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聖女転生物語  作者: 神崎右京
第六章

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70、捕らわれの『お姫様』

 忘れられない、光景がある。

 木枯らしが吹き荒ぶ季節――真冬かと錯覚するほど寒い朝。あたり一面に立ち込める霧。

 必ず勝てる、戦だった

 圧倒的な兵力差。高まりきった軍の士気。緻密に練られた戦略と策謀。

 勝利を確信した、その朝は――眠れる死神を起こした、災厄の日。

 千の騎馬を用いても、万の兵を用いても、決して破れぬ鉄壁の陣。

 どんな猛将が率いるのかと、息をのんだその先に――

 ――――――――――赤銅色の、死神が、いた。



 ぱちっ…

 かすかに瞼を震わせてから、そっと目を開く。飛び込んできたのは、見知らぬ天蓋。どうやら、どこかの豪奢な寝台で寝かせられているらしい。

「――――…」

 イリッツァは、体を動かさぬままゆるりと視線だけをめぐらし、その部屋に人の気配がないことを悟る。

 豪奢な天蓋だけではなく、ぐるりと見渡すその部屋の中は、数々の高価な装飾品で飾り立てられていた。それを、下品だと感じるのは清貧を美徳とするエルム教に慣れ過ぎているせいだろう。

(――――…王国、じゃない)

 頭の隅で冷静に分析する。王国では、基本的に皆がエルム教信者だ。その信仰度合いに差はあれど、清貧を美徳とする前提は同じ。少なくとも寝台にこんな馬鹿でかく無駄としか思えない天蓋を付けるような者はいないはずだ。

 ふぅ、と小さくため息を吐いてから、そっと手を持ち上げる。

 ――ジャラッ…

(悪趣味、だな…)

 目が覚めた瞬間から、その冷たさから想像はついていたが――案の定、己の手首につけられている鉄の輪と長い鎖を見て、憂鬱なため息を漏らす。両の手首につけられた鉄輪は、互い同士で鎖につながれている。肩幅よりは少し広く動ける程度の自由はあるが、拘束されている事実は変わらない。少し足に力を入れると、足首にも同様の鉄輪と鎖があることが分かった。

(――…引きちぎる、わけにもいかないか)

 能力向上の魔法を全力で腕力に降りきってみる、という方法も一瞬考えたが、肩幅より少し長い鎖では、上手く力を入れられない。いっそ、両手がくっつくほど短い鎖であれば、そうした選択肢もあったのだろうが。

(いや…違う、ダメだ。どんだけ向上させても、元の筋力が昔とは違う。そもそもの筋力が少ないんだから、鉄の鎖を引きちぎるほどは無理だろ)

 つい、考えが昔――リツィード・ガエルとして生きていたころの基準になっていたことに気づいて嘆息する。自分の現状を正しく認識しなおしてから、イリッツァはゆっくりと体を起こした。

「おや、起きたんだね」

「――――――…」

 かけられた言葉に、肩を跳ねさせなかったのは奇跡だろう。

(――まったく気配を感じなかったぞ、おい…)

 完全に無人だと思っていた室内から飛んできた声には、聞き覚えがあった。ゆっくりと顔をめぐらせ、声の方を振り返る。

「――…リアナ…じゃなかったな」

「うん。本当の名前は、ランディアっていう。ランディ、でも、ディア、でも、好きに呼んでくれればいい。よろしくね、イリッツァ」

「……ランディア…」

 口の中で反芻しながら、ニタリ、と張り付いたような気味の悪い笑みを浮かべている人物を見やる。

 当然ながら、もう修道服は着ていない。漆黒の髪と瞳に合わせたような、黒を基調とした装束に金と赤の糸で帝国の紋章が縫い付けられた衣服を着ていた。王国では決して見ない仕立てのそれは、相変わらずの中性的な雰囲気を際立たせている。

