【断章】第五皇子の『美学』
「ヴィー!ヴィー!ここか!?」
バンッと荒々しく扉を開けて入ってきたのは、いつもは開いているのかいないのかわからないほど細い瞳をカッと見開いた年若い男。漆黒の軍服に身を纏ったその青年の名は、シュヴィット・ファフナー。名だたる帝国軍人を輩出し続けてきた名門・ファフナー家の長男で、今年成人して正式に軍属になったばかり故に、まだ軍服姿が馴染まない。
「どうした、シュヴィット。慌ただしいな」
「慌ただしくもなる!第二皇子に喧嘩を売ったと聞いたぞ!?」
「逆だ。売られたから、買った」
「おまけにコテンパンに打ち負かしたとも聞いた!」
「ああ。買ったし、勝った」
片頬を歪めて笑うその人を食ったような笑みは、悪童と言って何の差支えもない。
怒気が極まったのか、もはや言葉もないのか。シュヴィットの頬が一瞬、かっと朱色に染まる。しかし、そんな様子を意に介すこともなく、ヴィクターは鼻で嗤いながら言葉をつづけた。
「兄上が弱いのが悪い。十歳の子供相手に、チェスで勝負を挑んでおいて、負けて恥をさらそうが、大人げないと陰で嗤われようが、そんなの俺の知ったことじゃない。一度始まった勝負に手加減して臨むなんて俺の美学に反するし――第一、あんなに弱くちゃ、仮に手加減してやったところで負ける方が難しかった」
「ヴィー…!」
押し殺した声は、間違いなく怒気をはらんでいた。肩をすくめて、その怒気をいなす。
「そう怖い顔をするなよ。負けて激昂した兄上に、次は剣で勝負だ表へ出ろ、と言われたのはちゃんと断ってやった。十も違う弟に、チェスでも剣でも負けたとあっては、さすがに帝都中の笑い者になるだろう?俺は優しいんだ」
「お前っ…いつも言っているだろう…!不要な争いの種をまき散らすな、と口酸っぱく――」
「はいはい。まったく、シュヴィットは口うるさいな。帰ってきたときのダンケス翁といい勝負だ」
全く反省しているそぶりもないまま悪びれないヴィクターに、シュヴィットはぐっと拳を握りしめた。
名門ファフナー家は、なかなか男児に恵まれなかった。女ばかりが三人も続いた時は、正妻は今にも首をくくらんとしていたという。ファフナー家は、皇族とも所縁のある名門で、男児が生まれれば、十歳になるまでの英才教育ののち、成人するまでの五年間は皇族のお世話係兼護衛になり、成人すると同時に正式な軍属となって、それまでお世話係を務めあげた皇族の側近となるのが習わしだった。それが、三人も女が続いた結果、皇位継承権を持つ有力な皇子たちのお世話係を他の名門に奪われてしまう。それはつまり、ファフナー家の没落の未来すら示唆することになるのだ。当時の当主やその妻の心労はいかばかりだっただろうか。
そうして生まれた待望の四人目が男児だった時、家中が沸いたという。それはそれは期待をかけられて、シュヴィットは英才教育を施され――習わし通り、十になった途端に、当時五歳だったヴィクターのお世話係兼護衛係として着任する。正直、皇位継承権から考えればヴィクターは末端中の末端としか言いようがなく、よっぽどのことがない限り皇位につくことはない。だが、大事なのは、皇族のお世話係――ひいては側近となったという実績が大事なのだ。慣習を護り続け、名門としての実績を少しでも残し続けさえすれば、次の世代の皇族で、再び有力な皇位継承権を持つ皇子のお世話係に就かせることが出来るかもしれない。
厳格に帝国の教えを叩き込まれてきたシュヴィットは、自分が世話をする相手としてあてがわれた当時五歳のヴィクターを前に、教えられた通り最上位の敬意を払って接し――すぐに、そんなことをしている場合ではないと気づく。
何せ、自由だ。自由過ぎたのだ。
そして――――驚くほどに、優秀過ぎたのだ。
