86、久しぶりの『再会』①
「僕としてはさ。生活は確実に安泰そうだし、なんか口先三寸でいくらでも丸め込めそうでちょろいし、何よりプロポーズが最高に完璧だったキラキラ王子様とっていうのもまぁありかなって思うけど――リッツァが幸せになれるのは、やっぱカルヴァン・タイターとかなって思うよね」
「――――…色々突っ込みたいけど、一応聞いてやる。なんでそう思うんだ?」
ごろりと広いベッドに寝転びながらクッションを持ち込んで、年ごろの女の子の恋愛話に花を咲かせるシチュエーションを再現するかのようなそれには、もうツッコミを入れ終えたので、イリッツァは呆れながら静かに内容についてツッコミを入れることにする。
どうやら浮かれているらしいランディアは、きょとん、と目を瞬いた。
「え?――だって、リッツァが『女の子』の顔するの、カルヴァンの前だけじゃないか」
「はぁ!?」
思わず、思い切り声が裏返る。
「信徒の前で見せる『聖女』の顔も、ナイードで領民に見せてたような、『イリッツァ・オーム』の顔も…僕とヴィーの前で見せた『リツィード・ガエル』の顔も、リッツァはいろいろな顔を持ってるけどさ。――十五歳の『女の子』の顔は、カルヴァンの前でしか見せないだろ?」
「だ、だろってなんだ、だろって!そんなん、一度も、誰にも見せたことねぇわ!!!」
ボスンっと思わず手にしていたクッションをベッドに叩きつけて主張するが、ランディアはにこにこ――ニタニタと、面白そうに笑った。
「えー?嘘、無自覚?あれで?」
「あっ…あいつの前ではずっと俺は『リツィード』で――」
「いやいやいや、リツィードが、男に抱きしめられて顔真っ赤にする?むしろ青ざめない?思い出してよ、十五年前を。あの当時、カルヴァンに急に腰引き寄せられてたら、正直ドン引きじゃない?」
「っ――!」
「耳にちゅーとかされてたじゃん。真っ赤になってたじゃん」
「そっ…そそそそりゃ、そんなことされたら真っ赤にもな――」
「唇にちゅーされても顔色一つ変えずにうちの大将の唇噛み切ってたじゃん。あれが『リツィード』の正しい反応でしょ。失礼なこと言って来たドナートのことも思い切り殴ってたし。耳にちゅーとか、その場で肘鉄入れるくらいのことするでしょ、リツィードなら」
「そっ…それはっ…あ、あの場では、仕方なく――」
「へぇ?じゃあ、人の目がないところであれされても、リッツァは真っ赤になったりしないんだ?」
「ぅ――――」
痛いところを突かれて思わず黙り込む。
なんだ。なんで自分は、こんな話題に付き合わされているんだ。
現実逃避をするように頭の中で呻いて、イリッツァは視線を逃がす。視線以外、どこにも逃げ場がない。当たり前だ、拘束されて捕虜の身なのだから。わかりきっているが、にこにこと恋愛話に花を咲かせるこの処遇は、正直拷問とは別方向の理由で全力で逃げ出したい。
ヴィクターが出兵のためにこの部屋を発ってから、どれくらい経ったのか。窓ひとつないこの部屋では、時間も日付もわかりはしない。ただ、決して短くはない時間がたっていて――その間、まじめな話も、こんな馬鹿馬鹿しい話も、たくさんのことをランディアと話した。時折真面目な話が入っても、気が付くとこの手の話題に引き寄せられ、何度も似たような会話になっているのは、ランディアがあえて誘導しているとしか思えない。
「僕は、ああいうリッツァも、可愛くていいと思うけどな。せっかく女の子になったんだし、人生楽しんだら?」
「た、楽しむって…言っても…」
「聖人としての務めなんて、前世で十分すぎるほど果たしたでしょ。もっかいわざわざ聖女やる必要なくない?同じことやるの、飽きない?」
「あ、飽き――…」