「――男、か?」

「ははっ、どう見える?好きに取ればいいよ。仕事上、女になることも男になることもあるからね。僕にとっては、性別なんてどうでもいいんだ」

 言いながら、ひらりと音もなく近寄ってくる。リアナとして一緒にいた時から、修道服に身を包んだ漆黒の美女は、そういえばあの真っ白な部屋の中でほとんど足音を立てなかったことを思い出した。暗殺者としての訓練を積んでいれば、それも当然だろう。

 寝台のすぐ横に、ランディアと名乗った性別不詳の人物が立つ。隣にいるのに、息遣い一つ感じないのは、暗殺者としての特殊技能なのか。

 イリッツァは、小さく息を吸い――

 バッ――!!!

「――――っ!!?」

 全身のばねを使って一呼吸でイリッツァが出来る最高速で腕を振るい――ランディアの股間を狙った。

「――――――――…なんだ。男か」

 かすかに指先に触れた感覚から判断し、イチモツに触れた指を軽く開閉しながら眺めてつまらなさそうにつぶやく。一瞬で飛びのいたランディアは、驚愕に色を喪っていた。

「ちょ――い、いきなり何するんだ!」

「お前が無意味に勿体付けるから、どっちなのか調べただけだ」

「だっ、だからって、いきなり股間狙う!?僕が一瞬遅れてたら、思い切り揉んでただろ、さっきの手つき!聖女だろ、君!?」

「悪いな。信徒の目がないところでまで聖女の仮面かぶってやる義理はないんだ」

 飄々と言い放ち、ぶんぶん、と股間に触れた方の手を軽く振る。元・男だから、別に男の股間を触ったところで悲鳴を上げるような可愛らしい神経は持ち合わせていないが、元・男だからこそ気色の悪いものを触ってしまったという気分も確かにあった。

「本当に信じられないな…あの奇妙な部屋で、儚げな表情をしていたのは何だったんだい?」

「理想の『聖女様』だっただろ。信徒の前ではサービス精神旺盛なんだ、俺は」

「…『俺』ときたか…」

 ランディアは口の中で呻いて渋面を作る。記憶の中の聖女と目の前のガラの悪い口調の美女がつながらないのだろう。

(お互い様だ)

 イリッツァは心の中でつぶやく。ランディアもまた、あの部屋の中にいたころとは別人だ。あの部屋にいたころは、常に無表情で、影が薄く、無口で、こちらから何かを語り掛けない限り余計なことは基本的に話さなかった。仮面のように張り付けた笑みを浮かべ、こんな風に軽口をたたくお喋り野郎と同一人物だと、やはりすぐには信じがたい。

「まぁいいや。時間はある。お互い、猫をかぶるのを辞めたんだ。本音で語り合おうじゃないか」

「はっ…よく言う」

 吐き捨てるように笑って、顔に掛かった白銀の髪をかき上げる。じゃらり、と重たく鈍い音が耳元で響いた。

「こんなものを付けておいて、のんきにおしゃべりを楽しめ、と?」

「これでも、最大限の敬意を払っているんだよ?冷たい地下の寝台ひとつない石牢で、鉄球付きの鎖で壁に繋がれていたかった?」

「御免こうむる。あんな経験、何回生まれ変わったとしても一回きりで十分だ」

 鼻で嗤ってつぶやくと、ランディアが一瞬怪訝な顔をしたが、無言の圧で追及を避ける。一瞬、何かを探るような間が空き――ランディアはひとつ肩をすくめて、その話を流した。

「君は不思議な人だ。――いいよ、先に君の気になっていることを聞きなよ。答えられることには答える」

「――本物のリアナは、無事なのか」

 いつもより一段低い声音で凄むように尋ねると、ランディアは驚いたように目を瞬いた。

「驚いた。まさか、一番最初に尋ねることがそれ?ここがどこかとか、今がいつかとか、気を失っていた時になにがあったかとか、そういうのより先に、それが気になるの?」

「聞いても無駄なことは聞かない主義だ」

 冷たく言い放ち、すいっと視線を逸らす。

「部屋の内装を見れば、ここが王国じゃないことはすぐにわかる。お前が帝国の間者だったことを鑑みれば、おそらくここは帝国領のどこかだろう。赤だの金だの緑だの黒だの、この部屋にあしらわれた装飾はとにかく下品で、お前の国の国旗に入っている色が目に眩しい」