自分の齢の半分程度しかなかった幼子は、驚くほど賢く、驚くほど身体能力に優れ、驚くほど自由闊達に生きていた。身分が上の者には絶対服従が当たり前の軍事国家らしい国風のど真ん中、皇族という立場でありながら、自分の兄たちにも遠慮をしない、教育係たる軍の要職についている人間たちにすら敬意らしい敬意を払わない、という、どこまでも自由な人間だったのだ。
買わなくてもいい恨みを積極的に根こそぎ買い占めていくその振る舞いに、控えめな諫言ごときで対抗できるわけもなかった。皇族も軍の上層部も、暗殺者を当たり前のように子飼いの部下として何人も手元に置いているお国柄だ。このままでは、ちょっと目を離した隙にあっさりと暗殺されかねない。そうなれば、ファフナーの未来を託され、大いなる期待を背負って送り出されたはずなのに、すぐに仕える先を失くしてしまう。そうなれば、ファフナーは一気に没落の一途をたどるだろう。
ゆえに、シュヴィットは何度となくヴィクターを怒鳴り、檄を飛ばし、時には拳骨を食らわせた。怒り心頭のあまりうっかり呼び捨てにした日すらも、ヴィクターは怒ったり反省したりするどころか、「ヴィーでいいぞ」と笑いながら偉そうに告げた。当然、その日のお説教の時間はさらに伸びた。
「お前は優秀なんだ。わざわざ力を誇示なんかしなくても、大人になれば誰もが一目置く存在になる。頼むから、無事に大人になることを優先してくれ」
「ははは、それは護衛役でもあるお前の腕次第だろう」
この男の辞書に、反省などという文字があるはずもない。シュヴィットは、これ以上ないほどの頭痛を覚えて額を抑えた。
「皇位だの権力だの、周りの大人たちは考えることが小さすぎる。世界には、たくさんの国があって、見知らぬ文化も知識も発明も、色々なものがあふれてるんだぞ?国の中でちまちまと勢力争いをする方が馬鹿馬鹿しい。もっと世界に目を向けて、色々な視点を国に取り入れる方が何百倍も有益だ。少なくとも、方法の是非は別として、母上が帝国に来てくれたことで、ファム―ラのことをたくさん知るきっかけにはなった。北の地方の冬の乗り越え方が変わったのも、布織物が発展して経済を活発化させたのも、ファム―ラの知恵が入ってきたからだろう。俺たちは、もっと積極的に世界に門戸を開くべきだと思わないか、シュヴィット」
「――…そう思うなら、お前が皇帝になればいい」
小さく、誰にも聞かれないように声を落として、ぼそりとつぶやく。ヴィクターはそれを聞いて、軽く肩をすくめた。
「ダンケス翁もそんなようなことを言ってたな。でも、俺はそんなたいそうなことが出来る器じゃないさ」
「そんなことはない。お前は誰より優秀だ」
「そもそも俺は、生粋の帝国人じゃないしな。それに、誰かを出し抜くとか、暗殺するとか、そういう血なまぐさい世界は好きじゃない。自由気ままに、目の届く範囲の人間だけ守って、兄上たちに言われたことをこなすくらいがちょうどいい」
「――――…ヴィー」
「俺が一番ラッキーだと思っているのは、お前がお世話係についてくれたことだ。ファフナー家の者には最大限の礼を尽くしたい。軍属になるまでは、俺には部下がいないから――大人になるまでは、お前と、お前の家族が、俺にとっての『目の届く範囲』の人間だ」
ニッと白い歯を見せて笑うヴィクターに、シュヴィットは小さく息を吐く。
ラッキーなのは、自分の方だ。
幼いころから「ファフナーの星」と言われ、大きすぎる重圧に押しつぶされそうになりながら、必死に生きてきた。そんな彼が仕えた相手は、そんな重圧すら鼻で嗤ってしまうような、そんな自由闊達な男だった。ファフナー家の跡取り、ではなく、一人の「シュヴィット」として見てくれたヴィクターに、救われたのはシュヴィットの方だった。
だからこそ、思う。ファフナー家の未来ためなどではなく――この国のために、ヴィクターこそが、皇位を持つべきなのだと。
皇族とは思えないほど気安く――まるで、親友のように接してくれるヴィクターに、誰より彼を知る人間として、シュヴィットは心からそう考えていたし、そのために生涯を賭すことにも何の疑問も抱かなかった。
――だから、だろう。
