89、交わされる『取引』①
部屋の中に一瞬で緊張が走る。
「甘いな、カルヴァン・タイター。策はあんなにえげつないのに、意外な男だ」
口を開いたのは、ヴィクターだった。イリッツァの白く細い首に、しっかりと突き付けられているのは、先程まで床に転がっていたイリッツァが持ってきた帝国軍人の剣だろう。突きつけている――という表現は正しくない。正確には――『押し付けて』いる。
(…参った。油断した。全然動かないし黙ってるから、本調子じゃないのかと思ってたけど、すげぇ元気じゃん。…うーん、どーすっかな…)
捕らわれたイリッツァは、首に灼熱が走って首元を嫌な感触がたどる感覚に、薄皮が切り裂かれて血が流れていることを実感する。
(肘うち食らわせるにしろ掌底食らわせるにしろ、ここまでしっかり喉に食い込まされてると、その時の衝撃で首ぱっくり行きそうだしなぁ…)
のんびりと考える。死にさえしなければ自分で癒すことは出来るだろうが、集中が切れることは間違いない。治癒スピードはいつもより格段に落ちるだろう。それに万が一怪我の位置が悪くて即死に近ければ、この方法は不可能だ。もう一人優秀な光魔法使いが傍にいてくれるなら賭けてもいい手法だが、ヴィクターの治癒すらまともにできなかったランディアにそれを託すのはやめた方がいいと判断する。
(第一そんなことしたら、うちの過保護な幼馴染が本気でぶち切れる)
助かった後に幽閉でもされかねない勢いで安全な場所に永遠に隔離されそうだ。それくらいの拗らせ方をさせている自覚があるし、目の前で首を裂かれて鮮血を撒き散らしながら血だまりの中に頽れる姿など見せた日には、ただでさえ拗らせている今の五倍くらい拗らせ方を加速させる自信がある。十五年前のものに加えて、もう一つの強烈なトラウマを植え付けることになるだろう。とりあえず、この場で狂戦士と化して全力で暴れ狂うことは確実だ。
(光魔法で眠らせるにも、眠る瞬間に手を引かれたら結果は同じだしなぁ…さて、どうするか)
最終手段がある以上、特に焦ることもなく冷静に考える。しかし、どうやら視界に映る二人の男たちは同じではないようだった。特に――真紅の衣を着た男の方は、言うまでもなく。
「随分な仕打ちだな」
いつもの人を食ったような笑みは鳴りを潜め、鬼神と呼ばれた時代の形相で、カルヴァンは目の前のランディアの背に言葉を発する。唸るような低い声が震えているのは、抑えきれない怒気のせいだろう。今にも激昂しそうなところを、必死に理性で抑え込んでいるだけだ。イリッツァの首に押し当てられた剣の行く末だけに全神経をとがらせて、叫び出しそうになるのを必死に抑える。
「僕も予想外だよ。これはこっちが悪いね。謝る」
「謝罪なんぞどうでもいい――っ、今すぐツィーを返せ――!」
ギリッ…!とカルヴァンの奥歯が耳障りな音を立てた。
「どうやら、状況を察するに、俺はお前さんの光魔法で助けられたらしいな。死神に命を救われるとは、とんだ皮肉だ。――何のつもりだ?」
「お前の命なんか別に救いたくなかったさ。でも、ディーが、お前の命を助けてくれと言った。ディーが助けを求めたら、必ず助けると約束した。――だから、助けた。お前のためじゃない」
「…ほぅ?」
ヴィクターは、頬を歪めて苦笑する。
「いつのまにか、随分と仲良くなったらしい」
「――――リッツァを離して。冗談にならない」
ひやり、とした声が部屋に響く。いつも本心が読めない表情を張り付けているランディアも、さすがに額にじっとりと汗をかいていた。
「戦争は終わった。僕たちは、負けたんだ。こんな――こんなの、アンタらしくない!」
「――…」
「僕たちがついていこうと信じた『総大将ヴィクター』は、どんな時も決して自分の美学を曲げない男だった。こんな――だまし討ちみたいにして、人質を取って、敵を脅すことなんて、しなかった!!!」
「…脅してるわけじゃないさ」
ヴィクターは、静かにつぶやく。
「戦争は俺たちの負けだ。降伏を今更撤回するわけじゃない。祖国を蹂躙されるのはたまったもんじゃないが、ここで仮にどんなに苦しい協定を結ばされようと、俺たちは必ず這い上がるだろう。散って行った英霊たちの志に報いるために、俺たちは決してあきらめない」
「なら、どうして――!」
「っ――『聖女』にしか、出来ないことがある…!」
ぐっ…とヴィクターの手に力がこもり、剣がほんの少し強く押し当てられる。薄皮が裂かれ、もう一筋、紅の線が首を美しく伝った。
カルヴァンの目が大きく見開かれ――
「――――――っ!!!」
ギッと視線だけで敵を殺せるほどにヴィクターを睨み付ける。
ボッ――ゴォオオオオっ!!!
