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聖女転生物語  作者: 神崎右京
第六章

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【断章】『闇』の中の灯

 瞳に雪国の空を宿した少年は、その心まで凍てつかせて、昼も夜も、漆黒の闇に沈んでいた。

 守るべき民が、孤独に震えるのを見ていられなくて、母に教わったように、聖職者の矜持に準じて手を伸ばして――

『お前は俺と友達になれるとでも思っているのか』

 拒絶と共に吐き出された言葉に――ポッと胸の奥に、小さな灯が灯った気がした。

 ――"友達"――

 書物の中でしか見たことがなかった言葉。将来聖人として孤独と共に生きることを運命づけられた自分には無縁と思っていたその言葉は、心の奥底で、一瞬だけ、微かな微かな灯りを灯していた。

 その灯りは、一瞬で。ひどく頼りなくて。灯ったことすら錯覚だったのではと思うくらいの、微かな微かな灯。

 その灯の存在を、確かめたくて――嫌がる少年を、必死に追いかけた。

 心を閉ざして暗闇に沈む少年を、光に包まれた世界に連れ出してあげたかった。そんなに寒くて冷たいところに、独りぼっちで佇む彼を、放っておくことなんてできなかった。だって、そこは、寒くて、昏くて、凍えてしまう。

 彼と過ごす時間が増えた。彼と過ごすとき――心の奥で、微かに灯が灯る気配がした。錯覚のようにすぐに消えてしまうのはいつもと同じだったけれど、それでも、何かが心の奥で微かな温もりを灯していた。

 彼の瞳から、少しずつ、闇が消えていく。何も映すことのなかった凍えた瞳が、自分の薄青の瞳をまっすぐに見つめることが増えた。心の奥に明かりが灯って、彼を孤独から救いたいと心から思って――

『――ヴィー。…友人になるなら、呼ばせてやる』

 まるで、何かの気まぐれのように――さながら、神の奇跡のように――少年の瞳から、闇が消えた。

 眩しかった。漆黒の闇から、光の世界に彼は足を踏み出したのだ。そうして見る彼の姿は、まぶしくて、まぶしくて――

『――お前のことは、ツィーとでも呼ぶか』

 眩しくて――――――気づいた。

 光の世界に躍り出た彼が、まぶしくてたまらないのは――

 ――――自分が、漆黒の闇の中にいるせいなのだと。

『ツィー』

 何度も、呼ばれるたびに――心の奥で、灯が灯る。

 誰もいない、手を伸ばせばかき混ぜられそうなほど、濃く、深い、真っ暗闇の孤独な世界で、その言葉だけが、微かで柔らかな光を灯す。今にも凍えそうな世界の中で、その音だけが、温かく響く。

 心の灯が灯る瞬間だけ、その心もとない明かりで、手元が見えた。

『ツィー』

 重たい漆黒の中で、いつのまにか、確かに繋がれていた、掌。誰もいないはずの常闇の中、ずっと、ずっとつながれている掌。

『ツィー』

 呼ばれるたびに、ぎゅっと手を握られる。確かにここにいるのだと、伝えるようにしっかりと。

(――――握り返したい)

 何度、弱い心に負けそうになっただろう。

 ここは、酷く寒くて――怖いんだ。冷ややかで濃厚な暗黒の世界の中には、誰もいなくて――光がないから、自分の輪郭さえも、あやふやで。

 だけど、それこそが、求められる役割で。永遠に、この孤独に耐えることこそが、この身に課せられた責務で。

 神の声を聴けない自分は、常に正しくあらねばならない。人の世界を――理解はしても、染まってはいけない。人の理に染まるのは、聖人にとっての、一番の罪。万死に値する、罪。

 大丈夫。真っ暗な闇でも、大丈夫。自分の輪郭があやふやならば、膝を抱えていればいい。寒くて凍えそうならば、心ごと凍てつかせてしまえばいい。

 世の中の、守るべき民を全て光の世界に導くためなら――己のことなど、顧みる必要はないだろう。

『――ツィー』

「っ――…」

 呼ばれるたびに、火が灯る。

 決して、一人で膝を抱えているだけでは得られない、温かさ。かすかな光は、その分強烈に濃密な闇を浮かび上がらせて、孤独を煽る。

 絶対に、握られた手を握り返してはいけないという、神の、母の、教えを守った。必死に、必死に守り続けた。

 せっかく、最初は暗闇に沈んでいた彼を、光の世界に送り出せたのだ。こんな暗いところに、逆戻りさせるなんて、そんなことは許されない。彼は、大事な王国民で――大事な、大事な、世界で一番大事な、初めての"友人"だから。

