90、交わされる『取引』②
イリッツァの申し出に、ヴィクターは息を飲む。ランディアもまた、驚いたようにイリッツァを見つめた。
「ディーから聞いた。お前、ディーにも――かつての部下にも、側近とか、お前の近くにいる連中には全員に、お前が皇帝になるべきだって進言されてきたんだろう」
「それは――…だが、しかし」
「血族を討つのは気が引けるか?国民を惑わすのが嫌なのか?――だが、そんなことは知らない。俺はお前たちに肉親を殺されたし、俺の国の国民は、お前たちに散々惑わされた。今度は、お前の番だろう。それくらいの犠牲は払え」
ひやり、とした声が響く。ゴクリ、と喉が鳴るのを感じながら、ヴィクターは冷たい汗が伝っていく額を俯けた。
思い出す。――エルム教は、決して、慈愛に満ちた綺麗事だけを語る宗教ではない。
異教徒を滅ぼすために、暴力もいとわない――敵国を滅ぼすことすらためらわない、時に無慈悲な教えを告げる宗教だった。そもそもクルサールは、迫害された民が立ち上がり国を討つ報復と反逆の歴史の上に成り立つ、血なまぐさい国家なのだから。
「これはクルサール王国が受けた仕打ちに対する正当な報復だ。そして、取引だ。――第五皇位継承者ヴィクター。お前は、自分のエゴのために――何を差し出せる?」
淡々と――凡そ十五歳の少女とは思えぬ口調で、イリッツァは無慈悲な選択を迫る。
ヴィクターはぐっと息を詰めて考える。その双肩に乗っているのは、膨大な帝国民の未来だ。その未来のすべてを背負えるか、と覚悟を問われている。
しばしの沈黙が下り――
「いいじゃん。やろうよ、ヴィー」
口を開いたのは、ランディアだった。
翡翠の瞳が、困惑するように揺れる。
漆黒の暗殺者は、ふわりといつものように、中性的な顔でほほ笑んだ。
「僕が、助けるよ。ヴィーは、貫くべきだ。自分の、美学を。――それを、シュヴィットさんも、爺ちゃんも、皆が願ってる。命を賭けたその美学の行く末が、皆きっと気になってる。『自分なり』に通すことなんて、きっと皆望んでない。『誰が見ても』最高に格好いい『皇帝ヴィクター』が、見たいはずだ」
「――――…」
「僕は正直、このままいつ死んでも構わないと思っていたけど…ヴィーが、皇帝になるっていうなら、何が何でも生きなきゃね。絶対、その瞬間を見たい。一番傍で、見ていたい。――僕の夢見た『漆黒の楽園』が、完成するのを、見届けたい」
「ディー…」
「だから、やろうよ。大丈夫。――失敗しても、いいじゃんか。その時は、僕が、一緒に、死んであげるよ」
にこり、と。
どこまで本気かわからないくらい軽く笑って、ランディアは当たり前のように告げた。
ヴィクターはそれでもなお数瞬迷い――
「――――わかった。約束しよう。イラグエナムの名において、この取引締結を宣言する。現皇帝ならびにそれに準ずる一派を根絶やしにし、今度こそ、誰もが胸を張れる新しい国家を作り上げると」
「僕が、この契約の証人になろう。ランディア・ジュートの名において、この契約が取り交わされたことを証明する」
「…うん。わかった。じゃあ、それで」
言葉と共に、掲げていたイリッツァの手から光が放たれる。それはすぐにランディアの身体を包み込み――ふっ、と現れた時と同じくらいあっさりと掻き消えた。
「これで、たぶん、大丈夫だ。光魔法を使っても吐血したりしないし、俺が張った結界の中にだって入って来られる。定期的に掛け直す必要があるから、その時は俺に会いに来てくれ。王国に帰ったら、俺はもう一度国全体に結界を張るけど、この状態なら入れるはずだ。お前にとっては、大嫌いな、最低な国かもしれないけど――来てくれたら、精一杯歓迎するよ。ディー」
浮かべるのは、聖女の微笑み。慈愛に満ちたその笑顔に、ランディアはヴィクターを解放してイリッツァへと近寄る。
「うん。ありがとう、リッツァ。――やっぱり、僕、君のこと、大好きだ」
ぎゅっと軽くハグをされるのを受け入れ、ぽんぽん、と漆黒の背中を叩く。その背後で、ヴィクターがゆっくりと体を起こした。
「イリッツァ・オーム。寛大な処置に感謝しよう。約束は必ず果たす。そして――いつか、すべてが終わったら、お前とお前の両親の墓に、報告とともに花を供えに行かせてくれ」
「ははっ…わかった。親父は、そんなの興味ないって言いそうだけど」
「気持ちの問題だ。けじめをつけたい」
言いながら差し出された帝国軍人の大きな手を、ゆっくりと握り返し、ふわりと笑った。
