91、耐えがたい『神罰』①
「――な、ん――で――…」
絞り出した声は、震えて、掠れて、最後まで言葉にならなかった。
イリッツァは、宗教画を前にしたエルム教徒のように、聖女に許しを請う王国民のように、薄青の瞳を揺らがせて、縋るようにして長身の男を見上げた。
カルヴァンは、その視線を受け止めて――ふ、と頬を歪めるようにその面に苦みを走らせただけだった。
カラカラに乾いて張り付く喉から、イリッツァは必死に言葉を紡ぎ出す。
「ヴィーは――…帰る…俺と、一緒に……王国に、帰る…」
「……帰らないとは言ってない」
「帰る、んだよ――…俺と一緒に――…ずっと――ずっと――」
ぎゅ、とマントを握る手に力がこもる。
苦い顔をしたその雪国の空を見ていられず、イリッツァは呆然と視線を落とす。視線の先で、真紅の衣を握った拳が、小さくカタカタと揺れていた。
「だって――…約束、した…」
「――――…」
「約束っ…したっ…!」
ぎゅぅっと力の限りその手を握り込む。
「俺が、手を握り返したら――ずっと、一緒にいてくれるって、約束した――!」
声が、みっともなく震えるのを止めることも出来ず――視線を上げる勇気も出ないまま、言葉を紡ぐ。
カルヴァンは、黙ってイリッツァの言葉を受け止めた。灰褐色の瞳がかすかに伏せられると同時に、ふっ…と室内に沈黙が下りる。
「――俺が約束したのは、『お前を独りにしない』だ」
「ぇ――…?」
一瞬――永遠にも思える沈黙を破った言葉に、イリッツァは喉の奥で声を上げた。
呆然とした顔で、カルヴァンを見上げる。
いつもと変わらない、冷静な灰褐色が、そこにはあった。
「俺がお前に立てた誓いは四つだ。一つ、お前を独りにしない。一つ、お前を絶対に死なせない。必ず守る。一つ、お前を置いて勝手に死なない。一つ、勝手に死んで――泣かせない」
「――――…」
「お前が手を握り返すなら、これらの誓いを守ると約束した。この約束の中に――『ずっと一緒にいる』っていうのは、入ってない」
色を失ったまま、イリッツァはカルヴァンの顔を見上げる。
声の響きひとつで、相手が何を考えているかわかるはずの幼馴染のその言葉を聞いて――イリッツァは、思ったままを口にする。
「ぃ――意味…わかん…ない…」
「?…何がだ」
「一緒――――だろ…」
わからない。
わからない。
わからない。
「だって――独りにしない、って…置いてかない、って――つまり、ヴィーが、ずっとそばにいるってことだろ…?」
「…違うだろ。別に、俺が傍にいなくても、約束は守れる」
「一緒だ!!!」
思わず、声を荒げる。
幼馴染の言っていることが――本当に、本当に、理解できない。
どれだけ考えても――まったくもって意味が分からない。
リツィードとしての人生が、脳裏によみがえる。十五年――ずっと、ずっと、孤独の暗闇に捕らわれ続けた一生だった。聖職者としての矜持を守って、聖人としての責務を果たすために、自分から漆黒に閉ざされた世界へと進んでいった。孤独に震え、恐怖に耐えたあの絶望の中で――隣にいてくれたのは、カルヴァンだけだった。
カルヴァンが、いなくなったら――また、あの暗闇に、世界が閉ざされる。
心に灯をともす人がいない。手を握ってくれる人がいない。
それは、まぎれもない――『孤独』だ。
独りになることと、同義なのだ。
「……別に、俺じゃなくても、お前の孤独に寄り添うことはできる」
カルヴァンは、いつものように左耳を掻きながら、軽く嘆息する。ぱちり、とイリッツァの瞳が瞬いた。
「お前が孤独になるのは、聖女だの聖職者だの、俺にはよくわからん価値観のせいだろ。俺はそうやって自分から独りになりたがるお前を放っておきたくなかったから、誓いを立てた。誰が手を伸ばしてもお前はその手を握り返さない。そもそも、聖女だの聖人だのというレッテルが付けば、手を伸ばそうなんていう奇特な人間はいない。だから――まぁ、せめて、俺だけは、ずっと傍にいようと思っていた。お前が手を握り返すかどうかは関係なく。俺以外の誰も、お前の――聖女サマの傍に、人として寄り添い続けようとするような罰当りな奴はいなかったからな」
「じゃぁやっぱり――!」
「でも、ウィリアムは違うだろ」
イリッツァの言葉を遮るように言葉をかぶせる。薄青の瞳が、虚を突かれたように瞬いた。
「あいつは、王族だが考え方はほとんど聖職者だ。そのあいつが、お前を、妻にすると言って求婚した。恋敵との決闘に、命を賭けたくらいだ。身分を盾にするなんてこと、絶対しないと思っていたが、なりふり構っていられなかったんだろう。それくらい、まぁ、お前に惚れてるんだろうな。もともと神なんか信じてない俺と違って、神を信じていながら求婚するなんて、俺なんかよりよっぽど罰当りだ」
