポートの利用規約や案内状の文言等、ざっくりとシャロに教えてもらったが、私たちが貰ったものと全く同じではないにしろ、特に怪しい点は見つからなかった。
天才と豪語するだけあって、記憶力もずば抜けている。たかだか魔法画の記憶だけで、私の微妙な変化にも気づくくらいだし。
「まあ、何かの手違いがあったのでしょう。あなた方の元に招待状が届くことは分かっていましたし、罠の線は薄いかと」
「うん、その辺はもう気にしてないよ。それにしても、ネオミリムに住んでるシャロにも招待状は届くんだね」
「今回は特別です。祭典が終わるまでに事件を解決して欲しいと、もう一人の依頼主から渡されたので」
「もう一人??」
「はい。私は今、二つの依頼を同時に受け持ってるんです。んー、何から話しましょうかねぇ…」
シャロは話を纏めているのか、少し黙考した後、依頼人の一人であるアオの方へ顔を向けた。洞察に長けた探偵からの視線を素早く察知し、人見知りの少女の体がぴくりと反応する。
「では先ず、アオさんについて簡単にお話しておきましょう。いいですか?アオさん」
「は、はい……」
怯えた様子で、アオはたどたどしく返事をする。
過度な人見知りなのにも拘わらず、探偵に自ら助けを求めるなんて、よっぽどのことがあるのだろう。依頼人の了承を得るや、シャロはカバンの中から幾つかの書類を取り出し、目の前に広げて見せた。
「実はですね…アオというのは仮で付けさせて貰っている名前なんですよ」
「仮?」
「ええ。どうやら彼女、自分自身に関する記憶を全て失ってしまったみたいなんです」
「記憶を…」
所謂記憶喪失というやつだろう。確かにそれが本当なら、人に恐怖を感じ、過剰なまでに怯えてしまう彼女の様子にも納得できる。嘗ての自分が、他者とどう接していたのかすらも分からない状態なのだから。
こちらの会話を聞くのも億劫なようで、逃げ出したい気持ちを抑えるように、アオはぎゅっとスカートを握り締める。
「ちなみに、アオという名前は髪色に因んでいます」
「単純だなぁ…」
両目や耳どころか、背中までをも覆い隠す長い髪。確かにその色は青く、毛先につれて、少し暗晦な青藍色に染まっている。所々乱れ、ちりぢりと垂れ下がった癖毛は、まるで使い古した箒のようだ。
顔の半分が前髪で覆われており、面相はよく分からない。身長は高いけど、僅かに視認できる骨格や体格からして、まだ少女の年齢だろう。
袖が無く、足先が少し見えるくらいの真っ白なワンピースの上から、肩回りを包み込む大きめのブランケットが羽織られている。今の時期は少し肌寒いし、季節外れの服装だとは思ったけど、もしかするとネオミリムの方はここよりもずっと温かいのかもしれない。彼女が震えているのは、幾らか気温のせいでもあるだろう。
「自分自身に関する記憶を取り戻して欲しい。それが、アオさんからの依頼です。まあ彼女曰く、私を訪ねるよう、誰かに仕向けられたとのことですが」
「なるほどね」
「詳しくは本題の後にお話しします」
一つ目の依頼内容は分かったが、今の話を聞いただけだと、私が力になれるようなことはあまり無いように思える。
〝記憶操作〟で、残されたアオの記憶をサーチするくらいはできるかもしれないけど、本当に何も覚えていないのなら、ただ空っぽの脳内を眺めるだけに終わってしまう。強制的な記憶封印の魔法でも受けていなければ、脳裏にかかった靄は、結局自分自身の経験や何かしらのきっかけで取り払わねばならないのだから。
なんて考え事をしていると、シャロの口からこんな質問が飛び出てきた。
「ところで…アリアさんは、吸血鬼というのをご存じですか?」
「吸血鬼…人間の血が好物の魔族だよね」
「ええ。鋭い牙とこうもりのような羽を持つ、夜行性の種族です。ヴァンパイアなんて呼ばれ方もするそうですが」
吸血鬼と聞いて、私は前世の自分を慕ってくれていたとある幹部の男を思い出す。
