第3話「氷の瞳と甘い香り」
白い毛玉――リウは心の中でこっそり「ブラン」と呼ぶことにした――との出会いから、数日が過ぎた。
ブランはすっかり元気になり、リウの後ろをちょこちょことついて回るようになった。
その姿は愛らしく、孤独だったリウにとって、唯一の慰めとなっていた。
食事は相変わらず部屋に運ばれてこないことが多かったが、リウは旧調理場に入り浸り、隠し持っていた粉や木の実を使って、簡素なクッキーやパンケーキを焼いて飢えを凌いでいた。
ブランもリウのお菓子が大好きで、焼き上がるのをオーブンの前で尻尾を振って待っている。
リウが作ったものを食べると、ブランの毛並みはさらに艶やかになり、時には淡い光を帯びることさえあった。不思議な生き物だとは思っていたが、リウは深く考えなかった。ただ、可愛がってくれる相手がいることが嬉しかったのだ。
その日も、リウはブランのためにクッキーを焼いていた。
古い棚の奥から見つけた干しブドウと、リウの持っていたカカオを砕いたチップを混ぜ込んだ、特製クッキーだ。
かまどの火加減を調節し、香ばしい匂いが漂ってきた頃、ブランが「わふ!」と嬉しそうに吠えた。
「もうすぐ焼けるからね、ブラン。待ってて」
リウがかまどから天板を取り出した、その時だった。
バンッ!
調理場の扉が、乱暴に開け放たれた。
冷たい風と共に、強烈な威圧感が室内に流れ込んでくる。
リウは驚いて天板を取り落としそうになったが、なんとか近くの台に置いた。
振り返ると、そこに立っていたのは――。
背の高い男だった。
闇夜のような黒髪に、鋭いアイスブルーの瞳。
仕立ての良い軍服のような黒い衣装をまとい、その全身から冷気のような魔力を立ち昇らせている。
その顔立ちは、彫刻のように美しく整っていたが、表情は凍りついたように冷酷だった。
ジークハルト・フォン・アイゼンベルク。
この城の主であり、リウの「夫」となるはずの男。
「……何をしている」
その声は、地獄の底から響くように低く、そして絶対的な響きを持っていた。
リウは恐怖で足がすくみ、言葉が出なかった。
勝手に使われていない建物に入り込み、勝手に調理をしていたのだ。咎められて当然だ。怒鳴られるか、あるいはその場で切り捨てられるかもしれない。
「も、申し訳ありません……っ、その、お腹が空いて……」
リウは震えながら頭を下げた。
ジークハルトは無言でリウに歩み寄る。軍靴の音が、死へのカウントダウンのように響く。
彼が近づくにつれ、室内の温度が急激に下がっていくのが分かった。かまどの火さえも怯えるように小さくなる。
リウの前で立ち止まったジークハルトは、冷ややかな視線をリウに向けた。
「お前か。アシュト家から送られてきたオメガというのは」
「は、はい……リウと、申します」
「……随分と貧相だな。これでは人質としての価値もない」
容赦のない言葉。リウは唇を噛み締めて俯くしかなかった。
「なぜこんなところにいる。部屋から出るなと言ったはずだ」
「そ、それは……食事もなくて……」
「食事? 使用人には用意させているはずだが」
ジークハルトが眉をひそめた時だった。
「がるるるッ!」
リウの足元から、低い唸り声が上がった。
ブランだ。
先ほどまで甘えていた愛らしい毛玉が、今は全身の毛を逆立て、ジークハルトに向かって牙を剥いている。
その小さな体で、リウを庇うように前に立ち塞がったのだ。
「ブラン、だめだよ……!」
リウは慌ててブランを止めようとしたが、ジークハルトの目が大きく見開かれた。
その凍りついた瞳に、初めて驚愕の色が浮かぶ。
「……フェンリル?」
ジークハルトがつぶやいた言葉は、リウには聞き取れないものだった。
彼は信じられないものを見るように、ブランとリウを交互に見つめた。
あの獰猛で誇り高い聖獣フェンリルの幼体が、見ず知らずのオメガを守ろうとしている? しかも、見たこともないほど毛艶が良く、魔力が満ちている。
数日前に行方不明になり、城中を探し回っていたパートナーが、こんなところにいたとは。
「おい、そいつから離れろ。その獣は危険だ」
ジークハルトが手を伸ばそうとすると、ブランはさらに激しく吠え、「カッ!」と口から小さな氷の礫を吐き出した。
それはジークハルトの軍服を掠め、壁に突き刺さる。
「……本気で主である私を攻撃するつもりか?」
ジークハルトは呆然とした。聖獣は主との結びつきが強く、主を攻撃することなどあり得ないはずだ。
だが、ブランは明確にリウを守ろうとしている。
まるで、リウこそが守るべき主であるかのように。
「あの、旦那様! この子はブランといいます! 僕が拾ったんです。怪我をしていて……だから、怒らないであげてください!」
リウは必死で叫び、ブランを抱き上げた。
恐ろしい公爵に逆らうなんて、命知らずにも程がある。けれど、ブランを傷つけられるのだけは嫌だった。
ジークハルトの視線が、リウの腕の中の聖獣と、その背後にある台の上のクッキーに向けられた。
「……それは、何だ」
「え?」
「その、黒い菓子だ。妙な匂いがする」
ジークハルトは鼻をひくつかせた。
甘く、ほろ苦く、そしてどこか懐かしいような香り。
その香りを嗅いだだけで、体の中で暴れ回っていた氷の魔力が、少しだけ静まったような気がしたのだ。
「こ、これはカカオのクッキーです。……召し上がりますか?」
リウはおずおずと、焼きたてのクッキーを一枚差し出した。
殺される前に、せめて手作りのお菓子を食べてもらいたい。そんなパティシエとしてのささやかな意地だったのかもしれない。
ジークハルトは怪訝な顔をしながらも、そのクッキーをつまみ上げた。
毒が入っているかもしれないなどとは微塵も思っていない様子で、無造作に口に放り込む。
ガリッ、という音と共に、クッキーが砕けた。
その瞬間。
ジークハルトの表情が、劇的に変化した。
見開かれた瞳。紅潮する頬。
口の中に広がる、濃厚なカカオの風味と、優しい甘さ。
そして何より、そこに含まれているリウの魔力――「癒やし」の力が、ジークハルトの呪われた味覚を突き抜け、魂に直接響いてきたのだ。
「…………っ」
ジークハルトはその場に膝をついた。
苦痛ではない。あまりの衝撃と、奔流のような温かさに、立っていられなくなったのだ。
長年、何をしても溶けることのなかった胸の奥の氷塊が、音を立てて崩れていくのを感じた。
「だ、旦那様!?」
リウが慌てて駆け寄る。
ジークハルトは震える手で口元を覆い、そして熱っぽい瞳でリウを見上げた。
「……お前は、一体何者だ?」
その問いに、リウはどう答えていいかわからず、ただ瞬きをした。
調理場には、まだ甘い香りが漂っている。
それが、孤独なオメガと氷の公爵、そして聖獣の運命が交錯する始まりの香りだった。