『その日』のシュヴィットの瞳には、一切の迷いが、なかった。
ヴィクターが軍属となって、三年。戦の神などというものが存在するとしたら、間違いなくそれは常にヴィクターの味方なのだろうと思うほどに、破竹の勢いで輝かしい戦績を打ち立てていった。連戦連勝。初陣から一度も負けたことがないヴィクターは、当時、帝国内でもすぐに有名になった。ヴィクターを慕い、その美学に惚れ、その美学を遂行するためならば喜んで命を賭けると、どの部下も心からの忠誠を誓った。
そんな彼の人望を、ヴィクターの兄たちは面白くないと思っていたのだろう。一度くらい無様に負ける様が見たいとでも思っていたのか、どんどん難しい局面の戦場に投入されるようになっていったが、難しい局面であればあるほど、ヴィクターはその翡翠の瞳を嬉しそうに輝かせて、笑みすら浮かべながら軍を操った。昔から、武勇も人並み以上に優れた男だったが、それ以上にチェスの腕はずば抜けていた。それは、この軍略家としての非凡さを開花させる序章に過ぎなかったのだろう。
結果として、ヴィクターは皇族という後ろ盾があるという大前提はあるが、その若さではありえない出世をし――仇敵クルサール王国との数十年ぶりの武力衝突の総大将に大抜擢をされた。
大抜擢と言えば聞こえがいいが――その実は、ヴィクターの兄たちが全員その責を負いたくなくて総大将の任から逃げた、というのが正しい。十分に勝てるだけの兵力を用意したはいいが、相手は鬼神と名高いバルド・ガエルだ。そして――闇の魔法使いを実践投入する、初めての戦いだった。
闇の魔法使いが実践で役に立つかどうか、まだわからない。そもそも、闇の魔法使いを己の国の軍人で賄ったなどという非人道的な行いは、さすがに軍国主義国家と言えど自国民の批判を浴びるだろう。その存在は軍部の一部の人間にしか知らされず、国家機密並みの重要度を持っていた。
もし、この戦いで負けることがあり――万が一、非人道的な行いが露見した場合、その総大将が負う責任は大きい。しかも、仇敵相手に負けたという汚名付きだ。国の中でお山の大将を気取り、帝都の安全な場所から王国を口汚く罵るだけの他の皇族に、その責を負うだけの気概があるはずもなかった。
幸い、ヴィクターの戦績は国民も良く知るところとなっていた。その実力を買われての大抜擢だ、と喧伝すれば、国民は安易に士気を上げるだろう、としてヴィクターが総大将に任命されることとなったのだ。
ヴィクターは、それを引き受ける代わりに、と条件を付けた。
――二日間。
二日間だけは、ヴィクターの考える戦略のみで、正々堂々と戦わせてほしい。
当時のヴィクターは若く、実績もあり、二日もあれば必ず王国を打ち倒せるはずと踏んでいた。どれほどバルド・ガエルが優秀な指揮官であろうとも、それだけでは稀代の軍略家であるヴィクターの苛烈な攻めに対応できるはずがないと高をくくっていた。彼は、彼の美学を信じて命を賭ける部下に、闇魔法を使った戦略を強いるのは顔向けが出来ないと、恐れることなく上層部へと進言した。
当然、勝ち目は十分あると踏んでいた。――ヴィクター並みの軍略を打ち立てる軍師など、王国にいるはずがない、と思っていた。戦争の前に忍び込ませた軍部の間者からも、そんな報告は一度も上がってこなかった。
もしも、万に一つもあり得ないが、二日間で勝負がつかない、というようなことがあれば――その時は大人しく、闇の魔法使いを使った戦略を用いて全力で王国を叩きのめすから、と約束をし――――――
―――そして、『万に一つ』が起き得てしまった。
「ヴィクター様!寝返った敵国騎士団、全て首を討ち取られました!」「ヴィクター様!ディスキン将軍が討ち死に!」「ヴィクター様!中央に布陣していた兵が、軒並み命令がないまま撤退しています!総崩れです!無条件投降を表明した隊もあるとのこと!」「ヴィクター様!」「ヴィクター様!」「ヴィクター様!」
(――――――何の、悪夢だ…?)
