81、初めての『友達』
「…そのままの足で、ドナートを洗脳した元上官たるお偉いさんの寝所に向かってね。高いびきで寝てたのを起こして、喉元に刃を突き立てて、交渉をした。闇の魔法使いには僕がなるから、ヴィーの部下には指一本だって触れるな、って。そして、せっかくだから、今捕えている中で一番強力な魔物を回せ、その代りお前らの企みが成就するまではお前たちの意向に沿って動いてやるからって言ったら、必死にうなずいてたよ。まぁ、刃が怖かっただけかもしれないけれど」
「――――…それで、魔物と契約したのか」
パチリ、と背後で小さく暖炉の火がはぜる音がした。
「光魔法使いが高位の契約なんて、無茶にもほどがある」
「まぁ…この前の任務はちょっとイレギュラーだったけど。基本的には、僕には薬師の知識があるし、そもそも無闇に使うだけで迫害対象にもなるから、この国の中で光魔法を使うようなことは滅多にないしね。僕が光魔法を使えることすら、知っている人間は限られてるんじゃないかな。それに、王国の中で見せた解毒の魔法や、さっきくらいの簡単な治癒魔法くらいまでなら、特に気にもならない」
「いや、さっきは青ざめてただろ…」
「ははっ、そうだっけ?ちょっと、特殊な訓練を受けすぎて、痛みとか吐き気とかに鈍いんだ、僕。昔、高位魔法を一回だけ使ったら、内臓をやられるのか、思いっきり吐血したことがあったけど、あれくらいまでいかないと、あまり気にしないなぁ」
「――…気にしろよ…」
げんなりと呻くように言いながら、イリッツァは感情の読めない笑顔のランディアを見やる。
「でも、本当に、そんなに不便はないよ。そうだなぁ…任務で困ったのは、ナイードで君が張った結界に入れなかった、っていうくらいかな」
(――まぁ、そのおかげでこっちは、はったりをかませて助かったんだが)
イリッツァは苦い顔で視線を逸らしてため息を吐く。
リツィードの魂をよみがえらせる方法がある、などという荒唐無稽な嘘を彼らが疑わしく思いながらも否定できなかったのは、ナイードでカルヴァンが蘇ったその瞬間を見ていなかったせいだろう。あの夜はまだ、ナイード領にはイリッツァの結界が張られていた。
カルヴァンが蘇ったその瞬間を見られていたら、単純に治癒魔法の超上位互換だったというだけのカラクリが露見していた。当然、死後何年も経った人間の魂を、選んで自由自在に蘇らせることなど出来るはずもないと、鼻で嗤われて終わっただろう。
素人が嘘を吐くときは、真実に混ぜて一つ、嘘を吐け――親友が語った詐欺師まがいの手法が、こんな時に生きるとは思わなかった。
(はったりでも、あれだけトラウマになってるなら、無茶苦茶な進軍は出来ないだろ。慎重におっかなびっくり進軍してくれればラッキーだし、そこまでいかなくても、実は上官が十六年も前のトラウマでありもしない亡霊にブルってるって部下が思ってくれれば万々歳だ)
亡霊にビビる、などという滑稽極まりない状態は、上官の信頼を地に叩き落とす。それも、大事な戦の大事な局面を前にしたこのタイミングで。
手足を拘束されたイリッツァに出来るのは、せいぜいこの程度の小細工だけだった。あとは、恐らく王国の総大将となる親友が、兵力差を補うための奇策でも練って何とかしてくれるだろう、と根拠のない信頼を預けていた。
「内臓にダメージが来たってことは――寿命、縮んでても、知らないぞ」
「ふふ…心配してくれてるの?大丈夫だよ、この戦争が無事に終われば、厄介ごとの大半は終わる。こんな仕事してる以上、いつ死ぬのかわからないのは、別に契約なんてなくても一緒だろう?」
「…それはまぁ、そうだけど」
薄青の瞳を少し伏せてから、イリッツァは考える。
どうにも――ランディアとヴィクターの間には、認識の齟齬があるようだ。