それを見て、ヴィクターはニッと片頬を歪めて笑う。
「第四妃の席は空けておいてやる。そこの性格悪いガキに飽きたら、いつでも帝国に来い」
「お前そんなに死にたいのか」
ひくり、と頬を引きつらせるようにしてカルヴァンが不愉快をあらわにする。額には薄く青筋が浮いていた。
「アルクで二度も負けておいて、よくもそんなことが言えたもんだ」
「一回目のあれは無効試合だろう、あんな化け物がいたら軍略なんざ一切関係ない。事実、リツィード・ガエルが出てくるまではずっとこっちの優勢だったんだ。実力で負けたわけじゃねぇ、いやむしろ勝ってた」
「おいおい、戦にたらればなんてない。正しく結果を受け止めろよ。第一、仮にそうだとしても、二回目は実力だろ」
「どこがだ、お前がアルクの時の軍師だと知ってたらこっちも対応を変えてた」
「それも含めて情報戦だろ、負け犬」
「ぁあ゛?いい度胸だ、もう一回やるか!?」
「はっ、あとで吠え面かくなよ!」
「あーもう、いい大人が何やってんの、ヴィー」
「お前も大人げない。せっかく丸く収まったんだから大人しくしとけ」
子供の言い合いのようにヒートアップしていく二人の間に入り、ランディアはヴィクターを、イリッツァはカルヴァンをそれぞれ制する。
「っていうか、その呼び名改めさせろ!見知らぬ奴に許してもない愛称で呼ばれてるみたいで酷く不愉快だ!!!」
「ぁ゛あ゛!!?こっちのセリフだ、そっちこそ止めさせろ気色悪ぃ!」
二人は収まるどころかさらにヒートアップしていく。
「あー、確かにややこしいね。…でも、困ったな。僕は、初めて会った時からずっと、ヴィーのこと、ヴィー以外で呼んだことないし――」
「じゃあ、俺がカルヴァンって呼べば解決だな。別に抵抗ないし」
「なんでそうなる!!!!!?」
噛みつくようにカルヴァンが吼える。ヴィクターは勝ち誇った笑みで高笑いを挙げた。
「あっはははははは!!!いい気味だな?カルヴァン・タイター」
「ふっざけんな!!!!!こっちは二十五年前からずっとこれなんだぞ!!!?お前らとは年季が違う!!!なんで俺たちが譲歩しなけりゃならない!?」
「そっちのお嬢さんに言ってやれ。残念だったなぁ?王国の智将は、女を惚れさす能力はないみたいだ」
「てめぇいい度胸だ表に出ろ!!!!」
「おー望むところだ、返り討ちにしてやる!!!」
「あーもーなんでそうなるの」
「落ち着けって、いい加減にしないと鎮静の魔法かけるぞこの野郎」
胸倉をつかみ合いかねない二人を互いに制する。
これは、同属嫌悪というものなのだろうか。どこまでも性質が似通いすぎる二人は、顔を合わせて言葉を交わすだけで一触即発だ。
「もう、ほらヴィー、行くよ。きっと、ドナートあたり、今頃死にそうな顔してる。…総大将が元気だって見せてあげないと」
永遠に続きそうな子供じみた言い合いをランディアが背を押しながら促すように無理矢理切り上げさせる。
「次に会った時は覚えてろよ…今度は腹に風穴開けるだけじゃ済まさない。絶対に首を跳ねてやる」
「はっ、こっちのセリフだ。軍略家が戦えないと思ったら大間違いだぞ」
「あーもーいい加減にして!はい、歩く!外に出る!」
口だけで言い合いをつづけるのを、ぐいぐいと無理矢理背中を押す形でランディアがヴィクターを外へと連れ出していく。雇い主だなんだと言っているが、なんだかんだでランディアの方がヴィクターをうまく手綱を取ってコントロールしている立場なのかもしれない。
ヴィクターを外に追いやった後――ランディアが、ふと部屋を振り返る。
「リッツァ」
「へ?」
イリッツァたちも、特にこの部屋に用事があるわけではない。ランディアたちに続いて退室しようとしたところで声を掛けられ、間抜けな声を上げる。
「しばらく、ここの部屋貸してあげるよ」
「は?…なんで?」
「久しぶりの再会でしょ?――ゆっくり話したら?」
視線が、イリッツァの奥へと注がれる。後ろにいるカルヴァンを指しているのだろう。
「え、でも――」
「講和はこっちでまとめとくよ。大丈夫、ヴィーはもう、美学に反することはしない。さっきの約束はちゃんと守るし、君にも王国にも、ちゃんと筋を通す」
「それはそうかもしれないけど――」
「リッツァは僕とヴィーに会話が足りてないって言ってくれたけど――たぶん、君たちも、足りてないよ」
ランディアは苦笑する。そして、別れを惜しむようにきゅっと軽くハグをした。
