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第30.5話 弓弦の行射と、茉莉也の胸当て

「そういえば弓弦ゆづる、今日は弓具きゅうぐ一式持ってきた?」

「え……いや、持ってきてないけど。どうしてそんな事を聞くんだ?」

「あんたの射を見て勉強するためよ」


 由佳ゆかは肩をすくめ、溜息をついた。


 俺は先程まで、彼女に対してはボディタッチや口頭での指導に徹していた。

 その理由は当然ながら、弓具をすべて自宅に置いてきているからだ。

 指導をスタートさせたのは昨日からだが、今日は持ってこなかった。


 由佳が「俺の射を見たい」的な事を言った途端、英理香えりか真央まお茉莉也まりやはそれぞれ浮足立った。


「由佳、よくぞ言ってくれました! 私も久しぶりに、弓弦の射を見てみたいです!」

「うえっ!? お、お兄ちゃん、危ないよ! 絶対やっちゃダメ!」

「怖がらなくても大丈夫だよ、真央ちゃん──それよりも、わたしも見てみたいです! お願いします、弓弦先輩!」

「でも弓具は全部家に置いてあるんだ。今から家と学校を往復しろ、なんて無茶ことを言うつもりか?」

「うーん……あ、そうだ! 道場に余ってる弓具があるから、それ使いなさいよ!」


 由佳はポンと手を叩く。

 確かに彼女の言う通り、道場には中古の弓具がいくつかおいてあったはずだ。


 だが、一つだけ問題がある。

 それは──


「今はワイシャツ着てるから無理だ」


 そう……ボタン付きのシャツを着て、弓を引くことはできない。


 弓を引く時、矢を口元にくっつけつるを胸元に接触させることで、長弓を安定させなければならない。

 ワイシャツを着ている時に弦を胸に当ててしまうと、発射時に服が弦とともに前方へ引っ張られてしまうのだ。


 体操服に着替えれば一応オーケーなのだが、あまり気が進まないので言わないでおく。

 正直言って、俺は弓を引きたくない。


「あ、あのっ……でしたら、わたしの胸当てを使ってくださいっ……!」


 突如、茉莉也は顔を真っ赤にしながら、黒革の胸当てを外し始めた。

 女子は胸部がよく発達するため、胸当てを使わければ弦が乳房に引っかかってしまうのだ。


「茉莉也、男子にそういうのを渡すのは恥ずかしくないのか? 君の……その、おっぱいに当たってたやつだぞ」

「そ、そそそそ、そうよっ! こんなの、ハレンチだわ!」

「ハレンチって言われても平気です。だって、あの弓弦先輩の射が見られるんですから!」


 狼狽しきっている由佳に対し、茉莉也は案外強気に出ていた。

 まあ、同じ女子に対しては、あまり緊張しないのだろう。

 由佳も茉莉也に対しては、いつも優しく接している様子だし。


 英理香は口元に指をやり、考えるような仕草を見せる。


「弓弦の射は見たいけど、それには弓弦が茉莉也の胸当てを借りるところを座して見なけれならない……ああっ、弓弦が茉莉也を妄想して、慰めなければいいのですが……」

「慰めない」

「そんなの絶対嘘だよ。お兄ちゃんは妹である私に抱きつかれただけで興奮しちゃう、変態さんだからね」

「俺は変態じゃない! あれはただの生理現象だ!」


 真央の言葉に反応した俺は、他の弓道部員たちに白い目で見られてしまった。

 「本当に江戸川えどがわはモテ男だな」「こんな逸材が弓道部から輩出されたと思うと、なんか複雑だな」などと言った言葉が、道場内を行き交っている。


 はあ……気が重い。


 そんな事を思っていた時、由佳が明後日の方向を向きながら、俺に何かを差し出した。

 そう、漆黒の胸当てを──


「わ、私のを使いなさいよ……その、あんたは弟みたいなもんだし? べ、別にブラを貸すわけじゃないんだから、胸当てくらい貸してあげるっ!」

矢口やぐち先輩は巨乳なので、胸当てのサイズが弓弦先輩とは合わないと思います。ですからお胸が慎ましやかな私のを使ってください!」

「そ、そんなのズルいわよ! 第一、サイズが多少大きくてもなんとかなるんだから!」

「矢口先輩、さっきわたしが胸当てを貸そうとした時、『ハレンチ』って言ってませんでしたか? 先輩はハレンチさんなんですか?」


 由佳と茉莉也はなぜか、言い争いを始めてしまった。

 これは俺の責任だから、俺が止めなければならない。


「いや、俺は弓は引かないから。胸当てはいらな──」

「はあん?」

「はい?」

「前世では女好きだった弓弦が、女子のお願いを拒絶するなんて……嬉しいような悲しいような」

「お兄ちゃんのヘタレ。もっと大胆にいかなきゃダメだよ?」


 俺の射を見たがっていた由佳・茉莉也・英理香だけでなく、弓矢を怖がっていた真央ですら俺に冷たい視線を送っていた。

 それに、なにか勘違いをされてしまっている気がする。

 俺はただ、行射をしたくなかったから断っただけなのだが。


「主将からも言ってやってください! 道場で騒ぐのは問題ですよね!? 部外者の俺が弓を引くのはダメですよね!?」

「許可しよう。俺も江戸川の射を見たいと思っていたんだ」


 ええっ……そんなことが許されていいのか……