次々と本陣に駆け込んでくる真っ青な顔の伝令兵たちの顔を見ることも出来ず、机の上に広げられた盤上を前にただただ冷や汗だけが伝い落ちていく。
(――ありえ、ない。――ありえない――!)
二日間で攻めきれなかったのは、完全にヴィクターの失態だった。悔しさに歯噛みはしたが、それでも、条件は条件だった。互いに競うように軍略を張り巡らせた二日間は一進一退で、開始前の兵力差と大して変わらなかったはずだ。
三日目を迎えるその日は――万全の状態だった。
闇の魔法使いで、少なくない量の兵が、精鋭の騎士たちが、帝国に寝返る手はずになっていたのだ。兵力差は、やや帝国軍が優勢という状態から、圧倒的に帝国軍が優勢、となるはずだった。信頼しているはずの将がまさかの裏切り行為をするのだ。士気は一気に下がり、圧倒的な兵力差に加えてさらに敵軍を蹂躙しやすくなる手はずだった。
それでも、絶対に負けられない戦いだったから――念には念を入れて、早朝、霧にまぎれて奇襲をかけるという手段に打って出た。それも、霧にまぎれての波状攻撃。不意を突かれたところに、次々と襲い来る猛攻は、王国の混乱と敵意の喪失を招く――はず、だった。
「っ――――――!」
何故だかはわからない。どうしてだか、本当にわからない。
本陣まで、あと一歩――というところまで、攻め込んでいたはずだった。事実、途中までは好調に進軍しているという報告がひっきりなしに届いていた。
敵軍の布陣が見事で、周囲を地属性の魔法使いを使ったのか、崖かと思うほどの塹壕だの小高い山に近い土壁だので、本陣は四方を囲まれていて、本陣を強襲するには最後は正面突破するしかなかった。だが、霧にまぎれた波状攻撃で総崩れになった敵軍は、その本陣前の隊すらも、一瞬でその陣形を崩れさせ、本陣の総大将の喉元へとその刃を突き立てるはずだったのだ。
それなのに。
送り込んだ兵が――騎馬も、歩兵も、何もかもが、倒れていく。
最初に青い顔をして駆け込んでくる伝令兵は言った。
――――――――赤銅色の、死神がいる、と。
「ヴィクター様!!!」
「今度はなんだ!!!!」
有力な武将はほとんどが打ち取られた。息を切らして蒼い顔で駆け込んできた伝令に、ヴィクターは半ばやけくその気持ちで声を上げる。
「て、敵将が――」
ガチガチと、寒さではない何かで、口元を震わせて。
「死神が――ここに、斬り込んできます――!!!!」
「何――――――!!?」
一瞬で、本陣内が騒然となる。蜂の巣をつついたような騒ぎに、ヴィクターは思わず――この世で一番信頼する男を、振り返った。
「シュヴィット――」
慌てて鎧を着こむもの。上官のことなど知ったことかと言わんばかりに我先にと逃げ出す者。
しかし、シュヴィット・ファフナーは、微動だにせず、惑う上官の瞳を受け止めた。
「ヴィクター様。――降伏いたしましょう」
「――――!」
「撤退です。――死神の前に、人は、無力です。貴方の責任ではない」
呆然と、シュヴィットの顔を見上げる。二人きりの時とは異なる口調は、誰もヴィクターの声など聴いていないこんな時でさえ、確かにヴィクターを上官として敬意を示すものだった。彼も命の危険を感じているのは変わらない。それを表すように少し青ざめたその顔は――それでも、確かな力をもって、上官を支える声を発していた。
もはや、指揮系統など完全に麻痺している。本陣に詰めているような人間でさえ、有事の際には、こうも簡単に手の平を返す。誰一人、ヴィクターの指示を仰ぐものなどいない。ヴィクターの言葉を聞く者もいない。頭の隅で理解はしていたが、その現実を受け止めるには、状況が悲惨過ぎた。
誰もヴィクターの声など聴いていないその中で――ヴィクターは、一番の側近の腕をつかんだ。