「よく見てるね」

「今がいつか、は興味がない。起きた時に魔力の残滓があった。光魔法の安眠を強化してかけたんだろう。気を失った後、目を覚まさないように念入りに。――ということは、数日単位で目が覚めなかった可能性がありそうだとは思うが、その間に命を奪われなかったってことは、どちらにせよすぐに殺されるってことはなさそうだ。なら、その期間は俺にとって関係ない」

「ふぅん?」

「気を失っていた時に何があったかなんて、大体想像がつくだろう。俺を気絶させて、お前がその神速の足で俺を抱えてあの会場を抜け出して、こうして帝国領まで逃げてきた。それ以外に何がある?」

「……逃げた方法とか、気にならないの?」

「ならないな。――闇の魔法でも使って、周囲から目くらましして抜けてきたんだろう。移動には、魔物の背にでも乗ったのか。俺からすると信じられない神経だが、移動速度だけ見るなら、馬より数倍速いからな」

「ふふっ…すごいな、予想以上だよ。君、本当に、あんな奇妙な部屋で一生を過ごすつもりだったのかい?だとしたらあの国はとんでもなく愚かだね。こんなにも賢くて、あんなにも優れた剣の腕を持った傑物なのに」

「――――…剣はともかく、頭の方は大したことないさ。あの、王国騎士団長サマの方が何倍も賢い」

 最後の一言に渋面を作って呻く。――昔から、賢いと言われるたびに、何の皮肉かと卑屈になる気持ちは変わらない。一度、カルヴァンと本気の思考合戦でもしてみるといい。全てを見通すがごときその比類なき頭脳こそが、王国の宝なのだ。――持ち主の性格が悪いのが玉に瑕だが。

「そんなことはどうでもいい。――リアナは」

「あぁ、そうだった。なんでそんなことが気になるのか知らないけど――無事だよ。ちゃんと、生きてる。寝込んではいるだろうけれど」

「――…」

「本当だよ。僕は、ついても仕方のない嘘はつかない。ついた方が有益な嘘は吐くけれど」

 何の慰めにもならないことを言って肩をすくめるランディアからは、しかし、その言葉の通り嘘をついている気配は感じられなかった。

「僕が、闇の魔法使いだってことはどこで気づいた?」

「リアナに成りすましてたことに気づいた瞬間だ。人の心を操れるなら、なりすましも簡単だろう。心を操ったのか、幻覚を見せていたのかは知らないが――とにかく、周囲の人間の目には、お前が老婆のリアナに見えていたんだろうな」

「ふふっ、御名答。君にはそんな魔法効かないことが分かっていたからかけることもなかったけど――せいぜい、周囲との齟齬が出て怪しまれるとしても年齢と外見特徴くらいだ。僕の外見特徴は、あの国の中じゃあまり言及しづらいだろう。二人きりの時にちょっと暗い過去をにおわせて、踏み込みづらい雰囲気を出しておけば、それ以降は突っ込んで聞かれることはないと踏んでた」

「なるほど?」

「年齢に関しては、強烈な齟齬があるだろうけれど――あの極端に閉鎖的な奇妙な部屋と、おかしな風習に助けられた。僕を介してしか他の人間と言葉を交わさないなら、短期間であればいくらでもごまかせると思った。実際、ごまかせていただろう?」

「そうだな」

 きっと、彼が成りすましたのが『リアナ・カロッサ』でなければ最後まで気づかなかっただろう。それは、ランディアにとっても誤算だったはずだ。まさか、成りすました人間のフルネームのせいで露見するとは、夢にも思っていなかっただろう。