そんな発想をしたことがなくて、思わず呆れて言葉を失う。
「どうせなら、前世でできなかったことした方が良くない?」
「ぅ…いやでも、もう十分ナイードで――…」
「恋愛はしてないだろ?いいじゃん、しようよ、恋愛。結婚とか出産とかも、やってみたら楽しいかもよ?」
「しゅっ――出産!?」
「え、だって先代聖女は君を生んでたんでしょ?じゃあ別に良くない?純潔じゃなくても聖女の力はなくならない、って君自身が言ってたよね?」
「っ…いや、それは――そうだけど、そうじゃなくて!」
「あ、その手前の子作りの話してる?うーん、確かにその点王子様はなー…経験あんまりなさそうだったなぁ…カルヴァンはどうなんだろ。王都でちょっと身辺探った時は、女嫌いって評判だったけど、昔は女たらしだったっていう噂もあっていまいち掴めなかったんだ。…あ、リッツァが抵抗ないなら、うちのヴィーはたぶん女の子喜ばせるのうまいよ?三人も奥さんいて子供も二人いてもうすぐもう一人――あ、でも、死神相手に勘弁してくれ、って懇願されそうだけど」
「こっちこそ勘弁してくれ!」
思わず蒼くなって懇願する。えー、とランディアは不服そうな声を上げながらもくすくすと寝そべったまま、頬杖を突くようにして楽しそうに笑う。いつも通りの、男なのか女なのか、よくわからない中性的な笑顔。
「いいじゃん。キスもそれ以上も、するならカルヴァン以外は嫌なんでしょ?じゃぁやっぱり――」
「いやだから、もうほんとにこの話題終わり!!!終わり!!!!!」
「むぐっ」
際限なくあふれてくる容赦のない話題に蓋をすべく、手元のクッションをランディアの真っ赤な口元に押し当てて物理的に黙らせる。かぁっと頬が熱くなっているのが自分でもわかった。
「ちぇー…僕としては、随分こっちの事情に振り回しちゃったから、王国に帰ってからの君の人生が、楽しいものになってほしいなってそれだけなんだけど」
「いやいやいや、そこはホント、大丈夫だから。こっちで勝手にやるから」
「うーん。でも、これ以外に楽しい話題ある?」
「いやいくらでもあるだろ!」
「…じゃあ、あれやる?うちのヴィーのがすごいぞ対決」
「何だそれは!!!!!」
もはやツッコミが追い付かない。はは、と笑うランディアは、明らかにイリッツァをからかって楽しんでいるようだった。
「残念。これは僕、結構負けない自信が――――ん?」
いつものどこまで本気なのか全く読めない表情のまま羽よりも軽い軽口を紡いでいた口が、初めてイリッツァに黙らされる以外で閉じられる。
「――ごめん、ちょっと待ってね。表が騒がしい」
すぅ――っと表情が抜け落ちるように、一転して真面目な顔になったランディアは、さっと立ち上がっていつものごとく足音も立てずに部屋の扉へと向かった。イリッツァも、慌てて立ち上がってその後を追う。じゃらっと足元の鎖が煩わしい音を立てた。
ぴたり、と扉に耳を押し付けるようにしてランディアは外の様子を探る。イリッツァはその隣で、じっと様子をうかがった。
「――人が、バタバタ走り回ってるね。何かあったかな」
「…何か…って、例えば」
「さぁ…戦が終わった――んだったら、喇叭が鳴るだろうし」
思案するように伏せられた長い黒瞳は、ひやり、とした優秀な暗殺者を思わせる冷たさをのぞかせた。
「――!イリッツァ、下がって。誰か来る」
すっと手で制すように後ろに下がるよう指示をされる。
(――――まるで、庇うみたいにするんだな)
扉が外から開けられた瞬間にイリッツァが逃げるのを警戒しての行動なのかもしれないが――まるで、扉からやってくる見知らぬ外敵の脅威から守るようにも感じられてしまうその仕草に、毒気を抜かれて呆れてしまう。今、ここでイリッツァが手のひらを返して、無防備に目の前にさらされた人体の急所の一つの後頭部にでも、思い切りこの手に付けられた鉄の輪で殴り掛かったらどうするつもりなのか。