誰一人、ヴィクターのことを振り返りすらしない中で、ただじっと、上官の言葉を待ってくれていた副官の――親友の、戦友の、腕を、取った。
「――――――して、くれ…」
「ヴィクター様…?」
「敵の、手に落ちる、くらいなら――――お前の手で、殺してくれ――!」
せめて、最後は、指揮官らしく。
きっと、今日の戦死者は、過去最大を記録するはずだ。今まで帝国を支え続けた優秀な将校も、未来のある新兵も、ヴィクターが、殺した。引き際を見誤り――死神の下へと、絶望の死地へと、総大将の命令という名のもとに、何百人も送り込んだのだ。
歴史上類を見ない戦上手と言われて、有頂天だった。戦場は、ヴィクターにとって、ただただ心躍る遊び場だった。思い描いたように兵を布陣し、動かし、その結果、思い通りに勝利を得る。それがひどく快感だった。
だが、これは、チェスではない。
生きた、人を使った、戦争だ。
昨日まで、会話をした部下が――自分を信じて死地に赴く者たちが、剣を、魔法を使って、命を奪い合うむごたらしい戦いなのだ。
ヴィクターは、軍属になって三年目――初めて、本当の意味で、それを痛感した。
そしてその――罪の重さに、耐えきれなくなった。
「――――――ヴィー」
「!」
外で、人目のあるところでそう呼ばれるのは、初めてだった。
一瞬目を見開き――
ガッ
「――――――!」
思い切り右から拳を振り抜かれた。一瞬の後、痛みが走り――殴られたことを理解する。
「逃げるな!!!!」
「――――――――」
「お前は、総大将だ!戦に負けることは、お前の責任じゃない!だが――部下が死んだのは、お前の責任だ!散って行った戦友たちの命を、想いを、受け止めて拾い上げる責任が、お前にはあるんだ!絶対に、安易な『死』になど逃げるな!」
「シュヴィット――」
「生きろ。絶対に生きろ!!!生き抜いて、生き抜いて、お前の信じる美学を最後まで貫き通せ!それがどんなに厳しい道でも――お前の『美学』に賭けた俺たちの命は無駄じゃなかったんだと、散って行った英霊たちに胸を張らせるのがお前の役目だ!」
叫ぶようにして言った後、ばさぁっと視界が一瞬何かで漆黒に覆われる。
「な――」
慌ててつかむと、それは雨天時用にと用意されていたフード付きの外套だった。シュヴィットは振り返り、ひとつ、大きく息を吸った。
「―――皆、聞け!!!わが軍は、これをもって撤退を開始する!!!」
びたり
びりびりと陣幕を震わすような大声で響き渡った声に、一瞬陣営内が鎮まる。
「敵は人知を超えた死神だ!だが、絶対に、我らの総大将を、死なせるな!散って行った英霊のためにも、これからの我らが祖国の未来のためにも――ヴィクター様の美学に賭けた己の信念を信じ、最後の一人になっても、御身を護り、祖国へ連れ帰れ!」
「――――」
「死神の刃を前に、途中で命を散らす者もいるだろう。逃げ出したくなる者もあるだろう。――だが、怯むな!恐れるな!死神の刃の恐怖に竦もうと――その恐怖を、祖国の同胞に、家族に味合わせたくないと思うなら、最後の一兵になるまで立ち向かえ!!!」
「――――――!!!!」
陣営内の兵士たちが、ハッと息をのむ。
シュヴィットは、すらっとその剣を抜き放った。
「ヴィクター様を、頼む。ここの殿は、私が勤める!」
「な――待て、シュヴィッット!」
「ヴィクター様、こちらへ!」
シュヴィットの鼓舞により、指揮系統が復活する。すぐさま、鍛え抜かれた帝国軍人は己のやるべきことを思い出した。隣にやって来た兵士によって、ばさっと再び顔を隠すように外套が頭からかぶせられる。ぐいっと無理矢理手を引かれ、陣幕の外へと連れ出そうとするそれに逆らうように、ヴィクターは振り返った。
