71、アルク平原の『戦い』
「ん――…」
首元をひんやりとした風が吹き抜けた気がして、ふるっ…と体を震わせると、その拍子に目が覚めた。ぼんやりと目を開くと、木製の、古びた天井が見える。見覚えのある天井だったが――どこだったかまでは思い出せない。ただ、ところどころにある黒ずんだ染みの数すら、不思議と懐かしさを覚えた。
(あれ…?)
一瞬、自分がどこにいるのかわからなくなる。見慣れた天井は、やけに近い。それは、二段ベッドの上段に寝ているからだ。
(二段ベッド…?)
頭では当然のようにそれを理解しているはずなのに、どこか違和感を感じる。とりあえず、あまり動かない頭になんとなく手を当てながらゆっくりと身を起こし――
「起きたか。珍しいな。お前が昼寝なんて」
「――え?」
下の方から飛んできた声に、思わず声を上げる。
それは、酷く聞き馴染んだ声。――たぶん、世の中で、一番親しい、聞きなれた声。
「………ヴィー…?」
「?…どうした。寝ぼけてるのか?」
顔を見ずとも、声の主を間違えるはずもない。二段ベッドの端から、親友の姿を探して下を覗き込み――
「――――――――――え――?」
「……何だ。俺の顔に何かついてるか?」
呆然と、親友を見やる。
そこには見慣れた灰褐色の瞳をした色男がいた。
床に直接胡坐をかくようにして座り込み、手の中で何か弄んでいる。よく見るとそれは、黒色の駒だった。視線を少し横にずらせば、彼の目前にはいくつかの駒が置かれたチェス盤がある。
二段ベッドを見上げるようにして怪訝な顔をのぞかせる青年の顔を、何度も瞬きして凝視する。
――――――"青年"の顔を。
「いや――…え?ヴィ、ヴィー…?」
「だからなんだ。いい加減起きろ。頭でも殴って起こしてやろうか」
ぎゅっと眉根が寄り、眉間に深刻な皺が刻み込まれた。
知っている顔だ。表情豊かな、親友の顔。
だが――何故だろう。酷く――若い、気がする。
(え、いや、待って――っていうか、ここって――)
ぐるり、と部屋を見渡す。
ひどく見覚えのある部屋。――当たり前だ、ここで、五年間毎日暮らしたのだから。眼下にいる青年と共に。
同僚たちから『奇跡の部屋』などというふざけた名称で呼ばれる妙に小綺麗な部屋は、記憶の中と何一つ異なることなく、そこに存在していた。
そっと己の喉に手を伸ばす。――ぐっと出た喉仏。先ほどこの口から出た声は、声変りを終えた男の声だった。
喉を包み込む手は、決して細く華奢な少女の手ではなく、日々の鍛錬の賜物なのか、剣だこが至る所に目立つ皮の厚い頑丈な手。ゆっくりと喉から手を下ろすと――鍛え抜かれた大胸筋。当たり前だが、女性らしいふくらみなど、ない。
(ゆ――夢――?)
一瞬混乱し、無意識に頭を振り――
視界の端に、赤銅色がかすめて、息を止める。
(――――ぁ――…)
懐かしい、色。
この世で唯一――父とのつながりを感じる、懐かしい、色。
「お前が寝ぼけるとか、今夜は大雪か。…変な夢でも見たのか?」
ニッと人を食ったような笑みで、声音に揶揄をにじませる親友は、まさに悪童と呼ぶにふさわしい。どう見ても、十代半ばの若者にしか見えない。――三十路手前のオッサンではない。
「…夢……――うん。変な、夢、見た」
寝起きのせいか、やや掠れた声は、確かに男の――聞き馴染んだ、リツィード・ガエルとしての声。
「へぇ?…どんな」
「いや……なんか、未来の夢…お前は三十手前のオッサンで」
「オイ。まるで俺だけオッサンみたいな言い方するな。俺が三十路手前ならお前ももれなく同じくらいのオッサンだろう」
「いや、それがさ――」
思い切り憮然とした表情を隠しもせず言われ、つい夢の内容を話そうとして――頭がおかしい、と言われそうなので黙った。まさか、自分は死んで女に転生して、挙句お前に求婚されて口付けまでされたんだ、などと言ったら本気で病気を疑われるか、死ぬまで指を指されて嗤われる気がする。
「…何でもない。忘れた」
「はぁ?…よくわからん奴だな」