(――いや、よけられるのか。それくらいの速さはありそうだ)
じゃら、と手元で鳴った鎖に視線を一瞬落としてから嘆息する。
イリッツァのことを、友人だと言った彼に対して、今更そんな裏切り行為をするつもりは毛頭ないが、彼が過去の話をしてくれた時の『甘い』という言葉が脳裏をよぎる。確かに、ランディアは、とんでもない実力があるとはいえ、暗殺者にしておくには甘すぎるかもしれない。
少しすると――バタンッと音を立てて、扉が開かれた。
目の前に現れたのは、ここへ来てから何度も見たことがある帝国軍の真っ黒な軍服。青ざめたその顔は、童顔といって差し支えないほど年若い軍人だった。
「どうしたんだい?何があったの」
「はっ!あ、アルク平原での戦いで、帝国軍は散り散りになって敗走!王国への降伏を申し渡すことになりました!」
「「――――――!」」
ハッと二人同時に息を飲む。
敬礼をした青年は、そのまま報告をつづける。
「ファフナー少佐が、負傷したヴィクター様を伴って先ほど到着!ほどなく到着予定の王国兵の追走兵に、この拠点を明け渡す旨を敵総大将に伝言予定!停戦講和条約締結に向けて動き出し――」
「ヴィーは!!!!」
ガッ
報告を最後まで聞くことなく、ランディアは男の胸倉をつかみ上げる。
「っ――ヴぃ、ヴィクター様は、腹部からの出血がひどく―――貴殿をお呼びするように、と――」
苦し気に息を漏らしながら、絶え絶えの声で報告を重ねる。
真っ青な顔で――最後の一言を、絞り出した。
「最期の――お見送りを、お部屋にて、御所望され――――――」
「っ――!」
ふぉんっ――と、黒い風が唸った。
「っ、ディー!」
イリッツァが慌てて追いかけようと足を踏み出すも、ガッと肩幅までしか開かない鎖がそれを邪魔する。
「チッ――おい、お前!ディーが向かった部屋ってのはどこだ!?」
「お、お前まで外に出すわけにはいかない!」
「はぁ!?もう戦争は終わったんだろ、さっさと捕虜くらい解放しろ!」
「そうはいかない!今度は、この拠点内の我々帝国軍が捕虜になる可能性がある!その身の安全が保障されるまでは、お前はここにいてもらわないと――」
「あぁもう、めんどくっせーな!!!!」
口汚く罵った後――イリッツァは、問答無用で、青年のみぞおちに全力の拳打を叩き込んだ。
「ぐっ――がっ、はっ――!?」
「こいつ、もらうぞ!」
大きく身を二つに折って床に倒れて苦悶する男の腰に刺さっていた剣を奪う。そのまま、両足の間にある鎖に剣を突き立て、一思いに断ち切った。
「ま――待て――」
「誰が待つかよ」
言いながら、イリッツァはまだ苦悶の表情を浮かべて体を折ったまま回復できない男に目を向け――ザンッとその眼前に剣を思い切り突き立てた。
「ひっ――――!」
睫が切り落とされたかと錯覚するほど近くに突き立てられた剣に、男は悲鳴すら飲み込む。
一切のためらいがないその剣は、この少女の中に情のひと欠片もないことを如実に示していた。
「もう一度だけ聞く。ディーが向かった部屋ってのはどこだ」
ひやり――と、伝説の死神を思わすような、底冷えする氷のような声が落ちてきた。
男は本能的な恐怖に震え、涙と共に失禁しながら、歯の根の合わない口を開いた。
「さ、三階の一番、東っ…ですっ…」
「そーかよ。悪かったな、お前がちびったことは黙っててやるよ」
帝国軍人としても、男としても最悪のプライドの傷つけられ方をしただろう青年に、形ばかりの慰めを口にした後、イリッツァは部屋の外へと躍り出る。
(三階――上か!)
