84、『二度目』のアルク平原②
「で?お前、思いついたのか?」
「何が」
「何か最近、よくチェス盤に向かって色々考えてたじゃん。こないだのアルクの総大将が、俺がいること想定して攻めて来て――仮に、俺がいなかったとしても勝てる、攻略法」
「あぁ。あれか。そうだな。一応、考えたぞ。うまくいくかは時の運もあるが」
四つある二段ベットの、北側にある上段から、身を乗り出すようにしている幼馴染を振り仰ぐ。ぱぁっと女顔の中にある薄青の瞳が輝いた。
「お、聞きたい聞きたい!」
慈愛の塊だと自称しながら、戦の話に心を躍らせる矛盾を呈す幼馴染に、気づかれないように苦笑する。来年十五になろうという少年は、こうしているととても敵国を恐怖のどん底に叩き落とした『死神』とは思えなかった。
「まず、この作戦に重要になってくるのは、事前準備だ。開戦前に、どこまでお膳立て出来るかで、勝率がほぼ決まる。これがうまくいかなければ、こちらの負けはほぼ確定と思っていい」
「えぇー…何だよそれ、諦めんなよ」
「――そうなったら、お前が戦場に出てこればいい。そしたら、俺はお前を使ってどんな劣勢からでも巻き返す。これは、お前が何かの事情で戦場に遅れたり、出られなかったりした時の、一回限りの打開策だからな」
左耳を掻いてから、カルヴァンは手元に使い込まれたチェス盤を引き寄せる。手の中で駒をくるくると弄びながら、ゆっくりと口を開いた。
「まず、最初に――――」
コンコン、と控えめなノック音が響いて、沈んでいた思考の海からふっと意識が浮上する。視線を扉へと向かわせると同時に、ギィ、と小さな音を立てて、その扉が開き、蜂蜜色の短髪が覗いた。
「お疲れ様で――わっ、何ですか!暗っ!明かりもつけないで何してんですか団長!」
「あぁ…考え事をしていた。もう夜か」
先ほど外を見た時は、日が陰り始めてはいるがまだ燭台に明かりを灯すには早い、という時間帯だったはずだが、今ゆっくりと部屋を見渡すと、室内はすでにとっぷりと常闇に沈んでいた。
集中すると、時々こうなる。カルヴァンは、小さく嘆息してから、軽く意識を集中する。次の瞬間には、ボッと小さな音を立てて、部屋にあるすべての燭台に明かりが一斉にともった。何年も過ごした己の執務室は、暗闇の中でも正確にその燭台の位置を把握している。
「いやぁ…改めて、便利ですよね、火属性って。風なんて、日常生活でほとんど役に立たないからなぁ…」
「退役後は風車小屋にでも再就職するか?」
「いやいや、せめて斥候か伝令兵にでもしてくださいよ、そこは。風に乗って音を飛ばしたり、追い風作って移動速度速めるくらいしか役に立たないんだから」
「俺たちが放った火も効率的に広げられる。戦場での活躍は十分だ」
「…日常生活では風車で効率よく動力得るくらいしか役目ないですけどね」
とほほ、という声が聞こえてきそうな表情で、リアムはつぶやく。何気に、彼にとってのコンプレックスなのかもしれない。
「で、何か用か」
「あぁ、はい。帝国に潜りこませている斥候からの情報が上がって来たので、出兵前に最後のご報告をと思って」
「わかった、聞こう」
くるりと椅子を回転させて、リアムに身体ごと向き直る。リアムは、カルヴァンの机の前までやって来ると、手元の書簡に目を落とした。
「団長に指示されたように、一般兵士を中心に件の『噂話』を拡散完了。誰一人信じている者はないが、誰もが『一度は聞いたことがある』という状態には出来ているようです」
「あぁ」
「主だった将校に関しては、指示通り、出兵前日に耳に入れていくとのこと。総大将の耳に入れるのは、出兵当日か、出兵した後。敵の軍事拠点の場所とここの距離を考えれば、この書簡を書いている時点ではまだ将校に告げてはいないでしょうが、優秀な斥候ばかりを潜らせているので、そこは問題ないかと。暗殺などを画策させているわけでもないので」