魅惑的な美しい容姿で女子供を虜にし、理性を失わせ、相手の知能指数が下がったところを襲撃。首筋に自慢の牙を容赦なく突き立て、満足いくまで血を吸い続ける。それが典型的な吸血なのかは知らないけど、少なくともあの子はこの手法で人間から血を奪っていた。
血に飢え、興奮状態に陥ると、最悪相手の首を抉り取ってしまう。それだけはやめろと、私は魔力で人間の血を生み出し、飢えない程度に与え続けていたのだ。血にうるさい本人曰く、私の魔力が極小混じっただけで、味気ないものになるようだけど。
それからというもの、あの子が人間を襲うことはなくなった。でも、今はどうか分からない。
あまり想像したくないが、後でシャトラに尋ねるとしよう。何か知っているかもしれない。
「その吸血鬼がどうしたの?」
「実は先日、ネオミリムで吸血鬼襲撃事件が起きたんですよ」
「ネオミリムで?」
「はい。ネオミリムは通常、全域に人工的なバリアが張られています。人間、魔族問わず、外部からの侵入を不可とする超強力な障壁です。中へ入るには、二つしかない入国口…それも、厳重なセキュリティのもと通過する他ありません。なのにですよ…事件当日の真夜中、一人の吸血鬼が数人の魔族を連れ、都内上空から突如飛来してきたんです」
「……」
「どこからともなく魔族が現れ、当然都はパニック状態。奴らは都心に散開して、次々と弱い人間を襲い始めました。その後、衛兵によって、少しずつ魔族は打ち倒されていきましたが、肝心の吸血鬼の行方は分からないまま、朝を迎え――」
「ちょっと待って……衛兵?その時、義勇軍は何してたの?」
肝心なところだけど、流石に気になり、話を遮ってしまった。私の食い気味な質問に対し、シャロは難儀な表情を浮かべて答える。
「それが…義勇軍は魔物討伐のための遠征で、当時ネオミリムに居なかったんです。ネオミリムを取り囲むバリアは、自然魔力を介する魔法すらも通さないため、内外部への〝テレポート〟及び召喚の類は不可とされています。軍がすぐに駆けつけることも叶わず、都心は一時騒然としていました」
「そうなんだ…」
「仕方ありませんよ。何年も魔の者の侵入を許さなかったネオミリムのバリアが通用しなかったんですから。まあ、私の見解としては、襲撃してきた魔族たちは何か別の手法でネオミリムに侵入してきたと考えているんですがね」
遠征か…。
魔物の規模や強さにもよるけど、それは勇者が出向く程のものだったのだろうか。魔族共は義勇軍が居なくなる時機を知った上で、奇襲を仕掛けてきたとしか思えない。吸血鬼が最も活発化する真夜中の時間帯といい、明らかにタイミングが良すぎる。
つまりだ。恐らく、遠征先の魔物と吸血鬼らはグル、もしくは幾らか知能の高い魔族側が魔物側を利用し、厄介者をネオミリムから遠ざけたと考えるのが自然。
まあこんな誰もが思いつくような展開なんて、既に天才探偵が推理しているだろうけど。
顎に手を当て、シャロは続きを語る。
「とはいえ、義勇軍には劣れど、ネオミリムで訓練された衛兵たちの強さも並みではありません。下級の魔族ぐらいなら、倒すのに造作もいらないでしょう。ただ、それすらも加味して、魔族は…いえ、吸血鬼は動いていました」
「てことは…」
「ええ。奴らには、襲撃とは別の、とある〝目的〟があったんです…」
魔物だけでなく、側近の魔族すらも囮に使い、吸血鬼は何がしたかったのか。ここからの話に、私の興味・関心が更に焚きつけられることとなる。
「襲撃してきた魔族は衛兵に倒され、被害は都心の一部だけに留めることができたんですが、襲撃直後以来、事件の主犯と思われる吸血鬼の姿をはっきりと見た者はいなかったそうです。そして事件翌日、遠征から戻ってきた義勇軍は、都の復興も兼ねて現場の調査をしました。すると、都心にある〝リ・ミューズ〟という建物から、吸血鬼が立ち入ったとされる痕跡が見つかったんです」
「リ・ミューズ??」
「世界の歴史が大いに詰まった、ネオミリムが誇る巨大な博物館のことです。その日、リ・ミューズの安否確認を行うため、館内の様子を見に行った軍は、とんでもない光景を目にします。粉々に砕け散り、床一面に散乱した展示物の数々…そして、血塗れの状態で倒れていた博物館関係者たちの姿でした…」
