表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

25/49

第25話 弓道女子・由佳のスランプと、江戸川弓弦

 映画鑑賞から約1週間後。

 高校の弓道場にて、矢口やぐち由佳ゆかは弓を引く。


 十分に引き絞り、機が熟すのを待つ。

 的に対する執着心を捨て、心気の充実を心がける。


 ──まったく弓弦ゆづるのやつ、英理香えりかにデレデレしちゃって……

 綺麗で可愛くて、性格も良いのは分かるけど……


 矢が放たれる。

 弓と弦から発せられた乾いた音が、道場に鳴り響く。


 矢はかなりの速度で、28メートル先の的に向かう。


「──っ!」


 矢は的には(あた)らなかった。


 由佳は舌打ちせずにはいられなかった。

 それが唾棄される行為だと、分かっていても──


 所定の動作を済ませ、射位しゃい──射手が的に向かって弓を引く場所──から離れる。


「審査、落ちたらどうしよう……」


 中学1年から弓道を続けてきた由佳は、高校2年にして弓道二段を取得している。

 弓道には、五級から一級(数字が小さいほど上位)と、初段から十段(数字が大きいほど上位)という、15個の段級が存在する。


 今から2週間後に昇段審査が迫っているが、今になってスランプに陥っている。

 普段であれば的中率は9割程度であるが、今は5割程度にまで下がってしまっているのだ。


 弓道は基本的に自分との戦いであり、絶不調となった時が正念場でもある。

 しかし由佳はスランプに陥れば陥るほど酷く落ち込み、ドツボにはまってしまうタイプだ。


 無論、他の先輩・同期にも射を見てもらっている。

 だがそれでも、一向に改善する気配は見えない。


「こんな時に弓弦がいれば、教えてもらえるのに……」


 由佳は幼馴染である江戸川えどがわ弓弦に、思いを馳せる。

 彼は百発百中を誇っていたが、「弓道に飽きた」という理由で退部してしまっている。

 あまりにも贅沢すぎる退部理由に、由佳は怒りすら覚えるほどだった。


 思えば今回のスランプの原因は、幼馴染の弓弦にある。

 弓弦と英理香の関係性に、由佳は嫉妬してしまっているのだ。


 彼らは半月ほど前から急速に距離を縮め、先週の土曜日に行われた中間テスト打ち上げや映画鑑賞でもとても仲良さそうにしていた。

 由佳は行射中にもそれを思い出してしまい、精彩を欠いてしまっている。


 ──私たち、幼馴染なのに……


 そう……由佳と弓弦は幼稚園からずっと一緒で、仲が良かった。

 中学時代は流石に疎遠になってしまったが、高校では弓道部員としてそれなりに交流があった。


 弓弦がぽっと出の英理香に盗られると思うと、悔しくて仕方がない。

 英理香は「前世で愛し合っていた」などと言って「自分はぽっと出じゃない」と主張しているが、それは嘘に違いない。


「──矢口先輩……大丈夫、ですか……?」


 思案中に、か細い声が聞こえてきた。

 その声の主は相羽あいば茉莉也まりや、由佳の後輩である。

 1年生はいつも道場の外で練習しているはずだが、今は見取り稽古をしているのだろう。


「相羽さん、私は大丈夫よ」


 由佳は茉莉也に向き合い、平静を装って返事をする。


 いつも思うことだが、茉莉也は小柄で貧乳である。

 女性が弓道をする際は通常、胸当てを装着してバストを保護するものだが、それすらもいらないのではないかと思ってしまうほどの小ささだ。

 胸が大きめの由佳としては、少し羨ましいと思うほどの可憐さである。


 ──少数派とは聞くけど、貧乳好きの男子もいるそうだし、モテてるのかしら……

 そういえば弓弦も、この子にデレデレしてたわね……


 由佳がそんなことを考えている一方、茉莉也は暗い表情で言う。


「そんなに思いつめた顔をして……大丈夫じゃないと思うんですけど……」

「え、顔に出てた……? ──ち、違うの! あなたの胸、小さくて可愛いなって思ってただけなんだから!」


 嘘はついていない。

 確かに由佳の言うことは真実である。


 茉莉也は「ち、ちっちゃくないですっ! まだ成長途中なんですっ!」と、大声で抗議していた。

 このままでは弓を引いている部員たちに怒られるので、由佳は茉莉也を連れて道場の外に出る。


 茉莉也は外の空気を大きく吸った後、表情を凛と引き締める。


「──先輩、本当のことを話してください。わたしのお胸を見て、あんな落ち込んだ表情をするわけないじゃないですか……」

「いえ……私、あなたの胸を羨ましく思ってるの。巨乳だと男子に変な目で見られることが多いし、肩は凝るし、ブラジャーも頻繁に買い換えたわ。太ってるように見えちゃうからワンピースも着れないし……」

