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聖女転生物語  作者: 神崎右京
第六章

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82、不穏な『噂』

 戦支度を整えていく慌ただしい動きの中を、ヴィクターは自ら兵の間を歩いて兵の状態を己の目で確かめていく。

「ヴィクター様。…何も、総大将自ら、そこまでなさらなくても」

「いや、戦では、どんな不測の事態が起きるかわからん。摘める不安の種があるなら、先に摘んでおきたいだけだ。…昔は、シュヴィットと一緒にこうして歩いたもんだ。お前も文句言わず付き合え、ドナート」

「はっ…お供いたします」

 二人きりになると遠慮なく拳骨をお見舞いしてきたような兄とは違い、ドナートはいついかなる時もヴィクターに対して最上位の敬意を表明する姿勢を崩さない。堅苦しさに息が詰まりそうになるが、弟を頼むと言った唯一の親友の言葉を思い出し、苦い気持ちを飲み込んだ。

 カチャカチャと鎧を着こんでいる者、武器の点検をしている者、愛馬に鞍を付けている者――色々いる中を、悠然と歩きながら見ていく。気づいた兵士たちはすぐに身を正して敬礼しようとするが、手で制しながら様子を確認していた。

(特に不備は――――ん…?)

 問題なく出立できそうだ、と思っていると、通り過ぎた兵士の軍団が、こそこそと何かを話している声が聞こえた。その一団は、すでに準備が終わっていたようだったから、雑談の類だろう。それを咎めるほど狭量ではない。戦場での命のやり取り真っ最中ならいざ知らず、ここは出立前の最後の安全地帯だ。出立の喇叭が鳴ったわけでもないこの束の間の時間に、無駄口を叩くくらい許してやる。ヴィクターが通り過ぎた後で、緊張が緩んだということもあるだろう。

「なぁ、お前聞いたか?王国のとんでもない噂」

(――噂…?)

 特に気にも留めず立ち去ろうとして――耳にした言葉に、思わず足を止めた。

 振り返ることなく、耳だけをそばだてる。

「あぁ、聞いた聞いた。いや、お前まさか信じてんのか?くっだらねぇ…」

「ま、まさか。でも、結構皆知ってるみたいだし――」

「面白がって聞いた奴が怪談みたいに広めてるだけだろ。馬鹿馬鹿しい」

 そして、続く言葉にヴィクターは耳を疑った。

「死者を蘇らせる方法があるなんて――いくらあいつらが、神様なんていう訳の分からんものを信じてるお国柄でも、さすがに眉唾すぎるだろ」

「――――――!」

「創作物語の中で出てくるネクロマンシーとかゾンビとかも、怪しい呪術とか闇魔法の効果とかで描かれるんだぜ?光魔法至上主義のあのクルサールが、そんな技をよしとするわけが――」

「いやでも、エルム教の聖典の中では、エルムは死者を蘇らせたっていう記述があるらしいぜ!あの国が言うところの神の御業――つまり、光魔法の粋を集めた技なんだとしたら、そんなのを実現できるのは世界で一番光魔法の研究が進んでいるクルサールだけ――ぅわ!!!?」

 青い顔で喚いていた兵士が、中途半端に言葉を途切れさせたのは――大股で近寄って来たヴィクターに胸倉をつかまれたせいだった。

「貴様――所属と階級を名乗れ!」

「ひっ――ヴぃ、ヴィクター、様…!?」

 押し殺した地からとどろくような低い声に、兵士は真っ青になって震えだす。

「死者が蘇るだと――!?」

「す、すすすすすみませんっ…!へ、兵士の間で、面白おかしく語られている噂話で――」

「兵の士気を下げるような真似をするとは、貴様、敵国の間者か!!?」

「ひ、ひぃっっ!めめめめっそうもありません!!!!無駄口をたたいて申し訳ございませんでしたぁっ!!!」

 視線だけで人を殺せるのでは、と思うほどすさまじい怒気を発するヴィクターに、兵士は全力で懇願するように謝罪する。

「そのような妄言、二度といたずらに口に出すな。――総大将の厳命だ。いいな…!」

「は、はいっっ!!!!」

 やっとのことで掴まれていた胸倉を解放され、慌てて敬礼を取ってこれ以上ない声で返事をする。

(――しくった、か…?)