「それは、酷いね…」
「ええ。幸い、死者は出ませんでしたが、今も昏睡状態となっている人たちが殆どで、総じて彼らには、首筋辺りを獰猛な牙で噛みつかれたような跡が付いていたんです」
「ひっ…!!」
荷台の隅から耳に届いてくる小さな嘆き声。私たちの会話を聞きつつ、怯えた様子を見せていた依頼人のアオが、堪え切れずに声を漏らした。
単なる恐怖によるものなのか、それとも――。
アオの反応に対し、シャロは気にも留めずに続ける。
「怪我は負わされたものの、吸血から逃れた人たちの話によれば、そいつは長く青黒い髪を持ち、漆黒に染まった瞳孔を光らせ、頭部に二本のツノ、背中にコウモリのような翼を生やした女だったようです」
「なるほど…」
特徴的に、私が知っている吸血鬼ではなかった。
あの子は偶に女の子と間違われる程に美形だけど、髪色が全く異なる。まあ見た目が女でも、生物学上は男な訳だから、私がときめくことなど決してなかったが。
それにしても、ツノを生やした吸血鬼とは珍しい。
通常、奴らは気に入った人間に近づき、その端麗な容姿で相手を魅了してから、少しずつ自分色へ染めるように血を吸い続けるといった特性がある。人間側からすれば、理解し難い行動だろうけど、それが吸血鬼にとっての娯楽なのだ。
故に、人間と違わない姿が好ましいとされているけど、今回の話に出てきた吸血鬼は、明らかに魔族の様相を呈しているようだった。血を吸うのが目的じゃないとはいえ、そいつはただのヴァンパイアではなかったのだろう。
「そして、常にこんなことを尋ね回っていたようです。――この博物館の何処かにある〝鍵のかかった書物〟の在処を言え………と」
「鍵のかかった書物??」
「はい。ですが、そんなものはリ・ミューズにないと、関係者の方々は否定し続けました。実際その通りで、過去リ・ミューズに足を運んだ人たちの話を聞いても、数ある展示物の中に〝鍵のかかった書物〟らしきものはなかったそうです」
「うーん…」
博物館の何処かにある〝鍵のかかった書物〟。それが吸血鬼の目的なんだろうけど、博物館で働いている人たちでさえ、その存在を知らない。
なら、なぜ吸血鬼はまるで確信を持ったように襲撃に及んだのだろうか。もしくは、知らないというのは嘘で、博物館側が命を懸けてまで守らなければならない程の展示物なのか。
博物館を訪れたことのある外部の人間も、その存在自体を知らないとなると、そもそも展示物であるかどうかも分からない。
双方の意図が読めないまま、ここでようやく、シャロが引き受けた依頼の内容について語られる。
「しかし事件直後、博物館の館長である【ガイロン】氏は、別の理由で取り乱していました。どうやら、博物館の展示物が盗まれていたようなんです。元はと言えばと、吸血鬼の侵入を許した軍や衛兵に、物凄い剣幕で怒鳴り散らしたそうで、これはもう手に負えないと、私の元まで話が回ってきたという訳です。依頼内容は、吸血鬼を捕獲し、盗まれたものを取り返した上で奴らの侵入経路を突き止めること。まあ、探偵にするような依頼ではないですよね~。二つ返事で受けちゃいましたけど」
「……」
てへぺろっ!といった様子で、天才探偵はあざとく舌を出す。
盗まれた物を奪い返す展開は探偵のイメージが強いけど、相手が相手だし、義勇軍もお手上げな事件をよく引き受ける気になったものだ。その自信の表れこそが、彼女が天才であるが所以なんだろうけど。
それにしても、想定不可能な侵入を受けたにも拘わらず、最善を尽くした者たちに怒りをぶつけるとは、幾らなんでも気性が荒すぎる。
盗まれたものにどれ程の価値があろうと、館長ならば、先ず関係者たちの安否確認を最優先にすべきだ。話を聞く限りだと、あまり良い印象は受けない。
「魔族がどうやってネオミリムに侵入できたのか、あのエリカでさえ特定できないの?」
「ゆ、勇者様を呼び捨て!?流石、強者の立ち位置は伊達ではないですね…」
「いや、普通だと思うけど…」
