88、久しぶりの『再会』③
(…えっと)
――怒っている。
それはもう、近年まれにみるレベルの不機嫌で、怒っている。
イリッツァは、その灰褐色の瞳から送られる棘塗れの鋭い視線に、頭の中で言い訳を考える。――これはきっと、生半可な言い訳は通用しない。
「待って、カルヴァン・タイター。リッツァは悪くない。僕が助けてって、無理に頼んだんだ。リッツァを責めないであげて」
すっとランディアが、イリッツァと、体を起こしたばかりのヴィクターを庇うようにして立ち上がる。
カルヴァンは、誰だお前は、と言わんばかりの不躾な視線をランディアに送り――ピクリ、と眉を動かした。
「――暗殺者兼誘拐実行犯の言い分を聞くとでも?」
「ははっ…そっか、君の目の前で攫ったんだったね。僕のこと、覚えてたんだ」
「当たり前だろう。仮にあれがお前個人の企みだったとしても草の根分けても探し出してた」
すっと眇められた瞳には、不機嫌と共に鋭さが宿る。ランディアは軽く肩をすくめて、イリッツァを振り返る。
「愛されてるね、リッツァ」
「……過保護な奴なんだ」
苦い顔のまま口の中で呻くイリッツァに苦笑して、ランディアはもう一度視線を戻す。目の前の騎士団長からは、むき出しの敵意が放たれていた。
「とりあえず落ち着いて。戦争は終わったんだろう」
「お前たちの総大将が負傷して撤退したからだ。ピンピンした状態で復活したと言われたら掌返す奴が出るだろう」
すぅっとカルヴァンはゆっくりと一度収めていたはずの剣を抜き放つ。窓から差し込んできた光がキラリと一つ反射した。
「外では、もう停戦について協議が始まっているんだろ?武装は解除して、全員戦う気力なんてない。帝国では、光魔法が使える奴は迫害されて日の目を見ないからね。ここに連れて来られて、薬師の手に負えないと判断された時点で、ここの連中は全員うちの総大将が死ぬと覚悟を決めた。精神的支柱が折られたも同然だ。バッキバキのメンタルで、もう一回立ち上がれる奴はほぼいないよ。――そもそも、この状態で、どうやって部下に知らせをやるのさ?うちの大将は病み上がり、僕はこの通り、内臓をこっぴどくやられてる」
ランディアは、抵抗の意思はないと示すようにゆっくりと手を広げながら、吐血した血液を見せるように言葉を紡ぐ。
「内臓をやられていることで、お前の速度が落ちる保証がない」
「うーん…困った。それを証明するのは難しいし――そもそも、ここに、君たちを置いて僕一人でどっかにいくなんて言う選択肢は、僕の中では考える間もなくゼロなんだけど、それをほぼ初対面の君に信じてもらうのも難しいね」
飄々と、血濡れの顔をぬぐいもしないままランディアはいつもの調子で言葉を紡ぐ。きゅ、とカルヴァンは剣を軽く握りなおして、扉を背に位置を直した。
「どうしたら信じてもらえる?」
「――ツィーを渡せ」
鋭い視線をそのままに、低い声でカルヴァンは端的に要求を発する。
「戦争だのなんだのはどうでもいい。続けたいなら勝手にしろ、俺は降りる。本当は、ツィーにそんな不自由を強いたどっかのくそ野郎も、人の女に手を出したそこのロリコン野郎も、全員ぶち殺したいところだが、ツィーを無傷で渡すというのなら、今なら見逃してやる」
「わぉ。寛大なことで。――ちなみに、鎖につなげっていったのもうちの総大将だよ。地下牢につないで自由を奪えって言われたのを止めたのは僕だけど」
ぴくり、とカルヴァンのこめかみが一つわななき――
「――次に会うことがあったら、その時は今度こそ絶対ぶち殺す」
地に轟くような声で呻いた言葉に、ランディアはひゅぅ、と口笛を吹いた。
「驚いた、冷静なんだね。リッツァ、君の恋人、優秀だよ」
「――…だから、恋人じゃない…」
「おい今すごく聞き捨てならない言葉が出なかったか」
今度は明確にカチンと来た声でカルヴァンが声を上げるが、イリッツァは無視した。
ランディアはもう一度だけカルヴァンを見やる。真紅の衣は、帝国では見慣れない。剣の構えは隙がなく、彼が武人として優秀なことを示していた。
会話の内容からも、ランディアが王国で間者として得ていた情報からも、彼にとって最優先事項がイリッツァであることは疑いがない。そして、その彼女を不当に扱った帝国を酷く憎んでいると推察できる。ナイードで、捕らえた闇魔法使いを尋問より先に首をはねようとしたり、王太子相手に手袋を投げつけたりと、感情で動くところがあるらしいカルヴァンに、ランディアは会話をしながらその真意を図っていた。
(相手の力量を的確に見極める力はある。一番最悪を想定して動くところは、さすがヴィーとやり合っただけはあるよね。頭の回転も速くて、いかにも軍師っぽい。感情的に動くのは事実なんだろうけど、リッツァがこっちにあるうちは冷静に話し合いが出来るみたいだ)
