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聖女転生物語  作者: 神崎右京
第六章

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75、蘇る『恐怖』①

「おー…痛ぇ…思いっきり噛みつきやがって…血が止まらねぇ」

「黙って。治療できない」

 最初にイリッツァが捕らわれていた部屋――

 ヴィクターが豪奢なカウチに腰掛け、それを覗き込むようにしてランディアが唇に手をかざしている。それを、離れたソファに身を沈めたまま、視線だけでイリッツァは眺める。

 ぱぁ…と仄かに明るい光が現れたかと思うと、ヴィクターの口から滴っていた血はすぐに止まったようだった。ちらり、と視線を上げると、ランディアは魔法をかける前よりも少し青ざめた顔をしている。解毒の魔法よりも治癒の魔法の方が高位魔法だ。己の中にある闇の属性との反発が起きているのかもしれない。

「――やっぱり、お前、光魔法使うと、体調崩すんだろ」

「ははっ…じゃあ、代わりにやってくれればいいのに」

「何でだよ。無理矢理キスしてきたのそいつだぞ。自業自得だ」

「まさか唇噛み切られるとは思わねぇだろ…部下たちの前で、情けねぇ姿見せるかと思った。とんだじゃじゃ馬だ」

(見せればよかったのに。無様な姿)

 こっそり心の中で独り言ちる。

 いきなり催事場とやらに連れていかれて、太鼓だの喇叭だのがけたたましい中で、お披露目会をさせられた。しかも、この女たらしらしい軍人は、その場に集まる部下たちに、婚姻が確かなものだと見せつけるように無理矢理口づけたのだ。その瞬間、眉ひとつ動かさぬまま冷静にガリッと唇を噛み切って抵抗を示したイリッツァに、一瞬驚いた顔をしたものの、意地なのか根性なのかは知らないが、何食わぬ顔で唇をしばしつけたままゆっくりと余裕の顔で顔を離したのだった。

 イリッツァとしては、驚いて突き飛ばされたり、怒声を上げられた方がよかったのだが。間違いなく、上司がこけにされている状況は、軍人たちの動揺を誘うだろう。聖女への悪感情が高まれば、聖女を殺せという気運が高まる。そうすれば、帝国側は、イリッツァの身の安全に今以上に神経を裂く必要がある。帝国トップの考えと民衆の間に見解齟齬が起きるなら、それはもはや内部分裂だ。上の考えに不満を持ったまま戦場に赴く兵士ほど使いづらいものはないことを、イリッツァは前世の記憶でよく理解していた。

 だからこそ、だろう。ヴィクターは思いがけぬ反撃にあってもすぐに顔を取り繕い、余裕の素振りで引き下がったのだ。

「因縁の地での決起集会だ。無様なところを見せるわけにはいかない」

「…因縁…?――あぁ、なるほど、ここ、アルク領の傍なのか」

「――ほんと、君は時々驚くぐらい鋭いね。アルクの戦いなんて、君は生まれてもいなかっただろうに」

 ランディアの呆れたような声音を、軽く肩をすくめるだけで流す。

「アルクの傍ってことは――平原沿いに作った拠点、ってところか?街っていうには賑やかさが足りないしな」

「くく…なかなか賢いお嬢さんでもあるらしい」

「そりゃどーも」

 皮肉めいたヴィクターの言葉も流す。ちらり、と目をやるとランディアがまだ少し青ざめた顔をしていた。

「ランディア。――ちょっと来い」

「え?…何、お着換えの時間ですか、聖女様?」

 くすくす、と小馬鹿にしたように笑いながら従うのは、手足を拘束され自由を制限されたイリッツァごときに何が出来るとも思っていないからだろう。ランディアの身のこなしならば、仮に不意を突かれたとてドナートのような無様な姿はさらすまい。

「いいから、こっち。手も足も重いんだよ、お前が近づけ」

「えー?嫌だなぁ、僕、殴られるの?」

 軽口をたたきながら近づいてきたランディアを目の前に立たせると、イリッツァは重たい右手をゆっくりと上げ、額にかざした。

 パァッ――

「え――――?」

「――――…ん。これでいいだろ」

 面倒くさそうな顔で力を抜くと、ぼとっと重力に従って右手がソファに落ちる。ランディアは、一瞬で血行が良くなった肌で、ぱちり、と目を瞬いた。

「な、何で――」

「別に。そっちの軍人さんは、すぐに出立するんだろ。お前とは戦争が終わるまでしばらく顔付き合わせてなきゃならないんだ。目の前を青い顔でうろうろされるほうが鬱陶しい」

「…だから、そう思うなら、変わってくれればいいのに。僕は光魔法なんて使いたくないんだよ」

「お前のために使うのはともかく、そのオッサンのために使うのなんて死んでもごめんだね」

「ひでぇな。夫だぞ?」

「戦争が終わったら殺そうとしてるくせに、よく言う。――第一、神の前で誓ったわけでもないのに、結婚もくそもあるか」

「くく、帝国では当人同士と親の許可だけでいいんだがな」

「うちの親は天地がひっくり返っても認めねぇよ」

 今の養い親も――前世の鬼みたいな男も。

 無理矢理攫われた帝国に自分の子供を差し出すような真似はしないはずだ。――バルドに至っては、許可しないのは当然だが、会った瞬間に『軟弱者!』と怒鳴られて殴られる可能性がぬぐえないが。