「普通じゃないですよ~」
人間界の人たちは、私が思っているよりも勇者への信仰心が根強いようだ。
ただ強さが違うだけで、同じ人間に変わりはない。キロ・グランツェルの件もあるし、あまり勇者を崇拝し過ぎるのは如何なものかと思う。
エリカやリツが良い子なのは分かってるけどね。
「おっと、話が脱線してしまいましたね。軍の関係者の話によれば、エリカ様も今、最善を尽くしてくれているとのことです。恐らく、事件があった日まで時間を遡っているのでしょ…あ、今のは聞かなかったことに――」
「大丈夫。エリカの能力は知ってるよ。というか、シャロも知ってたんだね」
「ええ。知ったというより、見抜いたと言う方が正しいですが」
目元をキランとさせ、シャロは得意げに言う。
そう易々と本質を掴めるものなのだろうか。神域能力というのは。軍隊長さんがボロを出したに一票入れておこう。
「しかし事件翌日以降、エリカ様から何の音沙汰もないんです…。私がネオミリムへ戻るまでに、帰ってきてるといいのですが」
「それは、心配だね…」
私がエリカの立場なら、当然過去に戻って吸血鬼の足取りを掴みにいくだろう。
でも、過去に戻るということは、自分が事件の当事者になるようなもの。過去改変が難しい上に、何気ない己の行動が敵側の作戦を助長させ、結果未来と変わらぬ状況になってしまうリスクもあるのだ。
時間が掛かっているのが気掛かりではあるけど、エリカは勇者だし、上手く立ち回ってくれることだろう。
「なので、吸血鬼の行方は愚か、奴らの尻尾すらも掴めていない状況……それに、寧ろ私が調査したいのは博物館側の方なんですよね。二重の意味で…」
「どういうこと?」
「依頼を引き受けた私は、早速ガイロン氏に話を伺ったんですが、彼はどういう訳か、盗まれた物の名前を頑なに口にしようとしないんです。とにかく、盗まれた物を取り返せの一点張りで…なので、少し鎌を掛けたんですよ。吸血鬼が訪ね回っていた例の書物について。すると、まあ分かりやすく反応してくれましたよ。更に激昂させてしまいましたがね」
「じゃあ、盗まれた物は〝鍵のかかった書物〟で間違いないんだ」
「ええ。ですが、またも妙なことが起こりまして…。事件翌日の夜分に、ガイロン氏が自ら私の元に尋ねてきて、満面の笑みを浮かべ、こう言ってきたんです。――盗まれた物は戻ってきたから、調査は打ち切りでいい…と」
「え?」
どういうことかと、頭の中が?マークで溢れ返る。それはシャロも同じで、眉間に皺を寄せながら、まるで当時の様子を自ら投影しているように頭を抱えていた。
本当に書物は戻ってきたのだろうか。なら、吸血鬼は?そもそも、吸血鬼が盗んだという確証もないのではないか…。であれば、盗まれたこと自体、館長の発言だけが頼りだし、それすらも事実であるか疑わしい。
加えて、館長の表情変化に参っているようで、
「ついさっきまで周囲にがなり立てていた人が、急に屈託のない笑顔を向けてくるんです。はっきり言って怖かったですね。館内の調査をしようと思った矢先にこれですから、もう何が何やら…」
と溜め息をつきながら、気を沈ませるシャロ。この時点で気になることが山程あるけど、とりあえず話の流れに沿って質問する。
「それで、依頼の方はどうなったの?」
「吸血鬼の行方とネオミリムの穴(魔族らの侵入経路)を突き止める調査は続行しました。吸血鬼が盗みを働いたかどうかは一旦置いておくとして、現状奴は姿を晦ましたままです。既にネオミリムの包囲網から逃れたと考えるのが現実的かと…」
「そっか…」
「そうなってくると、やはり調査すべきはリ・ミューズ内に残された吸血鬼の痕跡。なので、私は再度ガイロン氏に館内の捜査をさせて欲しいとお願いしたんです。すると、またも彼の表情はガラッと変わり、私を静かに睨みつけてきました。その時は何も言わず、無言で立ち去って行ったんですが……翌日の朝、リ・ミューズを訪れると、館内全域が立ち入り禁止の状態になってたんです」
「立ち入り禁止!?調査ができなくなっちゃったの?」