「わかった。引き続き、指示通りに動けと伝えておけ」
「はい。あとは、敵の主だった将校の一覧表と、各部隊の兵力状況の最新版です。あと、こちらは、敵の軍事拠点の簡易見取り図。さすがにこの短期間ですので、まだ全貌までは探り切れていないようですが、聖女様が捕らわれていると思しき部屋は、前回よりも候補が絞られています。それぞれ、御目通しいただけると」
「あぁ。助かる」
ひらり、と渡された紙を受け取り、ざっと目を通す。敵の一覧表を見て――カルヴァンは、机の上に広げていたチェス盤を引き寄せ、すっといくつかの駒を移動させる。
「――まぁ、こんなものか」
「うわぁ…いつみても、何を考えてどうなってそうなるのか、凡人には全く理解が出来ません…」
何やらリアムが呻くようにして失礼なことを言ってくるのを聞きながら、カルヴァンは左耳を掻く。
それは、敵軍の布陣予測。因縁の地アルク平原で陣を構えた時に、どういう布陣で敵が臨んでくるのか、カルヴァンはリアムの報告を聞くたびに手元の駒を動かして考えていた。そして、たいていその後の報告で、斥候が持ち帰ってくる敵布陣図は、恐ろしいくらいにカルヴァンの動かした手駒と同じ形をしているのだ。
三年間、みっちりと一緒に仕事をしてきたリアムは、カルヴァンの頭脳の非凡さをよく知っていたつもりだったが――魔物相手の討伐戦では、その才を十二分に発揮していなかったことを悟る。
彼のこの才能は、間違いなく、対人間の戦争で、如何なく発揮されていた。リアムが今まで見てきたカルヴァンの非凡さなど、彼の真の実力のほんの一面でしかない。
「団長が、王国にいてくださって、本当によかったと今回従軍する全員が心から思っていますよ…」
「そう思うなら、ツィーに感謝しろ。あいつがこの国に執着してなければ、俺はさっさとこんな生き辛い国、出ていくつもりだった。具体的には、王都に着く前あたりで」
「う゛っ…ありがとうございますイリッツァさん、ありがとうございます神様!!!」
一つ蒼い顔で呻いた後、大真面目に聖印を切って、神への感謝をささげる。ナイードを発つ前から、何度も王都に着く前にイリッツァを連れて逃亡する協力を迫られていたリアムは、その言葉が冗談でも何でもないことを知っていたからだ。
「現時点では、敵が考えている布陣はこんな形だろうが――当日は、たぶん、大きく変わるだろうな」
「えっ!?」
どうということもなく、当たり前のように言われた言葉に、リアムは思わず目を見張って聞き返す。カルヴァンは、もう一度リアムに渡された紙を見ながら、言葉をつづけた。
「今回、敵将の名前の中で一番気になるのは二人。姓が同じ奴らがいるだろう」
「あぁ――ディスキン少佐と中佐」
帝国の名前は発音がしづらい、とぼやきながらリアムがつぶやく。カルヴァンは一つうなずいて、中央に布陣させた駒を二つ、おもむろに引き抜いた。
「姓が同じってことは、たぶん親族なんだろう。親子か、兄弟か、従兄弟か――少佐と中佐ってことは、親子の線はなさそうだが。まぁ、わざわざ二人セットで招集されているわけだ。それも、佐官ってことは、それなりに有能なのか、歴が長いのかのどちらかだろう」
「確かに」
「軍の高官ってことは、軍国主義の帝国の中ではかなりのエリートのはずだ。ディスキン一族の中では有望株だろう。どちらかが一門の代表者の可能性は高い。おそらく中佐の方だろうが」
「まぁそうでしょうね」
「中佐と少佐。どちらも高官だ。おそらく一族の中では、どちらかが代表者で――もう一人も、かなり重要な位置づけのはずだ。次の跡目なり、分家の代表なり、何かだろう。そうすると――そんな一族の存続に重要な二人を、同時に出兵させるリスクを犯す理由はなんだ?」
「え――…」
「万が一二人とも戦死したら、一族にとってはとんでもない痛手だ。佐官までのし上がった、王国との全面対決で徴用されるほどの有力株だぞ。一緒に失うことは避けたいはずだ。それでも、登用された。――たぶん、そのリスク以上に、戦の中で重要な働きを期待されているからだ」
