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聖女転生物語  作者: 神崎右京
第六章

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78、漆黒の『楽園』②

「いっ…たぁ…」

 じわっ…と何やら染みる液体がたっぷりしみ込んだガーゼを、優しさや労りといった要素が皆無な手つきで乱暴に擦り傷を負った頬に押し当てられ、思わず声が漏れた。

「ふむ。これでいいだろう。手足に凍傷が見られるから、しばらくはしっかりと温めることだ」

「は…はい…」

 感情を全く感じさせない平坦な声音は、老人らしくしゃがれていた。右頬から訴えるように発せられるジンジンとした薬液による痛みに耐えながらランディアは寝台の傍らに立つ老人を見上げる。

 ここに連れてこられた翌朝、ヴィクターによって呼ばれたのがこの老人だった。頭髪は老人らしく真っ白に染まっているが、禿げてはおらず、背中まで伸ばした長髪をひとくくりにしてだらりと好きに遊ばせていた。眉まで白く染まっているのに、ひげは一本も生えていないのは、しっかりと身だしなみを整えているからだろう。深いしわがいくつも刻まれた顔の中で、その皺の隙間から覗くような双眸は、老人と呼ぶにはふさわしくないほど鋭い漆黒の光を纏っていた。

(――同じ、色)

 思わずその瞳をじっと感動を伴って見つめる。ランディアにとって、生まれて初めて見る、自分と同じ色の瞳を持った他人だった。

「何だ。わしの目を真っ直ぐに覗き込むとはいい度胸をしているな、童」

「はっはっはっ!確かに、肝が据わっている!ダンケス翁の眼光を前にして泣きべそをかかない子供なんて初めてじゃないか?」

 隣にいたヴィクターが、体を折って大きな笑い声をあげる。むっつりとした顔をしていたダンケスと呼ばれた老人は、今度は不機嫌を表すように微かに頬をしかめた。ほんの少ししか動かない頬は、表情筋が仕事をしないように出来ているのか、皇族たるヴィクターの手前、自制しているのか。