瞬間、イリッツァとヴィクターの頭上から灼熱の舌を伸ばすようにして紅蓮の炎が差し迫った。
「はっ!甘いな!!!」
しかしヴィクターは驚くこともなく、視線すら動かさずに叫ぶ。
じゅっ じゅわぁあああああ
「――――――――」
猛烈な音とともに水蒸気が立ち込めるのを、イリッツァは視線だけを上げて確認した。
(――水の魔法使い、か)
まるで水の膜を作り出すように展開された頭上の防壁は、カルヴァンの魔法を難なく無力化した。
「相性は最高みたいだな?カルヴァン・タイター」
「っ――――」
にやり、と笑って言われてカルヴァンが表情を憤怒に染める。
「頭上から攻撃したのは、お姫様への配慮か?そうだよな、この亡霊のことが何より大事なお前は、絶対にこいつの足元から火なんて立ち上らせないと信じてたぜ」
(――――…あぁ。なるほど)
イリッツァは、静かにヴィクターの言葉の意図を理解した。
頭上から火を降らせるよりも、足元から立ち上らせた方が効果的だっただろう。地面と足が接している以上、今のように水の膜を張って防ぐことは難しい。イリッツァを巻き込んだとしても、脚であれば軽傷で済む可能性が高い。低リスクかつ高威力のその手法を、常人の何倍もの速さで回転するカルヴァンの頭脳が、思い至らなかったはずがない。
だが、それでも――カルヴァンは決してその攻撃だけはしないと、ヴィクターは読んでいた。だからこそ、頭上からの攻撃だけにあたりを付けて簡単に防ぐことが出来た。
カルヴァンに、出来るわけがない。
かつて、足元から立ち上がる焔にその身を焼かれたリツィードを、もう一度同じように炎に包むなど、決して。
(あー…俺のせいか。…悪いことしたな…)
確かに、足元から炎の舌が立ち上ってくる光景を目にすれば、ちょっと、なかなかにトラウマを刺激されるだろう。あまり気分の良い物ではない。
目の前の幼馴染は、その優秀な頭脳で、今取れる最良の打ち手をはじき出し――そして、そこからさらに考えを進めて、イリッツァの境遇にまで配慮した攻撃をしたのだ。そしてそのどこまでも過保護な彼の心理を、逆手に取られた。同等の軍師たるヴィクターだからこその、読み合い。
「―――ツィーの」
「ぁ?」
「ツィーの血を、それ以上流してみろ。――お前の一族郎党、俺の全力を以って、一人残らず地獄に落とす。女子供も関係ない。――一人残らず、全員だ――!」
「はっ…怖いねぇ…」
鬼神を通り越して、鬼そのもののようになったカルヴァンを前に、苦笑を刻みながらヴィクターは呻く。しかし、その剣がどけられることはなかった。
自分がお荷物になっていることを自覚して、イリッツァは小さく嘆息する。やはり、多少の出血と痛みを堪えて、自分で抜け出すべきか。
「何、用が終わればちゃんと返す。――少し、貸してほしいだけだ」
「っ…どの口が――!」
「本当さ。俺だって、こんなことはしたくない」
ヴィクターは、ふ、と表情を崩す。少しだけ――困ったような、顔。
「悪いな、お嬢さん。助けてくれたことは、感謝している」
「――…へぇ?」
「本当だ。慈悲のかけらもない死神だと思っていたが、意外性に驚いている。それに――ディーとも、随分仲良くなってくれたようだ。あいつの孤独を埋めてくれるかもしれない相手に――こんなことをするのは、俺だって、本意じゃない」
ヴィクターの声は、いつもよりだいぶ弱々しい。イリッツァは、静かにその言葉を聞いていた。
「でも、ダメなんだ。お前じゃないと、ダメなんだ。――すまない。わかってくれ」
「……剣を喉に突き立てながら、随分なことを言うもんだ」
「わかっている。卑怯極まりない、最低の行いだ。恨んでくれていい。許してくれとは言わない。――もし、もう一度、お前が蘇るような奇跡が起きたら、今度こそ遠慮なく俺の首をはねてくれ」
「「――――――!」」
目の前の二人が、一瞬息を詰める。
「儀式が終わったら、必ずお前を国に送り届けると約束する。どれだけの命が残るかはわからないが、最期は生まれ故郷で、ちゃんと、親しい人と静かに暮らしてくれ」