「…えっと……つまり…?」
「少佐と中佐――しかも、見ろ。年齢も、そこまで離れちゃいない。となれば、恐らく、ほとんど一緒に武勲を立ててきたはずと仮定する。つまり――こいつらは、二人でセットで同じ戦場に立たされ、その連携を買われた戦略実行で実績を上げてきた武将だと予想されるわけだ」
「!」
「普通に考えるなら、一番激戦になる場所に置きたいだろう。今回で言うなら、中央だ。どちらかの現場で予期せぬ事態があっても、上の指示を待たずに互いで連携を取って対処に当たることが出来る。何度も一緒に戦場を駆けてきたなら、隣同士に配置しておけば、助け合いも生まれて士気も高まりやすい。総大将は、それを見込んでこの二人を作戦に加えたはずだ」
「な、なるほど――…」
リアムが感心しながら頷き――はた、と気づく。
「え、でも、変えちゃうんですか?配置。中央から」
「――噂が広まって、良いように作用すれば、な」
苦い顔で呻くように言って、カルヴァンは手の中の駒を長い指でくるくると弄ぶようにしながら、灰褐色の瞳を少し伏せて一点を見つめる。
「――幸か不幸か、昔、遊び半分で考えていた。もし、もう一度あのアルクの総大将と戦う羽目になったら――リツィードがいる、と思って周到に仕掛けてくる布陣はどんなものだろう、と」
「え…?」
「そのうえで、もしこっちにリツィードがいなかった場合、どう戦うか――そんなことを、考えていた。まさか、実用するときが来るとは思わなかったが」
「えぇぇ…」
「だが、さすがに記憶が十六年も昔だ。思い出すのに苦労する」
左耳を掻きながら、カルヴァンは手の中の駒をくるりと一つ回転させ――ぽん、と記憶をたどりながら再現していく。ディスキンに見立てた手の中の二つの駒を、一つずつ左右に振り分けた。
「出兵当日、予想以上に噂が広まっていることに気づいた総大将が――もし、十六年前の恐怖にビビって、対応策を考えるなら。――間違いなく、両翼からの同時攻撃に賭けるはずだ。タイミングを計って同時に仕掛ける重要な作戦は、実績もある高官たちに任せたくなるだろう」
嘆息して、キングの駒をコツコツ、と叩く。
「おそらく、相手はきっと、ここまでやってもビビってる。万全の攻めで、一気呵成に責めたいはずだ。陣営内まで攻め込まれて逃げたときの『死神』の恐怖は、何よりも強烈に染みついているはずだからな。例えば――そうだな、尉官クラスの人間を、佐官の後ろにそれぞれつかせて、追撃を食らわせる、くらいのことは状況によっては考えるかもな。何があっても確実に『死神』を仕留めるために」
「そ――そんなに、ですか」
「お前は当時いくつだった?まだ兵団にも入っていなかっただろうから知らないかもしれないが――あの日、あの戦場に立ってたやつは、全員あの恐怖を知っている。敵も味方も――漏れなく『全員』を、恐怖に叩き落としたんだ。俺も、あれは、敵国に同情したくなるくらいだった。俺が敵国の軍師だったとしても、何一つ打つ手なんかなかっただろう。あんな兵を投入するなんて卑怯だと罵られても文句は言えない」
カルヴァンは、心底相手に同情するように渋面を作って呻く。
あの日のリツィードは、敵国を恐怖のどん底に陥れながら――味方すら「この男がもし敵に回ったら」と考えて肝を冷やすほどの働きをした。おかげで、あれから周りのリツィードへの扱いが、やや遠巻きになったのを覚えている。
「今回の闇の魔法使いを使った一連の事件の裏にいたのが帝国なら――十五年前、リツィードをはめたのも、あいつらだろう。そう考えれば、何であの時、一兵士としか思われていなかったはずのリツィードが狙われたのかわかる。帝国からしてみれば、リツィードと戦場で相対するなど二度とごめんだと思っていただろう。ただ、王国と武力衝突に持ち込めば、百パーセントあいつが出てくる。だから停戦協定を大人しく結んだし、不平等な条約にもその恐怖を思えば頷かざるを得なかった。――帝国の連中からすれば、戦場以外のどっかでリツィードを殺しておきたかったはずだ。暗殺者でも送り込みたかっただろうが、リツィードの剣の腕を考えれば、下手な暗殺者は返り討ちだ。確実じゃない。ゆえに、あんな方法を取ったんだろう」