「ヴィクター様。わしに頼み事とは、この小童のことで?」

「あぁ。ちょいと訳ありでな。孤児で、引き取り手を探している」

「――――――まさかとは思いますが、わしに預けよう、とでも…?」

 どうやら表情筋は自制していただけだったらしい。今度は明らかに不愉快、という顔を隠しもせず渋面が皺だらけの顔に刻まれる。

「ヴィクター様が幼いころよりその成長を見て参りました。いつもいつも、突拍子もないことを考える御方とは存じておりましたが…まさか、ここまでとは」

 枯れ木のような皺だらけの細い手を額に当てて、緩く頭を振る。ヴィクターは、そんなダンケスの様子にくくっと笑いを漏らした。

「いいだろう。孫が出来たと思え」

「冗談はよしていただきたい。妻も子供もおらぬのに、一足飛びで孫、とは」

「だから、だろう。引退した独居老人の孤独死を避けようという元雇い主の粋な計らいと思ってくれ」

「――――…」

 ダンケスは、さらに眉間にしわを刻み込む。何を言っても無駄だと悟っているらしい。

「俺が引き取るわけにもいかんだろう。立場上、面倒なことになる。だが、このまま市井に放り出して野垂れ死なれるのは困る。拾った以上、責任をもってやりたいんだ」

「…だからと言って、なぜ、よりにもよってわしなのです。ドナートあたりにでも押し付ければ――」

「あんな奴に任せたら、即行で首を叩き落とされかねない」

 苦笑と共に言われた言葉に、ピクリとダンケスの白い眉が反応した。ちらり、と元雇い主と呼ばれたヴィクターを見上げる。

「おい、ディー。お前、名前を何と言ったか…あの、呼び辛い名前だ」

「あ、は、はい。ランディア、です…」

「――――…ふむ…」

 すぅっと皺の隙間の眼光が冷ややかな光を放ち、眇められる。じろり、と頭の先から値踏みするように眺められ、ランディアは居心地悪くその場で佇まいを少し直した。

「これを、わしの後継として育てろ、とそうおっしゃるつもりか」

「そう怖い顔をするな、翁。そんなに物騒な話じゃない」

 軽く手をあげて老人を制して、ヴィクターは小さく息を吐く。

「後継といっても――"今"のお前の後継者として育ててほしい」

「――…お話の意図が読めません」

 眉間にしわを寄せて怪訝な表情で見上げる。ヴィクターは、苦笑に近い笑みをその褐色の肌に刻んだ。

「"薬師"ダンケス・ジュートの後継者として育ててやってほしい、ということだ」

「――――――」

 ピクリ、と白い眉が神経質そうに一つ動く。

 居心地が悪い。ランディアは、もぞもぞと尻を動かして、じっと二人の会話の成り行きを聞いていた。

「わしの手は、子供を育てるようになど出来ておりませぬ。人の命を奪うことは得意ですが」

「引退するまでは、だろう。今は薬師として、人の命を救っている」

「昔取った杵柄で、毒を扱う知識が長じただけです。手先が器用なことも活かせる職が、他になかった」

「十分だ。俺は、過去にはこだわらない。過去のお前が、他国に誇れる帝国随一の工作員だったとしても、今のダンケス翁はまぎれもなく優秀な薬師だ」

「工作員、などと――正しく、暗殺者、とお呼びください。決して誇れた職ではないのですから」

「――…あまり、その呼び名は好きじゃないんでな」

 ヴィクターは鼻の頭にしわを寄せて渋面を作った。

 ランディアは、おろおろと二人の間で視界を揺らめかせる。自分の置かれた境遇が気がかりなのに加え、今まで聞いたこともないような物騒な世界の話に、心臓がどきどきと脈打っていた。

 確かに、ダンケスの瞳の鋭さは、決して堅気の老人が出せるようなものではない。かなりの老齢だろうに、腰一つ曲がっておらず、部屋に入ってきたときは足音すら立てなかった。過去、彼が身を置いていた世界での境遇を思いやるにはそれだけで十分だった。

「おそらく、十分な教育も受けていなかったと思われる。読み書きから、薬師としての知識から――こいつに、生きるための術を与えてやってくれ。いつか、俺やお前が死んだ後でも、独りで生きていくことが出来るだけの、力を」

「――!」

「……ふむ…」

 しばし何かを考えていたダンケスは、もう一度ランディアを見る。

「童。お前、何か得意なことはあるのか」

「あ、え、えっと…て、手先は、器用だと、思う…昔から、財布を掏るのは、得意だった…」

「なるほど。どうやらよっぽどの悪童らしい」

 不愉快そうにダンケスは顔をしかめ――

「わかりました、ヴィクター様。わしがこの童を引き受けましょう。ただし、寝床を貸して教育を施すだけです。この童が環境が気に入らぬと逃げ出し野垂れ死んだとしても、文句はいわんでいただきたい」

「さすがに怖いな、ダンケス翁は。もう少し優しく出来ないか」

「そう思われるなら、別の人間に」

「はぁ…わかったわかった。お前に任せる。――おい、ディー。お前の根性なら大丈夫だと思うが、くれぐれも気張れよ。ダンケス翁は本気で厳しいぞ。昔から、皇族の俺にも全く容赦がなかった」

「立派な皇子となっていただくためです」

 無表情のまましゃがれた声でしれっと答え、ランディアに冷ややかな視線を落とす。

「面倒だと感じたならいつでも放り出す。覚悟を持ってついてこい」

「はっ…はいっ…」

 そうして、ランディアはダンケスと共に暮らすことになったのだった。



 それからの日々は、毎日が刺激的で、とにかく楽しくて仕方がなかった。

 新しいことを学ぶことは、それだけで楽しく興味が尽きない。今までの人生を取り返すかのように、ランディアは乾いたスポンジのように、ダンケスから様々な知識を恐るべき速度で吸収していった。

「ディー。今日はヴィクター様がいらっしゃる。もてなす準備をしておけ」

「うん、わかった。今日は寒いから、薪も多めに用意しておくね」

 ダンケスの下で育てられるようになって一年もたつ頃には、ランディアは同世代の少年たちと同じ――いや、それよりもはるかに優秀な人材となっていた。森の最奥で、人目を忍ぶようにひっそりと生きる、まるで世捨て人のようなダンケスの暮らしだが、時折その優秀な薬師の噂を聞きつけて客がやってくる。よほど難しい症状でもない限り、ランディアでも患者を捌くことが出来るくらいには、薬師としての知識も腕前も、一人前と言ってふさわしいほどになっていた。

 ヴィクターは、さすがに忙しいのだろう。めったに顔を見せることはなかったが、それでも一つの季節の変わり目には必ず一度、この深い森に囲まれた簡素なあばら家に訪れ、ランディアの様子を聞いていく。ダンケスは皇族に出向いてもらうような家ではないと、こちらから赴く旨を伝えたが、「俺が無理を言って頼んだ仕事だから」「普段の暮らしぶりをこの目で見たいから」と言って決して聞き入れることはなかった。最初に彼が「責任を持つ」と言っていたその言動の表れのようだった。