抜き身の剣を両手で携え、走る。手にした長剣ではさすがに両手を拘束する鎖はうまく断ち切れない。だが、脚さえ自由になれば、両手の拘束などあってないようなものだった。――剣は、基本的に両手で握るのだから。
「待ってろ――!」
漆黒の風は、さすがの速さのせいで、もはや視界のどこにも影すら見当たらない。それでもイリッツァは、その陰を追うようにして、全力で駆け出した。
(催事場に連れていかれた時を思い出せ――)
唯一、部屋を出ることが出来たのはあの時だけだった。確か、途中に階段らしきものがあったことを思い出す。
「な――貴様!?なぜここに――」
「すまんちょっと黙っててくれ!」
以前見たのと相違ない永遠に続くかのような廊下の途中、角から現れた軍服に、ひゅ――と一足飛びで迫り、剣の腹で思い切り頭を殴り倒して昏倒させる。そのまま、走る勢いを殺さす、長い廊下を駆け抜け――
(人の気配――!)
再び、奥から人の気配がするのを感じ、一瞬惑う。立ち止まって撃退すべきか、駆けぬけざまに昏倒させていくべきか。
(殺さないって結構難しいんだよ、くそっ――!)
ひと息に首をはねる方が、何の労力もなくていい――アルク平原の死神は、死神らしい思考回路で本気でそんなことを考える。だが、さすがに停戦協定を結ぼうと申し出ているところで、兵士を虐殺して回ったら、帝国軍は王国を許さないだろう。それはこちらとしても本意ではない。
(あぁもう、めんどくせー!手が滑ったらごめんな!後で回復するから許せ!)
いっそ、光魔法が自由に使えるのであれば、いくらでも強力な睡眠効果で眠らせていけたのだが、忌々しい闇魔法による制限のせいで、今はあいにくその手が仕えない。イリッツァは、難しく考えることを辞めて、やけくそのように心の中で叫び、勢いを殺さず駆けぬけざまに剣を振るう方を選択した。
(相手もこっちに気づいたみたいだしな!)
人の気配が確かにあるのに、廊下に出てこない。おそらく、こちらの気配に気づいて同じくタイミングを図っているのだろう。時間が惜しいこちらとしては、ここでじりじりと腹の探り合いをするのは馬鹿馬鹿しい。相手もこちらが駆け抜けるところを狙って剣を振るってくるだろうが、こちらとしても望むところだ。全力で廊下を駆けぬけながら、タイミングを計り――
(ここだ!!)
相手を視認することすら惜しんで、必殺の剣を振り抜き――
ガインッ
「「な――――!?」」
声を上げたのは、同時。イリッツァは、薄青の目を大きく瞬いて、自分の剣を首元ギリギリで受け止めた剣豪を見る。
漆黒の帝国軍人とは思えない――真紅のその衣は、王国の騎士を表す装束。
(――え、なんで、騎士団がここに――?)