ランディアは、己を道具として使い捨ての駒のように扱われることを望んでおり、それこそが命の恩人に報いる方法でもあると心から信じている節がある。それゆえ、暗殺者として己の手を汚し続けることはもちろん、闇の魔法使いとして魔物と契約を結んだことすら、ヴィクターのためには当然とすら思っているのだろう。たとえそれが、短命になる運命を決定づけるものだったとしても。
しかし、イリッツァは催事場に赴くまでの廊下で、ランディアのことを指摘されて本気で激昂するヴィクターの姿を見ている。ヴィクター自身は、ランディアを道具のように扱っているようには到底思えない。過去の話を聞いても、暗殺者にすることすら反対だったようだ。成り行きで拾っただけの幼子に、一国の皇族の一人でもある彼がどうしてそこまで入れ込むのか、その理由はわからないが、彼にとってはランディアは道具などではなく――家族や友人に近しい存在なのではないだろうか。
(なんか――やってらんねぇな…)
放っておくとすぐに死に急ぐ男を必死に引き留めるときの胸の痛みは、十分知っている。そしてそれが大事な人であればあるほど、なりふり構わず、助けられる方法を探してしまう必死さも、身に覚えがありすぎる。己の美学に反する、と吐き捨てながらも帝国の「お偉方」とやらの意向にヴィクターが大人しく従ったのは、ひとえにランディアを救いたい一心からだったのだろう。
苦い気持ちをもてあまし、ゆるりと頭を巡らせて、仮面のような笑顔を張り付ける漆黒の暗殺者を見やる。
死も、孤独も、きっと彼にとっては身近で、怖くないものなのだろう。生に執着しようとしないその姿は、聖職者の矜持を抱えて三十年も生きてきたイリッツァにとって、無視することがひどく難しい存在だった。
必死に、ランディアの手を取ろうと、ヴィクターが何度も何度も手を伸ばしているのだろう。だがそれは、永遠に一方通行のままなのだ。ランディア自身が、彼を「雇い主」と表現し続ける限り、永遠に。
「…なぁ」
「うん?」
「お前にとって、俺って、どういう存在なんだ?」
「……うん???ごめん、質問の意図が分からない」
感情の読めない仮面の笑顔のまま首をかしげて、ランディアが疑問符を上げる。
イリッツァは軽く頭を掻いて、言葉をつづける。じゃらり、と手元の鎖が耳障りな音を立てた。
「単純に、気になっただけだ。お前、神殿でも基本的に『聖女様』ってあまり呼んでなかったし、俺のことを聖女として見てるわけじゃないんだろ。まぁ、エルム教徒でもないみたいだから、当たり前だけど。…リツィードだと思ってるにしても、お前の中のリツィード像がよくわからない。この国の連中が言っていたように『死神』として見ているのか、『磔にされた聖人』とでも思っているのか」
「あぁ――…うん。そうだね。あまりしっかり考えたことがなかったな。ちょっと待って、考えるね」
律儀に言ってから、ぼんやりと虚空に視線をめぐらす。どうやら言葉通り、ちゃんと考えているらしい。
しばし視線がさまよった後――ひたり、とまっすぐに薄青の瞳に戻って来た。
「僕にとっては、イリッツァはイリッツァかな。可哀想な女の子、っていうのが一番しっくりくるかも」
「――はぁ?」
「王国にいるときから、思ってた。なんでこの子、こんな小さいのに、こんな狂った世界に押し込められてるんだろうって。あの国のことは昔から大嫌いだったけど、もっと嫌いになった。あの国の、あの狂った部屋の空気すら出来る限り吸っていたくなくて、無口になっちゃってごめんね」
「…いや…別に…」
あれは、聖女に仕える信徒の姿を忠実に演じていたからではなく、単純にイリッツァの境遇と王国の制度に吐き気を催していたかららしいということに面食らい、思わず目を瞬く。
「僕に騙されてるとも知らないで、お茶も進められるがままに飲んじゃって。解毒の魔法をかけるとかいうからすごく用心深いのかと思いきや、その後、何度も自分からお茶をねだってくるし、変にお人好しだなって思った。挙句、敵国にさらわれてきて、拘束されて不自由を強いられ、戦争の道具として使われて、二十近くも年の離れたオジサンと無理矢理結婚させられてる。キスまでされて。――単純に、可哀想だな、って思うよ。」