 ヴィクターは、立ち去りながら周囲の兵の様子を観察する。ヒソヒソと押し殺した声で会話する様子が聞こえた。

「こ、怖ぇ…さすがヴィクター様…」「馬鹿、お前も叱られるぞっ」「あれはあの兵士が馬鹿だろ、俺たちのただの暇潰しの噂話を、ヴィクター様に聞こえるようなところで――」「いやでも、あんなに強く叱ることか?まだ喇叭も鳴ってないのに――」「第一、総大将の厳命って――」「そんな深刻にとらえるようなことでも――」

 胸倉をつかみ上げた兵士は、まだ年若く、どう見ても新兵だった。軍服に着られているかのような年若い彼を、厳しく叱責したヴィクターの様子は、周囲に良くない印象を与えたようだった。しかも、新兵ゆえに、まさかヴィクターに直接声を掛けられるとは――叱責されるとは思ってもなかったのだろう。必死に無実を証明するように裏返った声で、震えながら返事を張り上げていたせいで、ヴィクターとのやり取りは不必要に注目を集める羽目になってしまった。

「ヴィクター様」

「いい。わかっている。――馬鹿馬鹿しい噂で、士気がくじかれるのが嫌だっただけだ。総大将は、多少恐れられてるくらいが、気が引き締まっていいだろう」

 ドナートの控えめな声に、自分自身に言い含めるようにして答えながら、指揮車の方に向かう。

「――ドナート」

「はっ!」

「兵の間で流布しているとかいうさっきの噂――お前も、耳にしたことがあるか?」

「―――…私が聞いたのは、昨日の夕方でした」

「……そうか」

 立場上、ドナートは兄の後を引き継ぐ形で、名門ファフナー家の現跡取り息子という立場もあり、ヴィクターの側近を務めていた。そんな地位にある者の耳にすら入っているということは――

(ほぼ全ての兵が、噂を一度は耳にしていると思った方がいいな…)

 頭痛を覚えるような事実に、ヴィクターはこめかみを無意識に指で押さえる。

 蘇るのは、青みがかった銀髪の、十五歳の少女。

(あいつが、流布した――?いや、まさか。ディーの監視を逃れることなんか出来るわけがない。ディーが、俺を裏切るはずもない…)

 一番あり得るのは、ヴィクターたちの部屋でのやり取りを、通りがかった誰かが断片的に聞いてしまった、という場合。そして次にありうるのは――王国に別ルートで潜入させている兄たちの斥候たちが、そうした事実を持ち帰って来ていて、それがどこからか漏れたという場合。

(くそっ…厄介なことになった。犯人探しをして不穏な空気を払拭する時間はもうない)

 じきに出兵の喇叭が鳴る。今更ごたごたなどできないだろう。

 仮に後者の場合は、斥候の話をゆっくりと聞きたいが、帝都へと向かう途中だろう兄たちの手駒たる彼らを捕まえる労力も口を割らせる時間も、出兵間際の今となっては存在しない。

「ドナート。戦略を練り直す。一番最近に斥候が持ち帰った敵の布陣をもう一度見せろ」

「はっ!」

 懐からさっと一枚の紙を差し出し、ヴィクターへと渡す。ヴィクターは指揮車の上で胡坐をかきながら、敵軍の布陣に鋭く目を光らせた。

(敵国が、リツィード・ガエルを持っていたら、どうする…?どこに配置する?)

 歴代最高の戦上手と謳われた頭脳が高速で回転する。翡翠の瞳が右へ左へと紙の中を渡るように動き、様々な想定を繰り返して最も可能性が高いものを考える。

 最悪のことを想定して動くのが軍師だ。今回は、斥候が持ち帰った場合だったことを想定して動く。本当に――王国が、リツィードを蘇らせる術を持っていたと、仮定して。

 いつもなら馬鹿馬鹿しいと鼻で笑い飛ばし、総大将の余裕を見せて士気を高めるくらいの芸当が出来ただろうが、ヴィクターは、その『馬鹿馬鹿しい』を鼻で嗤えない事情を知っている。今、手枷足枷を付けられて軍事拠点にとらえられているお飾りの妻は、あの死神が現世によみがえったことをヴィクターに強く印象付けさせていた。

(あぁ、くそ――相手の軍師の情報が足りないのが、ここに来てこうも痛手を被るとはな)

 今回、敵の軍師として本陣に詰めるのは、リアム・カダートという二十歳の青年だという。前回のアルク平原の戦い以降、リツィードの影におびえて他国との軍事衝突がなかったことで、かの軍の年若い軍師は、軍師としての実践経験がないまま登用されたと聞く。

(敵軍総大将カルヴァン・タイターの補佐官を務めている男。学生時代の座学で非凡な才を発揮。騎士団入団試験でも座学・実技すべてにおいて優秀な成績を収め、入団直後から団長補佐官に抜擢される――確かに、経歴だけ見れば、軍師になってもおかしくない人材だろう。ややチャレンジ精神が過ぎると言えなくもないが)

 前回のアルクの戦いを経験した戦士が何人もいながら、全く実践未経験の男に軍師を務めさせるとは、思い切った人事にもほどがある。開戦前に事前に入手していた人材名簿では、てっきり軍師補佐官にでもなるのではと思っていたが、見事に裏切ってきた形だ。

(さすが、自由闊達と噂のカルヴァン・タイターだ。――思いもよらない人事を行う。これは、あいつが師と仰ぐというバルド・ガエルの影響か?)