「ねぇ待って、さっきから何の話を――」
「儀式の場で命を落としたら――すまない。お前の国の、エルムの葬儀で必ず丁重に弔うと約束する。だから――すまない、イリッツァ・オーム」
ヴィクターは、苦し気な声を絞り出す。
「俺は――――どうしても、ディーを、失えないんだ――」
「――――…気持ちは、まぁ、わからなくもない、けど」
耳元で懺悔するかのように告げられた言葉に、すっと瞼を伏せて静かに同意する。
許しを与えるのが聖女の役目だ。神など信じていないだろう異教徒が、それでも、許しを請うように絞り出した弱い声に、イリッツァは激昂することなどできなかった。聖職者の矜持が、思わずその憂愁を受け止めてしまう。
気持ちはわかる。
もしも、カルヴァンが――余命宣告をされたとして。
刻々と近づく命の期限。生に執着しようとしない本人。どんなに泣いても縋っても、決して歩みを止めない。死を見つめて、死に向かって、無情に振り返ることなく歩みを進めていく親友の背中を見つめるしかできなかったとき――
もしも、その歩みを止めさせることが出来る方法が、あったなら。
自分が卑怯な行いをすることになっても。神に顔向けできない行いであったとしても。
最後の最後まで悩みに悩み抜いて――――それでもきっと、最後には、悪の手法を選んでしまう。
その後、どんなに自分が不幸になるとしても――それでも、彼を失うことなど、決して自分から選べはしないのだから。
(…場合が場合だったら、聞いてたかな)
ランディアもまた、イリッツァが救いたいと思う大切な王国民だ。今は、友人でもある。
神を信じぬ男が、何があっても美学を曲げない男が、そのすべてを投げ出しても叶えたい願いがあると言われて、イリッツァにとっても大切な存在であるランディアを救いたいと乞われたら――十五年前の自分だったら、もしかしたら、聞き入れていたかもしれない。
「それは――ダメだ…ダメだよ…それだけは、だめだ…!僕は、そんなこと望んでない――!」
ランディアは、ヴィクターの言葉の意図を正確に理解したのだろう。内臓を負傷してただでさえ顔色が悪かった面をさらに蒼く染めあげて、必死に声を上げる。
イリッツァは、ちらりと視線を奥に移す。
そこには、蒼白を通り越して、真っ白な顔をした幼馴染がいた。
「――――ツィー」
小さな声が、自分を呼ぶ。
低く響く、落ち着く声音。――昔から、ずっと、この声でそう呼ばれるのが、好きだった。
「ツィー。――――ツィー。…誓ったぞ」
「――――…うん」
「っ――――誓った、はずだぞ――!」
「うん。わかってるって。大丈夫だから」
イリッツァは、苦笑しながら答えて、ゆるりと視線をめぐらす。
十五年前の自分だったら、この哀れな男を救うために、願いを聞いていたかもしれない。それで救える命があるのなら、心があるのならと、己の身を差し出すことに、きっと抵抗はなかった。
だが――今は、違う。
誓いを立ててしまった。
――大切な親友を、もう二度と独りにしないと、誓ってしまった。
(さて…仕方ないな。ヴィーには悪いけど、もっかいトラウマ背負ってもらって――)
最終手段に移ろうかとぐっとこぶしを握り締めた時――
ふと、視界に映った違和感に思考を止める。
「リッツァを離して。――僕、結構、本気で怒ってるよ…」
昏い闇を宿した、中性的な青年が、くっ、くっと何かを確かめるように右足で小さく地面を踏みしめていた。
時折内臓が痛むのか、微かに頬をしかめながら――まるで、何かのタイミングを計るかのように、何度も。
(――あ。そっか)
思い至って――ふっと口の端に笑みを刻む。ヴィクターには見えないだろう角度のそれを見て、目の前の男たちが一瞬目を瞬いた。
「なぁ、ヴィクター」
「なんだ」
「あんたには悪いんだが――やっぱり俺は、協力できない」
「――いいさ、身柄さえもらえれば、お前の意思は関係ない」
