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聖女転生物語  作者: 神崎右京
第六章

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77、漆黒の『楽園』①

「はっ…はっ…はっ…」

 自分の吐息以外、何の音も聞こえない、痛いほどの静寂。日が出ていた時に舞っていた雪は、いつのまにか降りやんで、針のような冷たさを惜しみなく小さな体に突き立てる。とっくの昔に手足の感覚はなくなっていたが、ただ、何かに突き動かされるように無心で足を進めた。

 深い深い夜の底。風すらも凍り付いたような夜空を見上げれば、ぽっかり浮かんだ蒼い月だけが、幼い身体を冷ややかに見降ろしていた。

 見渡す限りの平原。数年前に、血で血を洗う凄惨な戦が行われたというこのアルク平原は、今は人っ子一人見当たらない。草木も眠りについたように、乾いた土だけがひたすら続く。この土が、いったいどれだけのおびただしい血を吸ったのだろう。

(まだ――…生きて、いる…)

 翳む視界の中で、はぁっ…と吐きだした息が白く染まったのを認め、まだ自分が生きていることを知る。生きているなら、足を進めよう。

 このまま凍え、かつてこの地で最期の刻を迎えた人々と同じく、自分もこの枯れ果てた大地の土くれとなるのだとしても。息が続く限り、足が前に進む限り、一歩でも、前へ。

 話にしか聞いたことのない、幻の漆黒の楽園に向かって――

 びゅぉ――

「っ……!」

 凍り付いていたはずの風が、急に思い出したかのように吹き荒び、幼い身体がぐらりと揺れる。貧困ゆえに、八歳にしては痩せ細って小柄な身体は、あっさりと荒れ狂う風に負けて軽く吹き飛ばされた。力を込めて堪えようにも、悴み切った身体は感覚などとうに無くなってしまっている。

「くっ……!」

 ずざっ…と思わず倒れ込んだ先には、固く冷たい大地。頬が擦れて傷が出来たのか、無くなっていたと思っていた感覚が、一丁前にかすかな痛みを訴える。

「……ぅ…」

 一度倒れ込んだ先で――再び立ち上がる力が、残っていない。手も足も、力を入れているつもりなのに、感覚がなくて、指先一つ動かせない。

(あぁ――…自由がない、のは、『怖い』…な…)

 ふと、王都で最後に見た光景を思い出す。

 四肢を縛り付けられて、集まった民衆に無抵抗のまま石を投げられていた少年。

 すべての記憶を忘れ去りたいと思うほど蛇蝎のごとく嫌っていた真っ白な地獄の中で――どうしてだか、あの光景だけが、忘れがたく酷く脳裏に焼き付いていた。

 こうして四肢が動かなくなって初めて、自由がないということへの恐怖を感じる。

 物心ついたころからずっと、謂れのない不自由とそれに対する反抗だけが傍らにあった。髪の色だの、瞳の色だの、自分ではどうしようもないもののせいで、人々は正義を口にして幼い子供に石を投げた。自分の力の及ばぬ事象を運命と呼ぶのなら、それによって不幸になるなど、不公平にもほどがある。どんなに考えても納得など出来るはずもなく、石を投げられ拳を振るわれた相手にはいつだって抵抗し、反抗した。せめて髪を染めさえすればもう少し生きやすくなったのだろうけれど、今まで自分を好きなように翻弄しせせら笑って来た『運命』とやらに負けるようで、どんなに痛みを伴おうと強情に意地を張り続けた。あざを作り、血を流し――それでも、心は、折れなかった。

 それは、石を投げられても、歯向かうための体の自由が約束されていたからだということを知る。

 今、こうして、自然の暴力に対して何一つ抵抗できず、四肢の自由すら奪われたとき――初めて、恐怖を覚えた。

 眼前に迫る、巨大な脅威に、何の対抗策もなく、ただ従順に迫りくる死を受け入れねばならぬという現実。翳んでいく視界と、耳元でうなる凍った風の音。王都にいたころは、不幸の中でも煌々と燃えていたはずの命の灯が、蝋燭よりも心もとない揺らめきへと変わっていく。

(あの人は――この恐怖に、打ち勝ったのか…?)