「シュヴィット、ダメだ、お前を置いて――」
「ヴィー。祖国と――――弟を、頼んだぞ」
「っ――――!」
何一つ揺らがぬその漆黒の瞳に、一瞬息をのんだ、その時。
「で、伝令!死神が、来ま――――」
ドッ
ぶしゃぁああああああ
「こちらへっ――!」
「っ――――――――!」
視界の端で、まだ若い伝令兵が背中から一刀を食らって絶命していくのを見ながら、後ろ髪引かれるる想いを無理矢理断ち切り、外套のフードで顔を隠しながら部下が促すほうへと向かう。
たった、独り。ひと振りの剣だけを共にして。単騎で敵陣のど真ん中に斬り込んできた死神は――――赤銅色の髪をしていた。
「死神め――――シュヴィット・ファフナー、参る!!!」
背後で、シュヴィットの勇ましい声が響き――ドッ…と鈍い音がしたのを、耳を塞ぎたくなる想いのまま、振り返ることも出来ずに陣幕から飛び出す。
「っ――…くそっ――!」
すぐに馬にまたがり、全力で駆けさせる。わき目もふらず、決して振り返ることなく、可能な限りの最速で。
(惨めだ――――――惨めだ――!)
すぐ後ろに、赤銅色の死神が迫ってくる幻想にとらわれ、震え出しそうになる体を必死に叱咤しながら馬を駆る。ぶるぶると、手綱を持つ手だけは震えることを止められなかった。
頭の中で、無数の陣形が展開していく。どこで、どの手を打てばよかった。どうすればよかった。何をすればよかった。どこで――どこで、引き際を、見誤った。
どこで撤退していたら――――――シュヴィットを、喪わずに、済んだ。
「っ――――――」
ぐっと熱いものがこみあげてくるのを、歯を食いしばって耐える。腐っても、総大将が、そんな姿を見せるわけにはいかない。
あぁ――だけど、それでも。どうしても、考えずにはいられない。それがたとえ、意味のないことだとわかっていても――
幼いころから無条件の信頼を寄せた、『ヴィー!!!!』と青筋を立てながら叱ってくれる青年は、もう、永遠に、帰ってこないのだ―――
「――何…?」
祖国へ帰ったのち、すぐさま軍備を整え直し、再度死神と相まみえることを想定した戦略を練って再戦すべきだ、という軍法会議でのヴィクターの進言はあっさりと無視され――下されたのは、ヴィクター自身の無期限謹慎処分だった。
「ふざけないでいただきたい!今この状況で、あの王国と対等に戦える軍師が、総大将が、俺以外どこにいる!?」
「ヴィクター。お前は、任務に失敗したのだ。その責を負う必要がある」
「っ――あぁ、減俸だろうが謹慎だろうが除隊だろうが、敗戦の責任だと言われれば、何でも受けてやりますよ!ただ、王国はすぐに軍備を立て直して進軍してくる!先の戦いでたくさんの兵を失った我が国が、俺抜きでどうやって――」
「武力衝突はない。我々は、停戦協定を結ぶことにした」
「な――――」
ヴィクターは、思わず絶句する。軍法会議に出席する面々をぐるりと眺める。軍部の要職を兼任する自分以外の王位継承権を持つ兄たちと、つい先日父から皇位を継承したばかりの長兄でもある皇帝、正真正銘のたたき上げ軍人たる軍の上層部員たち。
軍国主義国家とは何だったのかと思えるほどの弱気な発言に、ヴィクターが二の句を告げずにいると、長兄たる皇帝が静かに口を開く。
「先の戦い、失ったものは数えきれないが――ただ一つ、収穫があった」
「何…?」
「闇の魔法使いの有用性を見極められたことだ」
「――――――!」
ハッと息を飲み、ぐるりと周囲を見渡すと、この場に集う全員が同じ考えを抱いているのだろう。薄暗い下卑た笑いを浮かべて、こそこそと会話するのが聞こえる。