「僕は友達として、『イリッツァ・オーム』に寄り添うことしかできないけど――君を『女の子』として"幸せ"にしてくれるのは、彼だけだろ?」
「なっ――!」
周囲に聞こえないように耳元でそっと囁かれた言葉に、かっと頬が染まる。ここ最近で、幾度となく繰り返された恋愛話がぶぁっと脳裏に蘇った。
「今日、僕も痛感した。人生、何が起こるかわからない。――伝えたいことがあるなら、ちゃんと、思った時に伝えないと」
「――――…」
その言葉に、ふと、十五年前の記憶がよみがえる。
些細な言い合いをして――そのまま、永遠の別れとなるはずだった、苦い記憶。
ランディアはにこっといつもの笑顔を張り付けて、イリッツァを解放した。
「ね?――ちゃんと、話し合っておいで。気のすむまで、ちゃんと」
「ぅ――…わかった…」
まだ少し、ほんのりとした赤みを頬に残して、イリッツァはしっかり頷く。ランディアは満足そうにうなずいた後、部屋を出て行った。
パタン――と扉が閉じると、一瞬部屋に沈黙が下りる。
「帰らないのか?」
「ぅ…えっと…」
後ろから、カルヴァンの呆れた声が飛ぶ。イリッツァは言葉に窮して口の中でもごもごと呻いた。
意を決して、後ろを振り向く。背の高い紅装束が、思いのほか近くにあった。彼もこの部屋を出るつもりだったのだろう。灰褐色の瞳が、やや怪訝な色を宿してイリッツァを見下ろしている。
「えっと…再会してから、ちゃんと、話してなかったし…」
「?」
「その――――ごめん。心配、かけた」
ぺこり、と素直に頭を下げる。すると、頭の上からそれそれは大きな嘆息が下りてきた。
「――本当にな」
「う゛…ご、ごめん…」
「別に。無事だったんだから、それでいい」
「う、うん…ありがとう。助けに、来てくれて――…」
「俺が助けに来るまでもなく、お前は拘束解いて一人で逃げ出してたけどな。何が助けを呼ぶ、だ」
「う゛……」
棘のある言葉が降って来て、気まずさに呻く。そういえば、冗談半分で、今度同じことがあったらお姫様のごとく助けを呼ぶから助けに来い、と言った記憶があった。実際は、助けを呼ぶどころか、待つことすらなく自分で剣を奪って逃げだしたわけだ。
(だ、ダメだ、素直に――思ったことは、ちゃんと、思った時に、伝える)
つい、気恥ずかしさと気まずさから憎まれ口を叩きそうになるのを、心の中で戒める。
「その…う、嬉しかった…ヴィーが助けに、来てくれて」
頭を下げていてよかった。気恥ずかしさに、頬が熱を持っているのを自覚する。
それは本当だ。廊下を駆けていた時も――ヴィクターの剣から解放されて抱き留められた時も。
何物からも絶対に守ると行動で示すかのように力強く抱きしめられたときの安心感は、筆舌に尽くしがたい。不思議に落ち着く彼の香りに包まれて、聞き馴染んだ低く響く声が『ツィー』と耳元で呼ぶのを聞くときの安心感は、きっと、どんなに言葉を尽くしても理解してはもらえないだろう。
実際には、イリッツァが自力で困難を解決出来るのだとしても、関係ない。今、ここに、カルヴァンが確かにいるのだと感じるその事実こそが、彼女を安心させるのだ。
「まぁ…そういう約束だったしな。誓いまで立てた」
「う、うん…」
どこか呆れの混じった声で言われ、呻くようにうなずく。もう一つだけ深い嘆息の後、言葉が降ってきた。
「そんなことをわざわざ言うために残ったのか?」
「そ…そんなこと、って」
「律儀な奴だな。――まぁいい。お前、王国に帰るんだろう?国民が待ってる」
「うん。――はは、皆にも心配かけたよな」
「おかげで民兵の数には困らなかった。ウィリアムの演説が見事だったのもあるが――まぁ、早く帰って安心させてやれ」
顔を上げると、カルヴァンはいつものように飄々とした様子で戸口へと向かう。
(あぁ――よかった)
すべてが終わったことを、やっと実感する。
今、目の前に、カルヴァンがいる。王国には愛すべき民が待っている。自分も、五体満足で帰ることが出来る。ずっと国交断絶していた帝国とも、今後はヴィクターの働き次第で友好な関係が築けるようになるかもしれない。ランディアという不幸なかつての王国民を救うことも出来た。
万事上々――の、はずだ。
「俺も、最後くらいちゃんと仕事しないと、さすがにリアムにどやされる」
「ははっ…今帰っても絶対どやされるって」
隣を通り過ぎるように戸口に向かう紅装束に向かって笑って言いながら――
――――ふと、胸に何かがつっかえた。
(――――――あれ――…?)