 そう思っていたはずなのに、思惑に反して彼は、かつて自分も経験したはずの凍える暗闇に――それでも、戻って来た。戻って来て、リツィードの隣に、寄り添った。真っ暗な夜の底みたいな漆黒の世界で、誰もいない、光の一筋も差し込まない凍える世界で――ただ、手を握ってくれていた。決して握り返されないその手を、それでも飽きもせず、じっと我慢強く――己も闇に沈んで、一緒にいてくれた。

 そこに彼がいてくれるだけで、何度救われたことだろう。

 こんなに寒くて哀しい場所に、何の利もないのに、一緒にいてくれるのは、世界中を探しても、彼だけだ。

 リツィードは、最後まで、その手を握り返さなかった。

 だけど――――彼を、光の世界へ送り出すことも、出来なかった。

 本当は、もう一度、彼を送り出すべきだった。まぶしい眩しい光の世界へ、彼を送り出すべきだった。

 それなのに――

『ツィー』

 呼ばれる声が、離れがたくて。ずっと、ずっと、傍にいてほしくて。

 握り返すことなんてできないくせに――この闇の中に、もう一度独りで取り残されるのが、怖くて。

 もう二度と、その声を聴けないのは――それだけが、何よりも、耐えがたくて。

 地下牢での拷問も、寒空の下の磔刑も、無数の石礫も、灼熱の業火も――全部、全部、耐えられた。守るべき民を護るために、必要な犠牲だと言われれば、喜んで受け入れられた。それこそが、求められる役割で、課せられた責務だったのだ。何者かに操られ、不当に闇に落とされた人々を、もう一度光の世界に送り出す――それこそが、最後にリツィードが、その命と引き換えに、果たすべき使命だった。

(あぁ――だけど)

 全員を光の世界に送り返したとしても――一人だけ。

 一人だけ、送り返すのを、ためらってしまった。

 ずっと握ってくれていた手に甘えて、半年間。いつも、彼を光の世界に送り返して早く聖人として真っ暗闇に独りにならねばと思っていたのに、ついに最後まで、出来なかった。

 どうしても、それだけが、出来なかった。

 彼は、すべてを知ったら、怒るだろうか。嫌われるだろうか。十年もずっとそばにいたことを――後悔するだろうか。

 命の灯が消えていく中で――王国民すべてを光の世界に送り返して、独り、闇の中に沈んでいくその中で。

 最期にもう一度、聞きたかったのだ。

 凍える闇の中に、意識も命も沈む前に――もう一度。

 自分が彼の大嫌いな「聖人」だったと知っても変わらず、『ツィー』と呼んでくれる奇跡を、夢に見て――


 新しい生を得て、気づいた。

 性別も年齢も、すべてが変わったこの生で――死の間際に願った奇跡は、起き得ない。

 二度と――二度と、あの声が、『ツィー』と呼ぶ音を、この鼓膜は拾わないのだろう。

 それはまるで神罰だった。

 聖人としての責務を放棄して――孤独に負けた、前世の自分への、神罰だった。

 もう一度、お前は孤独に耐えよと言われたと思った。誰の手も握らず、今度こそ独りで生きろと言われたのだと思った。

 それなのに――奇跡が、起きた。


 イリッツァが、リツィードだと、知っても。

 リツィードが聖人で、イリッツァもまた、聖女だと知っても。

 大好きだったあの声で――『ツィー』と、諦めたはずの音で、呼んでくれた。

 今生でも、彼の手を握り返すことはできない、と告げたのに、それでも――もう一度、手をつないでくれた。こちらが握り返すまで決して離さないと言うように、また、ずっと、握ってくれた。

 『独りにしない』と――約束してくれた。

 過保護なまでに甘やかすその声も、手も、相変わらず、どうしても手放しがたくて――


 彼が、自分の手を取ったまま、光の世界に一緒に行こうと言った。

 つないでいるこの手を、握り返してほしいと、言った。

 許されるのだろうか。前世から、ずっと握り返したかったこの手を、自分の意思で握り返しても。

 ゆっくりと、慣れないながら、やっとのことで、手を握り返す覚悟を決めて。

 彼は、安心したように笑って、手を引いていく。

 さぁ、あと一歩で光の世界――――というところで。



「――――リツィード」



 十五年ぶりに、呼ばれた呼び名。


 決して離さないと言っていたはずのその手を――するり、と離して、彼が言う。


「――何て、答えてほしい?」


 目の前にあったはずの光の世界が、一瞬で遠のいていく。

 世界は、一瞬で、再び闇に包まれた。

 

 ――暗闇の中、手を握ってくれる人は、もう、いない。


 心に温かな灯をともしてくれる人も――もう、いない――


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