87、久しぶりの『再会』②
(あぁくそっ、女の身体って走りにくい…っ!)
まず、歩幅が小さい。そのうえ、鎖は断たれたとはいえ、両手両足には煩わしい重みのある鉄輪がはまったままの状態だ。足を踏み出す度にガシャガシャとやかましい音を立てるそれは、時に足やふくらはぎに絶たれた鎖の切っ先を容赦なく振るってくるので、地味な痛みが鬱陶しい。両手を振って走れるようになった分、少しは速くなった気がするが、気ばかりが急いて、どうしても男だったころの自分と比べてしまう。
「貴様っ、抜け出したのか!」
「っ、うるせーな!」
目の前から三人の軍人がざっと廊下に立ちふさがるように剣を構える。
(三人――殺さないように――)
イリッツァは難しいオーダーに眉を顰めながらぐっと剣を構え――
チリッ…
「へ――?」
「「「っ、ぎゃぁああああああ」」」
耳元で、熱が走った――と思った途端、目の前の三人が炎に包まれる。
「な――」
「死なないよう手加減はしてやった。――行くぞ」
「ぅわっ!?」
驚いて目を見開いていると、後ろから近付いてきた影が耳元で低く囁き、そのまま腰を抱くように力強い腕が回ったかと思うと、ひょいっと肩の上に荷物のように担ぎ上げられた。ぐん、と先ほどまでより数段スピードが上がる。
「ヴィー!?な、何す――」
「こっちの方が走りやすいだろ。剣も振れるし。――お姫様抱っこの方が良かったか?」
「なっ――ば、馬鹿じゃねーの!!?」
カッと頬を染めて言い返すが、カルヴァンは飄々と口を開く。
「どこに向かってたんだ。連れてってやる」
「あ、えっと、三階の、一番東の部屋に――」
「ふぅん」
カルヴァンは、特にどうということもない様子でつぶやき、視界の端に映った人影に向かって火の玉をぶつけていく。
「ちょ、おま、火事にならないようにしろよ!?せっかく外でリアムたちが――」
「はいはい」
カルヴァンにとって、国家間協議の結果など死ぬほどどうでもいい。一生懸命協議を続けている部下たちが見ている前で、この軍事拠点から火の手が上がり、帝国側から「話が違う!」と喧嘩になったとしても、カルヴァンにとってはどうでもよかった。イリッツァと二人で逃げられるなら、どうでも。
だが、それでも腕の中にいるこの少女がそれを気にするというなら、仕方がない。嘆息しながらも、イリッツァを抱えているのとは違う方の手で剣を握りなおした。次の敵は、剣で殴る方向で行くことにする。
「――それにしても」
ポツリ、とカルヴァンが思い出したようにつぶやく。
「お前だって、人のこと言えないくらい珍しい恰好してるな」
「へ?――あぁ、うん。真っ黒な服とか、もしかしたら人生で初めて着たかも」
クルサールにおいて、神を象徴する色は白だ。聖職者の装束は、基本的にどんなものも白を基調としている。イリッツァはもちろん、リツィードだった時代も、兵士の制服以外の服は白っぽい色合いのものを着ることがほとんどで、黒い色の服など一着も持っていなかった。
だが、帝国は真逆だ。黒は、国家の色。軍事拠点たるこの中に用意された服は当然、すべてが漆黒だった。イリッツァに着せられている服も、漆黒の上品なワンピースだ。最初に着ていた聖女の装束は、近衛兵の鮮血で染まっていたため着替えさせられたのだろう。捕虜にそんな配慮をするとは信じられないが、イリッツァを可愛そうな女の子だと表現したランディアを思い出す。彼ならそれくらいのことはしてくれそうだ。思えば目覚めたとき、血に染まったはずの髪も綺麗な銀髪に戻っていた。風呂にまで入れてくれた可能性すらある。さすがは元優秀なお世話係。手際がいい。
「スカートの下が裸足なのも、スース―して慣れねぇ…」