 つぅ――とかつての好敵手の影を感じて、一筋汗が伝うのをぬぐう。

 カルヴァン・タイターの魔物討伐の戦歴は輝かしいものだった。聖人が張った最後の光魔法の結界効力が失われた後も、王国領への魔物の侵攻を全て防ぎ切った。本人の剣と魔法の腕もさることながら、総大将とは思えぬほどの傍若無人な戦いぶりは噂に聞いていた。報告では、魔物討伐においても、カルヴァン・タイターは常にリアム・カダートを伴っていたという。時に大胆で、時に敵の意表を突く柔軟な王国騎士団の魔物相手の目覚ましい戦果は、その年若き軍師の功績だとすれば、今回の登用も頷くことができた。

(だが――魔物相手と、人相手では、勝手が違うぞ、若造)

 顎に手を当てて、思考する。魔物相手にしか実戦経験がない軍師。座学が優秀ということは、書物による"お勉強"の努力は惜しんでいないだろう。当然、過去のアルク平原についても一生懸命お勉強してきているはずだ。

「そうだな――…となると、前のアルクの定石をたどりたくなるのが、人の性というもの…」

 イリッツァが言うところの、「男の身体に入ったリツィード・ガエル」なる化け物がいるとして――それはおそらく、前回同様、本陣のすぐ手前。何があっても通さない鉄壁の守護神として、最初はそこに置くはずだ。

 経験がない上に、王国としてもこれは聖女の命がかかった絶対に負けられない戦いだ。年若き軍師は、保守的にならざるを得ない、とヴィクターは踏んだ。

「ドナート。最初の布陣を少し変える。右翼と左翼に勇将を集めて、騎馬と弓兵を多く布陣しろ。本陣を両翼から挟み撃ちだ」

「はっ!――中央の守りはどうされますか」

「中央は、歩兵中心の最低限の兵でいいい。前方だけに人を集めて配置し、前から見た時にはちゃんと数がいるように見せかけろ。後方部分はスカスカで構わん」

「しかしそれでは本陣手前の守りが薄く――」

「構わんさ。――今回の戦は、タイミングとスピード勝負だ。敵が主力を投入している中央を、両翼から同時に叩く。多少中央は攻め込まれるだろうが、その前にこちらが本陣を叩く。右翼と左翼の指揮官は、阿吽の呼吸で動ける歴の長い勇将同士で組ませろ。ディスキン兄弟あたりがいい」

「はっ!かしこまりました!」

(あの時のアルクをやり直すとしたら――これしかない)

 ヴィクターは、心の中でつぶやく。

 謹慎中、悪夢にうなされながら、何千回とあの戦場をなぞった。散って行った戦友たちの亡霊が脳裏で恨みごとを囁くたびに、何万回とあの日の陣形を組み替えた。そうしてヴィクターは、結論付けた。あの日の敗因は、三日目に仕掛けた戦術が波状攻撃だったことだと。

 あの時波状攻撃を選択したのは、闇の魔法使いを投入するのが初めてだったためだ。寝返りを画策したものの、魔法をかける予定の軍団のうち、どれだけが本当に寝返るかわからず――もしかしたら、誰一人寝返らないかもしれなかった。つまり、三日目の朝時点では、自軍の最終戦力がどれくらいになるか、全く想定がつかないまま作戦に踏み切るしかなかったのだ。そうなれば、最低を想定して動くのが将だ。誰一人裏切らなかったとしても――戦力に差が生まれなかったとしても勝てるように。そこに予期せぬ戦力が加わったとしたら、最大限に相手が嫌がるように。

 そうして波状攻撃という選択をしたわけだが――リツィード・ガエルという予期せぬ因子のせいで、その戦術は最大の悪手となった。引いては返す波のようなその攻撃は――一人の死神が、一人ずつ敵将を優雅に屠る絶好の機会を与えてしまった。

 もしあの日をやり直せるなら、リツィードの軍に向かって別方向からの一斉攻撃を仕掛ける。これしかない。

 リツィードがいかなる勇将と言えど、腕は二本しかなく、携える剣は一振りしかない。左右両方から同時に挟み込まれれば、どちらかの相手をせざるを得ないはずだった。

(――――どちらかの相手は、確実に死ぬわけだが)

 苦い気持ちで、その事実を認める。いかに優秀な強い軍人を投入しようとも、あの死神の前では、死を免れないだろう。今も、あの日の赤銅色の死神の姿は、すぐに脳裏によみがえり、すぅっと肝が冷えていく。

 死地に向かわせるディスキン兄弟は、恐らくその片割れを失うことになるが――あの死神の前に、勇ましく最期まで戦ったのだと、帰国後にせめてその名誉を国中に喧伝してやると心の中で誓う。

 ぐっとヴィクターが静かに拳を握りしめたところで――出兵の喇叭が、けたたましく鳴り響いた。


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