80、『雇い主』と折れない刃
ひらりと、影のように漆黒に身を溶かし、音もなく移動するのが呼吸をするより自然になったのは、いつからだったろうか。
ランディアは目的の部屋にするりと音もなく入り込み――はぁ、と大きくため息を吐いた。
「ヴィー。――また、飲んでるの」
「おぉ、ディー。帰ったのか」
「もう、何日連続?…いい加減、ドナートあたりが怒り心頭で怒鳴りこんでくるんじゃない?」
「いいんだよ、今の俺は休暇中だ。ドナートにだって邪魔はされねぇさ」
ガハハ、といつもより粗野な大きい笑い声をあげて酒瓶を持った手をぐるりと回す。ちらり、と視線をやれば、豪奢な毛足の長い絨毯に、所狭しとすでに何本も空き瓶が転がっている。
「全く…明かりもつけないで」
「いいだろ。今日は月が綺麗なんだ。最高の夜だ」
言いながら手酌でグラスになみなみと琥珀色の液体を注ぐと、窓から差し込む月光に向かって杯を傾け、ぐいっと一息にあおった。暖炉に灯された微かな灯りだけが、この部屋の中で唯一の灯だった。
「お前と会ったのも、こんな月が綺麗な夜だったなぁ…」
「…そうだね」
「こういう、寒くて雲一つない満月の夜は、いつもあの日を思い出す」
くっと笑って、さらに盃に液体を注ぎ足す。明らかに飲み過ぎで、呼気から尋常ではない酒臭さが漂っていた。
「…はぁ。明日は朝から僕の魔法が大活躍だね。勘弁してくれよ…」
「お前さんも飲むか?」
「嫌だよ。飲めないの、知ってるだろ」
「いいじゃねぇか。どうせ二日酔いになってもちゃちゃっと魔法で治せるんだろ。便利だな、光魔法ってやつは」
「…二日酔い治すために苦労して覚えたわけじゃないんだけど」
嘆息しながら、やや呂律が回らなくなってきた雇い主の前に椅子を持ってきて腰掛ける。
「爺ちゃんに見つかったら、またお説教されるよ、ヴィー」
「ははは、いいねぇ!ダンケス翁には、ぜひともあの世から舞い戻って来て懐かしいお小言を聞かせてもらいたいもんだ!」
「…やめてよ。本当に戻ってきそうだから、あの人」
ダンケスが死んだのは、三年前の春。もともと高齢だったことに加え、長く心臓を患っていたこともあり、かつて帝国随一と呼ばれた暗殺技能を全てランディアに託しきったのを見届けた途端に、役目を終えたとばかりにすぅっと眠るように天へと旅立った。温かく穏やかな、春の日差しが降り注ぐ日のことだった。
『厳格』が服を着て歩いているような老人だったが、幼いころから何年も嫌になるほど毎日一緒にいるうちに、ふとした時に注がれる視線に、言葉の端に、彼なりの確かな愛情を感じていた。一般人と会うときには、ランディアのことを『孫』と紹介していた彼だが、案外悪くない関係だと思ってくれていたんじゃないかと思っている。
彼は、確かに、ランディアにとっての唯一の家族といっていい存在だった。
生きる術を一から教え、愛情を注ぎ――ランディアを深く、理解していた。
ヴィクターの役に立つこと。そのためには、命すら惜しまないこと。
その壮絶な覚悟にしっかりと応えることが出来るだけの技術を全て、惜しみなく与えてくれたことには感謝しかない。
「全く…ダンケス翁にも困ったもんだ。ヴィクター様、とか呼んで、これ以上なく低姿勢で馬鹿丁寧な言葉遣いな癖に――ちっとも、俺の言うことを聞きやしない」
「――…僕に暗殺技能を教えたこと、言ってる?」
「あぁ。…お前に、こんなことをさせるつもりは、なかった」
「――僕が望んだことだった、って何度も言ってるだろ」
「そうだとしても、だ。お前にこんなことをさせて――それで、確かに、助かっている自分がいる。情けないったらない」
「……ヴィーは、もっと部下をこき使えばいいんだよ。道具かなんかだと思えばいい。帝国のお偉方みたいに」
「ふざけんな。くそくらえだ、あんな連中」
酒が入って気が大きくなっているのだろう。ランディアが「お偉方」というのは、ヴィクターの兄たち皇族を指すが、ヴィクターは心底気分が悪い、という様子で口汚く吐き捨てた。