「僕としては、王子様か英雄か、どっちかが倒れた後、近衛兵を殺して混乱に乗じて逃げようとしてたんだけど――まさか、決闘の真っ最中に正体がばれるとは思わなかった。うまくいけば、聖女様の奪還か国の重要人物の治癒か、愚民どもは優先すべきはどちらかの判断がつかずにオロオロしてくれて、敗者を無力化できると思ったんだけど――まったく、余計なことしてくれたよ。おかげで、面倒な人物を二人ともピンピンさせた状態であの国を去ることになったんだ。参ったよ」

 やれやれ、と肩をすくめる少年を眺め――ふ、と呆れて嘆息する。

「?…どうかした?」

「どうでもいい嘘、吐くじゃないか」

「………へぇ?」

 にたり、と真っ赤な唇が面白そうに吊り上がる。

「あの二人の決闘なんて、完全に予想外だったはずだ。当然、どっちかを殺すなり負傷させるなりしてから俺を奪う作戦なんて、決闘が決まった後に急ごしらえで作られたんだろう。――当初の予定では、普通に、俺を攫って終わりだったんじゃないか?」

「ふふっ……」

「あいつらが生きていても、お前たちの計画に特に問題はない。ただ、またとない機会だから、どっちかをしばらく無効化できるならしておきたかった――その程度のはずだ」

「さすがだね。僕、賢い人と話すのは好きなんだ。君とは話していて楽しいよ」

「それはどーも」

 ふ、と疲れた嘆息を漏らして物憂げに肘をつく。タイプは違うが、人を食ったような物言いで煙に巻くような言動をするのは、どこかの誰かを思い出して面倒くさい。あしらい方も心得ていることだけが救いだ。

(俺がまだこうして生かされているってことは――つまり、俺は、人質なんだろう。王国相手の交渉の)

 イリッツァは頭の中で静かに分析する。この辺りは、目の前の中性的な漆黒の美青年に尋ねたところで明確な回答を得られない気が何となくしていた。

(戦争を仕掛けたいのか――戦争すら仕掛けず、何かをもぎ取りたいのか)

 それが、領地なのか、何かの権利なのか――国そのもなのかはわからないが。

(さて――それが分かったうえで、どうするのが正解か)

 ゆるり、と部屋を見渡す。部屋の中に、ランディア以外の人間は誰もいない。いるとしたら、部屋を出た先、入口に見張りがいるかどうか、といったところだ。見る限り窓がない以上、脱出は困難を極める。日の入り具合で時間を知ることが出来ないのも面倒だった。外に逃げおおせたところで、真っ暗闇の夜だとしたら、土地勘もない中で暗中行軍をする羽目になり、酷く面倒くさい。

 肩幅程度には自由の利く足と手がある。剣さえ奪えれば、いくらでも脱出方法など思いついた。鎖を剣で断ち切り、そのひと振りを手に縦横無尽に駆ければいい。出口なんてわからないが、仮にすぐに見つからなくても、この屋敷にいる全員を殺しつくした後、ゆっくり探せばいいだろう。

 それくらい簡単にできる――と思うくらいには、イリッツァは自分の剣の腕を正しく理解していた。

 ただ――目の前の気味の悪い男さえ、攻略できれば、の話だが。

「ふふ…さては、逃走方法について考えているね。無駄だよ、君は逃げられない」

「そう期待されると、逃げたくなるな」

「今のその丸腰で、僕と戦って勝てるとでも?」

 にやり、と笑って言われ、目を眇める。一見すると相手も丸腰のように見えるが、その黒服の下には無数の暗器が隠れているのだろうことは容易に想像がついた。

 意識を失う前の光景を思い出す。ふっ…と手が翳んだかと思うと、瞬き一つの間に幻のように手の中に現れた暗器は、手品だと言われても信じてしまうだろう。出すのも振るうのも一瞬だった。