「――…な…なる、ほど…」
「おそらく、師匠を殺したのも帝国だろうな」
「えっ!?バルド・ガエル騎士団長ですか?でも、あれは魔物に襲われたって――」
「ずっと、国民の誰もが思ってたことだろう。なんで師匠が、魔物ごときにやられるんだ、って。――たぶん、あらましは、俺たちが経験したナイードと同じだ。闇の魔法使いに操られた部下に、後ろから刺されたとかだろう。そこに、契約した魔物を集結させられた。遺体には魔物による傷しかなかったと言われているが――たぶん、剣で斬られたところは食い破られたんだろうな。血が出てるから、魔物は集中的にそこを狙うだろう。――俺の時もそうだった」
「ぅ――…ちょっと、思い出すんでやめてもらっていいですか」
片手をあげてリアムが口を抑えて蒼い顔で呻く。臓物がはみ出ていたあの絶望的な光景は、彼にとってなかなかにトラウマを刺激するものらしい。
「新兵だけが生き残って戻って来た、っていうのもおかしい。たぶん、今回の事件を鑑みるに――その新兵は、闇の魔法使い張本人だったか、闇の魔法をかけられて操られていたかのどちらかだろう。周囲に魔法をかけて成りすますことが出来るのは、今回の老婆なりきり事件でよくわかったことだし、単純に操られていたなら、証言は敵国によって都合のいい情報しか語られなかったはずだ」
「――――…」
「アルク平原の時に軍師を務めていたのは、当時の師匠の補佐官だった。帯同していたはずだ。帝国は歓喜しただろうな。アルクの英雄も、軍師も、一緒に始末できたと。そして、死神も、策略によって始末できた。――今、敵は、長年人間相手の戦争経験のない丸裸の王国軍を前に、相当油断しているだろうな」
カルヴァンは少し考えて、盤上に目を落とす。
「当時の俺は、名もなき一兵士だ。しかも、正式な布陣表では、当たり前だが戦場に立っていたことになっている。それを――開戦当日の朝、急に陣幕に呼ばれて、お前の持ち場はここだ、と師匠に言われたんだ。誰も、正式には、俺があの日の軍略にかかわっていたことを知る由はない。――それだけが、今回、敵の意表を突く最大の武器だろう」
「もしかして――だから、俺が、軍師を拝命したんですか!?」
「あぁ。今頃、敵の斥候がお前の経歴を調べ上げているだろうな。性格的にも、経歴的にも、相手はお前の戦略を、教科書通りの面白みのない戦略だと侮るはずだ。こちらも、最初はその誤解を招くような布陣を敷く」
ぽん、ぽん、と自軍側の駒をいくつか動かしていく。
「こっちは、一度戦ってる相手だからな。相手の思考の癖もなんとなくわかっているし、同じ戦場を共有した身だ。相手があの戦いを経て、どういうことをされたらどんな心理状態に陥るか、なんとなく予想が出来る。相手も、俺がアルクの時の実質的な軍師だったと知って戦いに臨むなら、同じだろう。そうなると今回の戦いは策謀に策謀を重ねただまし合いも卑怯な手も何でもありの、酷く面倒な戦になるだろうが――そんなものに付き合ってる暇はない。さっさとツィーを救出することにしか俺は興味がないからな。最大限、今の状況は利用させてもらう」
手にした駒をくるくると手の中で弄ぶようにしながら、カルヴァンはさらりと言ってのける。灰褐色の瞳が少し伏せられて、じっと盤上を見つめた。
「あの、団長の作戦――すごく、見事だと思います。正直、今の王国が持ってる戦力で、この兵の練度で、あの軍国主義国家を突破しようと思ったら、これくらいの奇策がないと――と思ってるのは確かなんですが」
「?…なんだ」