「闇魔法にかかったのは、敬虔な信徒と名高い騎士ばかりだったそうですよ」「騎士とは、敵国の中ではエリート軍人のようなものだろう?」「仮説ですが、敬虔な信者であればあるほどかかりやすいとすれば――」「軍事衝突などというリスクを考えず、敵国の内部分裂――国家転覆すら夢ではない」
ギリっ…と奥歯を噛みしめる。
今、ここに集う連中が、誇り高き帝国軍人の粋を極めし者たちだとは、どうしても信じられず、ヴィクターは吐き気を抑えるので精一杯だった。
「いたずらに兵を失い、惨敗して『赤銅色の死神』の恐怖を悪戯に国中に伝播させ、王国へ立ち向かう勇気をくじいたのはお前の責だ、ヴィクター。本来、極刑すら辞さないほどの重罪だが――闇の魔法使いの有用性を見分できた功績と、誇り高き皇族の血筋が半分だけでも入っていることに免じて、無期限謹慎処分とする。お前の子飼いの部下は全て他の将校が管轄する。――牙を抜かれた獣は、大人しく檻に入っていろ」
「っ………」
嘲るように言われた言葉に、反吐が出そうだった。
もとより、最高権力者が承認した決定に、この縦割り社会が染みついた軍国主義国家において、逆らえるはずもない。
ヴィクターは、甘んじてその処断を受けるしかなかった。
生き抜いて、生き抜いて――ヴィクターのくだらない『美学』に命を賭けてくれた、英霊たちに報いる。
唯一無二の親友と、最後に交わした約束は、ヴィクターをひどく苛んだ。
牙を抜かれ、自由を奪われた。散って行った英霊たちに、信じて未来を託した親友に、何一つ返すことが出来ていない。その方法も、わからない。
しばらくして――闇の魔法使いを使った策謀で、バルド・ガエルとアルクの軍師を暗殺したとの報が入った。
正々堂々、雪辱戦を果たす機会が未来永劫失われた事実に、絶望した。
そしてさらにしばらくして――赤銅色の死神が、策謀の果てに、非業の死を遂げたことを、聞いた。
今、自分は何のために生きているのか。
散って行った英霊に報いる弔い合戦はもう永遠にできない。ヴィクターの『美学』と真逆の策謀で、帝国は力を増していく。
祖国のために、とアルクで散って行った英霊たちは、今、亡霊となって、ヴィクターを酷く恨んでいるのだろう。
そんなことのために命を賭けたわけではない。俺たちの命を返せ、家族を、祖国を、どうしてくれると、嘆いて恨んでいるのだろう。
死神の最期の様子の報告を受けたヴィクターは、独り静かに因縁の地を訪れた。かつて、自軍の本陣があった場所――親友が最期の時を迎えた場所に、独り佇む。
見上げた月は、蒼く冴えわたり、凍える風は無情に吹き荒んでいった。
惨めな無力感と感傷に浸ったあと、予想外に時間が遅くなっていたことに気づき、近場の軍事拠点に戻ろうとして――――
――――一人の子供を、拾った。
子供は、こんなにも腐った国を、希望の国だと語った。
真っ黒に塗りつぶされた漆黒の国を、楽園だと言った。
子供は、未来を創る、国の宝だ。
辛く苦しい人生を歩んできたこの子供が、胸を張って、生きていける国を作りたい。
こんな腐った国の、黒いところなどなかったように――幸せに、前を向いて、生きていける未来を作りたい。
シュヴィットに昔語った、自分の役割を思い出す。
自分には国を治めるほどの器は無いが――それでも、『目の届く範囲』の人間を護る。それは、昔も今も、変わらなかった。
だから――これから先、新しく『目の届く範囲』に入って来た人間は。
せめて、誰一人、零れ落ちないように救い上げたい。
それこそが、祖国の未来を託して散って行った英霊と――美学に反する行いで卑怯に命を奪ってしまった、この子供の生まれ故郷の好敵手たちへの、ヴィクターが出来る唯一の弔いになってくれるような気がするから。