 狂気に塗れた都から、なすすべなく逃げ出す背中に響いた、不思議な声と空を覆っていく光魔法を思い出す。

 石を投げられ、炎に身を焼かれ――それでも彼は、民を救った。

 己の死から一瞬たりとも目を逸らすことなく、不当に奪われた自由を嘆くことなく、いわれなき暴力に怒ることもなく。

 あぁ――それでも。

 それでも、恐怖は、感じていたのではないだろうか。

 恐るべき心の強さで、気丈にふるまっただけで――この恐怖だけは、人類に等しく降りかかるのではないだろうか。

(だって、僕には――…無理、だ…)

 はらり、と。

 王都にいたころは一回だって流れなかった涙が、一筋零れ落ちるのを感じた。

 謂れなき暴力で激痛を堪える日も。耐えがたい空腹で眠れない夜も。母親が死んだ朝だって、涙は一筋も流れなかった。

 それなのに、今、恐怖のあまり涙がにじむ。

 抵抗は、反抗は、ランディアにとって、生の証明だった。

 どんなに不幸と呼ばれる運命の最中にあっても、今ここに自分が生きていると証明するための唯一の手段だった。

 己の存在証明の方法を奪われ――初めて、ランディアは恐怖したのだ。

(寒い――寒い、怖い…怖い、怖い…!)

 どんどん翳んでいく視界に、言い知れぬ恐怖が這い寄って来て、情けなく幾筋も涙がこぼれた。伝った涙の跡がすぐさま乾いた風に撫でられて、気化熱のせいでただでさえほとんど残っていないわずかな熱をも奪っていく。

(助けて――助けて、助けて、誰か助けて――!)

 ランディアに、縋るべき神はいない。

 凍り付くほどの冷たい蒼い月光の中で、八歳のやせ細った少年は、ただ世界のどこかにいるかもしれない自分を助けてくれる『誰か』に胸中で必死に助けを求めたまま――翳んだ視界は、闇へと沈んだ。



 パチッ…パチッ…

「――――…」

 音ということすら烏滸がましいほどの微かなその音で目を覚ましたのは――それが、意識が途絶えるその瞬間まで、ひたすらに焦がれた音だったせいかもしれない。

 ゆっくりと瞼を開けると、最初に目に入ったのは、人生で一度だって見たことがないくらいの豪奢な装飾が施された天蓋。薄暗い部屋の中は、目を閉じる前の蒼い月光とは対照的に、ほんのりと紅蓮の揺らめきが支配していた。

(――ここは…?)

 母が死ぬ前にうわごとのようにつぶやいていた、死者の国とは様子が違う。ここは光に満ちているわけでもないし、神様とやらが祝福と安らぎを与えに来てくれるわけでもないらしかった。

(生き、てる…?)

 ぼんやりと何度か目を瞬いた後、ゆっくりと頭をめぐらす。なんとなく首を傾けたのは、音ともいえぬ音が響く方向だった。

 巡らせた視界の中に、火の粉を爆ぜさせ、確かな大きさを持った紅蓮の揺らめきが映りこむ。

「――――――火――…」

 焦がれて、焦がれて、やまなかったその揺らめきに、思わず感動に震える声音でつぶやきを漏らすと――

「――ん?あぁ、起きたか」

 暖炉の傍に腰かけていた男が、気づいたように顔を上げた。

(――――――黒い)

 最初に抱いた感想は、それだけだった。

 暖炉の火だけが唯一の灯りのこの薄闇の部屋の中で、その大柄な男は、周囲に溶け込むような漆黒の衣をまとっていた。短く刈り込まれた藍色の髪も、王国ではまず見ることのない褐色の肌も、その闇に溶け込むのを手伝っている。