ぐっとイリッツァを拘束する腕が強くなる。苦み走った口調は、自分が放った言葉が彼自身をも苛んでいることが痛いほどにわかった。
「お前さ…俺が言えたことじゃないけど、ちゃんとディーと話し合った方がいいぞ。お前たち、会話が足りてない」
「何を――」
「とりあえず――お前、一回、ディーに怒られればいい」
「――――?」
おおよそ剣を押し当てられて二筋も血を流している状態とは思えないほど冷静な口調に、ヴィクターは眉を顰める。
イリッツァは、ちらり、と視線をランディアに流す。ぱちり、とランディアの瞼が一度、上下した。
それを見て、ふっと薄青の瞳を緩めて笑い――すっと軽くランディアへと手をかざす。
「お前、何を――」
「ディー。――――『助けて』!」
「「――――――!」」
ぱぁっ
かざされた手から、まばゆい光がはじけ――
「りょーかい!」
ひゅんっ
言葉だけを残して、風が駆け抜ける。
一瞬で姿を消したそれは――すぐに、ヴィクターの眼前に現れた。
「な――!」
幻のように現れた漆黒の影に一瞬面食らった隙に、眼にもとまらぬ手刀がその手に叩き落とされ、剣を取り落とす。
「っ、く――」
「ちょっと、お仕置きするよっ!」
ふぉんっ
再び姿が掻き消えると同時に、剣を握っていた右手を捻り上げながら背後に回され――
「ぐっ…!」
ドッ…
気づいたときには、床に組み伏せられるようにして這いつくばる。ランディアは、容赦なくその腕を捻り上げながら、背中に乗り上げるようにしてその体を抑え込んだ。
「ぅわ、さすが、速――」
「ツィー!」
助走などなく一瞬でトップスピードに移行する暗殺者の技能に舌を巻く暇もなく、聞き馴染んだ声が飛び込んできた。
「わ――」
事の成り行きを見守っていた腕を、ぐいっと問答無用で引かれ――次の瞬間には、視界一杯に真紅の衣が広がる。
ふわりと鼻腔をくすぐる、懐かしい香り。
「ツィー…っ!」
その身の安全を全身で確かめるように――もう二度と、危険にさらさないようにとすっぽりと包み込むように抱きしめられたまま、切羽詰まった声音で耳元で愛称を呼ばれ、ドキン、と一つ胸が鳴った。
「あ、えっと…ご…ごめん。心配、かけた」
「っ――――!」
カルヴァンは、一瞬息を吸い込む。おそらく人生でも特大と言えるだろう雷を落とそうとしたのだろう。
イリッツァはそれに耐えるべく肩をすくめてぎゅっと目を閉じ――
(――――あ、あれ…?)
ふっ…と何も言われることなくその腕を解かれ、肩透かしを食う。
「ヴぃ、ヴィー…?」
恐る恐る見上げると、灰褐色の瞳と視線がぶつかった。
(――――――え…)
その瞳は、一瞬酷く痛まし気に眇められ――ふぃっと顔ごと絡んだ視線を外された。
そのまま、イリッツァを背に庇うようにしてランディアと地に伏すヴィクターへと向き直る。
「ディー、お前っ…」
「僕は、望んでないって言ってるだろう。初めてできた友達の命を奪ってまで、生きながらえたいなんて、思うわけがない」
ランディアは苦い顔をしながら、ぐっとさらに体重をかける。その後、視線をイリッツァへと移して小さく笑う。
「聖女様の魔法って本当にすごいね。"中"、結構ズタズタだったと思うんだけど――本当に、一瞬だった」
「あ、あぁ…まぁ、あれくらいなら、別に」
イリッツァは、ランディアの足の動きから、彼が踏み込むタイミングを計っていることに気づいた。そして――そのたびにしかめる顔で、内臓の痛みゆえにためらっているのだということも。
きっと、彼が言っていた通り、内臓が深く傷ついていたために、いかに神速を誇る彼でも、スピードに自信がなかったのだろう。一瞬でも遅れれば、それはイリッツァを命の危険にさらすことになった。ランディアは、自分の内臓の痛みを図りながら、踏み込む隙を虎視眈々と狙っていた。
ならば、内臓の傷を癒してやればいい。万全の状態の彼ならば、ヴィクターが剣を引くより早く、その右腕に到達すると、イリッツァは知っていた。