「その――でも、実際には、いないじゃないですか。『死神』は、うちの軍に」
リアムが、恐る恐る、といった様子で口を開く。
カルヴァンが立てた戦略は見事だった。民兵は従軍経験がある退役者や腕に覚えがある者以外は魔法使いを中心に募兵をかけて、敵をかく乱する策略やトラップ要因として使う。心理的ハードルもクリアしながら、的確に相手の嫌なところをつく奇策だ。この作戦を知っているのは、リアムとカルヴァンしかいない。文書などのやりとりにも一切残していない。斥候が事前に情報を得ることは不可能なはずだった。出兵してから初めて、現場の兵士たちに今回の作戦は通達される予定だからだ。
相手のトラウマを逆に利用する――それが、カルヴァンの立てた策の根幹だった。
十六年前を彷彿とさせる濃霧を発生させて動揺を誘い、初手の突撃で有効打を叩き込む。一瞬遅れて、我に返った軍師は――おそらく、アルクのやり直しだ、とばかりに、当時の反省を生かした両翼からの同時攻撃を仕掛けるだろう。リツィードを封じるには、片翼を犠牲にしてもう片翼でけりをつける。それくらいの犠牲無しでは叶わないと、そう正しく分析するはずだ。カルヴァンが軍師でも同じことを考える。
ゆえに、主力が分散したところにトラップを仕掛けておいて、勇将――カルヴァンの見立てでは、ディスキン少佐と中佐――を無力化し、民兵の弓も合わせて後ろの尉官を撃退。そもそも壁としては脆い中央を、精鋭兵で堂々と突破していく――という、なんとも敵のトラウマ大刺激の嫌らしい戦略だった。彼の性格の悪さが垣間見えるようだ、とはさすがに命が惜しいので、賢い補佐官は心で思うだけで口には出さなかったが。
「死人を生き返らせる、なんていうとんでも話を信じる人、いませんし…いや、イリッツァさんはこないだ生き返らせてましたけど…でも、普通、信じませんよ。報告でも、そう上がって来てました」
「そりゃそうだろう。噂も、信じ込ませることが目的じゃないから、馬鹿話与太話として広めろと伝えたはずだが?」
「それなんですよ。今回、両翼に主力を布陣するのって、そもそも総大将が今回の噂を信じることが前提でしょう?逆に『馬鹿なことを信じるな!俺についてこい!』とかいって士気を上げるのに使われちゃったりしないかって――」
「それは大丈夫だろう。たぶん、軍の誰も信じないだろうが――きっと、総大将だけが、本気でその噂を信じる」
「え――?」
カルヴァンは、ニタリ、と片頬を歪めて笑った。
「信じざるを得ない人間を、手元に置いて侍らせてるわけだからな」
「は――?」
カルヴァンは、読んでいた。第四妃にするなどといって公の場に伴うほど侍らせている以上――イリッツァと言葉を交わす機会は、何度もあるはずだ。イリッツァは、残念ながら大人しく可憐に涙を流して助けを待つような可愛い性格をしていない。剣の一振りを何とか手に入れられたらさっさと敵拠点をその剣一本で占拠して、堂々と正面玄関から逃げ出すような豪胆さを兼ね備えている人間だ。おそらく、虎視眈々と逃亡の機会を狙っているはずだし、何より彼女が深く愛している王国民が投入される戦で、彼らが犠牲になるのを少しでも防ぎたいと画策するはずだった。
となれば、彼女は拘束された状態でも出来ることを必死に探すだろう。情報戦の重要性を、カルヴァンもバルドも、リツィードに嫌というほど説いてきた過去がある。彼女は、少しでも多くの情報を集めようと画策し――おそらくどこかで、今回の戦の総大将がヴィクターだと知って――それがアルク平原のときの総大将と同一人物であると知る機会があるはずだ。
そうすれば、きっと、自分の価値を最大限に生かして、相手を恐怖のどん底に叩き落とすくらいのことはしてくれるだろう、とカルヴァンは踏んでいた。
自国民はともかく、敵国にリツィード・ガエルが生きていることを知られて困ることはない。――いや、むしろ、生きていると思われた方が、帝国は進軍で二の足を踏むはずだ。