眉を寄せて怪訝な表情をした後――カルヴァンは、ひとつ肩をすくめて話を流し、再び手元に視線を移した。
「何してんの。休日にお前が女のところ行かないなんて珍しいな」
「いや、昼過ぎに帰って来て、ひと眠りした後だ」
「うわ最低」
寝台から見下ろすようにしながら、軽口をたたき合う。毎日のことのはずなのに――何故だろう。酷く、懐かしくてたまらない。あまりの郷愁に、何故だかわからないが、思わず泣きたくなるほど胸が痛んだ。
そんなこちらの様子には気づかぬまま、年若いカルヴァンは手元に視線を落とす。
「またいつ、帝国とやり合う羽目になるかわからないからな。次は、裏をかかれたりしないよう――裏をかかれてももう一段やり返せるように、少し考えておくかと思って」
「いや、こないだアルク平原で大戦争して、停戦協定結んだばっかじゃんか。さすがにすぐはねーんじゃね?」
嘆息しながら言うと、カルヴァンは駒を手の中に持ったまま、左耳を軽く掻いた。
「俺もそう思ってはいるが――どうも、あれで帝国が完全に手を引くとは思えなくてな」
「へぇ?」
「相手の総大将――帝国の、第五皇子だったか?向こうじゃ、歴史上でも類を見ない戦上手だって有名らしい。こないだアルクでやり合った時点で、まだ十八だったんだと」
「うわ、俺らと大して変わんねーじゃん。すげーな、帝国」
「あぁ」
言いながら、カルヴァンは一瞬灰褐色の瞳を伏せて一点を見つめ――弄んでいた黒い駒を盤上に置き、白い駒を一つ抜き取る。
「でも、確かにあれは戦上手って言われるのもわかる。あの布陣、奇襲のタイミング、伏兵の場所…なかなか、凡人では思いつかない。どこまでが計算で、どこまでが偶然かは知らないが――正直、勝てたのは奇跡だな」
「ふぅん…俺は、軍略とかそっちはよくわかんねーけど…お前がそういうなら、そうなんだな」
チェス盤に並べられた駒を見ただけでは、リツィードにはカルヴァンが何をしているのかよくわからない。しかし、彼が灰褐色の瞳を時折わずかに伏せて一点を見つめているのは、高速で頭を回転させるときの癖だ。きっと、何十手も先を読みながら手を打ち、実際の戦をシミュレーションしているのだろう。
「まぁでも、勝ったじゃん。親父、言ってたぞ。お前を兵士としてじゃなく、本陣に置いて軍師補佐にしておいてよかった、って」
歴史に残る大戦争――アルク平原の戦いと呼ばれる、王国軍と帝国軍の数十年ぶりの軍事衝突は、王国総大将を『英雄』バルド・ガエルが務めた。本来、神の戦力たる騎士は、国の戦力たる兵士たちの戦いに参戦したり干渉したりすることはないが、相手が軍事国家であり憎き異教徒のイラグエナム帝国となれば、話は別だ。異教徒を殲滅するため、王国を護るため、騎士と兵士は団結して侵略してきた帝国軍を迎え撃った。
当然、兵士たるリツィードとカルヴァンも、戦に駆り出されることになったのだが――カルヴァンだけは、兵士としてではなく、軍師補佐として、本陣に詰めていろ、とバルドが戦の前に直接命令したのだ。
「まぁ…師匠は、帝国の総大将とは違ったタイプの戦上手だからな…」
カルヴァンは、何かを考えるようにしながら口の中でつぶやき、再び新しい駒を手に取ってじっと盤上を眺める。どうやら、頭の中の半分は思考の海に沈んでいるらしい。普段はどうしようもない女たらしで、人を食ったようなふざけた表情ばかりしているが、こういうときの彼は、いつもと違う一面をのぞかせる。こういう、リツィードの前でしか見せないような珍しい一面をもっと女の前で見せて、そういうところも素敵だと言って惚れてくれる女と添い遂げればいいのに――なんて言ったら、爆笑されるに違いないだろうか。リツィードは後ろ頭を掻いた。
「違うタイプ――…人の配置の天才、ってお前が昔言ってたやつ?」
「あぁ」
コトリ、と小さな音を立てて駒を置きながら、カルヴァンが短く肯定する。リツィードは、昔、カルヴァンが言っていた父親の非凡な才とやらを思い出していた。