「あぁ、能力向上の魔法を使おうとしているなら無駄だよ。君は今、そこらの聖職者と変わらない光魔法しか使えない」

「――――――何…?」

 ぴくり、と。

 さすがにその言葉には、眉をひそめた。

 その反応が面白かったのか、ランディアはもともと浮かべていた笑みを深めるように、さらに唇の端を吊り上げた。

「ダメだよ、聖女様。――過保護なお友達の言うことは、ちゃんと聞いておかないと」

 からかうように言いながら、指をすっと桜色の唇に触れさせる。

「お人好しな、聖女様…僕の淹れるお茶を、たくさん飲んでくれてありがとう」

「――――――――――あぁ…なるほど…」

 すべてを察して、思わず脱力して呻く。ぼすっと再び寝台に寝転がって、額を覆った。

(これは、本当に、帰ったらカルヴァンにお説教されるな…)

 カルヴァンが言っていた懸念は、全て当たった。「過保護だ」と一蹴していた問題が、さらに事態を悪化させた。

 カルヴァンは、ずっと言っていたはずだ。

 短剣だけではなく、常に剣を纏え。

 口に入れる物は、全て解毒し、最大限に警戒しろ。

 ――どちらも言われたとおりにしていたら、観覧席ではもう少し抵抗できただろうし、何よりここで捕らわれてからの選択肢がもう少し広がったはずだ。

「ナイードでは、僕は監視役だったんだ。介入するつもりはなかったんだけど――たった数日滞在しただけで、面白いものを、たくさん見れた」

「――…聖水、か」

「そう。魔法を水に練り込む、なんて、面白いことを考えるものだね、王国民は」

 魔法属性には相性というものがある。光魔法と闇魔法は、正反対の属性だ。

 光魔法の使い手に、たっぷり闇魔法が練り込まれた水を飲ませれば、反発し合い、使い手の魔法を弱体化させるのも当然だろう。

「途中から、急に解毒の魔法を請け負ったのはそういう理由か…」

「うん。まさか、解毒されるとは思わなかった。闇魔法は毒ではないから、効果がなくなるわけではないだろうけれど、聖女の光魔法ともなると、それだけで強力だからね。どうしても、反発はするから、効果は薄くなる。どうしたら君が直接魔法をかけないように仕向けられるか、いい口実を探すのに数日考えちゃったよ」

「どうりで苦かったり臭かったりしたわけだ」

「ふふ、それは単純に薬草の味と匂いだよ。――まぁ、光魔法と闇魔法は正反対だから、飲んだら気分が悪くなることもあるかもしれない。それを体よくごまかすために、あえて癖の強いものを選んでいた、っていうのは否定しないよ」

「用意周到なことで…」

 額を覆いながらげんなりと呻く。いろいろと、面倒なことになっているようだ。

(能力向上による飛躍的なブーストは期待できない。安眠作用を強烈に掛けて一瞬で昏倒に近いスピードで眠らせるのも、あまり多用は出来ないかもしれないな)

 一般的な聖職者、というのがどれくらいを指すのかはわからないが、期待をし過ぎて誤算を生むよりは少なく見積もっておくほうが良いだろう。

(おそらく、こいつは、相当な闇魔法の手練れ…)

 ちらり、と額を覆った手の隙間から視線をやると、それに気づいたのか、にこり、と黒曜石の瞳が笑みを作った。

 神の信仰心が篤すぎて依存するほどになると、闇魔法にかかりやすくなる――というのは確かだが、さすがに、王立教会の司祭であり、枢機卿団代表のアランほどの相手にまで魔法をかけていた事実は看過できない。闇魔法と相反する光魔法――それも、王国屈指の強力な使い手であることはもちろん、アラン・フィードという人物は、克己心の強い男だということを、リツィードとして交流していた当時から知っている。