「親、ねぇ…さて、そろそろ、お前さんの身の上話を聞かせてくれてもいいんじゃないか?」

「?……どうせ、ランディアが調べてるだろ。間者だったんだ、俺のことについては調べつくしたんじゃないのか」

「公の記述はもちろん全部目を通したさ。ナイード領という辺鄙な田舎の教会で育てられた孤児。幼いころから優秀で、神童と呼ばれていた。領地の中で、あだ名として「聖女様」なんて呼ばれるくらいに、聖女みたいな清廉潔白の手本みたいな少女。たまたまやってきた騎士団の戦いに巻き込まれ、領民を護るために聖女の力が発覚。本人も領民も気づいていなかったため、慌てて王都に召集され、王城深くの神殿に移される――」

「知ってるじゃねぇか。それ以外何も話すことはない」

「はっ、まさか、そんなことで納得するとでも?」

 獰猛な獣を思わせる翡翠の瞳が一つ輝いた。

「そういわれたって、俺が身の上を話す理由がないだろう。――そもそも、俺は、お前らのことだってよく知らない」

「お前――自分の立場、わかってるのか?」

「勿論。――どんなに抵抗しようが、憎まれ口をたたこうが、お前たちは戦争が終わるまではどうにもすることが出来ない、対王国の最強カードだ」

「――――……性格悪ぃな、聖女サマ」

「やめてくれ、お前らじゃあるまいし」

 ふと浮かんだのは、親友の顔。いつの間にか、彼の性格の悪さがうつってしまったような気がして、絶望的な気持ちになる。

 すると――隣にいたランディアが、気まぐれのように口を開いた。

「いいよ。――何が聞きたいの」

「は…?」

「僕の身の上話でもしたらいい?――でも、僕のは、神殿にいるころに話しただろ」

「――――――…」

 予想外の展開に、驚きに目を瞬く、黒曜石の目をした中性的な美青年は、ふっと軽く笑った。仮面のような、いつもの心を感じない笑顔。

「何。――まさか、全部口からでたらめだと思ってた?酷いなぁ」

「いや…それは…」

 思わず口ごもる。――どうにも、ランディア相手には妙に突っかかり辛い。

 神殿にいる頃に話した、という話を思い出す。確か、先祖返りで黒髪黒目の王国では珍しい容姿で生まれてしまったがために苦労したという話だったが――

「聖職者になった、っていうのはさすがに嘘だけど。八つになるまでは、これでも王都に住んでたんだ。ただ、生まれた家が貴族の家だったから――母親は、僕の容姿がこんなんだったせいで、他の男との姦通を疑われて、僕ともども家を追い出された。母親自身も貴族社会出身のお嬢様だったし、生きる力なんてなくてね。行く当てもなくて、王都の貧民街に落ちた。他の男と姦通した疑惑のある娘を貴族の実家が受け入れてくれるはずもない。しかも、質の悪いことに、敬虔な根っからのエルム教徒だったんだよ、彼女。毎日、腹の足しにもならないお祈りをささげて、いつかは神様が助けてくれるって信じてたみたいだ。――馬鹿馬鹿しい。彼女が生きていられたのは、僕が毎日死ぬ気で食料を調達してきたからだ。あの頃は、生きるためには、何でもしたよ」

「――――…」

「本当に姦通したのか、先祖の誰かが帝国の人間とつながってて、先祖返りしたのかはわからない。母親本人は最後まで否定していたのは事実だけどね。僕は、物心つく前に屋敷を追い出されたから、実家がどんなところなのかも知らない。貴族だった、という話を聞いただけだ。――母親は、半分くらい狂ってて、たいてい神様としか話をしないから、まともに事情を聴くことなんて出来なかった。――まぁ、聞こうと思ったこともなかった気がするけれど」

「ディー。もういいだろ」

 隣から、ヴィクターの声が飛ぶ。いつもの人を食ったような笑みは鳴りを潜め、ひやりとした温度が伝わった。

(…どうりで、名前が、王国っぽいわけだ)

 ヴィクターも、ドナートも、王国の名づけではありえない、王国民にはなじみにくい名前だが――ランディア、という名前は、王国らしい名付けと言えた。エルムに由来する音が二つも入っているそれは、王国民ならではの名づけだったのだろう。

 そういわれてみてみれば、ランディアの黒髪と黒目は確かに帝国によくある特徴だが――彼の、抜けるような白い肌は、王国民に近しいかもしれない。帝国には、褐色の肌が多いし、褐色とまでいかなくても、ここまでの白さを誇るのは違和感があった。