停戦協定を結ぼうと動き始めているはずの両陣営だ。聖女の受け渡しは、最大限の注意を払って行われるはずで、協定が結ばれるめども立っていない今、騎士団が実力行使で乗り込んでくるとは思えなかった。
記憶のどこかで見た気がする赤銅色の髪をした見覚えのない騎士は、驚いた顔のまま息を詰め――
「ツィー!」
「――はっっ!!!?」
絶対に、発せられるはずがない音を発して、ガッとイリッツァの身体を力任せに抱きしめた。
「はっっ!!!?えっっ!!!?ちょ――待っ、何、お前誰――」
「よかった――っ……んの、馬鹿野郎がっ…!ここ数日、生きた心地がしなかったぞ、このド阿呆!!!!」
ぎゅぅっともはやこれは抱擁というよりも鯖折りに近いのではと思うほどの体格差と力で抱きしめられながら、肩口で叫ばれた声に――はた、と聞き覚えがあって我に返る。
(――え、嘘)
そういえば、さっき、変な呼ばれ方をした。
――この世で、たった一人しか呼ばない、特殊な愛称。
「――――え――…ヴぃ、ヴィー…?」
半信半疑でつぶやくと、一瞬ピクリと相手が反応し――ぎゅっとさらに力がこもった。そのまま、さらりと銀髪を辿るようにして頭を撫でられ、耳元で熱い息を詰める音が聞こえる。
「また――助けられなかったら、って、死ぬほど焦った…っ!お前、ほんっと、反省しろ…!!!」
「え、あ、う、うん、ごめ――…って、違う、そうじゃなくて」
恐らく、強烈に親友のトラウマを刺激しまくったであろう数日間を思って反射的に謝ってから、疑問を口に出す。肩口に頭を押し付けるようにしてすっぽりと抱きしめられているせいで、イリッツァからはカルヴァンの顔は見えない。何とか頭を巡らせようとするも、それすらさせないとでも言わんばかりにがっちりと抱きしめられている。とりあえず声と話の内容から、相手が親友であることだけは確かなようだが、どうして彼がここにいるのか、まだ信じられなかった。
「な、なんでお前がここに――停戦の講和結んでるんじゃ」
「んな面倒なこと、リアムに押し付けてきたに決まってるだろう」
「はぁ!?いやいやいや、お前総大将だろ!?」
「知るか、国家間のいざこざなんぞ、俺にとっては心の底からどうでもいい。――ツィーが、助けられれば、それだけで」
肩口で呻くように告げられたそれは、カルヴァンの偽りない本心だった。
これによって、停戦協定がうまくいこうがいくまいが――極論、交渉が決裂して、再び全面戦争になったとしても、そんなことはカルヴァンにとってどうでもいい。イリッツァさえ生きて、傍にいてくれるのであれば、戦争が起きようがそれでどちらかの国家が滅びようが、関係ない。講和で聖女の受け渡しについての締結がうまく進まなかったとしても、勝手にここからこの身を抱えて逃亡すればいいだけだ。というより、講和の行く末など見届けるまでもなく、カルヴァンは勝手にイリッツァを連れ出し手元に匿うつもり満々でここまで来た。――常軌を逸した上官の世紀の無茶ぶりに、真っ青な顔をしたリアムが涙目で何やらうるさく喚いていたが、引き留めるその手を全力で振り切って。
「約束、しただろう。――一番最初に、全力で、助けに来る」
「あぁ――…ははっ…うん、確かに。ありがとな」
思わず笑いが漏れた。十五年前に助けてくれなかったことを許す代わりに、と馬車の中で交わした言葉を思い出す。なんだか随分と遠い昔のやり取りのようだった。
さらり、と大きな手が包むように銀髪を撫でた後、やっと少し腕の力が緩くなり、至近距離から顔を覗かれる。そのまま、大きな掌で顔を包むようにしたまま灰褐色の瞳が軽く伏せられ、すっと自然に距離を詰められた。
吐息が混ざるほどの距離感に――胸が高鳴るより先に、強烈な違和感を発するそこに視線が集中した。
「――――――オイ。色気皆無なやつだな」