「あいつらのせいで、俺は一生負け犬だ。もう二度と――雪辱戦を果たせない。あいつらは、俺から、生涯で唯一至高の楽しみを奪いやがったんだ…!」
「あぁ――…アルクの話?僕は、王都の貧民街にいたころだったから、あんまりよく知らないんだよね」
ランディアは、そうして水を向ける。
本当は――よく知っていた。
もちろん、当時は全く知らなかった。日々を生き残ることに必死で、遠い地で行われている戦争なんて興味はなかったし、政治情勢にも軍事地情勢にも、通じる術など一切なかった。
だが、こうしてヴィクターが飲んだくれて管を巻き、延々と愚痴をこぼすのは、毎年のことだった。毎年、毎年、同じ時期になると、いつもは頼まれたって休みなんか取らない仕事人間の癖に、急にまとまった休暇を取って、このアルク領に接する軍事拠点の、決まった部屋に籠って酒浸りになる。
ここは、ランディアが最初に拾われてたどり着いた部屋だった。ランディアは、今は雇い主となったヴィクターの愚痴に付き合うようになり――毎年毎年、同じ話を聞かされている。
それでも、彼にとっては大事な行事なのだ。――儀式、なのかもしれない。
それとも――かつてこの時期に起きた大規模な戦で命を散らせた戦友たちへの弔い、なのか。
何度となく聞かされている話を、彼の気が済むまで何度だって聞くために、ランディアはヴィクターの盃に酒を注ぎ足した。
「そうだ、すぐそこのアルク平原で、俺は人生で最高の好敵手に出逢った。数十年ぶりの、王国との正面切っての大規模な軍事衝突。兵力はこちらの方がやや優勢。俺はまだ十八になったばかりのガキだったが――他の戦いで負けたことはなかった。歴代随一の戦上手、なんて謳われて、いい気になって、見事総大将に選ばれた。意気揚々と戦場に向かい、神様なんぞを信じてる軟弱者どもを蹴散らすつもりが――相手の総大将が、それはそれは見事だった」
「バルド・ガエルだっけ」
「あぁ。兵力では劣勢なのに、全く士気が落ちねぇんだ。奇襲をかけても、敵将を打ち取っても、一瞬相手が怯んで「さぁここだ!」って思って攻め込もうとすると、いきなり士気が回復しやがる。ガエル騎士団長のために!っつって突っ込んできやがるんだよ、あいつら。少しばかりの兵力差なんて、あの士気の前には無かったことにされちまう」
「へぇ…すごいんだね」
「さすが『英雄』ってやつだな。今も、王国には次の『英雄』と祭り上げられてるやつがいるようだが――正直、バルド・ガエルに比べれば全くお子ちゃまだ。領内にちょこちょこ湧き出る魔物をつぶしてるだけで、大した戦争も経験したことないひよっこだ」
「あぁ、カルヴァン・タイター。僕、彼にはちょっと興味があるよ。僕と同じ、貧民街出身だったらしいから。――あんな世界の肥溜めみたいな場所で暮らした時期がありながら、未だに王国にとどまって、神様の騎士なんてやってるその神経を、ぜひとも教えてほしいね。非常に興味深いよ、うん」
主任務は暗殺だが、諜報員としての役割も果たすランディアは、何度も王国に潜入したことがあった。その目的は、帝国に有利になる情報を持ち帰るためと――光魔法を学ぶため。光魔法の最先端は、何と言っても王国だ。その文献の量だけでもとんでもない。おかげで、ずっと独学だった光魔法も、かなり使えるようになっていた。
そんな中で、何度となく耳にしたのが、英雄カルヴァン・タイターの噂だ。
「そういえば彼、リツィード・ガエルの親友だったらしいね」
「――リツィード・ガエル…」
ぽつり、とつぶやいたのを最後に、ヴィクターは急に言葉少なくなった。酒気を帯びて赤くなった褐色の肌が、暖炉の光に照らされる。
「ふふ…ごめん、嫌なこと、思い出させちゃったね」
「いや――…いい。…バルド・ガエルとは何百回と戦ってみたいと思っているが――正直、息子を帯同させるなら、二度と付き合いたくないな。第一、あんな化け物、出てきた途端に部下どもが全員、一人残らず逃げ出す」
「ははっ、皆幼いころから親たちに聞かされてるからね。『リツィード・ガエルがやってくるぞ』って」
くすくすと笑いながら告げるも、ヴィクターの顔色は晴れなかった。