 エルムを思わせる白色で塗りこめられた都で育ったランディアにとって、漆黒に染まるその男は、未知との遭遇に他ならなかった。

「お前は、運がいいな。たまたま俺が通りかからなかったら、間違いなく死んでたぞ。凍死だ、凍死。嫌な死に方だな。子供がするような死に方じゃない。感謝しろよ、俺に」

「――――――…ぁ…うん…」

 こういうとき、王国だったら――間違いなく、『神』に感謝することを迫られる。

 『俺』に感謝をしろ、という目の前の褐色の肌をした青年は、今まで周囲にいた大人とは明らかに一線を画していた。

「とりあえず、これでも飲め。身体が温まる」

 鍛え抜かれた逞しい腕で体を起こされ、ずいっと無造作に湯気が立ち上るマグカップを差し出される。思わず反射的に受け取ってしまった。

「ぁ――あり、が、とう…」

 自然に、言葉が漏れた。――貧民街では、決して口にする機会がなかった言葉だったが、何故か、自然と、口をついていた。

 受け取ったカップからじんわりと伝わる熱が、心まで伝わったのかもしれない。

「――…ここ、は…?」

「帝国の端っこだ。アルク平原に接した国境沿いの軍事拠点――って、ガキに言ってもわかんねぇか。そうだな、俺の別荘みたいなもんだ」

 ニッと笑う。男の体の中で唯一といってもいい白が、初めて覗いた。

「帝国――…」

 信じられない思いでつぶやく。

 ついに――ついに、たどり着いたのだ。

 憧れ望んでやまなかった――漆黒の楽園に。

「それで?――お前さんは、あんなところで何してたんだ?」

「――――!」

「家はどこだ。あんな場所で、迷子もくそもないだろうが――街が分かれば、送り届けてやる」

「――ぁ…」

 どくん、と心臓が不規則な音を立てた。目の前の青年が言う"街"とは――当然、帝国内の街を指しているのだろう。

 ぎゅっと温かさに縋るように、手元のカップを我知らず握りこむ。

「親はどこだ。お前みたいな小さい子供を放って何してる?」

「――親、は――…死んだ…少し前に」

「――――――…そうか」

 すっと表情を消し、感情が読めなくなるが――男は、それ以上何も言わなかった。

 慰めも、同情も、何も。

 それが、ランディアには――心地よかった。

「名前は?家名が分かれば、親族をたどってやることが出来るかもしれん」

「――…ない」

「?」

「生まれた時から、家はなかった。母親は、名前だけは教えてくれたけど――家につながることは、何も」

「…おいおい、なんだ。急にきな臭くなったな。訳アリか?」

「――――…こんな、見た目、だったから」

 ぽつり、とつぶやいたとき――相手を見やることは、出来なかった。

 見たことのない華やかな刺繍が施された、触ったことすらないほど高級な、温かな布団。それをただ眺めながら、ランディアは言葉を紡ぐ。

「"異端"だって言われた。憎き悪魔の血だ、異教徒だ、敵国の間者だって言われた。何もしてなくても殴られて、石を投げられた。そこに生まれただけで、その瞬間から、ただ純然たる"悪"だった」

「――――――」

「何もしてない。――何も、して、ない。ただ――生まれた、だけだった」

 ぎゅっと縋るように力を込めた手元からは、もう湯気は立ち上っていない。ひやり、と蒼い冷気が指先によみがえるような錯覚があった。

 震えそうになる指先を、声を、必死に全身に力を込めて耐える。

 四肢に力が籠められ自由なうちは――絶望的な恐怖に捕らわれることはないと、今日、初めて、知ったから。

「吐き気がする神様の教えとか、頭が狂いそうになる慈悲の心得とか、そんなものに囲まれて――逃げたくても逃げられなくて、毎日、必死に、ただ、ただ、生きて。こんな自分でも、『生きててもいい』って思いたくて、生きて、生きて、生き抜いて」