カルヴァンが一番脅威に感じているのは、おそらくランディアの"速さ"とそこから繰り出される暗殺技術だろう。彼自身が口にしたように、内臓を痛めているとてその速度が落ちるという保証はないし、仮に落ちたところで、それが人並み以下まで落ちるのか、彼のトップスピードと比べれば多少落ちる、という程度なのかは計りようがない。後者だった場合は、結局、何の安心材料にもならないのだ。
だからこそ、カルヴァンは本当は今にもイリッツァの下に駆け寄ってその身の安心を確保したいのだろうが、扉の前から動けずにいる。不用意に足を踏み出したとして、ランディアがその気なら、一瞬でイリッツァの首をはねられると思っているのだろう。そして、それを防ぐ術は、今のところカルヴァンにない。
(うーん、リッツァを渡すのは全然いいんだけど…その後がなぁ…)
チラリ、と視線で後ろを見る。イリッツァと――雇い主。二人とも、じっと事の成り行きを黙って見守っている。
イリッツァは、ランディアがなぜかすぐイリッツァを明け渡そうとしない様子から、何か考えがあるのだろうと察して黙ってくれているらしい。ヴィクターの方は、単純に、与えられる情報から、今の状況を整理しているのだろう。何が起きているのか全く分からず、混乱しているはずだ。
「リッツァを無事に渡したとして、その後君が感情の赴くままに僕や、にっくきうちの総大将を殺さないと証明できる?」
「なるほど。やたら勿体付けてるのはそういう理由か」
カルヴァンは軽く目を眇める。目の前の中性的な男は、暗殺者としてだけではなく、頭脳の方もなかなか優秀らしい。
「そんなことはしない――と言ったところで、初対面のお前に信じてもらうのは難しいな」
「ははっ、だろう?」
相手の言葉を引用するように嘯くカルヴァンに、軽やかに笑いながら手を広げる。
「リッツァのことを溺愛している君が、うちの大将を嫌っているのは想像がつく。実際、嫌われて当然のことを沢山しているしね。でも、こんなんでも、一応、僕たちの大事な大将なんだ。この国にとっても、今、彼を失うわけにはいかない」
「――お前、まるで自分は嫌われていないみたいな言い方しているが、俺はお前もぶち殺したいぞ」
「えっ、嘘。なんで」
「さっきから人の女を気安く呼びやがって――何様のつもりだ」
「あ、そこ?ははっ、いいだろ?――ツィー、って呼ぶのは、君に遠慮してあげたんだ。手袋を投げつけられたらたまったもんじゃない」
ニタリ、と仮面のような笑みを浮かべるランディアに、カルヴァンが不機嫌度合いのレベルを引き上げる。
その様子を見ていたイリッツァは、さすがに黙っていられなくなっておそるおそる漆黒の背中に声をかけた。
「ディー、もういいか…?」
「ん?」
「あいつは、そんなだまし討ちみたいなこと、しない。俺が保証する」
「へぇ?――でも、カルヴァン・タイターの戦い方は割と何でもありのルール無視、常識破りってよく聞くんだけど」
「それは否定しないけど――でも、たぶん、今回は」
剣術大会で、思い切り人の足を踏み抜くような男だけれど、それでも今回は。
イリッツァは、言葉にするのがなんだか酷く気恥ずかしくて、一瞬口を閉ざしたが――観念して、そっと再びそれを開いた。
「あいつ、俺が戻ってくるなら、本当に――本当に、それ以外のこと、どうでもいいって思ってると思う」
ひゅぅ、とランディアが冷やかすように口笛を吹く。かぁぁっと耳まで真っ赤になるのを自覚しながら、イリッツァはうつむいた。ひどく自意識過剰な発言に思えて、恥ずかしくてたまらない。
「どーも御馳走様。はは、リッツァ、そういう顔もかわいいね」
「っ…!」
「おいどさくさに紛れて人の女を口説くな。殺すぞ」
「っていうか、黙って聞いてればさっきからお前っ…『人の女』ってなんだ!!?」
「俺の女だろう。どこに異論がある」
「異論しかねぇ!!!!」
噛みつくように突っ込むと、カルヴァンは呆れたように嘆息した。
そして、少し何かを考えた後、ふっと剣を床に放る。ごとん、と重たい音を立てたそれは、軽く回転してカルヴァンの手の届く範囲から外れた。
「これでいいか。さっさと渡せ。――ツィーに比べたら、お前らのことなんて本当にどうでもいい」
ここで押し問答をつづける不毛さを嫌ったのか、カルヴァンは譲歩を見せた。
何があったのかはわからないが、何故だかイリッツァがランディアのことを酷く信用しているのは見て取れた。二十五年の付き合いもあれば、その程度のことはすぐにわかったし、ランディアの方からも、敵意らしい敵意は感じない。――彼が本当にその気であれば、一足飛びでカルヴァンを殺すことだって可能だろう。それをしていないということは、ランディアに敵意はないということだ。
「ありがとう。じゃぁ――」
言って、ランディアが振り返ろうとしたところで――
「悪いな、ディー。――こいつを今、渡すわけにはいかないんだ」
「「「――――――!」」」