「………」
「君がリツィードかどうかは、証明のしようがないからわからないけど、まぁ、リツィードだとでも言わないと説明できないことをたくさん知ってはいるよね。剣の腕が化け物じみているのも、僕はこの目で見ているから、死神リツィード・ガエルだと言われれば納得だ。でも、もしそうだとしたら――うん。やっぱり、可哀想だな、って思うよ。なんでまた、女の子になっちゃったのかは知らないけど…生まれ変わっても聖女になって、敵国とのきな臭い争いに巻き込まれて――自由を、奪われて。…十五年前のあの中央広場での君の姿は、僕にとって少なからず影響を与えたんだよ。僕に――『自由』を奪われる恐怖を、教えてくれた」
「――…人の四肢を拘束しといて言うセリフじゃないだろ…」
ジャラっと聞こえるように鎖の音を立て、呆れて憎まれ口をたたくと、漆黒の瞳がいくつか瞬きを繰り返し――
「確かに。少なくとも、"これ"はいらないね」
ひゅんっ――
一瞬、黒い風が吹いたかと思うと、ゴトンッ…と重たい音が二つ響いた。ランディアが振り抜いた暗器によって、枷につけられていた二つの鉄球が地面に転がる。
「……おい…?」
「さすがに、拘束を全部外すわけにはいかないけれど。重りなんてなくても僕の速さから逃げられるとは思えないし、無意味だよね。――君がリツィードなら、あまり気分の良い物でもないだろうし」
「――――――…まぁ…あの時みたいに、地下で凍えながら壁に繋がれてないだけ、マシだけどな」
苦い気持ちでつぶやいて、軽くなった手元を見る。両手両足をそれぞれ繋いでいる鎖は切れていないが、鉄球だけが綺麗に外されていた。最初にここに寝かされていた時と同じ状態だ。
「…やっぱり、わからない。同情だけで、俺にそこまで肩入れするか?お前が聖職者だっていうならまだわかるが、エルム教徒ですらないんだろう」
人と手を取れ、と教えられるエルム信者であるならば百歩譲ってわかるが、カルヴァン同様、世界に絶望して神を見限ったランディアが、同情ごときでイリッツァに便宜を図る理由が分からなかった。
「…どうなんだろうね?僕にも、よくわからないや。同情――…うん。情が移ったのは、確かだろうね。僕は、『自分の力の及ばないことで不幸に巻き込まれる』っていうのを蛇蝎のごとく嫌ってる。自由を奪われることが、何より怖いし、嫌いだ。だから――君の境遇は、これ以上なく可哀想だなって思うし、出来ることなら自由を返してあげたい。だから、戦争が終わったら、こっそり王国に返してあげるつもりだよ。僕がお偉方の言いなりになると約束したのは、今回の戦争を引き起こすための聖女誘拐までだ。そこから後、半永久的に聖女を国に縛り付けて王国に優位を保ちたいとかいう、卑怯極まりないお偉方の意向は関係ない」
「な――」
「ヴィーは、リツィード・ガエルが王国に戻ることをよしとしないだろうけど。でも、雪辱戦果たしたいってずっと言ってたんだから、むしろラッキーだよねって何とか説得してみるよ。ヴィーの美学を思えば、死神と正面切ってやり合うべきだし。――君も、そっちの方が嬉しいだろう?恋人もいることだしさ」
「いやいや、だから恋人じゃな――って、そうじゃなくて」
ついツッコミを入れそうになって、慌てて頭を振って思い直す。論点はそこじゃない。
「お前、甘いって言われるのも当たり前だってくらい甘いぞ!?同情だけで、どうしてそこまで――」
「別に、誰にでも甘いわけじゃないよ。イリッツァだから、じゃないかな。――あぁ、うん。そうか。なんとなくわかった」
ランディアは独りでうなずき、イリッツァの顔を覗き込む。
「友達、ってこういう感じなのかな」
「――――――――は――?」
「僕、生まれてこの方、友達って出来たことないんだ。王都にいたころはもちろん――こっちに来てからも、『家族』と『雇い主』は出来たけど、『友達』ってのには出逢ったことがない」
「…いや……え…?」
