第5話「始まりの厨房、溶け出す予感」
翌日から、リウの生活は劇的に変化した。
案内されたのは、城の最上階に近い、日当たりの良い広々とした部屋だった。
ふかふかの絨毯、豪華な天蓋付きベッド、そして部屋の一角には小さなソファとテーブルまである。
クローゼットには、リウのサイズに合わせて仕立てられた上質な衣服がずらりと並んでいた。柔らかい羊毛のニット、肌触りの良い木綿のシャツ、暖かそうなコート。
どれもが、今までリウが着ていた古着とは比べ物にならないほど高級なものだ。
「夢みたいだ……」
リウは新しい服に袖を通しながら、鏡の中の自分を見つめた。
血色が少し良くなり、以前のような悲壮感は消えている。
足元には、すっかりこの部屋の主のようにくつろいでいるブランの姿があった。
ブラン専用のふかふかクッションも用意されており、ご満悦の様子で喉を鳴らしている。
コンコン、と控えめなノックの音がした。
「リウ様、準備はよろしいでしょうか?」
昨日とは打って変わって恭しい態度の執事が、扉の外から声をかけてきた。
今日は、いよいよ厨房でお菓子作りを始める日だ。
「はい、大丈夫です!」
リウは気合を入れて返事をし、扉を開けた。
案内されたのは、城のメイン厨房とは別の、王族や来賓のために使われる特別厨房だった。
ピカピカに磨き上げられた大理石の調理台。最新式の魔導オーブン。壁一面に並べられた高価なスパイスや洋酒の瓶。
そして何より、リウを驚かせたのは食材の豊富さだった。
新鮮な卵、搾りたてのミルク、黄金色に輝くバター。そして、宝石箱のような木箱に入った最高級のカカオ豆。
「す、すごい……これ、全部使っていいんですか?」
「はい。旦那様より、リウ様の望むものは何でも用意せよと仰せつかっております」
執事の言葉に、リウの手が震えた。
男爵家では、残り物の粉や、古くなった砂糖しか使わせてもらえなかった。
それがここでは、国一番のパティシエでも垂涎するような環境が整っているのだ。
「ありがとうございます。……じゃあ、さっそく始めますね」
リウは深呼吸をし、エプロンの紐をきゅっと締めた。
ここからは、リウの戦場だ。
ジークハルトのために、最高のお菓子を作る。昨日の約束を果たすために。
今日作るのは、「フォンダン・ショコラ」。
フランス語で「溶けるチョコレート」を意味するこのお菓子は、冷え切ったジークハルトの心と体を温めるのにぴったりだと思ったのだ。
リウは手際よく作業を始めた。
カカオ豆を焙煎し、丁寧に皮をむいてすり潰す。湯煎にかけて溶かすと、厨房いっぱいに芳醇な香りが広がる。
たっぷりのバターを合わせ、卵と砂糖を白くもったりするまで泡立てる。
リウの手つきは、まるで魔法をかけるように滑らかで、迷いがない。
普段の気弱な様子が嘘のように、その瞳は真剣そのものだ。
粉をさっくりと混ぜ合わせ、型に流し込む。
魔導オーブンの温度を調整し、じっくりと焼き上げる。
重要なのは火加減だ。焼きすぎればただのケーキになってしまうし、足りなければ崩れてしまう。
外側はサクッと、中はとろりと。その絶妙なバランスを見極める。
やがて、オーブンから甘く香ばしい香りが漂ってきた。
リウはオーブンを開け、焼き上がったケーキを取り出す。
ふっくらと膨らんだ表面に、粉砂糖を雪のように降らせる。
仕上げに、真っ赤な木苺のソースを添えて、完成だ。
「よし、できた」
額の汗を拭い、リウは満足げに微笑んだ。
足元では、いつの間にかついてきていたブランが「きゅぅ~」と甘えた声を上げている。
「ブランの分もちゃんとあるからね」
小さく焼いたものをブランにあげると、彼は嬉しそうに尻尾を振ってかぶりついた。
その時、厨房の扉が開いた。
「……良い匂いだ」
入ってきたのは、ジークハルトだった。
公務の合間を縫って来たのか、少し疲れた様子だったが、厨房の香りを嗅いだ瞬間、その表情がふわりと緩んだのをリウは見逃さなかった。
「旦那様! ちょうど焼き上がったところです」
リウは急いで皿を用意し、ジークハルトの前に置いた。
湯気を立てる、黒褐色の小さなケーキ。
「これは?」
「フォンダン・ショコラといいます。熱いうちに召し上がってください」
ジークハルトは椅子に腰掛け、スプーンを手に取った。
サクッ、と表面を崩す。
すると、中から濃厚なチョコレートソースが、溶岩のようにとろりと流れ出した。
「ほう……」
ジークハルトの目が釘付けになる。
温かいソースを絡め、一口運ぶ。
濃厚なカカオの苦味と、バターのコク。そして砂糖の甘さが、絶妙なハーモニーを奏でて口の中に広がる。
熱いチョコレートが喉を通ると、昨日と同じ、いや、それ以上の温かい魔力の波が全身を駆け巡った。
「……っ」
ジークハルトは目を閉じた。
体の中でキシキシと音を立てていた氷の棘が、湯に溶ける雪のように消えていく。
指先まで血が巡り、心臓が力強く鼓動する。
それは、ただの食事ではなく、魂の救済に近い感覚だった。
「どう……でしょうか?」
リウが心配そうに覗き込んでくる。
ジークハルトは目を開け、リウを見つめた。その瞳には、今までになかった柔らかな光が宿っている。
「……美味い」
たった一言。
けれど、その言葉には万感の想いが込められていた。
「今まで食べたどんな料理よりも、美味い。……体が、温かい」
ジークハルトは無意識のうちに、胸元を押さえていた。
そこにある心臓が、リウの魔法によって再び動き出したかのように。
「よかった……! 」
リウは心底安堵し、花が咲くような笑顔を見せた。
その笑顔を見た瞬間、ジークハルトの胸がドクンと大きく鳴った。
菓子による魔力の作用ではない。
もっと根本的で、本能的な何かが、リウの笑顔に反応したのだ。
甘いカカオの香りに包まれた厨房で、氷の公爵は初めて知った。
甘いものが、これほどまでに人を惑わせるものであるということを。