「………」

「でも、いつか、誰でもいいから――"誰か"に『生きててもいい』って言って欲しくて――っ……ここなら、こんな見た目でも、受け入れてくれる人がいるんじゃないかって――そう、思ったんだ…」

 ふっ……と拳から力抜ける。最後の声音は、自分でも情けなくなるくらいに弱々しかった。

 幼い少年の胸に迫る告白は、彼の今までの人生とその背景を知るには十分だったろう。男は翡翠の瞳を静かに伏せて、ただ少年の言葉を受け止めるように耳を傾けた。

 不意に落ちた沈黙の中で、パチリ、と唯一の明かりでもある暖炉から、火の粉のはぜる音がした。

 何かを考えていたらしい男は、結論が出たのか、一つ息を吐くと、少年の寝台に近寄り、傍の椅子に腰かけた。

「質問に、答えてないだろう。――お前、名前は」

「――え…?ぁ……ら、ランディア…」

 先ほどまでの話にまったく触れることなく問いかけられ、あっけにとられながら答える。視線を上げると、翡翠の瞳が、柔らかく緩んでこちらを見ていた。

「ラン――…相変わらず、王国人の名前は発音しにくいな。おまけに、長い」

「え…えぇ…?」

「言葉が通じるのだけが救いだが――そうだな…」

 もともと、帝国は王国の元となった国家の元首の血筋が建国した歴史があるため、両国で使用される言語は同じだ。名付けをはじめとするそれぞれの国の文化や風習は正反対だったが、予期せず拾った相手国の幼子と意思疎通がスムーズにできることだけはありがたかった。

 男はしばし考え――

「ディー。これなら、俺にも呼べそうだ」

「――――――――」

 ぱちり、と目を瞬く。ふっと褐色の頬を歪めるように、目の前の男が笑った。

「俺の名前は、ヴィクターだ。言えるか?」

「ヴぃ、ヴぃく――…?」

「じゃあ、ヴィー、でいい。――そう呼ぶのは、今はもう俺の母親くらいなもんだが、お前には特別に許可してやろう。感謝しろよ」

「……ヴィー…」

「あぁ。――俺も、お前と一緒で、家名はないんだ。お前みたいな理由とはちょいと違うんだが」

 人を食ったような笑みで言った後、ヴィクターと名乗った漆黒の青年は、ゆっくりとランディアの手を覆うように己の手を重ねた。

 いつの間にか冷えて凍えていた指先が、予期せぬぬくもりに包まれる。

 それは――永遠に消えない、優しい温もり。

「この国の最高権力者の一族が、お前の入国を認めよう。――今日からここが、お前の国だ」

「ぇ――」

「お前を迫害し、追い出した国とは違う。ここにはお前の同胞がいて、お前が生きることに異を唱える者は存在しない。お前が生きることをあきらめないなら、俺はそれを、最大限に支援しよう。同胞たる幼子が餓えぬ、凍えぬ、孤独に震えぬ、そんな国を作る義務が、俺には――俺の一族には、ある」

「――――――」

「だから、ディー。お前は、ここで――胸を張って、生きていていいんだ」

「っ――――――」

 ぽたり――と、熱い滴が、ヴィクターの手のぬくもりで温まった手に零れ落ちた。

 恐怖でなくても涙が出ることを――こんなにも、熱い涙をこぼすことが出来ることを、ランディアは、生まれて初めて、知った。

 もう、凍える夜も、蒼い月光も、何一つ怖くはない。今日、この男が手を取ってくれたこの温もりは、きっと、永遠に消えないから。

 縋る神はいなくても――凍えた平原で、誰にも聞かれることのない助けを求める声を、聴いて、拾ってくれたのはこの男だった。

 だから、今度は、自分の番だ。

 世界で一番欲しくてたまらなかった言葉をくれた、この漆黒の男のために、生涯この身と命を惜しみなく捧げようと――生まれて初めての熱い涙で言葉に詰まったまま、ランディアは胸の中でひそかに誓いを立てた――


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