「はい。もう誰も信用できないと、はした金で雇った衛兵で外を囲い、一人館内に引き籠ってしまったんです。説得しようにも、義勇軍はエリカ様が不在で統率がままならない上、都心の復興で人材を割いており、博物館に手を回す余裕がなく…」
「……」
私は腕を組み、考える。
なんて我が儘な館長だろうか。誰も信用できないと言う割に、衛兵に守ってもらってるし。
二度と館内の展示物が盗まれないよう、吸血鬼の足取りを掴み、対策を取ろうとするのが普通だ。信用できずとも、最強の軍隊長公認の天才探偵に少しでも調査させてあげることは、メリットにしかならない筈。
何かがおかしい。というか怪しい。どう考えても隠し事をしているようにしか思えない。
吸血鬼襲撃事件――これは単なる事件に収まるものではないのだろう。吸血鬼の目的と館長ガイロンの行動には、何かしらの関連性があると見て良さそうだ。そして、未だ語られぬ記憶喪失の少女アオについても。
現状、捜査は打ち切り――になるかと思いきや、天才探偵の諦めの悪さは伊達ではなかった。落胆したように俯いていた顔を勢いよく上げ、シャロはニヤリと笑う。
「しかーし!ここで諦める私ではありません。寧ろここからが本題ですよ、アリアさん」
「まだ本題じゃなかったの…!?」
「今までの話は前座に過ぎません。……リ・ミューズの出入りを禁じられた私は、博物館についての捜査を一時中断し、館長ガイロン氏の身辺調査に取り掛かりました」
「どう考えても怪しいもんね」
「はい。まあ、これに関してもかなり手こずりましたよ。親族の情報が一切掴めない上、博物館関係者でさえ、彼の素性や住まいを知る者はいなかったんですから。もはや、リ・ミューズで暮らしているのではないかといった噂もある程です。が!三日三晩の聞き込み調査の末、ある一人の男にこぎつくことができました」
「ある男…??」
「ガイロン氏の古くからの友人、と言ってました。彼が言うには、リ・ミューズの館長を務める前までのガイロン氏は、とても温厚で非の打ちようがないくらい誠実な男性だったらしいんですよねー」
シャロは顎に手を当て、調査結果を纏めたメモ帳と睨めっこする。
博物館の館長を任されたくらいで、人が変わるとは思えない。その友人とやらの証言が本当なら、リ・ミューズという博物館には、聖人すらも豹変させる何かしらの要因があるのだろう。ガイロンに館長を任せた人物のことも気になる。
「うーん…館長になってから、急に横暴な性格に変わったんだ」
「いえ、正確に言いますと、ある書物を手にしてからだそうです」
「それって、例の〝鍵のかかった書物〟??」
「鍵のかかったとは言ってなかったので、100%の確証はないですが、今回の襲撃事件に関係していた書物でほぼ間違いないでしょう。ガイロン氏は、唯一その友人だけに、謎の書物の存在を打ち明けていたようですね。水を得た魚の如く、意気揚々と…」
「なるほど…その友人は、書物について何か知ってたの?」
「はい。実際に中身を見たらしいんです」
シャロが予告したように、今までの話はほんの前座に過ぎなかった。これから告げられるたった一つのキーワードが、私の運命をゆっくりと変えていく――。
「といっても、書物の内容は全く理解できなかったみたいですが」
「理解できなかった…?」
「まあ、読めなかったと言う方が正しいですね。何やら見たこともない言語が羅列されていたようなので」
「……」
――いや、既に変えられていたのかもしれない。
「何より不可解なのが、ガイロン氏も書物の内容を知らないという点です。彼が知っていたのはタイトルくらいで……そんなものをなぜ大事にしているのか、非常に謎ですね」
「その、書物のタイトルは…?」
ある仮説が脳裏を過ぎり、訝し気に目を細めていた私は、間髪入れずに、それでいて恐る恐る聞いてみた。そして、シャロの口からその言葉がはっきりと告げられる――。
「ガイロン氏はこう言ってたそうです。
――この神の聖典は、〝ユートピア〟だと……」