鉄輪がはまっているせいなのかは知らないが、てろん、としたワンピースの下は冬だというのに生足だ。過去の経験のせいか元々の体質なのかは知らないが、ランディアは寒いのが何より嫌いだと言って、とにかく暖炉の火を多めに焚いては部屋を常に暖かく保ってくれていたので、部屋の中で寒さを感じることはなかったが、その肌の露出には抵抗があった。そもそも肌を露出することを徹底的に制限する聖職者の装束は、女性のものは基本的にくるぶし丈まである。活発に動くことが多い修道女見習いに関してだけは、動きやすさを重視しつつ、準聖職者といった位置づけでもあるので、ひざ下からふくらはぎくらいの丈のワンピースタイプが主流だが、それでもその下にはタイツなり何なりを履いて肌を隠すのが普通だった。とりあえず、着せられた服のスカートの丈が膝の下まであって心から安堵したのを覚えている。これでもし着せられたのがミニスカートやショートパンツだったりしたら、捕虜の立場など棚上げして、別の履物を全力で要求していただろう。
「そうだな。――おかげでいい眺めだが」
「――へ――?」
言われてから一瞬発言の意図を考え――
「――――!?ちょっ、おまっ、どこ見てんだ!!?」
「脚」
いつも通りのテンションで言われて、バッと顔に火がともる。立っているときに膝の下までしかないスカートの布地は、身体を折るようにして肩に担がれているこの体勢では、間違いなく太ももあたりまで上がっているはずだ。
そして、それを――惜しげもなく、この女の敵たる親友の視界にさらしていることになる。
「ばっ、馬鹿っ!下ろせ!!!!」
「こら、暴れるな」
肩に担ぎ上げられている状態から、背筋の力だけで体を起こして急いでスカートの裾を精一杯引っ張る。毎日の鍛錬でしっかりと付けられた背筋をもってすればこの姿勢をキープすることなど造作もないはずだったが、顔が真っ赤になってしまうのは力を入れているからではないだろう。
「黒い服も似合ってるぞ。色白の肌に映えて妙に色っぽい。あと、意外とそそる脚してる。普段からもっと出せ」
「ふっ、ふざっっけんな!!!!」
「目の前にこんな色っぽい脚惜しみなく出されても触ってないんだぞ。むしろ褒めてくれ」
「んなことしたら思い切り膝蹴り入れるからな!!!?」
「…ん?一番東って、あれか?」
ギャンギャンと叫ぶイリッツァには取り合わず、カルヴァンは目当ての部屋らしきものを見つけて声を上げ、イリッツァを下ろすと――
「止まれ!!!」
後方から、声が響いた。咄嗟に振り返ると、剣を持った男が数人集まってこようとしているところだった。
「ヴィクター様の下へは行かせん!」
「ヴィクター…?」
ピクリ、とカルヴァンの眉が不愉快に動いてちらり、とイリッツァを見る。確かそれは、敵軍総大将の名前だったはずだ。――カルヴァンが腹を刺した、あの、帝国軍人。
ついでに言えば――イリッツァを第四妃にすると言って公衆の面前でキスをしたとかいう、カルヴァンの『人生で絶対に殺したい男』第一位から先日見事殿堂入りを果たした、不愉快な男。
「おい、聞いてないぞ」
「言ってないからな――ヴィー、悪い、頼んだ!」
「はぁっ!?」
ぽんっと肩を叩いて、イリッツァはひらりと身を翻し、ためらうことなく部屋の扉を開ける。後ろからは抗議の声が上がったようだったが、聞こえないふりで部屋の中へと駆け込んだ。背後で、剣を交える音がする。
飛び込んだ部屋には、大きな窓が一つと、豪華な天蓋付きのベッド。暖炉もあるが、火は灯されていない。
「ディー!」
部屋の中にすべり込むと、その中には二人の人影しか見えなかった。声をかけると、そのうちの一人、ランディアがはっと顔を上げてこちらを見る。