「な――おっ、俺にあいつと結婚しろっていうのか!?」
「別にそういう話じゃない。――俺じゃなくても、お前を『人』扱いして傍にいようとする奇特な人間がいる、という話をしている。ウィリアムじゃなくても――さっきの暗殺者も、そうだろう」
イリッツァが、はっと息を飲む。
「そもそも帝国なんて神を信じてないやつらだから、お前を神の化身なんて思うはずもない。普通に、十五歳の女だと思ってるはずだ。…死ぬほどムカつくが、第四妃にすると言っていたヴィクターだって、お前を神の化身なんて思ってないだろう。死神とは思っているだろうが」
後半は不機嫌そうに言いながら、カルヴァンは小さく息を吐く。
「別に、俺が傍にいなくても、お前は孤独にならない。あの暗殺者辺りは、嫌ってくらい傍にいてくれそうだな。あいつにとって、お前は友人というだけじゃなく、雇い主の命を救った恩人でもある。自分自身の寿命を延ばしてくれた恩もある。しかも、凄腕の暗殺者だ。あれだけの腕があれば、大体、どんなことからでも守ってくれるだろう。――――二つ目の誓いも、これで憂いはない」
「なっ――!」
「もちろん、お前の傍にいなくたって、お前の身に危険が迫っていると報が入り、俺の力が必要なら惜しみなく貸す。今回みたいに戦争に巻き込まれるとかな。――まぁ、あのムカつく第五皇子あたりに頼んでも同じだろうが」
心底嫌そうに吐き捨てる。そうして、カルヴァンはイリッツァを見据えた。雪の日の空と、冬の湖面が交わる。
ふ、とカルヴァンが口の端に苦笑を刻んだ。
「まぁ、何が言いたいかというと、だ。――お前は、俺と結婚なんかしなくてよくなった、ってことだ」
「――――ぇ…」
ぽかん…とイリッツァが呆けた顔をするのを見て、カルヴァンは苦笑を深める。
「俺がお前と結婚とか言い出したのは、そもそも、一つ目の誓いを守るためっていうのが発端だった。放っておくとお前は神殿の奥に引っ込んで孤独になりたがる。それをひっぱり出す口実が、当時は結婚する以外になかった。だが、今はウィリアムがそこから引っ張り出そうとしている。あいつと結婚しても――結婚しなくても、あいつはきっと、聖女の扱いを何とか変えようと尽力するさ。惚れた女を、振られたからって孤独にするような奴じゃないし、そもそも国家の奴隷みたい扱う催事とかは失くしていくだろう。『稀代の聖人』の事件の元凶がクーデターによって倒され、過去の事実を明らかにして、謝罪と共に王国と友好関係を築きたいと新生帝国から持ち掛けられて両国の関係が変われば、なお、聖女への偏った神格化はなくなる。今の行き過ぎた国民感情は、リツィードの事件が清算されてないせいだからな。そもそも、今回の戦争でお前を取り返せたっていうだけで、『聖人への贖罪はかなった』と思う国民も多いだろう。帝国のクーデターが失敗しても、国民は過剰に聖女を崇めることはなくなる。――もともと、お前は俺と結婚するつもりなんてなかっただろう。喜べ」
「え――…ぇ…?」
イリッツァは、ポンポンと告げられるカルヴァンの言葉を必死に追いかけて理解する。
いつだってカルヴァンは、人の頭脳を置いてきぼりにして、さっさと話を進めていく。
「これから、お前を『人』として扱う人間はたくさん出てくるだろう。そうしたら、お前は――俺じゃない、好きな奴の手を取る自由が生まれる」
「――――――…」
「まぁ、結婚しろと迫ったのも、お前の弱みに付け込んだ半分脅しみたいな感じだったしな。悪かった。あの時は、俺なりに必死だったんだ。だが、もう無理に俺の手を取る必要はない。お前がこいつだ、って思って選んだ奴の手を取ればいい。男でも女でも、誰でもいい。ただ――ここまで環境が整って、それでも自分は孤独が好きだ、叶うことなら誰の手も取りたくないんだと頑なになるなら、それはもう俺の方が諦めるべきだろう。――お前にとっての"幸せ"がそれなら、仕方ない」
「ま、待って――待って、ちょっと、待て!」
どんどん話を勝手に進めていくカルヴァンを、手をあげて制す。
放っておくと、彼のペースで話が進む。尋常ではない速度で回転する頭の中で考えられた論理のまま進んでしまう。
イリッツァは、必死に頭をめぐらした。
おかしい。
おかしい。
カルヴァンが言っていることは、一見筋が通っているように思える。確かに、そう言われれば、その通りだろう。
だけど――根本的に、解決していない問題が、ある。
「――――――お前が」
「?」
「お前が――俺の傍からいなくなる理由にならない――」
ゆっくりと、イリッツァは顔を上げる。灰褐色の瞳を、正面から見据えた。
他の人間が、カルヴァンがやろうとしていた役割の代替になりうるというのは、確かに彼の言葉だけを取れば、そう考えられるのかもしれない。イリッツァがどう思うかは別として。