 ランディアは、午後に訪れるというヴィクターをもてなすために、いつもより多めに薪を割り、それを運ぼうとして――

「いたっ…」

 棘が刺さり、思わず呻いていくつかの薪を取り落としてしまった。

「ぅ…結構太いな…」

 刺さった左手を見ると、なかなかな太さの棘がぶすっと力強く刺さっている。慌てて大量の薪を持ったのが良くなかったのかもしれない。

 ランディアは刺さった棘を抜いてから、ぶんぶん、と頭を振って周囲に誰もいないことを確認し――

 ぱぁっ――

 意識を集中するだけで、血を流す左手に光が集う。次の瞬間には、すぅっと傷が消えていた。

「……はぁ」

 魔法、というものを覚えたのは最近だ。きっと、今日、ダンケスはそれをヴィクターに報告するだろう。それを思うと、どうしても憂鬱な気分にならざるを得なかった。

 王国では、初等教育を受ける六歳になった途端に『見極めの儀』を受ける義務があるが、貧民街で泥水をすすっていたランディアにそんな制度が適用されるはずもなく、帝国に来てダンケスから魔法の使い方を習うまで、自分の魔法属性が何かを知らないまま生きてきた。

(まさか――光魔法だったとはね…)

 憎んでやまない出身国を象徴するかのような属性なのは、何の呪いなのか。神様とやらがいるとしたら、どうにも自分のことが大嫌いらしい。

 帝国では、光魔法の属性を持つものは迫害対象になるため、無属性だと偽って生きていくことになるのがほとんどだった。光魔法の中には、治癒魔法などの日常生活で有益なものがたくさんあるのは確かだが、それよりも憎きクルサールを思い出す感情の方が先に立つらしい。ゆえに、王国にいたころはほとんど見たことがなかった薬師という存在が帝国中に存在していて、病気もケガも、全て治癒を請け負うのは薬師の仕事だった。調合次第で毒の作成も自由自在なその仕事は、国の許可を得て行う必要があり、資格試験に合格してからでないと薬師と名乗ることはできない。資格試験自体が難関で、薬師になることが出来れば、軍人になる以外ではこの国で最高額の収入を得られるスタートラインに立ったということになる。体力や腕っぷしに自信のない者が一獲千金を狙うにはちょうど良い職業で、特に帝都での営業権を得るための資格試験はとんでもない倍率を誇っているらしい。

 そこまで薬師という職業が発達した社会において、光魔法の必要は皆無だった。ランディアもまた、市井に出るときは己の魔法属性を隠す必要があるだろう。

(…ヴィーに、嫌われないと、いいけれど)

 心の中で独り言ちて、自分の言葉に自分で傷つく。どんよりとした気持ちになって、我知らず重たいため息が出た。

 光魔法は、嫌悪の対象であり、迫害の対象だ。

 半分ファム―ラの血が入っているとはいえ、ヴィクターは皇族。生粋の帝国軍人だ。何度か、彼の伴としてここにやってくる帝国軍人のステレオタイプ、という人間たちを見てきたが、彼らはランディアが光魔法を使う者だとわかれば蛇蝎のごとく怒り、すぐにヴィクターから遠ざけようとするだろう。

 たまたま偶然拾った縁で、同情と責任感だけでここまで面倒を見て気にかけているヴィクターも、ランディアの属性が光魔法使いだと知ったら手の平を返す可能性がある。

 それも仕方ない――とは思うが、恩人に何も返すことが出来ないまま拒絶されるのは、さすがに心が痛んだ。

「文献も何もないから、大した魔法使えないのにな…」

 光魔法使いは、帝国内に先達がいない。ゆえに、全て独学にならざるを得ない。基本的な魔力の練り方はどの属性でも共通だが、何が出来るのか、を具体的に知識として知らない限り、魔法の効力を具現化することは難しい。その点で、ランディアは光魔法使いとしてもとにかく中途半端だった。今出来るのは、解毒と、簡単な怪我の治癒。それだけだ。

 せめて、強力な光魔法使いになることが出来たら――薬師では治せない怪我や病を治すことが出来るのではないだろうか。

 薬師は、結局、薬を使ってその人間自身の自然治癒力を高めることしかできない。光魔法とは、効力もそのスピードも比べるべくもなかった。

 奴隷としてでもいい。迫害された状態でもいい。

 道具としてで、構わない。

 いつも戦場に立ち続けている、褐色の肌の恩人の、有事の際に駆けつける、体のいい万能薬として、使ってもらえたら――それだけで、十分すぎるのに。

 ランディアは、どうすることも出来ない無力感を噛みしめてから、落とした薪を拾い集めたのだった。

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