 その彼ですら闇の魔法にかかったということは――目の前にいるこの漆黒の魔法使いは、最高位に近い使い手なのだろう。

「一つ、聞いていいか」

「うん?なんだい?」

「――――――十五年前の魔法使いとお前、どっちが優れた闇の魔法使いだ?」

「――――――――――…」

 しん…

 一瞬、部屋の中に静寂が舞い降りる。

「十五年前、君は、生まれていなかったと思うけれど」

「どうでもいいだろ、そんなこと。聞かれた質問に答えろよ」

 煙に巻こうとする気配を察知してけん制すると、ふっ…と怪しく唇を吊り上げた後、ランディアは口を開いた。

「さぁ。君は、どう思う?」

「――――…なるほど」

(同等か、それ以上で見積もっておいた方がよさそうだな)

 呻いて心の中で認め、嘆息する。

 あぁ――なんだか、いつの間にか、どうにも厄介な事態になっているらしい。

「それで?俺は、どうすればいいんだ?」

「しばらくは、ここにいてくれればいいよ。部屋を出なければ、自由にしてくれて構わない。僕の目の届く範囲、手の届く範囲にいてくれないと困るけど」

「…風呂もトイレもついてくる気か?」

「着替えまで手伝ってあげたのに、今更?」

 くす、と笑われて、失笑する。確かに、もう隠すようなことがあるとは思えない。

「ちなみに、お茶として飲んだ闇魔法を無力化するには、僕がその魔法を解くか、体内に吸収されたものが分解されて体外に排出され切るかしかない。僕を殺したり意識を奪ったりしても意味はないから気を付けて。…あぁ、それと、ここの部屋から出る水道の水は、全て僕の魔法がたっぷり練り込まれているよ。飲まない、ということももちろんできるだろうけど――王国で飲んでくれたお茶の分が全て体外に排出されるまで、一滴も水分を口にしない、なんていう選択をしたいなら好きにしたらいい」

「――悪趣味な奴だな」

「褒め言葉かな?」

 ふふ、と笑われて渋面を作る。どうにも人の神経を逆なでするのがうまい男だ。

「気にしないというなら、僕が今まで通りお茶を淹れてあげよう。大丈夫、もう、苦いのや臭いのは入れない。一応、薬草の効能は全部本当だったよ。――今度は、ちゃんと、賭けねなく、君の体調に合わせたおいしいお茶を淹れてあげる」

「はっ…闇の魔法たっぷりのか?」

 皮肉を返すと、にこり、と輝かしい笑顔を返された。肯定の証だろう。

 そして、そっとその男とは思えない細い手をイリッツァの顎にかける。ひんやりと冷たく、温度を感じさせないそれは、今までどれだけの命を無情に奪って来たのか。

「お姫様は、大人しく、王子様の助けを待っていればいいんだよ」

「――…王子様…」

 ぽつり、とイリッツァは繰り返すようにつぶやき――ふっ、と鼻で嗤った。

 かすかにランディアの眉が寄る。――怪訝を表す、表情。

「そうか。――そうだな。そういや、そういう約束だった」

 こらえきれず、思わず吐息で笑いを漏らす。ランディアの眉が、もう一段階寄った。

「何。――壊れた?」

「まさか。…くっ……ははっ…」

 ひとしきり笑った後、ぞくり、とするほど美しい笑みをその面に刻む。

「そうだな。――捕らわれのお姫様は、大人しく助けを待つとするよ」

「――……変な奴」

 気味が悪そうにつぶやいた後、ふいっとその顎を離される。

(約束した。――誓いまで、立てた。きっと、あいつは、助けに来る)

 別に、自分が焦る必要など何もないことに気づいた。それが、おかしくてたまらない。

 昔と同等かそれ以上の闇魔法使いにとらえられ、敵の術中に落ちて鎖でつながれて――

 それでも――十五年前と違って、きっと、助けに来てくれる人がいる。それだけで、こんなにも、心が穏やかだ。

 一番最初に、全力で、必ず助けに来てくれると約束した過保護な親友を思って、イリッツァはもう一度こらえきれない笑みを唇の端に刻んだ。


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