「僕が王都を抜け出したのは、君たちが稀代の聖人とか呼んでいる、リツィード・ガエルが死んだあの日だよ。あの日は――本当に、世の中全部が、狂ってた。貧民街で、世界に絶望して、神様なんて信じないって思っている奴くらいじゃないかな。あの日、まともでいられたのは。虚ろな瞳で中央広場に向かう大人たち。子供もいたな。そこで始まる、処刑パフォーマンス。最初に誰か一人が石を投げて、一瞬で狂気が伝線した。何の証拠もなく、何の説明もされていないのに、一方的に悪人だと決めつけられて――いや、仮に本当に悪人だったとしても、処刑台に上げられてるんだから、何もしなくてももうすぐ死ぬわけだろ。無抵抗に磔にされている、当時の僕より少し年上なだけの少年に、全員が狂喜乱舞しながら無数に石を投げつける様は――さすがに世界に絶望していた僕にも、あまりに異常なものに見えて、怖かったのを覚えている」

「…ふぅん…」

「でも、チャンスだった。全員が、どうみても正気じゃない。今なら――逃げられる、と思った。混乱に乗じて、王都の外に。必死で逃げて――途中でリツィード・ガエルの声が響いて、結界が張られて、たぶん死んだんだろうな、と思ったけど、その瞬間、王都の門番たちは空を仰いで呆然としていた。その脇を駆け抜けても、何も言われなかったよ」

 王都の出入りに要する審査は大陸でも有数の厳しさだ。入るのはもちろん――出るのも、一筋縄ではいかない。ゆえに、王都の中で貧民街に落ちたり孤児になった人間は、容易に外に出ることすらできなかった。教会が差し伸べる「手」をうまくとることが出来れば、孤児たちも救われる道があるが――カルヴァンやランディアのように、エルム教などくそくらえ、と言って大人たちから逃げ回り、必死に生き抜く少年たちには、確かに世界は絶望に包まれていることだろう。

「別にどこかあてがあったわけじゃなかったんだけどね。――ただ、一度、帝国に行ってみたい、とは思っていた。俺の人生を滅茶苦茶にした血筋は、間違いなく帝国だと思っていたからね。王都になじむことも出来なかった自分は、そっちのルーツをたどったら、もしかしたら馴染むことが出来るのかも、と思ったんだ。――それで、アルクの方にいく商人の馬車にこっそり乗り込んで、頃合いを見て降りて――で、そっからは、ただ帝国に向かって歩き続けた」

「…子供の足でたどり着けるわけがない」

「ふふっ、心配してくれてるの?ありがとう。…まぁ、その通りだけど。結局僕は道半ばで倒れて――それを、そこの、ヴィーがたまたま通りかかって拾ってくれた」

「ヴィー…?」

「ヴィクター、だから、ヴィー。君の王国での恋人も、同じ愛称だったね。懐かしい?」

「――――…恋人じゃない…」

 苦虫を嚙み潰したような顔で呻く。ちらり、と大柄な職業軍人に目をやると、藍色の髪が目についた。

「もしかしてお前…ファムーラにルーツが?」

「本当に、お前さんは何者だ?知識量が、半端じゃねぇな」

 苦笑しながら言って、ヴィクターがひとつうなずく。

「母親が、ファムーラだ。昔、帝国と戦争して――で、ファムーラが負けた。二度と逆らわない、という約束の代わりに、当時まだ力を持ってた建国者の一族の娘が皇帝に嫁ぎ、俺を生んだ」

「ん…?ってことは、お前、もしかして皇子なのか?」

(こんなに柄が悪そうなのに?)

 まるで、王国にいる友人のように、性格が捻じれていそうな彼を見て、呆れて質問すると、心外だというようにため息を吐かれた。

「継承権は五位だ。まぁ、末端といって差し支えない。兄上どもは継承権をめぐってきな臭い争いを繰り返しているようだが、俺は全く興味がない。俺は、俺が楽しめる戦さえできれば、それでいい。兄上たちは、政治だのなんだのにうるさすぎだ。美学がない」

「まったく…ヴィーは、本当に戦馬鹿だよね」

(継承権五位…第五皇子…?戦が好きで――…)

 どこかで聞いたことがある。

 そう。それは、つい今朝の、まどろみの中。

 目の前の褐色の肌にどこか似た雰囲気を持つ、同じルーツの若かりし頃の親友が言っていた――

「――――――もしかして、お前が、アルクの総大将だったのか…?」

 少し落とした声で尋ねると、ひゅぅっと短く口笛が鳴った。人を食ったような笑みのまま、にやりとイリッツァを見返す。

「よくご存じで。――俺の、人生で唯一の負け戦だ。未だに夢に見るくらいに印象深い戦いだった。あそこまで色濃く『死』を意識したのは、後にも先にもあの時だけだ」

「――…へぇ。お前が」

 イリッツァは低くつぶやいて、ソファの上でくつろぐように膝を立て、肘をついてヴィクターを見やる。

 ひたり、と薄青の瞳が漆黒の軍服を捕らえた。

「――…何だ…?」

 一瞬で雰囲気が変わったことを察知し、ヴィクターが怪訝な顔をする。

 イリッツァはふっ…と吐息で笑い、口を開いた。

「あぁ――やっぱり、あの時、ちゃんと殺しておくんだったな」

「「――――――――」」

 ぞくり、と。

 少女に浮かんだ昏い微笑みは、大人の男二人を本能的な恐怖に叩き落とすのに、十分だった――


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