第7話「届かぬ手紙と王都の影」
ジークハルトの執務室は、常に氷点下の静寂に包まれている。
だが今日、その空気は今まで以上に重く、鋭い殺気を帯びていた。
豪奢な執務机の上には、開封された一通の手紙が置かれている。
差出人はアシュト男爵。リウの実父である。
「……正気か」
ジークハルトが低い声で吐き捨てると同時に、室内の温度が急激に下がった。
窓ガラスがミシミシと音を立てて凍りつき、インク瓶の中身さえもシャーベット状に凝固する。
控えていた執事のセバスチャンは、主人の怒りに身を震わせながらも、冷静にその内容を反芻していた。
手紙の内容は、極めて身勝手で恥知らずなものだった。
『愛する息子ミハイルが原因不明の熱病に倒れた。リウが作る菓子には癒やしの力があるという噂を聞いた。直ちにリウに菓子を作らせ、王都へ送れ。これは父としての命令である』
どの口が言うのか。
魔力がないからとリウを虐げ、ゴミのように捨てておきながら、今さら「父としての命令」などと。
しかも、リウの体調や近況を気遣う言葉は一言もなく、ただ「菓子を送れ」という要求のみ。彼らにとってリウは、息子ではなく便利な道具でしかないのだ。
「旦那様、いかがなされますか。このまま握り潰しますか?」
セバスチャンの問いに、ジークハルトは冷酷な笑みを浮かべた。
彼の手が手紙に触れると、紙片は一瞬にして白い氷に覆われ、次の瞬間には微細な粉末となって空中に霧散した。
「リウには見せるな。あんな汚らわしい文字を見れば、あいつの心が曇る」
「御意に」
「それと、王都へ使いを出せ。……アイゼンベルク家は、アシュト男爵家との一切の関わりを絶つとな」
それは事実上の絶縁宣言だった。
本来なら貴族間の付き合いとして穏便に済ませるところだが、ジークハルトにはそんな気遣いをするつもりなど毛頭ない。リウを傷つけた者、リウを利用しようとする者は、すべて敵だ。
その時、執務室の扉が控えめにノックされた。
「旦那様、おやつの時間ですが……入ってもよろしいですか?」
扉の向こうから聞こえてきたのは、鈴を転がしたような愛らしい声だった。
先ほどまでの殺気が嘘のように、ジークハルトの表情が瞬時に和らぐ。
室内の氷も魔法のように溶け、温かい空気が戻る。
「入れ」
許可を得て入ってきたのは、銀のトレイを捧げ持ったリウだった。
足元には真っ白なブランがまとわりついている。
今日のリウは、ジークハルトがあつらえさせた深緑色のベストを着ており、それが彼の色素の薄い髪と琥珀色の瞳をより一層引き立てていた。
トレイの上には、湯気を立てる紅茶と、貝殻の形をした焼き菓子が並んでいる。
「今日はマドレーヌを焼いてみました。レモンの皮をすりおろして入れたので、香りがいいと思います」
リウはニコニコしながら机にお菓子を置いた。
その無邪気な笑顔を見ていると、先ほどの手紙の件で煮えくり返っていたはらわたが、嘘のように鎮まっていくのを感じる。
「……いい香りだ」
ジークハルトはマドレーヌを一つ手に取った。
まだほんのりと温かい。
一口かじると、バターの濃厚な風味と共に、レモンの爽やかな香りが鼻に抜ける。
外側はサクッとしていて、中はふんわりと柔らかい。そして何より、リウ特有の優しい魔力が、じんわりと心身に染み渡っていく。
「美味しいですか?」
リウが不安げに尋ねる。
ジークハルトは無言で頷き、リウの手首を掴んで引き寄せた。
「わっ……! 」
バランスを崩したリウは、そのままジークハルトの膝の上に座らされる形になった。
背の高いジークハルトにすっぽりと包み込まれるような体勢だ。
「だ、旦那様!? あの、執務中では……!」
「休憩だ。……この菓子は美味いが、お前が足りない」
ジークハルトはリウの首筋に顔を埋め、深く息を吸い込んだ。
甘いお菓子の香りと、リウ自身の持つ柔らかな匂いが混ざり合い、どんな香水よりも心地よい。
リウは顔を真っ赤にして固まっていたが、抵抗することはなかった。
最近、ジークハルトはこうしてリウに触れることが増えていた。まるで、自分の所有物であることを確かめるかのように。
「リウ」
「は、はい」
「お前は、ここでの暮らしに不満はないか? 何か欲しいもの、帰りたい場所はあるか?」
唐突な問いに、リウは目を瞬かせた。
帰りたい場所。
脳裏に浮かぶのは、あの寒々しい男爵家の屋敷。罵倒と嘲笑。冷たい水と硬いパン。
「……いいえ。僕には、帰りたい場所なんてありません」
リウははっきりと答えた。
そして、少し躊躇いながらも、ジークハルトの背中に手を回し、おずおずと抱き返した。
「僕は、ここにいたいです。旦那様と、ブランと一緒に。……美味しいお菓子を作って、旦那様に食べてもらいたいです」
その言葉は、ジークハルトが何よりも欲していた答えだった。
彼はリウを抱きしめる腕に力を込めた。
「そうか。……ならば、誰にも邪魔はさせない。お前はずっと、私のそばにいればいい」
その言葉の裏に隠された、あの手紙への怒りと決意を、リウはまだ知らなかった。
ただ、ジークハルトの体温が温かく、心地よかった。
ブランも二人の足元で「きゅぅ」と鳴き、幸せそうに丸まっている。
だが、王都から伸びる黒い影は、確実にこの平穏な北の地へと忍び寄っていたのだ。