何か――何か、おかしい。
おかしい。
目の前の装束を見上げる。王国騎士団長の広いマントには、大きく聖印が描かれていた。
違和感がある。
カルヴァンのこのマントを見ることは、あまりなかったはずだ。
ナイードで再会して、正体を明かした後の彼は、いつだってこちらがうんざりするくらい過保護で――
いつだって、守られていた。
どんな危険からも絶対に守るという彼の言葉通り――彼は、いつも、イリッツァを抱きしめて、その腕の中に閉じ込めるようにしていた。
イリッツァに危険が迫る気配があると、顔を蒼白にさせて、こちらなどよりよっぽど死にそうな顔をしながら、イリッツァの身が無事であることを確かめるように、深く深く胸の中に抱き込んでいた。
レーム領で襲撃があった宿屋の夜も。王都が怖いと震えた出立の朝も。王都民の歓声に馬車の中で頽れたその時も。ここで再会した時も、ヴィクターの剣から逃れた時も。
周囲の目すら気にせず、ただイリッツァが無事であることを確かめるように、カルヴァン自身が安心できるように、その身をしっかりと抱きしめていた。いつだって、危機が迫り、去った時に見るのは、彼の背中ではなく、胸だったはずだ。
――――おかしい。
すべてが終わって、万事上々。
正真正銘二人きりの部屋。外敵になりうる存在は全て排除されたこの部屋で――
今、この背中を見るのは――酷く、違和感があった。
「――――?どうした」
気づいたら。
そのマントの端を、しっかりと捕まえていた。
カルヴァンが、扉を開けようとした手を止めて、横顔だけで振り返る。雪国の空が、イリッツァを見下ろした。
「…………」
カルヴァンの行動自体に違和感はない。飄々として、皮肉屋で。いつだって素直じゃない物言いをする男だ。
だけど、それでも――何か、引っかかる。
ゆっくりと、イリッツァはカルヴァンの言葉を頭の中で反芻した。
『お前、王国に帰るんだろう?』
『最後くらい、ちゃんと仕事しないと』
(――――――嘘――)
イリッツァは、呆然と顔を上げる。一瞬脳裏に描いてしまった可能性を、即座に本能が否定する。
ありえない。ありえない。――そんなこと、あるわけない。
まるで、縋るような瞳をしていたのだろう。カルヴァンは、怪訝な顔で眉を寄せた。
「――リツィード?」
「――――っ!」
さぁっ――と一瞬で血の気が引いていく。
否定したはずの可能性が――急に、現実味を帯びて再び襲い掛かった。
ぐっとこぶしが白くなるほどマントを握る手に力を籠める。
「お前"も"――帰る、よな――?」
自分でも笑いたくなるほど、震える声。
イリッツァの唇から洩れた弱々しくか細い声に、カルヴァンは数度目を瞬き――左耳を、掻いた。
「当たり前だろう。腐っても総大将だぞ。戦後処理だのなんだの、色々ある。面倒なことこの上ないが、さすがにそこまでリアムに丸投げするわけにもいかな――」
「その後はっ!!」
相手の言葉を遮って叫ぶ。
ぎゅっ…と握りしめられたマントにカルヴァンの視線が一度移り――そのまま、小さな嘆息が漏れた。
「参ったな。こういう時、付き合いが長いっていうのは、ひどく厄介だ」
「ヴィー…っ…ちゃんと、答えろ!」
いつものように煙に巻こうとするのを許すまいと、鋭く叫ぶ。カルヴァンは――再び、左耳を掻いた。
マントを握りしめていた拳から戻って来た灰褐色の瞳が、イリッツァの薄青の瞳を捕らえ――ふ、と苦笑交じりに緩む。
「――何て、答えてほしい?」
「っ――――――――!」
親友の、その言葉に。
イリッツァは、目の前が真っ黒に塗りつぶされていくのを感じていた――