「――リッツァ…」
「お前っ…!」
その顔を見て、イリッツァは痛まし気に顔を歪め、急いで傍に駆け寄った。
報告に来た兵士の言葉を思い出す。
最期の別れを、と告げたのは――そういうことだろう。
なんとなくだが、イリッツァはこの部屋が――ランディアの昔話に出てきた、幼いころに初めて彼がこの軍事拠点に来た時に目覚めた部屋なのではないか、と察した。
幾度となく繰り返された、酒瓶片手に十六年前の悪夢をなぞるという儀式が行われた、この部屋で――最期にランディアの顔を見て逝きたいと、ヴィクターは、そう、願ったのではないだろうか。総大将の最期になるやもしれぬこの状況で、恐らく言われるがままにしっかりと人払いがされているところからも、ヴィクターの最期のわがままをせめてしっかりと聞いてやろうという部下たちからの厚い人望を感じさせた。
部屋の中央付近に横たえられたヴィクターは、顔からすっかり血の気を失っている。もはや意識はないようだ。軍服が黒いせいでわかり辛いが、ランディアが必死に手を当てている個所を見るに、脇腹に大きなけがを負っているらしい。
「お前っ…無理して、光魔法を――!」
ランディアの白く抜けるような肌に映える鮮血が、その口元からたくさんの筋を作っていた。高位魔法を使ったら吐血した、というランディアの言葉がイリッツァの耳の奥で蘇る。
だが、少しも拭われた跡すら見えないその血の跡は――彼が、そんなことなど気にする余裕もないことを示していた。
「血が――血が、止まら、ないんだ――」
「――!」
「魔法をかけても、かけても――血が、止まってくれない――!」
ランディアの手からは、弱弱しい光が漏れている。必死に、闇魔法の反発に耐えながらも治癒をかけ続けていることがわかった。
「嫌だ…嫌だ、ヴィー…置いてかないで…」
消え入りそうな声でつぶやいたかと思うと、ゴホッ…と大きく咳き込む。
「ディー!」
ごぼり、と血の塊がその口からこぼれても――ランディアの手元から光が失われることはなかった。
イリッツァは、一瞬迷う。一度だけ、今入って来たばかりの扉を見やり、その向こうにいるであろう幼馴染を描いて――
「っ…あぁもう、ディーも一緒に怒られろよ!?」
やけくそのように叫んで、ランディアの向かいに座り込み、彼と同じ場所に手をかざす。
こぉっ――と、ランディアの数倍の強さの光が、その手から放たれた。
「――――――!」
「ぅわ、すご、ほんっとに出力ねぇ!」
おそらく、その光は、クルサールの基準で言うならば、栄えている王国領土の教会司祭クラス。並みの光魔法使いの数倍はあるであろう光を発しながら――イリッツァは、聖女の基準からは到底考えられない弱弱しさに舌を巻いた。
「な、なんで――ヴィーは、君たちの――」
「俺だってこんな奴助けたくねーよ!いきなり嫁にするとか失礼なこと言われたり無理矢理キスされたり胸倉掴まれたり戦争終わったら殺すって脅されたり――色々されたの忘れてねぇぞ!?正直すげぇムカつくし大嫌いだよ!こいつのせいで死んだ大事な王国民がいっぱいいるしな!」
言いながら、さらに一段階光魔法の威力を強める。
「でも約束しただろ!ディーが困ってたら、助ける!」
「!!」
「っ…あーくそ、じれってぇ!――おい、俺にかけた闇魔法解け!もういいだろ!」
「ぁ――」
イリッツァはやけくそのようにランディアに叫ぶ。
「血が止まらないってことは、まだ心臓止まってないってことだ!虫の息でも――死んでさえいなけりゃ、聖女の魔法なら治せる!!!」
「――――!」
「だから――こいつを助けたいんなら、俺の魔法を解け!ディー!」
力強い言葉に、ランディアは一瞬息を飲み――