そして――助けを求めたら、きっと応えてくれるということも。
「おい。そいつ、殺していいのか。――いや、聞くまでもないな、殺す」
「えっ、ちょっ――まっ、待てよ!」
イリッツァの制止など聞くはずもなく、カルヴァンはこれ以上なく低い声で告げながらヴィクターが取り落とした剣を拾い上げる。
「リッツァ、ごめん、止めて。僕、こっちで忙しい」
「お前はそのままそこで抑えていろ。一撃で息の根止めてやる」
「ちょ、まっ…待てって、ヴィー!」
ぐっと騎士団長のマントをつかんで後ろから引き留める。本気でぶち切れているらしいカルヴァンは、声を荒げることすらなく、淡々とした表情と声のまま、ためらうことなく敵の首へと一撃を振り下ろそうとしていた。
「っ――待てって言ってるだろ!!」
バッとヴィクターの前に立ちふさがるように飛び出し、カルヴァンを体で制する。
ひたり、と温度を感じさせない雪国の空が、イリッツァを静かに見下ろした。
「……何の真似だ?」
「ちょっと…ちょっとだけ、待って…ほしい」
少しだけ歯切れ悪く、伝える。
(な――…何だ…?なんか…様子、おかしい…?)
目の前の友人の様子に、イリッツァは困惑しながら言葉を紡ぐ。
これ以上なく怒っているのは間違いないのだが――何か、それ以外に、違和感を感じる。
「そいつも、"救う"のか?聖女の慈悲とやらで?」
「ぅ……」
カルヴァンの性格が悪いことなど、出逢った頃から知っている。いつだって皮肉めいた言葉選びを好み、人を食ったような態度ばかり取ることも知っている。
だが――皮肉を込められているはずのその言葉に、いつものような棘を感じず、イリッツァは困惑して言葉に迷った。
じっ…とカルヴァンはイリッツァを冷ややかに見下ろす。
「…気持ちは、わからなく、ないんだ。ヴぃ、ヴィーだって…もし、俺があとちょっとで死にそうで――そんな時に、それを延命出来る方法があったら、手段なんて選んでられないだろ!?」
「――――…だから、許す、と」
「っ……許す…っていうか…」
何だろう。
どうにも、カルヴァンの考えが読めない。
なんだか――怖い。
(ヴィーが、何考えてるかわからないなんて――初めてだ)
ぞわぞわと、胸の奥が不穏にざわめく。剣を突きつけられていた時よりも、カルヴァンに特大の雷を落とされそうになった時よりも。
何よりも今が、一番、恐怖を感じる。
「話し合いを、したいと、思う」
「――――…ふぅん…」
「ご…ごめん……心配かけたのは、謝るけど、でも――」
「…好きにしろ。お前が気味が悪いくらいお人好しなのは、今に始まったことじゃない」
あっさりと。
あまりにもあっさりと告げると、カルヴァンは手にした剣を適当に放り投げ、くるりと背を向けた。ガインッ…と床に落ちた鋼が耳障りな音を立てる。
ぱちり、とイリッツァが目を瞬く間に、淡々ともともとの自分の剣を拾い上げて、剣を収めてしまった。
「…?どうした。話し合いとやらをしないのか」
「え…あ、う、うん…」
横顔だけで振り返って言われて、戸惑いながら頷く。いつもと変わらない表情なのに――何を考えているか、わからない。
「リッツァ?…どうするの?」
「あ、うん。…えっと」
(ダメだ、集中。今は、こっちが先)
気持ちを切り替えて、イリッツァはヴィクターの前に蹲る。
「は…聖女様に跪いてもらうなんざ、光栄だな…っ」
憎まれ口をたたくヴィクターを見て、軽く嘆息する。
「ヴィクター。…俺は、お前の要求にこたえられない」
「っ……」
「でも、このままあと何年生きられるかわからないディーを放っておくのも、嫌だ」
「だからお前がっ――!」
「そこで、取引だ」
言いながら、イリッツァはランディアに右手をかざす。
「え?」
「貴様っ!何を――!」
ランディアの命を狙われたと思ったのだろうか。ヴィクターが、急に暴れ出す。
「落ち着け。何もしない。取引だって言ってるだろ。――――なぁ、俺らの国は、闇の魔法についての知識が極端に少ない。見つけ次第、そいつと口を利くのも汚らわしいと、神の名のもとに処刑されるからだ。磔刑に処されて、火あぶりにされる。知ってるだろう?」