「あれは、死神だ。人の世の戦に紛れ込ますには、過ぎた兵だ。あれが一人いれば、兵力差も戦略戦術も、何もかもが無意味になる。どんなに兵を送り込もうと、たったひと振りの剣で無効化されるあの絶望感といったらなかった。挙句――本陣に踏み込んでくるから逃げろ、と伝令が走って来た時は耳を疑ったし、本気で死を覚悟した。いっそ、敵の手に落ちるくらいならお前の手で殺してくれ、と無様に副官に頼むくらいに、小便ちびりそうになるくらい恐怖した」
「ふふ…アルク以外の戦では負け知らずのヴィクターを、ここまで追い詰めるリツィード・ガエルの剣士の姿、僕も一度でいいから見てみたかったな。――僕が見たのは、磔にされた聖人としての彼の姿だったから」
赤銅色の髪をした、女顔の少年は、処刑台の上で石を投げられ――それでも民を救った、まさに慈悲の塊とも言える神の化身だった。
慈悲のかけらもない、この国に伝わる『死神』リツィード・ガエルとは、どうしても重ならない。
「確かに、あいつは、とんでもない剣士だったし、あいつによって殺された部下たちが無数にいるのは事実だが――だが、それでも、あんな風に死なせていい奴じゃ、なかった」
「――――――…」
ぽつり…とつぶやかれた声が、月光が差し込む薄暗い部屋に染み渡るように消えていく。
「戦場に立たせりゃ死神だが――ひとたび戦場を離れれば、たかだか十五になったばかりの、ガキだったはずだ。尊敬していた剣の師でもある父親を、敵国の卑怯な策謀によって亡くし、敬愛する母の心が壊れていくのを目の当たりにしながらその自死を看取り――そんな状況に置かれた十五歳の精神状態に、あんな壮絶な最期を演出して持って来れる、兄上どもの考えは、本当に理解が出来ない」
「…それなのに、反対にこっちの策略を全部ひっくり返して、強力な結界まで張っちゃったからね。魔物以外の物理的なものを遮る力がない光魔法の結界だけど、魔物と契約している闇の魔法使いは、聖人の結界の中には入れない。お偉方は歯噛みしただろうね。せっかく『闇魔法』なんていう王国相手には随分と強力な攻撃方法を手に入れたと思ったのに、あっさり無効化されちゃって」
「――いい気味だ。卑怯な小細工なんかしようとするから、痛い目を見る。やるなら正々堂々、正面からぶち当たればいい。あいつらのやり方は、俺の美学に反する」
「…ふふ。僕は嫌いじゃないよ、ヴィーの美学」
ランディアは静かに笑う。
彼の美学は嫌いじゃない。彼が美学を語り、それを体現しようとするその姿は、生き生きとしているのを知っているから。
だから――自分がいる。
彼の美学に反する、汚いことは全て、自分が請け負う。彼が真に貫きたい矜持を、決して折らせず貫き通させるために。
「そういえば、知ってる?最近、リツィードが張った結界にほころびが出てるんだって」
「………そういう報告が入っているのは知っている」
「これ幸いと、また闇の魔法使いを量産する意向らしいよ。お偉方は」
「――――…あぁ」
小さくうなずいてから、ヴィクターは酒瓶を傾ける。わずかな液体が流れ出た後、すぐに枯渇し、ぴちょん、と小さく琥珀色が盃に波紋を作った。ヴィクターは少し不愉快そうに眉をひそめた。
「…ねぇヴィー」
「何だ」
「ヴィーは、ただ、命令するだけでいいんだよ。――僕なら、一晩で、五人全員あの世に送ってやれる」
「――――――――!」
五人――が誰を指すのか。
言うまでもないだろう。ヴィクターの継承権は、五位なのだから。
「やめろ」
「でも、嫌なんだろう?手っ取り早く、ヴィーが皇帝になっちゃえばいい。爺ちゃんもよく言ってただろ。大丈夫、実行犯の痕跡は残さないし――仮にばれても、ヴィーはトカゲのしっぽみたく、僕を始末すれば、万々歳だ。誰も困らない。みんな幸せ」
「そんなこと、絶対にしない」
「でも、お偉方の命令には逆らえないんだろう?ヴィーの部隊だけ、闇の魔法使いを使わないなんていうのは、聞いてもらえない」
「っ…」
「誰に白羽の矢が当たるかな。――僕は、ドナートあたりが怪しいと思ってるけど」
「やめろっ!」
ガシャン!