 主将はどうやら、部員である由佳や茉莉也が騒ぎ立てていたことすらも注意する気がないらしい。


 なんだよ、結局は弓を引かないと事態が収まらないじゃないか。


「分かったよ。体操服でやるから」

「はあ!? 意味分かんないし! もうここまで来たんだから、私か相羽あいばさんのどっちかを選んでよお願い!」


 何故か俺は由佳に泣きつかれてしまった。

 仕方ないから、俺は「変態」と罵られることを覚悟して、飽きてしまった弓道をやることに決めた。


「茉莉也……胸当てを、貸してくれ」

「はい、どうぞっ……!」

「言っとくけど、胸当てのサイズが丁度いいだけだから……他意はないからなっ! 勘違いしないでくれよな!」

「はいっ……! ……えへへ」


 「めちゃくちゃ他意ありそう」「ロリコン」「ツンデレ」と、この場にいた全員が俺を冷ややかな目で見ていた。


 全く、失礼な奴らだな!

 この俺が革製品一枚くらいで、興奮するわけないだろ!

 由佳もさっき言ってたが、ブラじゃあるまいし!


 ──嘘です。

 茉莉也から受け取った胸当てはとても温かくて、ジャスミンのような甘い香りがします。

 胸当てを装着したら、なんだかお胸がヘンな感じになりました。


「さあ弓弦……あんたの力、ここで見せて!」

「はいはい……」


 由佳に期待されてしまった俺は、弓道場の倉庫に向かって道具を適当に見繕ってきた。



◇ ◇ ◇



 装備一式を揃えた俺は、射位しゃいに入る。


 ちなみにこの弓道場は同時に6人まで行射可能だが、今は俺だけが独占使用している。

 主将の余計な──粋な計らいってやつだ。


 はあ……みんなから注目されて気が重い。


 英理香たちイツメンと、弓道部女子部員からは、まばゆいばかりの期待の眼差しを向けられている。

 男子からは、茉莉也が貸してくれた胸当てに向けて、激アツな視線が送られていた。

 やめろ、俺は男には興味はない。


 的の中心点・両足の爪先が一直線になるようにして、足を広げて立つ。

 へその下にある丹田に力を入れて、体幹を固定する。

 矢をつがえ、左方向28メートル先にある的を見据えながら、弓を高く持ち上げる。

 左右に弓を引き絞り、矢のシャフトを口元に当て弦を胸につけ、弓を固定する。


 ──やっぱり、いつもと感覚が違う。

 使い慣れた弓具ではないため、本来の実力を発揮しきれない。


 それに、茉莉也の胸当ても使ってるしな!

 女の子の持ち物──しかもおっぱいに当たっていた物を使って、妄想しないほうがおかしい。


 俺はなんとか狙いを定める。




 ──機が熟するとともに、弦を引っ張っていた右手の力が自然と離れ、矢が放たれる。


 弦の乾いた音とともに、矢は的に向かって勢いよく直進する。

 的紙をやじりが突き破り、太鼓のような音が鳴り響く。

 あたった場所は中心点から少しズレているが、2ヶ月ぶりの射にしては上出来だろう。


 発射時の姿勢を3秒間維持して残心を取った後、再び矢をつがえる。


 俺が由佳や主将達から依頼されたのは20射。

 まだまだ行射はこれからだ──



◇ ◇ ◇



「弓弦! やはりあなたは弓を引いているときの姿が一番カッコいいです! 凛々しかったです!」

「あ、ありがとう」


 20射をすべて的中させ、道具を片付けた後。

 俺は英理香に両手を恋人繋ぎされ、ブンブンと振り回された。


 英理香の手は柔らかくて温かく、ずっと握っていたい気分になる。

 だがそれよりも笑顔がとても眩しく、ドキッとしてしまった。


「お兄ちゃんの弓って、なんだか安心感があるね! 敵に回したときは厄介だけど、そうじゃないのなら全然怖くないよ!」

「お、おい! あまりくっつくなよ!」


 真央がやや弾んだ声で、俺の右方から抱きついてきた。

 低身長から来る上目遣いは、なんとも言えない可愛さがある。


「弓弦、やっぱり弓道部に戻ってきてよ! さっきの射はすごく参考になったし!」

「矢口先輩の言う通りですっ! それにわたし、弓弦先輩に憧れて弓道部に入ったんですっ!」

「ちょっと難しいかな……」


 俺にとっては、的中することが当たり前。

 そんな俺にはもう、弓道を楽しむことはできない。


 それに、弓道には「的への執着を捨てる」などという精神論があるのだが、そういうのはあまり好きじゃないのだ。


 そんなことを、百発百中でない由佳や茉莉也に言ってしまうと、完全に嫌味になってしまう。

 だから俺は、婉曲的な言い方しかできない。


「そうだ! 茉莉也、胸当て貸してくれてありがとう」

「はいっ! どういたしまして! えへへ……」


 俺は胸当てを外し、茉莉也に渡す。

 茉莉也は早速胸当てを装着し、顔を真っ赤にしていた。


「じゃあ由佳、練習再開だ。俺が手本を見せたからには、一刻も早く上手くなってもらわないとな」

「ええ!」


 由佳に弓具の準備をさせた後、俺は指導を再開させた。


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