「…それがどうした」
「逆に、お前らの国では、光魔法についての知識が少ない。違うか?」
「……?何が言いたい…?」
ヴィクターが、床に這ったまま怪訝な声を上げる。イリッツァは嘆息してつづけた。
「光魔法で何が出来るか、お前たち良く知らないだろう。――教えてやる。聖女の魔法は、闇の魔法使いのすべての魔法を封殺することが出来る。十五年前の闇の魔法使いも、ナイードの魔法使いも、封じることが出来た。だとすれば、ディーの魔法も、多分…封じられるはずだ」
「それが、どう――」
「ディーの寿命が短いのは、本来体に流れている光魔法の魔力と、後から体に入れられた闇魔法が反発して内臓に常に負荷をかけてる状態だからだろ?でも――闇魔法そのものを封じてしまえば、本来の光魔法はその影響を受けない」
「――――!」
「体の負荷は、圧倒的に減る。寿命が短くなるってことも――ない、とは言わないけれど、まぁ、縮んだとして数か月とか一年とかじゃないかと思う」
「な……」
「普通の光魔法じゃ無理だけど。――聖女の魔法って言うのは、それくらい、規格外なんだ。知らなかっただろう」
後ろ頭を掻きながら、半眼で告げる。ちらり、と視線を上げると、ヴィクターを抑え込んでいるランディアも知らなかったのだろう。驚いたように黒曜石の瞳を瞬いていた。
「ただ、当たり前だけど万能じゃない。結界と一緒だ。一回かけたら一生安泰ってわけにはいかない。時間経過で効果は消えるから、定期的にかけ直す必要がある」
聖女とは、決して神の化身などではなく、規格外に強力な光魔法使いの突然変異体、というのが正しい認識なのだろうとイリッツァは考えていた。だから、神の声など聴くことはできないし、純潔などなくてもその魔力や能力が衰えることはない。どこまでも規格外なことは確かだが――それでもあくまで、人なのだ。
「あと、俺たちは闇の魔法について良く知らないから――魔物との契約っていうのが、よくわからない。ちゃんと理解したら――もしかしたら、魔法を封殺するだけじゃなくて、契約そのものを無効にすることが、出来るかもしれない。こればっかりは、お前たちに協力してもらって、闇魔法について教えてもらう必要があるし、まぁ、何せやってみないとわからないけど」
「――――…」
「そしたら、お前たちの国で、すでに魔物と契約を交わした者たちも、元に戻すことが出来る」
イリッツァは、静かに言葉をつづける。ヴィクターは、ごくり、とつばを飲み込んだ。
「だけど、俺がそこまでしてやる義理は、正直ない。親父や俺を殺したのはお前じゃないってディーに聞いたけど――でも、お前の血族だろう。お前の兄貴たちのせいで、大迷惑だった」
「それは――謝る。俺の血族が、俺たちが、悪かった」
「うん。…まぁ、謝ってくれるなら、もう、別にいいんだけど」
許しを与えるのが聖女だ。あっさりと、イリッツァはその謝罪を受け入れた。
自分の兄たちの行いがどれほど非道なことだったかを知っているヴィクターは、驚きに目を見張る。イリッツァはそれを見て、微かに苦笑した。
「俺は、別に、それでいいんだけど。……うちの国民は、それじゃ納得してくれなさそうなんだ。――あと、後ろにいる幼馴染は、特に」
腕を組んだまま少し離れたところでじっと成り行きを見守るカルヴァンを軽く指す。
ヴィクターは、翡翠の瞳を少し伏せた。
「何をすればいい。――何でも、望みを叶えよう。それで、過去の贖罪と――ディーの延命が叶うのであれば、何でも」
まるで、神の前に首を垂れるように。
ヴィクターは、瞳を伏せて、真摯な声で宣言した。
「ははっ…うん。ありがとう。じゃあ、俺が望むのは一つだ」
イリッツァはにこり、とほほ笑むと、ちらりとランディアを見て――口を開く。
「王国に不幸と混乱をもたらした現皇帝とその一派を掃討して――お前が、皇帝になれ」