「――けて――助けて、助けて、イリッツァっ…――お願い、ヴィーを助けて!」
掌をイリッツァに向けてかざすと、イリッツァの中から黒い霧状の何かが放射状に霧散した。
「――!」
その瞬間、何かに阻害されるようだった魔力の流れが一気にスムーズになり、魔力の奔流が手を通ってかざした先へと光となって現れる。
「りょーかい!聖女の名にかけて、絶対助けてやるよ!」
ぱぁああああああああ
「っ、眩し――」
太陽を直視したかのようにまばゆい光に、思わずランディアは顔をそむけて目を閉じる。
それは確かに、神の御業と呼んで差し支えない、聖なる光。
しばらく、瞼の向こうを閃光だけが支配して――
「…よし。ほら、ディー。助かったぞ、お前の『雇い主』」
「――――!」
駆けられた声に、弾かれたように顔を上げてヴィクターを見る。
先ほどまで血の気が通っていなかったはずの肌は、少し血行が良くなっている。じっと信じられないものを見るようにその面差しを見守っていると、ピクリ、とその褐色の瞼が小さく動いた。
「――――ディー…?」
掠れた声が、漏れて、ゆっくりと翡翠の瞳が開かれる。
「っ――…!」
はらり、とランディアの瞳から一筋涙が流れ――
「イリッツァ――ありがとう!!!」
「わっ!」
ぎゅぅっと力任せに思い切り抱き付かれ、イリッツァは驚いた声を上げた。
「え、俺?普通、そっちに抱き付くんじゃね?」
「ありがとう、大好きイリッツァ、大好き」
「え、あ、うん…別に、お前がいいならいいんだけど」
ぐずっと鼻を鳴らしながら感動を全身で表され、困惑しながらぽんぽん、とその男にしては線の細い背をあやすように軽くたたく。
ランディアは――イリッツァにとっては、過去、救い切れなかった王国民の一人だ。きっと、何かの巡り合わせさえうまくいっていれば、カルヴァンのように、教会に拾われたり、そこで無二の友人を見つけたりして、王国の中での幸せを見つける道もあっただろう。だが、それは最後まで叶わず、彼もまた、教会に助けを求めることはなかった。王都で同じ時を生きたはずなのに、助けられなかった、大事な大事な王国民。不幸な想いをさせ、孤独に震えて、手を伸ばす先を見つけられなかった、哀れな民。救いを求めた隣国でも、恩人のためにと元来の甘い気質に沿わぬ暗殺者に身を窶し、今も孤独に生きている。
その彼が、今、手を伸ばす先としてイリッツァを選んでくれるなら、喜んでその手を取りたい。
「一体、何がどうなってるのか、説明してもらえねぇか…?」
目の前で熱い抱擁を交わす二人を半眼で眺め、呻くように言いながらヴィクターがゆっくりと体を起こす。
部屋で拘束されていたはずの聖女――泣く子も黙る本物の死神が、何故か抜け出して鎖も断ち切って、心から信頼しているはずのランディアと無二の親友かのような抱擁を交わしているのだから、当然だろう。
「あー、えっと…」
イリッツァは、ランディアに抱きしめられた体勢のまま、どのように説明すべきか、と言葉を選んでいると――
「それはいい。ぜひ、俺にもわかるように説明してもらいたいな、ツィー」
「――――――――――あー…えーっと…ですね…」
都合が悪くなり、思わず現実逃避したくなって聖女の口調になる。ひやりとした汗が額に滲むのがわかった。
わざわざ振り返らなくてもわかる。――顔など見なくても、声の響きひとつで、相手の言いたいことが分かる程度の、付き合いなのだから。
いつの間にか開け放たれた扉の前には、律儀にイリッツァに言われたことを守ったのか、炎を使わず剣ですべての兵士を気絶させたらしきカルヴァンが、これ以上ない程の不機嫌を隠しもせず、腕を組んでこちらをじっと見つめていた。