鬼神バルド・ガエルは、剣を持たせても魔法を使わせても、まさに鬼のような強さを発揮する。その武勇は、まさに王国一だっただろうが――カルヴァン曰く、それは彼の才能の一つでしかないらしい。
バルドの英雄譚のうち、奇跡と呼ばれるような逸話はすべて、彼本人だけの武勇で解決した戦歴ではなかった。彼は、あくまで指揮官なのだ。人の特性を正しく見抜き、適正に配置し、鼓舞して、実力以上の力を発揮させる天才。バルド自身は、時に補佐に回り、時に率先して先陣を切る。状況に合わせて柔軟な役回りをこなすバルドは、何かに突出した傑物というわけではなく、どちらかというとオールラウンダー。任せるところは任せ、任せられないところは自分が引き受ける。その男気溢れる信頼に足る背中に、誰もが付き従いたいと、心酔して憧れる。
「確かに、アルクで、騎士団の小隊がいくつか寝返って敵陣に加わって攻めてきた時、絶体絶命だと思ったけど――お前の機転で、何とかなったんだもんなぁ…あそこで、騎士団無視して奥の一団に矢を射かけるなんて、普通思いつかねぇよ」
「――…あんなのは、機転でも何でもない。力任せのゴリ押しだ」
左耳を軽く掻いて、片眼を眇めながらカルヴァンは苦い顔をする。
「え?いや、でも――」
「――――中央に、お前が、いたからな」
「――――…」
ぱちくり。
目を瞬くが、親友は相変わらずチェス盤から目を離すことなく、どうということもないような口調でつづける。
「あの戦い、師匠の配置の妙が光ったのは、どう考えてもお前の配置位置だ。軍のど真ん中で、十四歳のガキに一個中隊任せて布陣させるってどういうことだ」
「…親の七光り?」
「んなわけあるか」
そこで初めて、カルヴァンが鼻の頭にしわを刻み、渋面を作って吐き捨てた。
「あの陣形の中じゃ、あそこは唯一、防御にも攻撃にも転じることが出来る絶妙な布陣だった。いろいろな策謀をめぐらせて、人を鼓舞して戦わせて――最後の最後、もし負けそうになったとしても、力押しのゴリ押しで何とかするための、秘蔵の一手だろ。師匠は、お前一人そこにいたら、どんな戦でも絶対勝てるって信じてた。――し、実際そうだった」
「……そんないいもんじゃねぇだろ」
「よく言う。――たった一人でほとんど全軍食い止めて、挙句単騎で突っ込んで敵の総大将追い落とす寸前まで進軍したのはどこのどいつだ」
「――……そういわれても、なぁ…」
ぽり、と頬を掻いて軽く眉を下げる。そんな風に言われるほど、たいそうなことをした記憶はなかった。
「そのあとの停戦条約も、帝国はお前を恐れて不平等な条件で結ばざるを得なかったって言う。…帝国からしたら、お前こそが鬼神か――死神にでも見えてただろうな」
「んー…そんなもんかな……総大将、結局逃がしちまったし」
リツィードは軽く天を仰いで目を閉じ、思い出す。
永遠にも思える敵の猛攻を、とにかくしのいだ。自分の軍団を飛び越えて、敵軍の後方に弓なりに降り注いでいく無数の矢を眺め、いつかはこの猛攻も途絶えるのだろう、とただ心を無にして目の前の敵をとにかく屠り続けた。敵の数など数えていない。百か、千か、万か。王国の敵を、憎むべき異教徒を、神に弓引いた裏切り者を、とにかく無心で屠り続けた。
そうして、敵の猛攻がやんだ。いつの間にか矢の雨が止んでいて――背を翻して、後退していく敵将たち。
無心で――追いかけた。
必死で逃げるその背に迫り、馬で駆けぬけざまに首をはねていく。先ほどまでは鉄壁の守護神だったはずの少年が、一転して攻勢に転じた途端、帝国軍の士気は一瞬でくじけた。無条件投降を申し出る将校もいた。
その薄青の瞳を、爛々と輝かせて、敵を追い落とす弱冠十四歳の少年は、一直線に敵本陣まで、愛馬で一気に駆け上がった。這う這うの体で逃げ出そうとしていた敵陣営に、ギリギリのところで追いすがる。
敵陣に切り込んだリツィードの目に映ったのは、漆黒の軍服を纏った、一人の男。頭部を隠すように目深にかぶったフード付のマントを翻した一人の軍人が、周囲に庇われるようにして本陣を後にしようとしていた。