力任せに空になった酒瓶を足元に叩きつけると、透き通った深緑の空き瓶はあっさりと粉々に砕け散った。
「そんなことは、させない…っ!ドナートを、そんなことに巻き込めるか…!シュヴィットに、どの面下げて――」
「――でも、お偉方から見たら、彼は適任だよ。帝国を、ヴィーを、狂信といっていいほど信奉している。打倒王国を心より叫んで、そのためなら命だって惜しまない。――お兄さんのことがあるから、なおさらね」
ドナート・ファフナーは、シュヴィット・ファフナーの歳の離れた弟だった。
シュヴィット・ファフナーは、アルク平原に出た時のヴィクターの副官であり――文字通り、その身をもってリツィードの進軍を止め、総大将を逃がした張本人。そして――ヴィクターとは、唯一無二の心を許せる側近であり、親友であり、戦友だった。
歳の離れた弟をひどく可愛がっていたシュヴィットは、最後に『弟を頼む』といってリツィードの剣に自らを差し出した。帰国し、兄の最期を聞いたドナートは――数年後、理想的な帝国主義者になり、王国を憎む、典型的な帝国軍人となってヴィクターの前に現れた。
十五の徴兵で初めて配属された部隊は、ヴィクターの兄が統括する部隊だったと言う。ただでさえ人より大きかったであろう王国を憎む心を、その部隊で良いように利用され、洗脳され――いつの間にか、立派な帝国の操り人形に変わり果てていた。
そして、完全に洗脳が完了した後、ヴィクターの部隊へと配属されてきたのだ。兄たちの思惑が透けて見えるようで、大事な親友の忘れ形見をそんな風にした兄たちにも怒り心頭だったし、何よりそんなことを許してしまった自分が不甲斐なかった。ヴィクターは、見え隠れする兄たちの不穏な思惑を感じながらも――本人には何の罪もないドナートを、受け入れざるを得なかった。
きっと、彼は――こういう時に、真っ先に闇の魔法使いにされるために、洗脳されてきたのだろう。帝国のために命を捧げる狂信者として――国の意向に従順とは言い難い第五位継承権を持つヴィクターの枷として。
「ドナートを、国に利用なんぞさせない…!お前にも、皇帝殺しの汚名を着せるようなことはさせない…!」
「汚名って…別に、暗殺者なんだから、誰を暗殺しようと『お仕事』だよ。僕自身の評判なんて、気にするだけ無意味だ」
「っ――――!」
ヴィクターは酒気ではない理由で顔を赤く染めてぐっとこぶしを握り――そのまま、ふっと開いた。
「――お前は、ダメだ。暗殺者に、向いていない」
「…へぇ?ちょっとそれは、聞き捨てならないな。爺ちゃんの全盛期にも匹敵する暗殺者と言われるようになって久しいと自負してたんだけど」
ランディアの口に、にぃっと形だけの仮面の笑みが浮かぶ。昏い影を落とした瞳は、全く笑っていない。
ヴィクターは、開いた掌を額に当てるようにして呻く。
「お前は――甘い」
「――――――…」
「スキルは一流だ。超一流だ。若かりし頃のダンケス翁と引けを取らないのは事実だろう。だが――気質は、暗殺者に向かない。現役時代のダンケス翁とお前は、その観点でまるで違う」
「水臭いな。具体的に言ってよ。直すからさ」
「はっ…やめてくれ。俺はその甘さが、嫌いじゃないんだ」
何かを飲み下すようにして喉を嚥下させ、ヴィクターは呻く。
そして、ゆっくりと立ち上がった。一瞬、酒気のせいで足元がおぼつかなくふらつくが、ぐっと耐えるように体勢を立て直す。