「そうなんですね……でも、それだけじゃないでしょ? 射の後に舌打ちしていましたし……」

「なんだ、恥ずかしいところ見られちゃったのね……」


 茉莉也がいつ頃から道場の中にいたのかは分からない。

 少なくとも、由佳が射を開始する前にはいなかったはずだ。

 だが茉莉也の言い分から察するに、由佳の射を見られていたのは明白だ。


 ──相羽さんになら、話してもいいかな……

 由佳は自分の気持ちを楽にするために、相羽茉莉也に悩みを打ち明けることにした。


「なんだか最近、スランプ気味なのよね。昇段審査も近いし、なんとかしたいんだけど……」

「え、そうなんですか!? 今日たまたま外したんじゃないんですか!?」

「そう思うのも無理はないわね。あなたは普段外で練習していて、私の射を見る機会はそうないでしょうから」


 今は6月中旬頃だが、この時期の1年生はまだまだ的前まとまえでの行射は許されていない。

 矢をつがえずに弓を引く「素引すびき」、あるいは「巻藁まきわら」という米俵のような物体に向けて矢を放つ練習をするかのどちらかだ。


「先輩方には色々と見てもらってはいるけど、全然立ち直れないのよね」

「あのっ……だったら弓弦先輩に見てもらうのはどうでしょうか……? 射がとても上手だったのを、今でもハッキリと覚えています!」


 新入生勧誘の時期までは、弓弦も弓道部に所属していた。

 茉莉也はその時の彼の射を覚えていたのだろうが、覚えていた理由は彼女が弓弦に一目惚れしていたからだろう。


 実は茉莉也は入部した直後、由佳にこう聞いてきたのだ。

 ──射が上手だったあの先輩は、辞めちゃったのですか……と。


 勧誘時のデモンストレーションに参加していた部員の中で、弓道部を辞めた人物はただ一人。

 それは由佳の幼馴染であり、百発百中の男である江戸川弓弦だ。


 彼の退部を教えてあげると、茉莉也は酷く落ち込んでいた。

 部活を辞めてしまわないか、心配になるほどに。


「弓弦が教えてくれると思う? だってあいつ、『弓道に飽きた』なんて言って辞めたのよ?」

「いえ、教えてくれるはずです! だって弓弦先輩、とっても優しいから……」


 茉莉也は目を潤ませながら、そう言った。

 弓弦と彼女の間に何があったのかは分からないが、しかし嘘をついているようにも見えない。

 確かに弓弦は誰に対しても優しい。


 だが、弓弦に教えてもらうということはすなわち、「彼に屈する」ということを意味する。


 由佳は中学から弓道を始め、中学卒業時には二段を取得していた。

 中学で二段を取得する生徒は少数派で、それを誇りに思ってきた。


 しかし弓弦は高校から弓道を始めたにも関わらず、1年も経たない内に的中率が100パーセントに達した。

 無論、由佳にそこまでの的中率は弾き出せない。


 唯一誇っていた弓道ですら弓弦に負け、由佳はとても悔しい思いをしていた。

 そんな彼に勝ちたいがために、悔しさをバネにして頑張ってきた。


 先程「弓弦がいれば、教えてもらえるのに……」と呟いてしまったが、それははっきり言って気の迷いだ。

 そんな事は由佳のプライドが許さない。

 勉強を教えてもらうことに関してはあまり気にしなかったが、弓道だけは別だ。


 だが、そんな彼女の考えを見透かしたのか、茉莉也は真剣な表情でこう言った。


「矢口先輩、たまには誰かに頼ってもいいと思うんです。一人でがんばってる先輩もカッコいいとは思いますけど、潰れちゃいますよ……──って、人に頼ってばかりのわたしが言うのもどうかとは思いますけど……」

「でも、やっぱり恥ずかしいわよ……」

「大事なのはプライドですか? それとも結果ですか?」


 茉莉也に言われて、由佳はハッとした。


 そう……大切にするべきなのはプライドではなく、結果を出すことだ。

 スランプから脱却し、三段を取得することだ。


「分かった。ダメ元で頼んでみる──相羽さん、今日はありがとうね」

「いえ……偉そうなことを言ってすみませんっ……!」

「謝らなくていいわ──それじゃあお互い、練習に戻りましょう」

「は、はい!」


 他人に頼るという勇気を胸に秘め、由佳は茉莉也を連れて道場に戻った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