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聖女転生物語  作者: 神崎右京
第六章

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85、『二度目』のアルク平原③

 記憶の中の陣幕は、その報告で蜂の巣をつついたような騒ぎになった。誰もがヴィクターのことなど振り返りもせず、己の判断で勝手に動いた。ヴィクターを信じてその言葉を待ったのは――当時、ただ一人心を許していた側近だけだった。

 だが今、目の前の光景にヴィクターは目を見張る。

「赤銅色の、死神が――――蘇ったリツィード・ガエルが、まっすぐに、ここに、向かってきます!!!!」

 転がり込んできた、生まれたての小鹿もびっくり、というくらいの震えっぷりの伝令兵も。

 陣営内の、側近たちも。

 全員が―――

 ――――――固唾をのんで、ヴィクターの言葉を、待った。

(――――あぁ――…あの時とは、違うのか)

 トラウマに取り乱し、あと少しで手放しそうだった理性の糸を、ギリギリでつないでくれたのは――何より、部下たちのその瞳だった。

 ぐっとヴィクターは拳を握る。

 惨めに、部下の命を犠牲に撤退した十六年前のあの日。

 ずっと後悔し続けたのは――――引き際を見誤ったことだった。

「全軍撤退!一度拠点まで戻って体制を立て直す!籠城戦だ!」

「「「はっ――はいっ!!!」」」

 汚い兄たちの手法にうんざりして。最も守りたかったはずの国の宝たる少年の手をこれ以上なく汚させて。不平等条約締結の諸悪の根源だと汚名を着せられ、長期謹慎を食らって、国民からの信頼も一時は確かに失ったはずだった。

 それでも――十六年、ヴィクターなりに、己の美学を貫き通した。

 決して曲げず、折れず。己を慕い、部下になると言った配下の人間を――目に見える範囲の人間のすべてを、全力で守った。精一杯、守り通した。

 その結果が――この、ひと時であったなら、それは、間違っていなかったのだろう。

 かつてこの地で散って行った英霊たちに、誇れる結果と、言えるのだろう。

 プァーーーー プァーーーー プァーーーー プァーーーー

 何度もけたたましく鳴る喇叭の長音は、撤退開始の合図。陣営内が、あわただしく動き始めた。

「伝令用の馬を何体か確保しろ!俺とドナートの二体の他は、撤退してくる将校で一番元気のあるやつに渡してやれ!ドナート、行くぞ!拠点に情報伝えて先に準備を整える!」

「はっ!!」

「拠点にはディーがいる。入口固めて侵入経路を誘導して配置しておけば、かなりの数の敵将を順番に屠ってくれるさ。――何より、中には聖女がいる。あいつらは、拠点相手に火をかけたり水攻めしたり、無茶苦茶な攻め方は絶対にできない!勝機はまだある!!」

「「はっ――はいっっ!!!」」

 ヴィクターの声に、力強い声が返って来た。頼もしい返事に一つヴィクターはうなずき、陣幕から外へ出る。伝令用に品種改良された馬に乗り込み――

「来っ――――来ます!!!」

「――――!!!」

 誰かが叫んだ言葉に、何が、とは聞き返さなかった。――そんなもの、聞かなくてもわかっている。

 何万回と、夢に見た光景がよみがえる。

 思わず振り返ると――少しでも足止めをしようと、果敢に立ち向かう部下の背が見えた。しかし、次の瞬間――その部下も、赤い飛沫をあげて、絶命していく。

 それと入れ替わるように、ぬっ――と、巨大な馬を駆る戦士が現れた。

「っ――――!!!」

 それは、あの日と同じ光景。

 たった一騎で

 たった一振りの剣のみを携えて

 瞳を爛々と輝かせ

 ――――――"赤銅色"の髪をした、死神が――――――

「敵将ヴィクター――――覚悟!!!」

 記憶よりも、少し老けたその精悍な容貌は――おそらく、彼が生きていたら、これくらいの年齢だと思わせた。

 ぞくっっ

 一瞬、全身の毛穴という毛穴から、膨大な汗が吹き出し――

「ヴィクター様っっ!!!!」

 聞き馴染んだ声に、呪縛が解ける。

 迫りくる死神から庇うように――蛇のような男が、その間に体をすべり込ませようとしていた。

 ふと、耳の奥で――『ヴィー』と己を呼ぶ声が蘇る。

『祖国と――――弟を、頼んだぞ』

(――――――――シュヴィット――)

 無二の親友の背中が、重なる。

 最期の瞬間まで、何一つ揺らぐことのなかった、漆黒の瞳が思い出され――

 考えるより先に、体が動いていた。

「どけっっっ!!」

 馬身ごと体当たりする形で、割り込んできたドナートを押しのける。

 ドナートがふらつき、位置を奪ったその目の前に――死神の剣が、迫っていた。



 ドッ――


 衝撃が体を襲う。

「ヴィクター様ぁあああああああああああああああああ!!!!!」

 蛇のような男の絶叫がその場に響き渡るのを、どこか他人事のように聞きながら、ヴィクターは衝撃を受けた脇腹を抑えた。ぐらり、と体を支えていることが出来なくなり、落馬する――と思った瞬間、横からその体を支えられる。見慣れた軍服の階級章は――ドナートのものだろう。

(あぁ――よかった)