二十五年も付き合えば、相手がどんな時にどんなことを考え、どんな行動を起こすか――いちいち確認などしなくても、容易に想像がついていた。それは――お互いの間にある『絶対の信頼』とも言える。
「まぁ、そこはある種博打と言えば博打だが――おそらく、高確率で、総大将は信じる」
「は、はぁ…まぁ、団長がそういうなら、信じますけど」
やや釈然としない面持ちながらも、リアムは一度うなずく。
「でも、じゃあ総大将が信じても、部下は信じてないのは変わらないじゃないですか。確かに、そんな訳の分からない妄言を信じる総大将ってのは、いささか部下からの信頼を失う可能性もありますが――でも、軍国主義のあのお国柄で、そんな個人的感情が、結束力にそこまで影響を与えるとも思えません。こちらが奇策を用いて出ばなをくじいて、敵の主力をやっつけたとしても、それでも残っている兵の練度と兵力差を覆すほどには――」
「当日、戦場のど真ん中で信じさせればいいだろう」
「へ…?」
「本当に本人がいるかどうかは関係ない。リツィードに似た人間が戦場に現れた――となれば、あとは情報戦だ。それを本物だと声高に全員が――霧の中で、こちらの軍勢の兵が声高に叫べば、それは真実になる」
「ぇ――――」
「だから、全員に『噂』を耳にさせたんだ。あえて、それを『リツィード』だなんて明言しなかったからこそ、兵士たちは面白おかしく大勢に吹聴したんだろうし――全員が、『王国には死者を蘇らせる法がある』という馬鹿話を、馬鹿話として、認識している。頭の片隅にそんな情報があり、総大将だけは何故だか本気で信じているかのような不穏な空気の中――当日、混乱を極めた濃霧の、本陣からの指令も届かない中――本当に伝説の『赤銅色の死神』が現れたという報が駆け巡り、伝説と同じような単騎で突っ込んできたリツィードを思わせる外見の猛将に、次々と味方がやられていったら、どうなるだろうな?」
くっ…と喉の奥で笑いを漏らして、カルヴァンはチェス盤の上から、一つ駒を抜き取る。
「え、でも、その、死神役は誰が――」
「いるだろう。適役が、一人」
カルヴァンは、ニヤリと笑い――――自軍のキングを、手にした。
「あの日のあいつの剣を、一番リアルに再現できるのは――俺だけだ」
(だからって、だからって――だからって、こんな無茶苦茶な奇策、ありますか!!!?)
リアムは今日何度目になるかわからない冷や汗を流しながら、必死に各所に伝令を飛ばし、己の風を使って時には直接指示を飛ばす。
「そろそろ、両翼が落とし穴に到達する!確実に相手将校の息の根を止めてください!その後、すぐに後ろに控えているだろう尉官の軍団に矢の雨を降らせるのも忘れずに!!」
まさかの――まさかの、総大将が、中央軍の最先端に布陣して突っ込むなど――そんな、馬鹿な戦略、聞いたことがない。
つまり、今、この本陣に総大将はいないのだ。万に一つ、敵が落とし穴を突破するような何かが起きた時――それでも、ここに突っ込んで来られても、総大将はいない。もぬけの殻だ。そこまで読んでの、策なのだろう。
リアムは、そのもぬけの殻の陣営にとどまり、カルヴァンの立てた戦略を遂行する時期を見極める役割を担っていた。カルヴァン本人は、最前線にいるのだ。当然、全体を俯瞰して指示を出すのは、他の――軍師の、役目だろう。
(だからって――!)
「あぁもうっ!!!ほんっと、総大将の自覚持ってくださいって、いつもいつもいつもいつも言ってるでしょーがぁああああ!!!!!」
涙目になりながら、リアムは三年間で何千回と繰り返した小言を、三年間で一番大きな声で叫ぶ。
そして――ギッと瞳に力を入れて、やけくそのように叫ぶ。
総大将から託された、最後の指示を。
「全軍総力を以って中央突撃!『死神が出た』と叫びながら、目の前の敵兵をとにかく一人でも多く叩き斬れ!!!!」