「酒もなくなった。今日はもう寝る」
「……うん」
「…俺は、何があってもお前たちだけは絶対に護る。相手が兄上どもでも、だ。――部下を犠牲に生きながらえる将ほど、みじめなものはない。俺の美学に、反する」
「――――馬鹿だな、ヴィーは」
ポツリ、とつぶやくように言った言葉は、聞こえたのか聞こえなかったのか。
後ろ手に軽く手をあげて、ヴィクターはゆっくりと薄暗い部屋を後にした。
独り残された部屋の中で、ランディアはゆっくりと視線をめぐらす。
初めてこの部屋に来た時のことを思い出す。今日も、あの日と同じく、微かな暖炉の灯が揺れる部屋を、蒼い月が音もなく見下ろしていた。
この軍事拠点には、部屋などいくつもある。当然、ヴィクター専用の部屋もある。それでも、毎年、彼がこの時期に籠って酒を飲むのは、決まってこの部屋だった。死んでいった部下と戦友を偲び、後悔の残る過去を振り返り、酒でその悔恨を押し流すように飲み下すその場所に、この部屋を必ず選んでくれるのは――ヴィクターもまた、あの日の出逢いを、ランディアのことを、特別に思ってくれているとうぬぼれていいのだろうか。
「…なんてね」
甘い、と言われた言葉が蘇って、ふるり、と頭を振る。こういうことを考えるところは、確かに甘いと言われても仕方がない。
ヴィクターは、今や、ランディアにとっての『雇い主』だ。恩人であることに変わりはないが、自分が彼にとって、枷になることだけは許されない。
暗殺者は道具だ。雇い主の奥の手、隠された必殺の刃だ。特別磨き上げられた有能な『道具』となる必要はあるが――手放すのが惜しい『部下』になってはいけない。暗殺という仕事は、常に策謀の最先端にいる。主の立場を悪くするような仕事こそ、有能な暗殺者に任されるべきだからだ。だからこそ――いざというときは、いつでも禍根なく捨てられる『道具』でなければいけない。
だから、『雇い主』なのだ。決して、『上官』ではない。『家族』でも『友人』でもありえない。
「本当に、馬鹿だなぁ…ヴィーは、一言、命令するだけでいいのに」
苦い笑みを口の端に刻んで、ランディアも腰を浮かす。
ランディアは、道具だ。ヴィクターが、美学を完遂するための、折れない刃。そのための厄介ごとは、全て引き受け――そして、主の業の全てを背負って、身代わりとして死ぬのが運命。
今、ここで、帝国のお偉方の不興を買うわけにはいかない。ドナートを差し出さない、とどんなにヴィクターが頑なに主張したところで、ドナート自身は喜んで帝国繁栄の礎となるため、王国民を不幸のどん底に叩き落とすため、その身を自ら差し出すだろう。それこそが、お偉方がドナートを洗脳した状態でヴィクターの下に送り込んだ理由なのだから。
だが、きっとそれはヴィクターの美学に反する。
唯一無二の親友を、死神の凶刃の犠牲にすることで生きながらえた彼は、その親友の忘れ形見を卑怯な策謀の手先にすることをひどく悲しむはずだ。
「――お仕事の時間、だね」
窓辺に寄って月を見上げて、時間を図る。いつかと同じ冷ややかな蒼い月光が差し込んできていたが、もう、あの頃のような凍える寒さは感じられなかった。
ランディアは、暖炉の火を静かに消すと――そのまま、音もなく、漆黒に飲まれた闇の中へと消えていった。