 体を預けた先が温かいことに、ヴィクターはほっと息を吐く。

 十六年前の悪夢を――――

 ――――――側近の命を盾に生き延びる、などという悪夢を、自分は、繰り返さずに済んだのだ。

 ずっと、帝国軍人として、第五皇位継承権を持つ男として、自分を慕いついてくる部下たちに恥じぬ存在として、ただ強くあり続けたが――

 最後の最後、これだけは――一人の『ヴィクター』として、優先させた、わがままだった。

 総大将としては決して褒められぬその行いにもかかわらず――今際の際に親友が託していった約束を果たせたこの瞬間は、ヴィクターにとって、何よりも誇らしい、瞬間だった。

 ヴィクターの脇を斬りぬけていった死神が、もう一度剣を握りなおし、とどめを刺さんと突っ込んでくる。

「っ――――させるかぁあああああ!!!」

 蛇が、絶叫した。

 瞬間、周囲一帯が、信じられない熱量に包まれる。

「っ――――!」

 視界の端で、灼熱の炎を前に一瞬死神がその足を止め――その隙に、ドナートはヴィクターの身体を引き寄せて抱え上げ、全力で馬を駆った。

「ヴィクター様、ヴィクター様っ!!!しっかりしてください!!!何故――――どうして、私なんかを――!」

 真っ青な顔で、必死に傷口の脇腹を抑え込み、馬を駆る。伝令用の早馬は、しっかりと馬上の指令に応えて必死に平原を駆けて行った。

「――の…」

「ヴィクター、様…?」

「ディー、の――部屋へ――…」

 呻くように、指示を出す。ドナートは、一度腕の中の上官に視線を落とし――しっかりと、頷いた。

 ヴィクターは、傷口から流れていく血液の量を冷静に考えながら、静かに目を閉じてこれから先のことを考える。

「ドナー、ト…」

「はい、ヴィクター様」

「拠点に着いたら――降伏を、表明しろ」

「――!」

「敗北は、俺の責任だ。――相手の、力量を、見誤った…」

「そんなっ――伝説の、死神相手にっ…そんな、誰もっ…!」

「はは…なんだ、お前――意外と、可愛いところが、あるな…」

 徹底的な現実主義の堅物と言って差し支えないドナートから、まさか亡者が蘇る説を信じているかのような発言が出たことに、思わず笑いが漏れる。笑った途端、脇腹に痛みが走った。

「私はっ…自分が、不甲斐ないです――!兄の仇を前に、ヴィクター様に庇われたばかりか、背中を向けて撤退するほかなく――!」

「あぁ…安心、しろ――あれ、は…あれは、あんなのは、死神なんかじゃ、ない…」

 どうやら本気で信じているらしい部下を、口の端で笑い飛ばす。

 ドナートは、驚きに目を見開いた。

「踊らされた、だけだ――軍略、さ。だまし討ち――噂を広めるところから…こっちのトラウマを刺激して、いいように――踊ら、された。突っ込んできたあれはきっと――――総大将、カルヴァン・タイターだ」

「――――!」

 剣で体を貫かれるその瞬間、ヴィクターは相手を間近で見た。灰褐色の、王国人としては珍しいその色の瞳は――敵将の特徴として、斥候が持ち帰った資料に書いてあった。

 剣筋は、確かに似ていた。それもそのはずだ。彼もリツィードも、同じ師に師事していたはずなのだから。

「本物の――『赤銅色の死神』の恐怖は、あんなものじゃ、ない――」

 ヴィクターは、鼻で嗤うようにしてつぶやく。笑ったつもりのそれは――苦笑にしか、ならなかった。

 つい先日、軍事拠点内で相対した銀髪の少女を思い出す。

 あちらは、手枷足枷を付けて、鉄球までつけられていたというのに――その身から一瞬発せられたのは、まさに、当時の死神と遜色ないオーラだった。髪を染めて、噂を流布して、疑心暗鬼の中にトラウマを再現するように突っ込んできた敵軍総大将よりも――よっぽど、あの部屋の中で少女と相対した時の方が、肝が冷えた。

 剣で刺されておいてどの口が言う、と言われるかもしれないが――それでも、相対したからこそ、あれはリツィードではないと、ヴィクターは自信をもって言い切ることが出来た。

「あいつが本物、だったら――今頃、お前も俺も――この首は、つながってない…そういう、化け物、だ…」

 十六年前を思い出す。あの、芸術の域に達した剣は――首をはねる以外の攻撃方法を知らぬのでは、と思うくらい、将校は残らず首を刈られた。一般兵は、通常の斬撃を食らわせていたことから、恐らく、意図的なものだったのだろう。意図的に――一撃で、確実に、息の根を止めていったのだ。

 ゆえに、彼は、死神と呼ばれたのだ。

 まるで、死神がその鎌で命を刈り取るように――何の変哲もない一振りの剣で、撫でるように首を刈り取っていくその様が、あの戦場に、地獄絵図を作り出したのだ。

「だが――…王国の頭脳、は、本物だ――…俺抜きで、勝てるほど、易くない…無駄な抵抗はせず…降伏、しろ…いたずらに兵を、死なせるな…」

「ヴィクター様っ…」

「はっ…ちくしょう…もう一回――やりてぇ、なぁ……今度こそ――」

 血沸き肉躍る、雪辱戦を。

 アルクの亡霊が蘇ったのか、それともカルヴァンがそもそもの智将だったのか。ヴィクターに判断する術はなかったが――それは今は、どうでもいい。

 ただ、あの相手ならば――何の遠慮もなく、最高に楽しい戦が出来る。そんな予感があった。

(生きて――生きて、生き抜いて、か…)

 なくなっていく血液の感覚は、あまり良好とはいえない。

 ヴィクターは静かに目を閉じて――シュヴィットと交わした約束を、脳裏にぼんやりと描いた。

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