「王国のあの狂った部屋で、僕のお茶を「ありがとう」って言って飲んでくれたのが、嬉しかったんだ。「今日のお茶は?」って何度も聞いてくれたのも、嬉しかった。暗殺者になってからは、薬師としての仕事はしていないからね。当時の知識を持って淹れたお茶を喜んでくれたのが、自分でもびっくりするくらいうれしかった。暗殺者とか闇の魔法とか、帝国とか、そういう面倒なことを考える前の、まっさらな自分を認めてもらえたみたいで」
「――…」
「何より、君と会話するのは楽しい。僕が、こんなに饒舌になるのは、君の前だけだよ。ヴィーとだって、爺ちゃんとだって、こんなにしゃべらない。――一緒にいて、なんか、楽しいって思う。君自身もとても興味深い。別に君を助けることで、僕に大した利はない――どころか、むしろ悪しかないんだけど。それでも、助けてあげたいなって思うのは、君に親しみを感じているからなのかな、って思ったよ」
「――……なる…ほど…?」
イリッツァの眉が少し下がり、困惑の表情を形作る。まったく想定もしていなかった回答だった。
想定もしていなかった回答だが――すべてに納得のいく、これ以上ない完璧な回答。
イリッツァは眉を下げた表情のまま少し考え――意を決したように、口を開いた。
「じゃぁ、ディー」
「へ?」
「友達っていうのは、一方通行じゃなれないんだ」
遠くかなたにある記憶の奥底で、誰かが言った言葉を音に乗せる。
「お前が俺を友達だと思うなら、俺もお前を、友達だと思うことにする。お前が困っていたら助けるし、寂しいと思った時は傍にいてやる」
「――――――」
「お前が伸ばした手を、俺は決して無視しない。決して離さない。だから、約束してくれ。困ったときは、寂しいと思った時は、俺に手を伸ばすって、約束してくれ」
長らく宙に浮いたままだったであろう彼の手は、今、何の気まぐれかはわからないが、イリッツァに向かって伸ばされたのだ。イリッツァは聖職者として――一人の人間として、敵国の人間でありながら、憎い王国の象徴たる聖女でもあるイリッツァを、見返りを求めず助けると言った、この寂しさに塗れた闇に沈む男の手を、無視することなどできなかった。
「…それが、友達っていうやつなの?」
「あぁ」
「ふぅん……わかった。じゃぁ、約束しよう。何かあったら、君を頼るよ、イリッツァ。――僕も、ツィーって、呼んでいいの?」
「―――――いや…それは、ちょっと…過保護な男が、手袋投げつけて来る可能性あるから、お勧めしない…」
「はははっ」
思い切り苦虫を嚙み潰したような顔で呻いたイリッツァに、心から楽しそうにランディアは笑った。
「じゃあ、リッツァって呼ぶよ。これなら君の恋人も許してくれる?」
「だからっ…!恋人じゃない!!!あいつはリツィードの時からの親友だっ!!!」
今度こそ、イリッツァは顔を赤くして叫ぶ。何度訂正したらわかってくれるのか。
しかし、クスクスと笑うランディアは全く聞き入れる素振りがなさそうだった。
「またまた…玉座の間で、衆目の面前であんなにラブラブな空気出しておいて、何言ってるんだか」
「っ…お前、あの場にいなかっただろ!」
「悪いね。のぞき見は得意なんだ」
飄々と、悪びれる素振りすら見せず言ってのける。確かに、ランディアほどの手練れの暗殺者にとって、気配も残さず物陰かどこかからあの場を覗き見ることくらいたやすかっただろう。
「僕は、仕事でよく、男にも女にもなるから、どっちの会話も楽しいよ。恋の話なんて、いかにも女の子っぽい話題で、楽しいな」
「いやいやいや!俺、半分男だから!」
「でも半分は、女の子だ。――はは、そういう意味で、僕ら、似てるかもね」
言いながら、ランディアはおかしそうに笑う。
「で?リッツァとしては、誰がイチオシ?」
「もうやめようぜ、この話題…」
「嫌だ、続ける。――どうせ、戦はすぐには終わらない。しばらく、おしゃべりを楽しもうよ、リッツァ」
にこり、と笑うランディアは、今まで見た中で一番楽しそうな笑顔を浮かべていたのだった。