ただ――仮に、そうだとしても――カルヴァンが、傍にいてはいけない理由にはならない。
カルヴァンが、イリッツァを置いて、離れていく理由には、なりえないのだ。
「そもそもっ…そもそも、誓いの、残りの二つはっっ!」
「――――」
「俺が、お前と結婚するなんていうとんでもない申し出を受けたのは、孤独がどうのこうのとかじゃない!」
そんなことは、どうでもよかった。
どうでも、よかった。
――カルヴァンが生きてさえいてくれるなら、己の孤独など、どうでも。
「俺は、お前がっ…勝手にどっか行くっていうからっ……俺以外の誰の手も取らない、俺が手を握り返さないと、勝手にどっかに行くって、言うから――っ!」
そうだ。
カルヴァンは、それに言及していない。
まるで意図的に――その話題を、避けている。
「嫌だ――嫌だ、これだけは、俺、絶対誤魔化されねぇぞ!」
「――…」
「俺が、もし、お前の手を取らなくて――他の人の手を、取っても取らなくても、お前の手を取らなかったら――お前、勝手に、どっか行くだろう!んで、勝手に死ぬ!そんなのは嫌だ!!!」
「前も言ったが、別に好き好んで死ぬわけじゃない。自殺願望があるみたいな言い方するな」
「ほとんど一緒だ!おまっ…お前、俺が引き留めないとっ…王国、出てくだろっ…!」
「まぁ――俺にとって、これほど生き辛い国もないからな。別に何かあてがあるわけでもないし、いきなり退役するにも、引継ぎだの諸々がある。出て行くにしても金が要るし、まぁしばらくは王国にいるんじゃないか?ただ…飽きたら、出てくとは思うけどな。帝国――は、自由がなさそうで嫌だから、そうだな、母親のルーツのファム―ラあたりに足を向けてみるのも面白いかもなとは思っている。その後、どこに行くかはわからないが」
「っ――――!それで、ある日突然、お前の死体が送られてくるのか!!!!?ふざっけんな!!!!!」
怒りに任せて、拳を振り上げる。ドンッとカルヴァンの胸板に力任せにたたきつけた。
「…痛いな。お前、自分の力自覚しろ」
「っ…ふざけんなっ…ふざけんなっ、絶対、絶対そんなん、許さねぇって、言っただろ!!!!」
ドンッともう一度振り下ろす。嫌そうに呻きながらも――カルヴァンは、イリッツァの手を制止しなかった。
「い、嫌だっ…嫌だ、傍にいろっ……死ぬな、絶対、嫌だっ…嫌だ、嫌だ、置いてかないでっ…!」
ドンッ…
拳の力が、少し弱まる。
「何でもするっ…何でもするからっ……お前が、生きててくれるなら、結婚でも何でもしてやるっ…お前がちゃんと、自分から、「生きたい」って思うためなら、何でもするっ…!」
トンッ…
最後は、弱弱しく、両の拳を預けるようにしてその胸に体を預ける。
「俺の手を誰が取ってくれても関係ないっ――お前が、俺以外の誰の手もつかまないって言う以上、俺は――!」
「なら」
カルヴァンは、胸に預けられていたイリッツァの両手首を軽くつかんで、言葉を遮った。
「お前以外の奴の手を取るよう、努力しよう」
「――――――――――」
薄青の瞳が大きく見開かれ――両手首をつかまれた状態のまま、ゆっくりとカルヴァンの顔を見上げる。
カルヴァンは、しっかりとイリッツァの顔を覗き込むようにしながら、言葉をつづける。
「昔から、何物にも縛られたくないと好き勝手に生きてきたが――これからは、ちゃんと、まともな人間関係築いて生きる。伴侶も、見つける努力をする。世界を旅すれば、いい女の一人や二人見つけられるだろう。そもそも、いい歳だしな、俺も。――あと、何だったか。あぁ、手紙だったか?酷く面倒なことこの上ないが、まぁ、それでお前が納得するなら、頑張って書いてやる」
「――――――…」
「お前のトラウマを強烈に刺激するだろうから、俺が死んでも王国に報せは行かないように取り計らう。間違っても躯を送りつけたりしないから安心しろ。手紙がなかなか届かないなと思ったら察してくれ。…まぁ、本当に書くのが面倒で間が空いているだけの可能性もあるしな。それくらいの方が、お前も気楽だろう。生きてる望みが、ずっと持てる」
目が――逸らせない。
イリッツァは、淡々と、どうということもないように続けられるカルヴァンの言葉を聞きながら、目をそらすことも出来ず――ずるずると体から力が抜けるのを感じていた。
ぺしゃん、と音を立てるようにして、両手首をつかまれたまま、床の上に座り込む。
「どうした」
「――――――…」
カルヴァンの言葉が、頭の中でぐるぐるとまわる。
ふにゃ、とイリッツァの眉が下がった。
「――――なん、で――」
「?」
「ど、して――――」
きゅっ…と美しい眉が眉間に寄る。
「ど――して――っ…そこまでっ…」
ぎゅぅっと眉間にしわが強く寄り――
はらっ…と、花弁が散るように、薄青の瞳から、透明の滴が零れ落ちた。