咄嗟に身分ある敵将と判断して追いすがろうとしたその刃に――年若い男が、突っ込んできた。
己の身を、あえてリツィードの剣に貫かせ――大陸最強の剣を、その命をもって、無力化した。
結果として、その隙に、まんまと敵総大将は逃げおおせてしまったというわけだ。
「あれは、あの敵将の覚悟が、すごかったな。何が何でも総大将を護る!っていう気概が、一瞬剣を惑わせた」
「へぇ。お前でも、そんなことあるんだな」
「お前、慈悲深い聖女の息子捕まえて、何言ってんだ」
「鬼より怖い鬼神の息子、の間違いだろ」
はっと鼻で嗤って言われて嘆息する。何年たっても相変わらず、この親友はリツィードが聖職者の精神を持っていることを認めてくれない。――聖職者嫌いの彼らしいが。
「…で?お前は、殊勝にもあの時の反省会でもしてるわけか?」
「……あんなの、お前が化け物みたいな強さで踏ん張ってくれなかったら、寝返りに混乱して士気が下がった軍団に元騎士団の精鋭たちが一気に突っ込んできて、即行で本陣までやられてた。俺が矢を射かけたのは、お前があそこから誰一人通さないって信じてたから、少しでも撤退を早めさせるために命じただけだ。あんなの、敵からしたら反則、卑怯と罵られても仕方ない」
「でも、事実勝ってんじゃん」
「次は、お前の強さを知ってる状態で攻めてくる。同じ手は通用しない。最悪、お前がいなくても勝てるくらいの策を練っておくべきだろ」
言いながら盤上を見据える瞳は、珍しく真剣な光を宿していた。
「ふぅん…まぁ、いいけど。――俺は、考えるの、苦手だから、お前に任せる。お前が言ったように動くよ、カルヴァン。敵を蹴散らせっていわれりゃ蹴散らすし、守れっていわれたら守る。――お前が考えて、俺が動けば、百戦危うからずだろ」
「はっ……違いない」
くっと一つ、喉の奥でカルヴァンが笑う。片頬を歪めて、いつもの笑顔を刻んだ。
リツィードは、その懐かしい顔を眺めて――
「イリッツァ。起きて、イリッツァ」
「――――――…」
中性的なハスキーボイスが耳に響いて、すっと意識が覚醒する。
視界に飛び込んできたのは――眠る前に見た、バカみたいに華やかな天蓋だった。
(――――――夢、か。夢だよな、そりゃ。当たり前か)
懐かしい木造の天井との違いに心の中で嘆息して、体を起こす。じゃらっ…と煩わしい重さの鎖が耳障りな音を立てた。
鬱陶しい長い髪をかき上げる。夢の中とは似ても似つかない、華奢で今にも折れそうな女特有の指の隙間に零れるのは、青みがかかった不思議な銀色。――夢の中の赤銅の短髪が懐かしくなる。今度、あの頃みたいに思い切り髪を短くしたら、あの三十路手前のオッサンになった親友は何と言うだろうか――などと、くだらないことを考えながら、くぁ、とイリッツァは小さくあくびを漏らした。
「ちょっと、寝ぼけてないで、しゃんとして。――もうすぐ、僕の主が来るからさ」
「――…主?」
ランディアは暗殺者だ。ということは、その雇い主――ということだろうか。
イリッツァは、面倒そうな顔を隠しもしなかったが、ランディアは追い立てるようにベッドからイリッツァをたたき出し、身なりを無理矢理整えさせる。お世話係の数日の手際を思わせるほど手早く身支度が整っていったが、いちいち逆らうのも面倒で、イリッツァはされるがままになっていた。
身なりが完成するのとほぼ同時に、ノックの一つもないまま乱暴に部屋の扉が開かれる。イリッツァがここに来てから、初めてその扉が開かれるところを見た。
ぬっと現れたのは、二人の男。どちらも帝国軍としておなじみの漆黒の軍服を纏っている。一人は、かなりガタイがよく、横柄な態度だが立ち振る舞いに隙がないのは、武芸に秀でている証拠だろう。もう一人は、蛇を思わせるような容貌で、細身の体にどこか昏い影を背負っていた。
「――へぇ。こいつが、聖女か」
ニタリ、と笑ったのは横柄な軍人。
褐色の肌をしたその男は、どこかの誰かに似た髪色をして、どこかで見たような人を食ったような笑みを浮かべていた。