明らかに口付けを迫っているにもかかわらず、いつものように恥ずかしがるでも目を閉じるわけでもなく、瞬きもしないでじろじろと己を眺める視線に、イラッとした声が上がる。救出劇の最終幕ともいえるこのタイミングで、捕らわれのお姫様役の当の本人たる彼女の発するそれは、凡そ甘い雰囲気とは皆無だった。王子様のごとく助けに来いと言ったのはお前だろうが、と心の中でカルヴァンは呻く。
「いや――だって」
「何だ」
「――――――何、それ」
「は?」
カルヴァンはやや不機嫌に聞き返しながらイリッツァの視線を追い――やっと、言わんとすることに思い至る。
イリッツァの視線は、最初からずっと、カルヴァンの髪――灰がかった藍色とは程遠い、赤銅色となったその頭髪に注がれていた。
「あぁ。……染めた」
「染め――――なんで」
「帝国の奴らは、『赤銅色の死神』とやらが怖くて仕方ないらしいからな」
「――――――――――」
パチパチ、とイリッツァは目を何度も瞬く。頭の中で、情報を整理した。
(えっと…つまり)
戦場での作戦遂行か何かのために――『赤銅色の死神』とやらに、似せたというのだろうか。
「っ――ぶっ…!」
「――――――オイ」
ビキっとカルヴァンの額に青筋が浮かぶ。
「っ、ごめ――だって、だって、ははっ…あはははははははは」
「お前な…!」
「に、似合わなっ――やべ、めっっっちゃ似合わねぇ!!!」
どうしても堪え切れなかったのだろう。イリッツァは盛大に噴き出し、カルヴァンを指さして腹を抱えて笑った。
「っていうか、俺、前世でもそんな目つき悪くな――は、はは、あはははははは!!」
「ぶん殴るぞお前!」
必死に助けに来た相手に対する反応とは思えない反応に、カルヴァンも怒声を飛ばす。彼も、好きでこんな髪色にしているわけではない。
「あー、やば、こんな笑ったの人生で初めてだわ…くっ…くくくく」
「もういい、好きにしろ…」
未だ笑いの衝動が収まりきらないイリッツァに、憮然として呻く。似合っていないことなど、言われずとも本人が一番よくわかっている。作戦開始前に、リアムをはじめ騎士団の部下たちにも散々笑われた。
(――まぁ、お前がそんな風に笑ってるところを見れたんだから、良しとするか)
腹を抱えて笑っている姿など――リツィードの時代から、一度たりともなかった。いつだって、吐息を漏らすような、微かな笑い方しか出来なかった男だった。彼女自身の言葉通り、恐らく文字通り『人生初』の大笑いなのだろう。
うっすらと目の縁に涙を浮かべて、おかしそうに笑いを堪える表情は――きっと、世界中を探したって、カルヴァンしか見たことがないはずだ。
イリッツァの新しい表情を見られるのは、いつだって気分がいい。それが、自分だけしか知らない特別な表情だというのなら、なおさらだ。カルヴァンは、指をさされて嗤われた不服も、その気分の良さで水に流すことにした。
「――って、そうだ!こんなことしてる場合じゃなかった!」
「こんなこと――って、お前な」
感動の再会を『こんなこと』呼ばわりされて、思わず渋面を作る。しかし、イリッツァは構うことなくカルヴァンの前に両手をかざし、じゃらっと鎖を相手の目の前に広げた。
「ヴィー、これ!これ、斬って!」
「誰だこんなことしたやつ――絶対ぶっ飛ばすから見つけたら言えよ」
これ以上なく不愉快そうに顔を歪めてから、カルヴァンは鎖に自分の剣を突き立て、一息に断ち切る。
「サンキュ!――じゃ!」
「はぁっ!!!?」
軽く片手を上げてそのまま全力で駆け出したイリッツァに、心の底から驚愕の声を上げる。
「ちょっ…待て、ツィー!出口はそっちじゃな――」
(…聞いちゃいない…)
あっという間に小さくなっていく背中に、カルヴァンは嘆息する。
薄々わかってはいたが――やはり、大人しく『助けて、ヴィー!』などと言って捕らわれのお姫様をやっているような奴ではなかった。
それでも、どんな時でも、必ず助け出すと、誓っているから。
「ったく――おい、ツィー、待て!」
じゃじゃ馬にもほどがあるお姫様の後を、カルヴァンは騎士の衣を翻して追いかけたのだった。




